断言しよう。今この瞬間、この世で一番不幸な女は私である、と。
 ……ううん、さすがに、この世で一番、は盛り過ぎたかもしれない。この町内で一番くらいにしておこうかな。

 そんな馬鹿げたことを考えてしまうくらいには、私は疲れていたし、苛立っていた。

 今日は、彼氏と付き合い始めてからの一周年記念日だった。一緒にお祝いしようと前々から約束していた。夜景が綺麗なレストランでディナーを予約しておいたと言ってくれたのは、彼だった。

 仕事を定時で終わらせて、用意しておいたセミフォーマルなテラコッタ色のワンピースに着替えてから、待ち合わせのホテルに向かった。

 だけど待ち合わせの時間を過ぎても、彼は一向に姿を見せない。メッセージを送っても既読も付かなければ、電源が切られているのか連絡もつながらない。
 ……もしかしたら彼は、今日の約束を忘れているのではないか。そんな不安が胸を過ぎった。

(でも、もしかしたら、仕事が長引いているのかも。スマホの充電が切れて連絡ができないだけかもしれないし……今、急いで向かっているのかも)

 そんな“もしかしたら”の期待が捨てられずに、私はこの場を離れることができなかった。

 秋も深まり日中は過ごしやすい気温が続いているが、夜の時間帯は少し冷える。
 近くの喫茶店で時間をつぶすことも考えたけど、彼がきたことに気づけなかったら意味がないので、私は待ち合わせ場所であるホテル前で彼を待ち続けた。

 そしてとうとう、待ち合わせの時間から二時間が経過した。時刻は二十二時を回っている。
 私はその足で、彼氏の住むアパートに向かった。もしかしたら。体調が悪くて寝込んでいるかもしれない。ただ単に、記念日を忘れていたのだとしたら……それは少し、ショックだけど。その時には、また後日、埋め合わせをしてもらおう。
 とにかく今は、彼の無事を確認しておきたかった。ひと目でいいから、彼に会いたかった。

 だけど、彼の部屋の前でチャイムを鳴らしても一向に出てこない。
 仕方がないから、合鍵を使うことにした。貰ってはいたけど、彼の不在時に上がる時には前もって連絡していから、勝手の許可なく合鍵を使うことに少しだけドキドキしてしまう。でも緊急事態かもしれないし、彼も許してくれるだろう。

 そして開けたドアの向こうには、見覚えのない、明らかに女物だと分かるヒールの高いパンプスが一組転がっていた。

 ――瞬間、胸に広がる嫌な予感。

 忍び足で寝室の方に進んでいった。そこでは私の予想を裏切ることなく、ベッドの上で二人の男女が生まれた姿のまま絡み合っていた。その男の方は、当然ながら、私の彼氏であるわけで。

「み、美月!? 何でここに……いや、これは違うんだ! これはこいつが勝手に……!」
「ちょっと何よぉ! 武志だってノリノリだったじゃない!」
「お、お前は黙っとけって!」
「……ふーん、なるほど。そういうことだったんだ。そりゃあ、電話にも出られるわけないよね? お楽しみ中だったんだもんね?」

 顔を真っ青にしている“元”彼氏に、私はにっこり笑いかける。そして、一言。

「……アンタ、ふざけてんの?」
「こ、これはちが……」
「言い訳なんて聞きたくないから」

 必死に弁明しようとする元カレの言葉を切り捨てて、思いつく限りの非難の言葉を浴びせてやった。そして最後に合鍵を奴の顔面に投げつけて、私は振り返ることなく部屋を出た。

 スマホを確認すれば、時刻は二十三時半だ。気づけば終電の時間など、とうに過ぎていたわけで。

 ――もういい。明日は休みだし、今日は近くのビジネスホテルに泊まろう。
 運よく部屋の空きはあったので、電話で予約を済ませてから、その足で近場のコンビニに向かう。
 目的は酒だ。ありったけのお酒。こんな日は、酔わないとやってられない。

 扉をくぐれば、店員の「いらっしゃいませぇ」の声と、お決まりの軽快なメロディが鳴り響く。

 特に買う気もないけれど、まずは何となく雑誌コーナーの前を通って陳列されている雑誌をチェックする。そして、飲み物コーナーへ。カゴに缶ビールとチューハイを二本ずつ入れてから、お次はスイーツコーナーに足を向ける。

 今更だけど、まだ夕食も食べていないんだった。こんな時間だけど、新発売だというチョコレートプリンが気になる。買うべきか、止めておくべきか。……でもこれは、自分へのご褒美ということにしておこう。
 記念日を忘れ、あまつさえ浮気をしていたバカな男を健気にも待ち続けた自分への、労いスイーツだ。

