憑ヶ物つくり

 ◆◆◆

 「先生ー! わらべ歌を歌ったら、良いことが起こるって言ってたじゃないですか~!」

 理不尽で理解不能な状況に八つ当たり気味に助手席の寧々に問いかける。
 彼は長い睫毛を伏せたまま、ひゅうひゅうと口笛を吹いていた。

 「ああ、村の外で歌うとダメって言われていたかもしれないな」

 『早く言えよ!』と言いたかったが、怒っても無駄なのは長年の付き合いでわかっている。
 外は闇に溶け、夜の車窓を吹き抜ける夏草が、口笛に合わせて揺れているように見えて薄気味悪い。

 口笛を止めてくれと頼んでも、寧々は絶対に自分のしたいことしかしないし、やりたくないことは断固やらない。

 ため息をついた汐里は、エアコンをつけたまま車中泊を決める。

 しかし腹が鳴り、汗で体がベタつく。気分は最悪で、眠れそうにない。

 せめてコンビニで食べ物でも……と思ったが、あの宿から連絡でもあったのか、店に入れてもらえなかったのだ。

 そうしていると、ふと汐里は催してきたものに顔をしかめる。

 (ど、どうしよう……お手洗いに行きたい……!)

 時計を見ると夜の二時。外は街頭の光が遠くに見えるだけの頼りない状態だった。
 背に腹は代えられない。汐里は隣りの寧々の袖を引く。

 「先生……! あの、お手洗いに行きたいので、ついてきてください……!」
 「Zzz……」

 しかし寧々は無情にも起きない。
 腕を叩いたり揺すったりしてみたが、一度寝るとなかなか起きない寧々の体質がこんな所で発揮されてしまったのだ。

 (どうしよう~)

 汐里は唇を噛んで悩んだ。
 トイレは、公園の公衆便所が少し離れた場所にある。
 だが、懐中電灯はない。辺りを包む不気味な静けさには、今にも獣の鳴き声が混じりそうだった。

 (行かなきゃダメなのに……こわい……)

 もう一度、寧々を揺さぶってみる。

 「先生、お願い……ついてきてください……!」

 だが、返ってくるのはかすかな寝息だけだった。

 (こんなときに限って、ぐっすり寝てるなんて……!)

 覚悟を決めなきゃ――そう思いながらも、汐里は震える手でドアを開けた。

 冷房で冷えた車内を、ひゅう、と生温かい風が舐める。
 嫌な予感がしたが、それを振り払うように無言でシートベルトを外し、汗ばんだ肌に触れないよう気をつけながら、車を降りようと足を伸ばす。

 そのとき、不意に街灯の光が車内へ差し込む。
 助手席側の窓ガラスが淡く光を返した。

 「……ッ!」

 思わず息を飲む。

 窓一面に、びっしりと小さな手形が浮かび上がっていたのだ。

 まるで何かが、運転席に顔を押しつけて中を覗き込んでいたかのように——。

 「せっ……!」

 息を詰めた次の瞬間、汐里は我を忘れて助手席の寧々にしがみついた。

 「先生ぇええっっ!!!」

 絶叫に飛び起きた寧々は、目をこすりながら不機嫌そうに眉をしかめる。

 「……なーにー? うるさいなぁ」
 「それどころじゃないんです! 窓……窓に……子供の手形がっ……!!」

 運転席の窓に近づくのが怖くて、出来る限り助手席に身を寄せた。
 寧々は押しやられて狭そうにしながらも、面倒くさそうに運転席の窓へと視線を向ける。そして、まばたきを一度だけして――目を細めた。

 「……ああ、そういうのかぁ」
 寧々がぽつりと呟く。その声には、どこか納得と諦めが混ざっていた。
 彼女はアイマスクを装着し、ふたたび汐里に背を向けて、眠りの世界へ戻ろうとする。

 だが、汐里には到底理解できない。

 (どういうこと!? 何をわかったっていうの!?)

 思考が混乱し、胸の内がざわついた汐里は、反射的に寧々の背中を何度も叩いた。

 「先生! 何が『そういうのかぁ』なんですか!? 私わかりません!」
 「そっか~。じゃあ、おやすみ」
 「おやすみじゃないですよ! 私、朝まで気になって眠れませんよ~!」
 「Zzzzz……」
 「先生ぇえええええええええ!」

 こうして汐里は夜が明けるまで、まんじりともせずに過ごすしかなかったのだった。

 ◆◆◆

 「ふぇええ……」と情けない呻き声が漏れる。

 朝が訪れた。
 汐里はふらつく足で、名洛の村への道を進む寧々の背を追う。
 編集者という職業柄、徹夜には慣れている。
 だが、怪奇現象の真っただ中で、尿意を我慢しながら一晩中身じろぎもしない拷問は、流石に初体験だった。

