水の音
どこから?
すぐそこから
連れて行くよ
どこへ?
秘密
どうして?
当てて欲しいな
ようこそ、不思議な世界へ————
****
「はっ……!」
目覚め。いつも通りの目覚め。目覚ましより早く起きることだって、いつも通りのこと。
朝のまだ早い時間。窓から聞こえる静寂の音に、新たな生活音が加わる。
やっぱりいつも通り顔を洗い、髪を結い、制服に着替え、荷物を持った少女は、静かな外の世界へと足を踏み入れた。手に食パンを持っていることは、よくある話だろうか。行儀は悪いが、大きな口を開き、まだ微かに夜の匂いがする外を駆けながら朝食を済ます。
茶色いポニーテールを揺らしながら、規則正しい呼吸で外を走る少女。彼女が走っているのは学校に遅刻しそうだからではない。ましてや乗りたい電車が来る時間でもない。
それでも彼女は毎日走って行くのだ。近所の小さな橋まで。
橋の下に流れる川は細く、浅い。その為コンクリート製のその橋も、決して立派なものではなかった。住宅街でよく見かける橋だった。
しかし、彼女にとって橋がどうこうという話ではない。大切なのは、その橋の上から見える景色だ。
橋は中洲からだいぶ高い位置に架かっており、そこから飛び降りようものなら擦り傷、打ち身程度では済まないだろう。
それ故に橋の上から川の流れて行く方向を眺めると、何にも邪魔されない開けた空を見ることが出来たのだ。
少女はその橋の上からの景色が大好きだった。広い空という名のキャンバスに浮かぶ、様々な雲が大好きだった。
毎朝学校へ行く前に眺め、夕方の学校帰りにも眺め、特に気に入った雲を見かけた際は、あまり画質の良くない携帯で写真を撮ってみる。
そんなことを、彼女は毎日橋の上で行うのだ。
この話の主人公小鳥遊実南の、お気に入りの場所であるこの橋で——。
****
「遅い」
「お待たせしました!」
「乗る予定のやつ、逃したんだけど」
「本当にごめんなさい!」
大きくポニーテールを揺らして頭を下げる実南。彼女は空を眺めることに夢中になり、いつも時間が経つことを忘れてしまう。
そんな彼女の餌食になる少女が二人。彼女たちは、駅のホームの少し開けた場所で実南を待っていた。
腕を組みながら眉間に皺を寄せる、サラサラの黒髪が特徴の如月朱里。美人故に怒った表情はとても怖い。
「まあまあ。実南ちゃんが遅れるのは、いつものことだしね〜」
柔らかそうな笑みを浮かべ朱里を宥めるのは、丸眼鏡が特徴の金沢紗由理。髪の毛もふわっとしており、優しい雰囲気が周りを包んでいる。
ちなみに実南は、朱里のことを“あか”と呼び、紗由理のことは“ゆり”と呼んでいる。三人は保育園からの幼馴染故にとても仲が良く、お互いの性格をよく理解し合っていた。
「あのねえ、紗由理が『待ってよう』って言わなかったら、私は待つ気なんか無かったわよ」
変わらず厳しい口調で言い放つ朱里。
それもそのはず。実南が遅れるのは毎日のことなのだ。実南に甘い二人は、結局彼女が来るまでいつも待っている。とはいえど、朱里は遅れることを許している訳ではない。それとこれとでは、話が別なのだ。
「ゆり〜! ありがとう!」
今日も今日とて、予定より一つ遅い電車に乗り込む三人だった——。
****
朝。遅刻することなく教室に入った実南は、いつも通り授業の準備をする。
保育園から高校までずっと一緒の三人。しかし流石にクラスまでは一緒、とはいかなかった。高校二年生の実南。彼女は朱里と同じクラスだった。
「あっ!」
「何? もしかして、また何か忘れたわけ?」
「う……」
日当たりの良い教室の、空がよく見える窓際の席。
快晴の天気にご機嫌になりながら、一時間目に使うであろう教科書を探す実南。しかし出て来たのは教科書ではなく、驚きと焦りの声。
その叫びに瞬時に反応する朱里。
キッともとから上がっている目をより釣り上げながら、きつい口調で実南に攻め立てる。それもそのはず、この流れも、やっぱりいつも通りのことなのだ。
「古典の教科書忘れちゃった……」
「いい加減にしなさいよ。何回目? そろそろ学んだらどうなの」