 私は迷うことなくプリンをカゴに入れた。ついでにミニサイズのカップサラダもカゴに入れて、最後にお菓子コーナ―に向かう。

 お目当ては、お気に入りのチョコレート菓子だ。コンビニに立ち寄った時には、絶対に買ってしまう。けれど、目当ての品が置いてあるはずの場所には何もない。まさかの品切れだった。

 正直に言えば、今このチョコレート菓子を絶対に食べたいわけではない。
 ……だけど、何だか悔しくて。今日という最悪な日を、少しでも良い形で終えたかった。

(もしかしたら、在庫がある可能性もあるよね)

 私は少しの望みにかけて、ちょうど近くで品出しをしていた黒髪の男の子に聞いてみることにした。
 このコンビニは、元カレの家に立ち寄る際によく利用していた。あの男の子は、何度もレジで対応してもらったことがある。その際に少しだけ他愛のない会話をしたこともあった。といっても、おすすめの新商品を教えてもらったりする程度だけど。

 多分、大学生くらいだろうな。マスクをしているから目元しか見えないけど、すらりとした体躯をしていて、整った顔立ちをしていることが分かる。愛想も良くて女の子からモテそうな雰囲気の子だ。

「あの、すみません」
「……」
「あ、あの!」
「……」
(……え、無視?)

 距離は一メートルくらいしか離れていないし、聞こえていない、なんてことはないと思う。ということは、やっぱり無視されているってことで。
 それを脳が理解した瞬間、一気にテンションが下がる。

(……もういいや)

 私はチョコレート菓子を諦めることにして、そのままレジに向かった。
 レジ近くにあるホットスナックには少しだけ心惹かれたけど、それは我慢して、会計を済ませてから自動ドアをくぐった。そして、足を五歩ほど前に進めたところで。

「お姉さん、こーんな時間に、な~にやってんの?」
「……」

 ――最悪だ。今日は本当にツイてない。

 まさか、コンビニを出て直ぐに酔っ払いに絡まれちゃうなんて、誰も想像できないでしょ。私が少女漫画のヒロインだったら、ここでカッコいいヒーローが助けにきてくれるのかもしれない。
 だけどお生憎様、私にヒロインのような可愛らしさは持ち合わせていない。

 “っ、お前にもう少し可愛げがあれば、俺だって浮気なんてしなかったよ!”

 ついさっき、捨て台詞のように言われた元カレからの言葉が、耳の奥でこだまする。

 ――最悪な一日は、結局、最悪なままで幕を閉じることになりそうだ。



「あの。手、離してください。嫌がってますから」

 だけど、私と酔っ払いの間に割って入ってくれた存在がいた。
 品出しをしていた黒髪の男の子だ。酔っ払いのおじさんを真顔で見据えている。

「あぁ? 俺はこの子に声かけて……「はいはい。おじさん、かなり酔っぱらってますよね? 早く帰ったほうがいいですよ? あぁ、もし帰り道が分からないようなら、お巡りさんを呼びましょうか? 近くに交番があるんです。きっと懇切丁寧に道案内をしてくれると思いますよ」

 笑顔の男の子が口を挟む隙もなく言いきれば、顔色を悪くしたおじさんは「か、帰れるに決まってんだろ!」と覚束ない足取りで行ってしまった。

「大丈夫でしたか?」
「……はい。ありがとうございます」
「いえ。店内からちょうど絡まれているのが見えたので」

 眉を下げた男の子は心配そうな顔で私を見ている。ただの客でしかない私をわざわざ助けにきてくれたなんて、絶対にいい人だ。
 まぁ、店前で面倒事を起こされたくないって理由もあるかもしれないけど。

 このままお礼を伝えて立ち去ればいい話だったんだけど――私はつい、いまだに胸にくすぶっている彼に対してのモヤモヤを、本人に直接ぶつけてしまった。

「でも……さっき、無視しましたよね」
「え? むし?」
「無視です、シカトってことです。私が声をかけたのに、無視したじゃないですか」
「……もしかして、店内で俺に声をかけてくれてましたか?」

 男の子は自分の顔を指さして、小さく首を傾げた。その仕草が可愛くて、ちょっとだけ頬が緩みそうになった。でもそれは顔には出さないで、口許を引き結んだまま頷いて返す。

 すると男の子は、また眉を下げて謝ってくる。

「すみません。俺今、えーっと、何て言ったっけな……耳管狭窄症? っていうのになっちゃってて、特に右耳が聞こえづらいんです。深夜の時間帯なら、客もそんなにこないし、話しかけられることも滅多にないので、気を抜いてたっていうか……なので全然気づきませんでした。不快な思いをさせちゃって、ごめんなさい」

