雲の泡沫




 その後実南とグラースは再び倉庫に入り、木箱を一個ずつ持って桟橋に停めてある舟に向かった。
 他の雲の精たちも同じように木箱を運んでいる。実南の姿に不思議そうな視線を向けていたが、今は話している暇は無い為、誰も何も言ってくることは無かった。

 二人は舟に二つの木箱を乗せただけでは無く、実南に至っては着ていた制服のポケットに、入るだけの欠片を入れていた。
 舟は狭いし、実南のポケットは重くごつごつしているが、万全の状態で挑む為だ。我慢しよう。

「もう直ぐ他の雲の精たちが出発するよぉ。僕たちはそれについていこうね」
「分かった」
 雲海都市の端側、桟橋のある場所には十隻以上舟が並んでおり、そこには積んだ木箱と共に雲の精たちが沢山居た。
 実南は一度にこんなにも大勢の雲の精を見たのは初めてだった為、これから行く場所が危険と分かっていても少しワクワクしてしまう。

「それじゃあ行くよー」
 グラースではない他の雲の精の声が響く。
 その声を合図にし、沢山の舟は一斉に動き始めた。先程まで降っていた雨はもう止んでいる。
 ゆったりと雲の上を慣れたように進み、次第にそのスピードを上げた。
 実南が乗っている舟も、グラースの指先から生まれた光を合図に、進み始める。
「こんなに沢山いると、凄いかっこいいね」
 以前自分たちが乗っていたときは周りに舟の姿は無く、どちらかといえばのんびり遊覧することが目的だったが、今回は何隻もの舟が一緒に進んでいる為、映画などで観る海上戦のように感じられた。
 周りが雲のお陰で緩和されているが、ここが海ならば、これから戦争に行く海軍にしか見えないだろう。


****


 暫く舟を進めていると周りの雲、というか空間全体が暗く息苦しいものへと変化していった。
 実南だけでなく、グラースや他の精も顔色が悪いような気がする。
 この空気中に漂っている黒い霧のようなものが、瘴気と呼ばれるものなのだろうか。
「実南大丈夫? 僕たちは慣れているけど、実南はつらいよね」
 舟の前に乗っているグラースが声を掛ける。
「ちょっと苦しいけど、大丈夫!」
 身体の苦しさよりも、視界の悪さの方が怖かった。

 この場所は、周辺の雲も舟を浮かべている雲も、全ての雲が黒に近い紫色へと変色している。見るからに禍々しい雰囲気に、天国と称したこの世界が全く反対の冥界、地獄、悪魔の世界のように感じられた。
 漂う瘴気と暗い雲。それらのせいで、舟に乗っている実南は先が見えなかった。出発した当初は、自分たちの周りに沢山の舟があることを目視出来ていたが、今になっては一、二隻程しか確認出来ない。

 そうはいってもグラースや他の雲の精たちは慣れっこだ。ここまでの規模は無くとも、浄化はよく行っている。
 視界の悪さなども気にせず、彼らは只管に舟を進め続けた。


****


 周りの空気が、息苦しく重いものとなってから暫く経った。
 舟は緩やかにスピードを落とす。
 そのことに気付いた実南が前を見ると、モヤッとした瘴気の先に桟橋と既に何隻か停泊している舟が見えてきた。
 瘴気が濃すぎてこんなに近くなるまで、雲海都市の存在に気が付かなかった。

「降りるよ〜」
 まるで街灯のない夜道のように暗い都市。
 全体的に紫色の霧が充満しているせいで、呼吸をすることが怖い。
 グラースに支えられながら降りる雲海都市は、方向も周りの風景も分からない程だ。目を離せば直ぐにグラースを見失ってしまいそうだった。

「僕たちはここで浄化するよ」
 暫く歩いた先で、彼は止まる。
 暗くて分かりにくいが、ここは恐らくあの白い建物の中では無く、雲海都市に広がっているどこかの路地だろう。

 運んできた木箱を近くに置き、グラースは道の上に紋様を描き始めた。
 実南はいくつか水の欠片を取り出し、紋様の近くに積んでおく。
「ありがとう実南。じゃあ僕は暫く舞を舞うから……」
 お礼を言いつつも、言いにくそうに視線を泳がせるグラース。
「大丈夫だよ。私ここで舞を見てるから!」
 相変わらず嬉しそうに伝える実南に、グラースも困ったように、嬉しそうに、笑みを零す。
 そうして再び、雨雲の舞を舞い始めた。


****


 光を纏いながら舞い続けるグラース。
 周囲が同じように明るくなって来たように感じ、周りを見てみると、瘴気や光の眩しさによって姿は見えないが、他の雲の精たちも皆一緒に舞を舞っていたようだった。
 いつの間にか空にはグレーの雲が広がっている。

 それからまた数分経ったであろう頃。
 最後に雨雲の龍を打ち上げたグラースは、動きを止めた。
 舞が終わったのだ。二つあった木箱は空になり、実南のポケットの水の欠片も、残り三つまでになっていた。
「お疲れ様、グラース」
「ありがとー。多分都市の周りは大雨だろうし、次は浄化しなきゃね」
「本当に大変な仕事だよね」
 とても長い時間舞を舞ったと思ったら、今度は浄化をしなければならない。
 いくら雲が好きな実南でも、自分が同じことをするとなったら、恐らく途中で嫌になって辞めてしまうだろう。
 本当に精霊という生き物は凄い存在だ。

 空になった木箱を持ち、グラースと共に歩きながら改めて思う実南だった。