雲の泡沫




「じゃあまずは、雲の精が何をしているか説明するね〜」
 明るい部屋の中。実南を椅子に座らせ、その正面に立つグラース。まるで学校のようだった。
「主に雲の状態変化を行うんだ。さっき見せた染雲の他に、雲を生み出したり、雨雲や雪雲を作り出したりするよぉ。あとは浄化とかかな?」
 指先で小さな雲を作り、それを染めたり雨雲のような黒い雲にしたりしながら説明するグラース。指先で器用に操っているようだ。
 目の前で起こる魔法のような現象に驚きつつ、毎日橋から眺めていたあの美しい景色は彼ら雲の精によって作り出されている、という事実を改めて実感した実南は、雲の精が途端に愛おしく感じられた。感謝の気持ちで胸が苦しい程だ。
「雨雲を作るときは、水の精と協力するんだよ」
「そうなの?」
「うん。水の精が作った水の欠片を、雲と合成するの。それが舞によって雨雲へと変化するんだ〜」
 実南は正直雨が嫌いだった。
 雲ってしまい綺麗な空が見られない。一面灰色で覆われていてつまらない。けれど、雨雲もあんなに幻想的な舞によって生み出されいるのだと考えたら、雨も悪く無いように思えてきた。
 小鳥遊実南は所謂“ちょろい”人物だった。

「なら、さっきの鐘の音は? 鳴った瞬間、みんな建物に入って行ったよね」
 先程の出来事を思い出しながら問う。
「鐘の音の数によって、どんな状態変化を起こすか、何の舞を舞うかが分かるようになってるんだよ」
 一回なら染色。二回なら雨雲。三回なら雪雲。四回なら雷雲……というように、数によって様々な指令が決まっているそうだ。浄化のときは緊急を要すること故に、鐘は激しく鳴り響くらしい。
 雲自体の生成は、基本的に鐘の指令がなくても行うそうだ。それぞれがやろうと思ったら自由にやるシステムの為、たまに誰も生成をせず一部地域で雲が全く無いこともあるんだとか。
 確かに、雲のない青空を見かける日もあった。これがその理由だったのか。面白い。

「あれ? でも鐘が鳴ったときに、自分の家が近くになかったら戻るの大変じゃない?」
 気晴らしに遠くまで散歩していたら悲惨だ。走って戻るのだろうか?そうとは考え難い。
「そうだね〜。だから僕たち雲の精は個人の家を持たないんだよ」
「そうなの?」
「うん。どうせ寝食は必要無いからね。鐘が鳴ったら、みんな近くの建物に入るんだ」
「へー!」
 だから他の雲の精たちも鐘の音が聞こえた瞬間、建物に吸い込まれるように入って行ったのか。

 なるほど、と一人納得する実南を不思議そうに眺めるグラース。
「どうしたの?」
 ずっと黙っていた彼だが、視線に気付いた実南の問いかけに答える。
「……本当に雲が好きなんだね」
「それは勿論! 変、かな」
「ううん。そんなことないよ。実南は変じゃ無い」
「えへへ、ありがとう!」
 好きなものの為に、毎朝早く起きて近所の橋まで走る。それを五年程。その行動から、彼女が本当に好きなものへ一直線だということは理解して貰えるだろう。そして実南の感情は、雲海都市に来てからより大きいものへと膨らんでいたことも、恐らく分かって貰えるだろう。
 雲が好きだという人間に初めて出会ったグラースは、そんな受け止めきれない程の彼女の情熱に、一種の戸惑いと憧れを抱いていた。どうしたら良いのかという気持ちと、何かに夢中になれることへの羨望だ。


****


 暫く話した後、再び彼らは雲海都市を見て回ることにした。これも実南の望みだ。そしてグラースは、例に漏れず快諾。
 穏やかな都市をゆっくり歩く。天国のような雰囲気に、心が安らいでいる。
「さっきの鐘ってどこにあるの?」
 落ち着いた空気を深呼吸で目一杯取り込み、質問する。
 また来ることが出来るかは、分からない。ならば見られるうちに全て見ておきたい。そんな魂胆だ。
「雲海都市の中心にあるよ。ここから遠くないし、見に行ってみる?」
「見に行きたい!」
「分かった。じゃあ行こうか」

 実南の願いが受け入れられたのは、これで何回目だろう。
 グラースという人物は、本当に断らないし否定をしない。実南にとっては有難いことなのだが、いくら何でも優しすぎるのでは無いだろうか。嫌なことがなさ過ぎて、寧ろこっちが心配になってくる。
 いや……そういえばたった一つだけ、嫌だったことがあった。あの異様に優しい朱里の幻覚だ。いつもと違う姿に、流石に恐怖を感じた。
「ねぇ、グラース」
「どうしたの?」
「何で私を連れて来るとき、あんな幻覚見せたの? 凄い怖かったんだけど……」
 気になったので聞いてみる。その素直さも彼女の強みだ。
「あれー? 幻覚を見せたら喜ぶって聞いたんだけどなぁ」
 不思議そうに首を傾げる。
 それもその筈、彼としては良かれと思って起こした行動なのだから。
「え、誰に?」
「んー、忘れちゃった。ごめんね」
 ぼうっとした瞳に影を落として謝るグラース。
 申し訳なさそうにする彼に、実南は慌てて訂正する。
「吃驚しただけだから! 大丈夫!」
「……良かった」
 安心の息を漏らす。
 予想以上に落ち込んでいたようだ。