《教室いる?》
《なんで?》
《前に借りたハンカチ返したくて。肉球の》
《いまいないけど、すぐ戻ります》
志摩くんとのトーク画面を閉じたら、前の席の甲斐と目があった。「志摩?」って聞いてくる。「なんでわかったの?」って聞いたら、「顔がなんかちげーもん」って言われた。
休み時間中の教室は、クラスメイトの話し声で少し騒がしい。俺は、ニヤニヤと笑っている甲斐の足をげしっと蹴った。
「揶揄うなよ」
「ちげーよ。安心してんの、俺は」
「はぁ?」
「落ち着いて見てられるっつーか。ゆっくり時間流れてる感じ?」
「えー……意味わかんないんだけど」
「なんか幸せそう」
うぐ。まさかそんなにストレートに言われるとは。幸せ、かどうはわからないけど……志摩くんに大事にされてるのはよくわかる。
ピロン、とスマホがメッセージを受信した。《俺がそっち行きましょうか?》なんていう志摩くんの文字に、ほわ、と柔らかい気持ちになる。
「おまえ、志摩のこと今どう思ってんの?前はわからないって言ってたけど」
「えっ……!?ぅ、ま、まぁいいじゃん!それは!俺、これ返さないとだからちょっと行ってくる!」
ガタッと立ち上がって、教室を出た。
逃げた感じになっちゃったかな。でも仕方ないだろ。
志摩くんのことをどう思っているか。わかったような、まだわからないような。とにかく、ハンカチを貸してくれた春から時間は流れて、いつの間にか緑が眩しい五月になっていた。
相変わらず志摩くんはゆるくて柔らかくて、たまに強引で、不意に距離を詰めてくる。
この前電車で一緒に帰ってた時だってそうだ。目の前に立ってた志摩が、『ごめんちょっと眠い』って、俺の肩に頭を乗せてきた。
試験前だったし仕方ないかもしれないけどさ。あいつの柔らかい髪が頬にあたって、なんかいい匂いもして、バクバクいってる心臓がこのまま止まってしまうんじゃないかって、気が気じゃなかった。
あいつの距離の近さにドキドキするのか、それとも志摩くん自身を意識してしまっているのか。
《いい。俺が行くよ》
ぶんぶんと首を振って、志摩くんへメッセージを返す。その時、廊下を歩く先生の後ろ姿を見つけた。教材が入った段ボール箱でも抱えているのか、肩の方から筒状のポスターケースが飛び出ている。
「それ、運びましょうか?」
「おー、遊川か。いいの?」
「いいですよ。先生も歳でしょ」
「失礼だな〜。でも助かるよ。じゃあこれ、資料室までお願いできる?」
資料室ならちょうど志摩くんの教室を通るし、ちょうどいいや。先生から段ボール箱を受け取って、急いで教室へと向かう。
志摩くんは一年六組だ。
ちらっと廊下から中を覗いて見たけど、志摩くんはまだいなさそうだった。
すぐ戻るって言ってたし、先に資料室行くかー。次来た時にはさすがにいるだろ。
「──あっ、それ志摩くんのカーディガンじゃんっ。ずるーい」
「えへへ。どう?彼女っぽい??」
聞こえてきた声に、ぴた、と足が止まる。
……今、志摩くんのカーディガンって言った?
バッと、思わず教室の中を見た。
教室の真ん中のほう。黒色のカーディガンを着た女子が楽しそうに話してる。胸元にワンポイントの刺繍……確かにあれは志摩くんのだ。
なんで志摩くんのものを他の女子が着てんだ?
「……って、俺には別に関係ないし……」
なにをあからさまに反応しちゃってんの、俺。どうせあれだろ?肌寒いって言ってた女子にじゃあこれ着る?って、志摩くんが貸してあげたんだろ。
なんてことない。簡単に想像できる。よく俺に優しいって言ってくれるけど、それは志摩くんも同じだから。
ハンカチで涙を拭いてくれたし、俺の目を見て話を聞いてくれる。ははって笑う時の声は、いつだって心地良い柔らかさがある。
たぶん、あの時電車で泣いてたのが俺じゃなくても、志摩くんはハンカチを貸してあげてた。『大丈夫?』って声もかけてあげて、優しく笑いかけてあげてたと思う。
「……」
段ボール箱を持つ手に、無意識に力が入ってた。
きゅ、と唇を結ぶ。……やばい。なんだよ、これ。
志摩くんが他の奴らに笑いかけているところを想像したら、なんか、すっげー胸が痛い。
「遊川先輩」
「っ!!?」
聞き慣れた声が後ろから急に聞こえてきたから、びっくりして箱を落としそうになった。
あたふたする俺に、くすくすとその人物が楽しそうに笑っている。
「だいじょーぶ?」
「へ、平気……びっくりしただけ」
振り返った先には志摩くんがいて。
両脇と後ろにクラスメイトを連れている。「先戻ってて」と言う志摩くんに、クラスメイトたちは「えー」なんて言いながら教室に入っていった。おまえ、相変わらず男女関係なく人気者だな……。
「ごめん、待たせちゃいました?自販機行ってて」
「いやいや、全然待ってない」
「それはなに?」
「先生の代わりに運んでる。っあ、別に頼まれたとかじゃなくて、俺がやりたくてやってるだけだから」
「はは。いーよ、わかってる」
「う、うん……」