「学ぶ為に持って帰ったら、忘れたんですー」
「そういうことじゃないのよ! いいからさっさと借りて来なさい!!」
「はーい」
おお、怖い……と怯えながらも、恒例の流れになっている戯れ合いに笑みを零しながら、紗由理のクラスへと急ぐ。
「ゆりー! 古典の教科書貸して?」
紗由理の教室の入り口から、大きな声で叫ぶ。
なんだなんだと教室内の生徒が一斉に実南の方へ視線を向けるが、彼女の姿を視認した瞬間再びもとの作業に戻った。これも全て、いつも通りのことだから。
実南たちの学校は、住宅街にある普通の公立高校。人数も平均的な多さで、同学年の生徒同士は基本的に皆顔見知り。
故に毎朝廊下に響く声が、忘れっぽい元気っ子な実南であることは二年生全員が知っていたのだ。
「今日は古典だね〜」
柔らかい笑みを浮かべながら、自身の教科書を手渡す。
実は紗由理も、この時間を楽しみにしているとか。
「予習しろって朱里が言うから、持って帰ったんだよ? それで忘れたらめちゃめちゃ怒られた!」
「ふふっ」
拗ねながら教科書を受け取る。
実南が教科書を忘れたときは、いつも紗由理に借りている。彼女の教科書は要点が分かりやすく纏まっており、綺麗な状態で維持されているからだ。
持ち物に性格が出るというのは、こういうことだろう。
「じゃあ授業終わったら返しに来るね!」
「うん。分かった〜」
****
授業が始まる三分前に教室へ辿り着く。無事に教科書も借りられて、気分は再びご機嫌に戻っていた。
「教科書借りて来た!」
「おかえり。それで? 教科書以外はちゃんと持って来てるんでしょうね」
「へ?」
一瞬で目が点になる実南。それと同時に朱里は溜め息をつく。
「今日、提出課題あるわよ」
「嘘! 無いよ!」
「あるわよ!」
結局その日も実南は、課題を提出できず朱里に怒られ、先生には注意され、やっぱりいつも通りの彼女らしい学校生活を送ったのだった。
『いつも通り』しかしそれはこの日までの話。
明日には違う世界が待っているなんて、誰も思いはしなかった。
どこから?
すぐそこから
連れて行くよ
どこへ?
秘密
どうして?
当てて欲しいな
ようこそ、不思議な世界へ————
****
「はっ……!」
目覚め。いつも通りの目覚め。目覚ましより早く起きることだって、いつも通りのこと。
朝のまだ早い時間。窓から聞こえる静寂の音に、新たな生活音が加わる。
やっぱりいつも通り顔を洗い、髪を結い、制服に着替え、荷物を持った少女は、静かな外の世界へと足を踏み入れた。手に食パンを持っていることは、よくある話だろうか。行儀は悪いが、大きな口を開き、まだ微かに夜の匂いがする外を駆けながら朝食を済ます。
茶色いポニーテールを揺らしながら、規則正しい呼吸で外を走る少女。彼女が走っているのは学校に遅刻しそうだからではない。ましてや乗りたい電車が来る時間でもない。
それでも彼女は毎日走って行くのだ。近所の小さな橋まで。
橋の下に流れる川は細く、浅い。その為コンクリート製のその橋も、決して立派なものではなかった。住宅街でよく見かける橋だった。
しかし、彼女にとって橋がどうこうという話ではない。大切なのは、その橋の上から見える景色だ。
橋は中洲からだいぶ高い位置に架かっており、そこから飛び降りようものなら擦り傷、打ち身程度では済まないだろう。
それ故に橋の上から川の流れて行く方向を眺めると、何にも邪魔されない開けた空を見ることが出来たのだ。
少女はその橋の上からの景色が大好きだった。広い空という名のキャンバスに浮かぶ、様々な雲が大好きだった。
毎朝学校へ行く前に眺め、夕方の学校帰りにも眺め、特に気に入った雲を見かけた際は、あまり画質の良くない携帯で写真を撮ってみる。
そんなことを、彼女は毎日橋の上で行うのだ。
この話の主人公小鳥遊実南の、お気に入りの場所であるこの橋で——。
****
「遅い」
「お待たせしました!」
「乗る予定のやつ、逃したんだけど」
「本当にごめんなさい!」
大きくポニーテールを揺らして頭を下げる実南。彼女は空を眺めることに夢中になり、いつも時間が経つことを忘れてしまう。
