雲の泡沫




 舟は何事もなく、ゆっくり桟橋の横に辿り着く。
 乗るとき同様、グラースに支えられながら降りる。
 短い舟旅はとても楽しいものだったが、改めて地に足をつけると、実南は自分が緊張しっ放しだったことに気付く。安心感という温かい感覚が身体中を巡っていった。
「大丈夫?」
 相変わらず瞳はぼうっとしたまま。心配そうに顔を覗き込むグラース。
「大丈夫! それより、ここの雲海都市大きいね!」
 実南の体は本当にもう平気だった。切り替えの早いところが、彼女の良い部分だ。
「そうだねぇ。今日は雲が集まってるから、このまま雨が降るかも」
 目の間に広がっているクリーム色の建物は、視界に入っているだけでも数えられない程。
 雲が集まれば、都市も他の都市と合体して大きくなる。故に、この雲海都市周辺には大量の雲が集まっているということだ。
「雨? じゃあまた舞を舞うの?」
「うん。この調子だとそうなりそう」
 再びあの美しい舞を見ることが出来るなんて。雲海都市に来てから良いことばかりだ。


****


 先程の雲海都市よりも大きいこの場所を、もっとしっかり見たいという実南の願いを叶える為、二人はまた肩を並べて歩き出そうとした。
 すると後ろから物音と声が。
 二人して振り返ると、そこにはグラースによく似た人物が。物音の正体は桟橋に舟を止めた音のようだ。
「え、双子?」
 余にも似過ぎていてつい聞いてしまう。
「……君がそう言うなら、双子なのかも〜」
 グラースにそっくりな子が告げる。
「あと、雲の精の君に。もう少しで雨雲生成だから、早く中に進んだ方が良いよ〜」
 じゃあね〜。と伸びやかな声を響かせながら、ふわふわと走って行く。
 呆気にとられた実南の思考が現実に戻って来たのは、それから暫くしてからだった。


****


「い、今の子って、グラースの双子じゃ無いよね?」
 意識を覚醒させ、思い出したように確認する実南。
「うん」
 ニコニコといつもとは違う笑みを浮かべて答えるグラース。
「本当に?」
「うん、本当だよ。実南が言う通り、あの子と僕は双子じゃ無いよぉ」
 若干含みのある言い方だが、あのグラースが嘘をつくとは思えない。
 実南はこれ以上問いかけることを辞めた。
「じゃあどうして、あの子はあんなにグラースと似ているんだろうね」
 歩みを進め始めながら問う。
「それは僕たちが雲の精だからだよ〜。雲の精はみんな、基本的に白髪に白い瞳をしているんだ。だから少なからず似てしまうのは仕方のないことだと思う」
 精霊という存在は、領域ごとにほとんど見た目が決まっているそうだ。
 例えば、水の精なら全体的に水色や青色系統の色彩を持っているし、雲の精なら前述通り白系統の色彩。
 確かに周りを見てみると、出歩いている雲の精の色合いは皆グラースとよく似ている。
 双子かと思う程似ていただけで、実際に双子ではなさそうだ。それに精霊は男女の概念も無いのだから、血筋や親兄弟という概念も無いのだろう。

 そんなことを考えていると、都市中に鐘が二度鳴り響いた。
 二度鳴ったということは、先程の雲の精が言っていた通り、雨雲を作らなければならないということだ。
「実南」
「うん?」
「ごめんね。舞を舞わなきゃ……」
 何故か申し訳なさそうに呟くグラース。
 寧ろ実南にとっては嬉しいことなのだが、何をそんなに落ち込んでいるのだろうか?
「うん! 側で見てても良い?」
「それは勿論……!」
 顔をバッと上げて答える。その顔には未だ不安の色が覗いていた。


****


 近くの建物に入る。その部屋もやはり天井が無かった。
 しかし前の雲海都市と違うのは、明るい光が差し込んでいないこと。
 開放的な天井から覗く空は、どんよりとした灰色に染まっていた。いかにも今から雨が降りますよ、というような雲だ。
「じゃあ私は座って見てるね」
「うん」
 部屋の中にある椅子に座る。
 木で出来ていて決して座り心地は良く無いが、舞を見ているといつの間にか時間が経っているので体は全く痛く無いのだ。それくらい舞は美しく、目が離せないものということだ。

 紋様の上に立ったグラースは、どこからともなく綺麗な水色の石を取り出した。
 見た目は水晶のような透明な石。十センチ程の石は上部分が少し欠けている。
 その石を一体何に使うのかは分からない為、実南は静かにグラースの方を見詰めるばかりだった。

 そっと彼が動き出す。ゆったりとした動きで舞は始まった。
 すると手元にあった石は彼の目の前、紋様の上空に浮く。
 舞を舞い続ける中、石がどんどん光を放ち強くする。その瞬間、石の真ん中辺りにヒビが入った。
「あっ……」
 宝石のような綺麗な石にヒビが入り、実南はつい声を出してしまう。
 どうやら彼の邪魔にはなっていないようだった。
 しかし石はヒビを起点として、眩しい光を放ちながら砕けてしまった。下半分は形を保ち残っているが、砕けた欠片はより細かくなって紋様の上に散らばる。部屋の床がキラキラと輝いていた。水色の石が、まるで水の雫のように見えたのはごく当たり前の感想だろう。

 石に夢中になっている間も、グラースは踊り続けていた。
 自分の周り、いや部屋中に雲を作り出している。心なしか、先程の雲よりも大きく重々しいものに見えた。部屋に鳴り響く風の音も、荒く強いものとなり、よく耳をすますと水の跳ねる音も聞こえてくる。
 舞の動きにも変化が生まれる。ゆったりした動きだけでなく、流れるような舞になって来た。
 すると、部屋の床に散らばった石の欠片が浮き始める。空中に留まるその姿は雨水を思わせた。
 舞の動きに合わせて、雲と欠片が動き出す。くるくると混ざっていくと、雲の色は白から青みがかったグレーになった。恐らくこれが雨雲なのだろう。

 しかしそこで舞は終わらない。グラースは踊り続けた。
 生み出した雨雲をしっかり混ぜて固め、手を振り上げる舞の仕草と共に空へ打ち上げた。
 灰色の重々しい龍が、広いを空へと駆け出したのだ。

 神秘的な一連の流れに、実南は開いた口が塞がらなかった。
 先程の染雲とはまた違う雰囲気。染雲の舞を自由で明るく幸せなものと表現するならば、雨雲の舞は悲しく、それでいて重い曖昧なものと表現出来るだろう。——あまりに美し過ぎて、どう表現することが正しいか分からなかった。
 とりあえず彼女は自然の美しさに感動で胸がいっぱいだったのだ。
 今すぐにでも感想を伝えたかったが、それは叶わなかった。

 なぜなら、まだグラースは舞を舞っていたからだ。