 寧々に改めて手形について問いかけても『面白いから放置してていいよ』と、とんでもない反応をするし、よく見ると寧々の手首には子供の手形がついていた。(汐里だけ悲鳴を上げた)

 嫌な予感が、何度も汐里の足を止めかけた。
 『帰ろう』と頭をよぎったのは、一度や二度ではない。

 だが、そう出来ない理由が汐里にはあったのだ。

 (幸の物、貰って帰らなきゃ……)

 名洛の里に伝わる、秘宝『幸の物』――それさえあれば、何もかもが元通りになるかもしれない。
 そんな一縷の望みにすがりながら、汐里は険しい山道を登っていた。

 車が侵入できそうにない山中であった為、二人は徒歩で村を目指していた。

 それなりに準備はしてきていたものの、車中泊でろくに眠れなかった体に、真夏の山道はあまりにも堪える。
 汗が額から滝の如く流れ落ちて止まらず、足は鉛のように重い。
 持参した飲み物は直ぐに無くなってしまった。

 (まだ、かな……)

 何だか目眩がしてくる。
 じりじりと照りつける太陽と青臭い木々、乾いた土埃が舞う中を終わりも見えずに歩いていると、寧々が告げた。

 「着いたよ~。名洛村」

 そこは、山中とは思えないほど立派な門構えだった。
 黒漆のように艶めく扉が、どこか冷たく光を跳ね返し、周囲を囲む塀は異様なほど頑丈で高い。
 まるで、外界を遮断する為に建てられた要塞のようだった。

 門の前には幾人かの村人が立っていた。
 しかし、村人の衣装は古めかしく、まるで一昔前の農村にタイムスリップしてしまったかのような錯覚に陥る。
 そんな彼らの前には、着飾った今風の女性らが数人おり、外部から招いた御神子様候補の女性と思われた。
 女性たちをちやほやと出迎えていた村人たちだったが、寧々に気づいた瞬間、その目を大きく見開いた。

 寧々は男だが、腰まで伸ばした髪と整った顔立ちのせいで、一見すると美しい女性のようにも見える。
 ……が、暑さのあまり胸元を大胆に開け、しっかりとした胸板をさらしていたため、どう見ても男だった。

 村の男達の顔色に警戒が浮かぶ。
 そんな中、門扉から背の高い青年が出てきて村人を止めた。

 その青年は、漆黒の長髪を結い上げ、赤い椿の模様があしらわれた羽織をまとっていた。
 白磁のような肌と目元に引かれた紅、この暑さの中でも汗ひとつかいていない姿に、どこか人間離れした美貌が浮かび上がる。
 羽織の裾が夏風にひらりと揺れていた。

 (……綺麗な人だな)

 思わず見惚れてしまうほどの美貌だった。
 が——その口から出た第一声は、まさかの怒鳴り声だった。

 「ちょっと! 寧々! アンタ今まで何処に行ってたのよ!!」

 ????

 オネエ言葉に汐里が硬直する中、寧々は青年に「久しぶり~つぐみん」と呼びかける。

 (つぐみん? 誰それ? いや、ていうか知り合いなの!?)

 汐里の脳内は完全に置いてきぼりだった。

 つぐみん、と呼ばれた青年は、ずかずか近づいてくると寧々の顎を掴んで怒鳴りつけた。

 「つぐみんて呼ばないで! アタシの名前は独楽鳥 噤(こまどり つぐみ)よ! てゆーかアンタ、家出して消息不明になってた癖に、何で今さら戻ってきてんのよボケ!」

 噤が寧々の顔を揺さぶりまくるので、汐里は飛び出していった。
 どれだけ愉快犯じみていようと、この男もれっきとしたベストセラー作家なのだ。
 脳を破壊されてはたまらない。

 「す、すみません! 初めまして! 私、田貫(たぬき) 汐里と申しまして!」

 挨拶しながら名刺を噤に渡す。
 名刺を受け取った噤は目を細め、じっと名刺を見つめてきた。

 「……」
 沈黙する噤に汐里は気まずいものを感じながらも、彼に話しかけた。
 村人の様子を見るに、噤は纏め役か何かだと思ったのだ。

 「あ、あの、御神子祭を取材、させて頂ければと……」
 「……帰んなさい」

 名刺を突き返された。
 背を向ける噤を汐里は思わず追いかける。

 「すみません! あの、でも……」

 だが、その時、酷い目眩が体を襲う。
 まるで視界の灯りがふっと吹き消されたように、全てが暗転した。

 (な、に……?)

 誰かの腕に受け止められた――でも、それが人間のものかさえ、定かではなかった。