雲の泡沫




 そうこうしているうちに、大きな細長い塔の前に辿り着いた。
 他の建物と同じようにクリーム色をしているそれは、高過ぎて最上部が見えない。
「ここの上に、大きな金色の鐘があるんだぁ」
「え! あんな高い場所に!?」
 塔には入り口も窓も存在しない。階段があるようにも見えないし、どうやって鐘のもとまで上がるのだろうか。もし階段があっても、上がるまでに物凄い時間を要するだろうに。
「どうやって登るの?」
「雲に乗って行くんだ。少量の雲を生成して、その上に乗ってね」
 グラースは地面から一メートル程の場所で実演してくれた。その姿は御伽噺の孫悟空のようだった。
 彼曰く、雲の精ならば誰でも雲を操り、上に乗ったり形を変えたりすることが出来るそう。
「凄い! 私も雲に乗れる?」
 わくわくしながら聞くと、グラースは眉を寄せた。
 決して嫌がっているのでは無い。叶えてあげられない願いをされてしまい、それを告げなくてはいけないことに不満を持っているのだ。つまり、出来ないということだ。
「実南ごめんね。人間は乗れないんだぁ。すり抜けて落ちていっちゃう」
「そっか……残念」
 自分も非現実的な体験をしてみたかったが、落ちて怪我をするのは勘弁だ。潔く諦めよう。

「じゃあ、雲に乗って上まで飛んで、鐘を鳴らすんだね」
「そうそう。雲海都市全体に広がるようにね」
「この鐘一つで、都市全体に聞こえるんだ!」
今日の(・・・)雲海都市は、そんなに大きく無いからね」
「今日の?」
 都市に対して使うことの無い単語が聞こえた。
 “今日の”ということは、明日とか昨日とかの雲海都市もあるのだろうか。
「雲海都市は雲で出来ている都市だから、雲の形と量が変われば、都市の大きさも変わって来るんだ〜」
 都市は何度も姿形を変化させるらしい。

「それに、沢山雲が存在するように、雲海都市も沢山あるんだ」
「ほんと!?」
「ほんとだよ。舟で雲を渡って、他の雲海都市に行くことも出来るよ」
 何と好奇心を唆る話なのだろうか。
 雲海都市がいくつもあるだけではなく、そこに舟で渡ることが出来ると言うではないか。そんなの行ってみたいに決まっている。
「その舟には、私も乗れる?」
「うん。乗れるよ〜」
「やった!」
 こっちだよ。
 そう言いながらグラース再び歩き始めた。


****


 暫く歩いて辿り着いたのは、都市の端に位置する場所。心なしか足元の雲も薄い。
 周りには柵などもなく、そこで地面が急に途切れている為、そのまま気付かず歩いてしまえば落ちてしまうだろう。
 地面から伸びているのは木で出来た桟橋。その先には、同じように木で造られた舟が浮かんでいた。普通と違うのは、下にあるのが水ではなく雲だということ。

 舟は少し細長く、人が二、三人乗れるか乗れないか程度。
 実南は舟やボートという乗り物には乗ったことがなく、しかも一番最初に乗るものが雲の上。いくら好奇心旺盛な彼女でも、少しの怖さを感じた。
 けれど、空を舟で渡るなど滅多に経験出来ないことだ。怖がってここで止まる選択肢など、彼女の頭の中には存在しなかった。
「ちょっと揺れるから、気を付けてね」
 先に乗ったグラースに支えてもらいながら、恐る恐る舟に乗り込む。
「どこに行きたい?」
 緊張しながら腰を下ろす実南に彼は問う。
「えっと、一番近い雲海都市が良いかな……」
 雲の上を不安定な舟で進むことに慣れないので、出来るだけ道程は短い方が良い。
「分かった〜」
 その言葉と同時にグラースの指先から小さな光が出る。
 その光が大きくなり舟を包むと、ゆっくりと動き始めた。オールのようなものは無い為、恐らく精霊の力によって動いているのだろう。

 こうして、桃色の雲が広がるふわふわな海での、短い遊覧が始まったのだった。


****


 最初は体を強張らせていた実南だが、次第に緊張が解けていった。思っていたよりも、速度がゆっくりだったからだ。下が透けて見えることは無かったし、何より泡風呂の中を進んでいる感じがして段々と普段の調子を取り戻してきた。
 彼女は、グラースと話せるくらいには余裕が出てきたので、気になっていたことを聞いてみる。
「雲海都市には、どうして都市間を移動出来る舟があるの?」
 都市自体は移動してしまいその都度形や大きさが変化してしまうが、各自の家や活動場所が決まっていないのであれば、雲の精が都市間を移動する必要は無い筈だ。
「この舟は確かに移動するものだよ。でも、雲の精が他の雲海都市に行く為のものっていう訳では無いんだぁ」
「どういうこと?」
「僕たちは、これに乗りながら浄化を行うんだ」
 彼が言うには、雲の精は上空で生まれる邪悪な存在——水面都市の邪水と似たもので、瘴気に当てられた気象に関係するもの全てのこと——を舟に乗って浄化しているらしい。
 つまり、どこで生まれるか分からない邪悪な存在を浄化する為に、微かに揺れる舟に乗りながら舞を舞うということだ。動くだけで緊張していた実南には、考えられないことだった。
「だからこれは、都市を行き来する為に造られた舟では無いってこと〜」
「なるほど」
 水面都市の生活とは違うからまた面白い。

 そうこうしているうちに、視線の先に新たな雲海都市が見えてきた。