 男の子は深く頭を下げて謝ってくれる。そんな申し訳なさそうな顔で謝罪されて、許さないなんて、当然言えるわけもない。
 というか、こうして助けてもらった時点で、彼に対してのムッとする気持ちはほとんどなくなっていた。きっとわざと無視したわけじゃないんだろうなって、気づいてしまったから。だからこそ、それを確信に変えたくて、こうして本人に聞いちゃったわけなんだけど。

「あの、大丈夫ですから顔を上げてください! そんな理由があったなら仕方のないことですし、むしろ、無視されていたわけじゃないって分かってよかったです。……このまま今日は最悪な一日で終わるんだろうなって思いましたけど、君のおかげで助かったし」
「最悪な一日って、何かあったんですか?」
「え、っと、それは……」

 男の子は不思議そうな顔をして尋ねてくる。だけど、それを話すには少し長くなるし、バイト中なのにこれ以上引き止めてしまうのも悪い。
 そもそも、元カレに記念日を忘れられて浮気されてました、なんて、他人に話すような内容でもない。何て説明するべきかと躊躇していれば、店内に視線を向けた男の子は、切れ長の目を細めて笑った。

「お姉さんは、この後は真っ直ぐ帰る予定ですか?」
「え? まぁ、そうですけど……」
「特に予定がないなら、少しだけおしゃべりしませんか? 俺、ちょうど二十四時で上がりなんです。少し待っててください! あ、また絡まれたら危ないので、店内にいてくださいね」
「え? いや、私、君と話すだなんて、一言も言ってないんだけど……」
「まぁまぁ、いいじゃないですか。これも何かの縁ですし」

 男の子は半ば強引に話を進めると、呆けたままの私の手を掴んで店内に引き戻して、バックヤードに下がってしまった。完全に彼のペースに乗せられてしまっている。
 このまま帰ってしまってもいいんだけど……でも、今日は誰かと話したい気分でもある。ホテルに行っても、どうせ元カレのことを思い出して一人で苛々して、最終的には落ち込むだけだろうし。
 彼の言う通り、これも何かの縁だ。悪い子じゃないってことは分かるし、少しくらい話し相手になってもらうのも悪くないかも。

 そう自分を納得させた私は、彼の言葉に流されてみることにした。


 °˖✧°˖✧°˖

「お待たせしました」

 バックヤードから出てきた男の子は、黒いTシャツにジーパンというラフな私服姿で、マスクも外していた。素顔、はじめて見たけど、やっぱり想像通りのイケメンくんだ。

 そのまま二人ですぐ近くにある公園に行って、ベンチに並んで腰掛ける。
 深夜のこの時間帯、公園にひと気はない。一人なら心細く感じてしまいそうだけど、顔見知り程度の関係の男の子と二人きりのこの時間が、何故だか今は、少しだけ落ち着く。

「そういえば、自己紹介がまだでしたよね。俺、浪川亮介です。大学二年生です」
「っていうことは、まだ十代?」
「いえ、先月で二十歳になりました」
「そっか、おめでとう。学生かなとは思ってたけど、大人っぽい雰囲気だからもう少し上かと思ってた……あ、私は咲坂美月です。一応、社会人です」
「それじゃあ、みづきさんって呼んでもいいですか?」
「いいけど……君、結構グイグイくるね」
「いいじゃないですか。せっかくなら仲良くなりたいですし、楽しく話したいので」

 浪川くんは無邪気に笑っている。クールな見た目に反して、中身は人懐こい性格をしているみたいだ。実家で飼っていたわんこを思い出す。

「みづきって、どういう漢字を書くんですか?」
「美しい月って書いて、美月だよ」
「へぇ、綺麗な名前ですね。美月さんにぴったりの名前だと思います」
「……浪川くんは、お世辞が上手だね」
「お世辞じゃないですよ。本心の言葉です! ……あ、見てください。今日はちょうど、月が綺麗ですよ」

 浪川くんに倣って、私も空を見上げる。濃藍色の空には、綺麗な満月がぽっかりと浮いている。上を見ようだなんて思わなかったから、今日の月がこんなに綺麗だなんて、全然気づかなかった。

