雲の泡沫




「そういえば、登下校ってなぁに?」
 先程の実南の言葉に出てきた単語。
 グラースは、ある程度の現実世界の知識は持っている。しかし水の精程生活に身近な存在では無い為、知らないことも多かった。

「学校に行くことと、帰ることだよ」
「学校って、あの白い大きな建物だよね? 子どもが沢山入って行く場所」
「そうそう! 小学校とか中学校、あとは高校と大学かな? 色々な種類があるんだよ」
 舟のスピードはもとのままだが、どこかゆったりとした空気が二人の間を流れる。

 いつの間にか夜になっていた。
 実際の時間は分からないが、周りの景色からしてそうだろう。空腹や眠気を感じない為、景色で判断することしか出来無い。

 周囲は曇り空から一変。雲は紫に近い紺色に染まっており、全体的に薄暗くなっている。けれど前が見えない程か、というとそういう訳では無い。
 真上に綺麗な半月が浮かんでいる為、月光によりお互いの顔を視認出来るくらいには明るかった。それに沢山の星が瞬いているので、自分の周りはよく見えた。

 東京からでは見ることの出来ない満天の星空だ。
 空の上ということもあり、月も星も距離が近い気がする。
 まるでプラネタリウムにでもいるような感覚に、二人はついこれから向かう場所への緊張感を忘れていた。

「実南はどの学校に行ってるの?」
「今は高校だよ。年齢によって変わるの」
「年齢によって?」
「そう。学ぶ内容が変わるから、年齢によって行く学校の種類も変わるんだよ」
「そうなんだ」
 いつもと逆の立場になって話すのも、新鮮な感じがして面白い。
「高校ではどんなことをしているの?」
「んー、勉強がメインかな」
「勉強?」
「そう。一番苦手なのは英語の勉強で、いつも友だちに教えてもらってるんだ〜」
「友だち」
「うん。“あか”っていうちょっと厳しい子と、“ゆり”っていう優しい子が一番の仲良し」
「“あか”と“ゆり”……」
「そう!」
 あかは幽霊とか怪談話が好きで、ゆりは本が好きで物知り。
 実南はそんなことを言っていたが、グラースの耳には入って来なかった。
「実南は、友だちのところに帰りたく無いの?」
 ずっと自分のもとにいてくれる彼女に、聞いてみる。
 彼女の意思を聞かず、無理やりこっちの世界に連れて来てしまったのだ。普通ならば直ぐに現実世界に戻して欲しいと願うだろう。他の雲の精が連れて来た人間はそうだった。勿論全員が全員そういう訳では無かったが、帰りたいと言わなかった人間は、雲の精の甘やかしぶりに溺れ、全てを受け入れてくれるからという理由故に残っていたのだった。
 実南のように、現実世界も充実し友だちがいる人間が、雲が好きという理由だけでここにいること自体おかしいのだ。

「そりゃあ、家族と二人のことは気になるよ。自分が今どんな状態なのかもね。でも……」
 彼女の次の言葉にドキドキする。
 先程はそうしろと言っていたうえに、今も自分から問いかけたのだが、いざ本人の口から「戻りたい」と言われてしまったら、きっと素直に送り出してはやれないだろう。
「今更戻っても遅いことには変わりないし、何より、いつでも戻れるんだったら、グラースとギリギリまで一緒にいたいからね」
 夜なのに、まるで太陽を眺めているかのような眩しい笑顔だった。

 実南のこの言葉は紛れもない事実だった。
 まだ雲海都市という不思議で幸せな世界を旅したいということも本心にあったが、それよりも折角仲良くなったグラースとこれでお別れとはいきたくない気持ちが強かったのだ。

「……うん。僕もだよ」
 照れくさいような、嬉しいような。様々な感情がグラースの胸の中を包み込む。
 初めて感じる……いや、実南と出会ってからしょっちゅう経験して来た感覚だ。彼はずっと、この感覚の正体を探している——。


****


「そうだよ!」
「え?」
 星空の下で舟が進む中、再び実南が口を開いた。
 静かで幻想的な空間にいきなり声が響き、流石のグラースも驚く。この少女は緊張感というものが無かった。正確には、持続させることが出来なかった。……まぁ、それで色々な人が救われているのだが、本人は知る由も無い。
「私って、現実世界ではどういう状態なの?」
 今気付いたよー。
 呑気な彼女に、つい苦笑が零れてしまう。
「大丈夫だよ。実南の体は今眠っているだけ〜」
「あ、そうなんだ。良かったー」
 安心した。もし戻って行方不明扱いだったら笑えない冗談だ。一先ずその心配はなさそうだった。
 それに、眠っているということは夢の中。
 どういう原理か知らないが、夢と都市が繋がっているのかもしれない。ならば空腹と眠気を感じないのも、それが理由だろう。

 一人で勝手に納得し、何時間でも見ていられる程美しい景色に、彼女は目を向けた。