そんな彼女の餌食になる少女が二人。彼女たちは、駅のホームの少し開けた場所で実南を待っていた。
腕を組みながら眉間に皺を寄せる、サラサラの黒髪が特徴の如月朱里。美人故に怒った表情はとても怖い。
「まあまあ。実南ちゃんが遅れるのは、いつものことだしね〜」
柔らかそうな笑みを浮かべ朱里を宥めるのは、丸眼鏡が特徴の金沢紗由理。髪の毛もふわっとしており、優しい雰囲気が周りを包んでいる。
ちなみに実南は、朱里のことを“あか”と呼び、紗由理のことは“ゆり”と呼んでいる。三人は保育園からの幼馴染故にとても仲が良く、お互いの性格をよく理解し合っていた。
「あのねえ、紗由理が『待ってよう』って言わなかったら、私は待つ気なんか無かったわよ」
変わらず厳しい口調で言い放つ朱里。
それもそのはず。実南が遅れるのは毎日のことなのだ。実南に甘い二人は、結局彼女が来るまでいつも待っている。とはいえど、朱里は遅れることを許している訳ではない。それとこれとでは、話が別なのだ。
「ゆり〜! ありがとう!」
今日も今日とて、予定より一つ遅い電車に乗り込む三人だった——。
****
朝。遅刻することなく教室に入った実南は、いつも通り授業の準備をする。
保育園から高校までずっと一緒の三人。しかし流石にクラスまでは一緒、とはいかなかった。高校二年生の実南。彼女は朱里と同じクラスだった。
「あっ!」
「何? もしかして、また何か忘れたわけ?」
「う……」
日当たりの良い教室の、空がよく見える窓際の席。
快晴の天気にご機嫌になりながら、一時間目に使うであろう教科書を探す実南。しかし出て来たのは教科書ではなく、驚きと焦りの声。
その叫びに瞬時に反応する朱里。
キッともとから上がっている目をより釣り上げながら、きつい口調で実南に攻め立てる。それもそのはず、この流れも、やっぱりいつも通りのことなのだ。
「古典の教科書忘れちゃった……」
「いい加減にしなさいよ。何回目? そろそろ学んだらどうなの」
「学ぶ為に持って帰ったら、忘れたんですー」
「そういうことじゃないのよ! いいからさっさと借りて来なさい!!」
「はーい」
おお、怖い……と怯えながらも、恒例の流れになっている戯れ合いに笑みを零しながら、紗由理のクラスへと急ぐ。
「ゆりー! 古典の教科書貸して?」
紗由理の教室の入り口から、大きな声で叫ぶ。
なんだなんだと教室内の生徒が一斉に実南の方へ視線を向けるが、彼女の姿を視認した瞬間再びもとの作業に戻った。これも全て、いつも通りのことだから。
実南たちの学校は、住宅街にある普通の公立高校。人数も平均的な多さで、同学年の生徒同士は基本的に皆顔見知り。
故に毎朝廊下に響く声が、忘れっぽい元気っ子な実南であることは二年生全員が知っていたのだ。
「今日は古典だね〜」
柔らかい笑みを浮かべながら、自身の教科書を手渡す。
実は紗由理も、この時間を楽しみにしているとか。
「予習しろって朱里が言うから、持って帰ったんだよ? それで忘れたらめちゃめちゃ怒られた!」
「ふふっ」
拗ねながら教科書を受け取る。
実南が教科書を忘れたときは、いつも紗由理に借りている。彼女の教科書は要点が分かりやすく纏まっており、綺麗な状態で維持されているからだ。
持ち物に性格が出るというのは、こういうことだろう。
「じゃあ授業終わったら返しに来るね!」
「うん。分かった〜」
****
授業が始まる三分前に教室へ辿り着く。無事に教科書も借りられて、気分は再びご機嫌に戻っていた。
「教科書借りて来た!」
「おかえり。それで? 教科書以外はちゃんと持って来てるんでしょうね」
「へ?」
一瞬で目が点になる実南。それと同時に朱里は溜め息をつく。
「今日、提出課題あるわよ」
「嘘! 無いよ!」
「あるわよ!」
結局その日も実南は、課題を提出できず朱里に怒られ、先生には注意され、やっぱりいつも通りの彼女らしい学校生活を送ったのだった。
『いつも通り』しかしそれはこの日までの話。
明日には違う世界が待っているなんて、誰も思いはしなかった。