「それで、今日は何があったんですか?」
「……やっぱりその話になるよね」
「美月さんが言いたくないならいいですけど。事情を全然知らない俺だからこそ、気を遣わずに話せることもあるんじゃないですか?」
「……実は今日ね、彼氏との記念日だったの。付き合って一年のね」
「……へぇ。美月さん、やっぱり彼氏がいるんですね」
「いるっていうか、いた、が正しいんだけどね。さっき別れちゃったから」
「それが最悪な一日の理由ですか?」
「そう。彼ね、記念日を忘れてたどころか、浮気してたんだ。アパートまで行ってみたら、明らかに女物の、見覚えのないパンプスが玄関に置いてあってさ。部屋まで行ってみたら、まぁ……予想通りって感じで。付き合う前から、女癖の悪いところがあるってことは知ってたの。だけど付き合ってからは、改心してくれたって……そう思ってたんだけどね」

 あの感じだと、アパートに私以外の女の子を連れ込んでいたのも、今日が初めてじゃないんだろうな。どうして今まで気づかなかったんだろう。
 へこんでいれば、浪川くんが軽い調子で話し出す。

「でもそれって、むしろラッキーだったんじゃないですか?」
「……どうして?」
「だって、そんな最悪男と別れられたんですから。むしろ喜ぶべきですよ」
「……確かに。その事実に気づくことができたのはよかったのかもね」

 私も軽い調子で笑って返す。
 だけどやっぱり、心はずっと重たいままだ。

 だって、よりによって今日じゃなくても良かったのに。
 一年に一度しかない記念日。今日という日を、私は楽しみにしていた。大切な人と過ごせるこの日は、特別なものになるって思ってた。

「……でも、美月さんを悲しませたのは許せませんね」

 ポツリ、呟くようにそう言った浪川くんは、何だか怒っているみたいだ。
 その横顔から、そんな気配を感じる。それは多分、私の元カレに対してで。

 ――だけど、どうして浪川くんがそこまで怒ってくれているのか、私には分からない。
 どんな反応を返したらいいのかも分からなくて、戸惑ってしまう。

「……まぁ当分、彼氏はいらないかな。そういう浪川くんは、彼女はいるの?」

 少しだけ重たくなった空気を変えたくて、別の話題を振ってみた。
 浪川くんは考えるように上を向いたかと思えば、口角を持ち上げて悪戯な笑みを浮かべる。

「どうだと思いますか?」
「……今は私が質問してるんだから。質問に質問で返すのはズルいでしょ」
「えー、少しくらい考えてくれてもいいじゃないですか」
「それじゃあ、彼女が五人くらいいるとか?」
「まさか、そんなことないですよ! こう見えて俺、結構一途ですから」
「そうかな? 浪川くんのこと、初めはクールな子なのかなって思ってたけど……実際に話してみたら、何ていうか……こう、チャラそうな感じがするし」
「チャラいって! ひどくないですか?」

 浪川くんは唇を尖らせて不満そうな顔をしている。
 空気が元に戻ったことに内心でホッとしながら、浪川くんの返答を待つ。

「まぁ、過去にはいましたよ、彼女」
「……過去形なんだ?」
「はい。別れちゃったので」
「そっか」
「告白されて、流れで付き合ったんです。でも、すぐに振られちゃいました。私のこと全然好きじゃないでしょって」
「それって、好きでもないのに付き合ったってこと?」
「まぁ、そういうことになりますね」
「……浪川くんも、大概悪い男だと思うんだけど」
「まぁ、彼女には悪いことをしたなって思います。でも俺、ずっと気になる人がいて。でもその人には彼氏がいるんだろうなって分かっていたので……告白する前に、失恋しちゃったんです。そんな時に告白されて、今は好きじゃなくてもいいからって、押される形で付き合ってたんです」

 切なそうに目を細めている浪川くんは、その好きな人のことを考えているのかな。
 こんなカッコいい男の子が好きになったのは、どんな人なのか。少しだけ気になる。

「でも今日、俺にもまだチャンスがあるかもって思ったんです」
「え?」
「その人、彼氏と別れたらしくて。なので、まだ諦めなくてもいいのかなって」

 ――あ。また、空気が変わった。

 浪川くんが、真っ直ぐに私を見つめている。真摯なまなざしが、私に何かを訴えようとしている。でも、これ以上はダメだって、私は咄嗟に目を逸らした。
 スイーツやアルコール類が入ったビニール袋を持って、ベンチから腰を上げる。

「……私、そろそろ帰るね」
「それなら、送っていきますよ」
「大丈夫。ここから五分もかからないから」
「家、近いんですか?」
「ううん、もう終電も過ぎちゃってるから、今日は近場のビジネスホテルに泊まることにしたんだ。本当に近いから、一人で平気」
「……そうですか」