「?なんか元気ないね」
不思議がる志摩くんが、教室の中を見た。たぶん、カーディガンを着てる女子を見つけたんだと思う。俺に視線を移して、「もしかしてあれが原因?」ってストレートに聞いてきた。
「あれね、椅子にかけてたのを勝手に着てるだけ。俺が貸したんじゃないですよ」
「困るんだよなー……あぁいうの」なんて、少しうんざりした様子で、志摩くんは教室の扉を閉めた。人気者も大変なんだな……。
「安心した?」
「なっ、べ、別に……!ていうかこれ!ハンカチ!ありがとね、あの時貸してくれて!」
……本当は嘘だ。
貸したものじゃないって言葉を聞いて、たったそれだけで、ふわっと心が軽くなった。よかったって、思った。なんでそう思ったんだよ、俺。
なんでこんなに、志摩くんのことになると余裕がなくなるんだよ。
その時、志摩くんの指が、俺の髪に触れた。
「寝癖ついてる。珍しいね」
至近距離で志摩くんと目があって、志摩くんの指が、ちょんと俺の耳にあたって。冷たい指先が、春の駅のホームを思い出させる。
見なくてもわかる。俺はいま、ぶわぁっと赤くなっている。
「〜っじゃあ!返したから!」
「あっ、待って先輩」
ぐいっと肩を引き寄せてくる志摩くんに、ドキンっと心臓が大きく鳴った。
「今日も一緒に帰れる?」とか、首を傾げて聞いてくる志摩くん。こくこくと頷いてなんとか返事をする俺。
なんでもいいから、早く志摩くんから離れたい。
「じゃあ、また連絡します」と、パッと離れてくれた志摩くんは、最後に俺の頭を撫でてようやく教室の中へと入っていった。
心臓は、まだドッドッとうるさい音を立てている。
志摩くんの冷たい指先に、あの時とは違う感情を抱えてることに嫌でも気づいた。
くそ。もう、なんだよ。
「ここでかよ……」
俺、志摩くんのことが好きだ。
*
自分の気持ちを自覚したから、志摩くんから今までたくさんの言葉をもらってきたから、はやく同じものを返したいって思ったんだけど。
「最近野良猫が家にくるようになったんですよ。見てこれ。めっちゃ可愛くない?」
自分から好きって言うのって、こんなに勇気がいるものだったっけ?
「すげー人懐こくて。もう飼っちゃう?って話も出てるんだよね」
放課後、電車の中。志摩くんのスマホには野良猫の動画が流れている。でも、申し訳ないけど今の俺には猫を見る余裕はない。こそっと隣に座っている志摩くんを盗み見た。
相変わらず綺麗な顔してるな。くそ。俺は知ってるんだぞ。電車の中でも学校でも、志摩くんに熱い視線を送っている奴は結構いる。
早くしないと取られてしまう。
……いや、そもそも俺たちもう恋人同士ってことになってるんだよな?じゃあわざわざ告白する必要もない?
志摩くんは一回も俺の気持ちを聞いてきたことはなかったし、今さらすぎるか?
「ん?なに」
ぱちっと目があった志摩くんから、慌てて顔を逸らす。
「っな、んでもないです……」
「なんかあるやつじゃん」
は、と笑う志摩くん。いつも通りどこかゆるくて、余裕そうで。あぁでも、この前はそんなこともなかったっけ。
『……俺いつもどんな顔してましたっけ』
あの時の志摩くんは、余裕なんかなさそうだった。俺のことであんなに表情を崩してくれるとは思わなくて……優越感ていうか、俺しか知らない志摩くんを見れたのが、嬉しかった。
……好きだって言ったら、おまえは、どんな顔をするんだろう。どんな表情を見せてくれるんだろう。
俺たちの最寄駅に到着するアナウンスが鳴る。開いたドアに反応して、俺たちは立ち上がった。
「今度うち来ます?猫、この時間にいつも来るから」
駅のホームで、志摩くんはそう言いながら俺を振り返った。
癖毛の髪も、ほんの少し目尻が垂れ下がっている目も、柔らかい声も冷たい指も。好きって言ったら、俺のものになる?
「志摩くんが好きだ」
気づいたら、もう言ってた。
一瞬目を見開いた志摩くんに、ハッとする。何言ってんだ、俺っ。
「ごめんなしっ、今のなし!ちょっと待ってちゃんと……」
赤くなっているであろう顔を隠すように手で覆う。もう最悪。告白するならもっとちゃんとしたかった。ホームなんかじゃなくて、ちゃんとタイミング見計らって──
「なしにしちゃうの?」
「……え」
静かな声だった。
ゆっくりと手をどけると、志摩くんがじっと俺のことを見ている。
「なしにしないでよ」
いつものゆるさも柔さもない。真っ直ぐに俺を見ている。
これは、ただの憶測だ。もしかしたら志摩くんは、ずっと待っていてくれてたのかもしれない。俺が自分の言葉で返事をするのを。
そんなところも志摩くんらしくて、きゅ、と胸が苦しくなる。
「……志摩くんのことが好きだから、俺と付き合って」
本当に、巡りめぐって良いことが返ってくるのなら、それは志摩くんがいい。それ以上はなにも望まない。
「俺も先輩が好きです」
五月の爽やかな風が頬を撫でる。
志摩くんは、口を開けて嬉しそうに無邪気に笑った。