 浪川くんは渋々といった様子で引き下がってくれた。

「それじゃあ、連絡先、教えてください」

 ――と思ったんだけど、何故だかスマホを取り出して、LINEの友だち追加画面を開いて見せてくる。

「……どうして連絡先を交換する流れになるのかな?」
「送らせてもらえないなら、せめて通話しながらホテルに向かってください。それなら俺も少しは安心できるので」
「……あのさ、私たち、こうしてじっくり話したのは今日が初めてだよね? それなのにどうして、そんなに気にかけてくれるの?」

 純粋に気になった。
 今、浪川くんは、何を思って私との時間を過ごしてくれているのかなって。
 ――その答えを、知りたいと思ってしまった。

「……こんなこと言ったら、またチャラいとか言われちゃうかもしれないですけど」

 浪川くんは言葉を選ぶように、慎重に、ゆったりとした口調で話し出す。

「美月さんは気丈に振る舞ってましたけど、それがただの強がりなんだろうなってすぐに分かりました。美月さん、今日は最悪な一日で終わるんだろうなって言ってた時、今にも泣き出しちゃいそうな顔で笑ってたから。このまま帰したら、一人で泣くんだろうなって……そう思ったら、咄嗟に引き止めてました。こうして話してみて、美月さんのさっぱりしたところとか、素直じゃない物言いとかもむしろ可愛くて……やっぱり好きだなぁって思いました。このままサヨナラするのは寂しいし、俺が絶対に後悔すると思ったので。だから、美月さんとの繋がりがほしいんです」

 浪川くんは、真っ直ぐに思いを伝えてくれた。これが嘘偽りの言葉じゃないってことくらい、すぐに分かった。だって話す声の温度が、全然違う。
 穏やかで、優しくて、少しだけ重たい。浪川くんの感情全部をのせたみたいな、胸の柔い部分をギュッと締め付けてくるような声だった。

 誰かにこんなに真っ直ぐに気持ちを伝えてもらった経験なんてないから、顔が勝手に熱を持つ。熱くてたまらない。恥ずかしいのに、同じくらい、嬉しくも感じてしまう。

「……浪川くん、やっぱりチャラい」
「ほら! やっぱりそう言われると思いました」

 また可愛げのない返しをしてしまった。
 だけど浪川くんは唇を尖らせながらも、依然として優しい目で私を見ている。

「……そもそも、私のどこを好きになってくれたの?」
「そうですね……半年以上は前の話なので美月さんは覚えてないかもしれないですけど、俺がバイトをし始めたばかりの頃、商品をぶちまけちゃったことがあって。その時に一緒に拾ってくれたのが美月さんだったんです。その時、すごく可愛い人だなって思いました。それから、バイト中に時々会えるのが嬉しくて。レジでありがとうございますって毎回お礼を言ってくれるところとか、俺がおすすめしたお菓子を律儀に買っていくところとか、美味しかったって感想を伝えてくれるところとか……好きだなって思う気持ちがどんどん大きくなっていったんです」
「……でも、それだけで好きになってくれたの?」
「はい、それだけです。でも誰かを好きになる理由なんて、そんなものじゃないですか?」

 浪川くんは軽やかに笑う。

 ――そっか、そんなものなのか。
 その笑みを見ていたら、何だか身体から力が抜けていくのが分かった。

「……分かった。連絡先、交換しよ」
「……えっ、いいんですか?」
「浪川くんが言ったんでしょ」
「そうですけど……美月さん、さっき、当分恋人はいらないって言いましたよね。でも俺は、美月さんの彼氏になりたいって思ってます。下心、めちゃくちゃありますよ。それでもいいんですか?」
「……それじゃあ浪川くんが、また彼氏が欲しいって思わせてよ」

 やっぱり素直になれない私は、また可愛げのない言い方をしてしまった。
 だけど浪川くんは、そんな私の言葉にも、すごく嬉しそうに笑ってくれた。

「はい、頑張りますね! ……うん、やっぱり美月さんは可愛いです」
「……うるさい。チャラい。バカ」
「あ。照れ隠しの時、語彙力が一気に下がるところも可愛いと思いますよ」
「……やっぱり連絡先、教えない」
「えっ、どうしてですか!?」

 焦り顔になった浪川くんに背を向けて歩き出す。
 そうすれば、彼が後を追いかけてくるのが分かった。

 ――もう少し一緒にいたいから、このままホテルまで送ってほしいって言ったら、浪川くんは何て言うのかな。

 そんなことを考えながら、隣に追いついてきた彼に目を向けた。
 自分じゃ分からないけど、きっと今の私の口許は、だらしなく緩んでいるんだろうな。



 ――最悪だった一日の夜は、新たな恋が始まりそうな予感と共に、朝を迎えることになりそうだ。


Fin.