「おい桐、聞いてる?」
「んえ、ごめん、なに?」
「だからー、問三の答え。これであってる?俺今日あたるんだよ」


昼休み、数IIの教科書を開いて眉を寄せている甲斐。シャーペンで「ここ」と知らせてくるので、慌てて問題とノートの答えを比べて見た。

「んー合ってる。たぶん。俺もそうやって書いた」
「あそ。桐と同じ答えなら大丈夫か」

甲斐とは一年の時に同じクラスの帰宅部同士で仲良くなった。コンビニでほぼ毎日バイトしていて、昼飯は廃棄になったおにぎりかパンを食べている。

ちなみに俺は購買で調達してる。焼きそばパンが絶品なのよ。

「おまえ、最近二割り増しでぼーっとしてね?あいつのこと考えてそうなってんの?」

その言葉に、思わず食べかけの焼きそばパンを持つ手に力が入った。

「っあ、あいつってどいつだよ!?」
「元カノに決まってるじゃん。他に誰がいんだよ」
「はっ、そりゃそうか」
「はぁ?」

しまった。甲斐には志摩くんのことをまだ伝えてなかった。言い出すタイミングがなかったし、それに……。


『次の恋人、俺にしませんか』


志摩くんがとんでもないことを言った日から数日経つけど、あれからなんのアクションもない。
時間が合わなかったのか電車も別々だったし、学校でも会ってない。

春の夢に踊らされてただけだった?そもそもあのイケメンがなぜ俺を。とにかく、現実味と実感がなくて、甲斐に言えずにいた。


「わかった。なんか隠してるだろ。言え。今すぐ」
「か、隠してないって」
「いいから言え。あとで抱えきれなくて爆発するまえに」
「爆発したことあるみたいな言い方するなよ」
「去年の文化祭委員で爆発しただろ」


げ、そうだった。
実行委員で雑用引き受けすぎて、最後の最後に甲斐に泣きついたことがあったっけ。

「また誰かになんか頼み事されたの?」
「してないしてない。まじでそんなのじゃないから」

むしろもっと複雑というか。なんて説明するべきか──。


「遊川せんぱーい」


突然聞こえてきた声に、顔をあげる。このゆるーい声。俺最近聞いたことある。

ドアの方を見たら、思った通り志摩くんが立ってた。もう線になってるじゃんってくらい目細めて笑ってる。しかも手も振ってるし。

志摩くんが俺の名前を呼んだ瞬間、教室がざわついた。主に女子が「あれって一年の志摩くんだよね?」って、テンション高めで話してるのが聞こえる。

あのルックスだし人気そうだなとは思ってたけど、学年を飛び越えて志摩くんは有名人らしい。
でもまさかこんなに注目されることになるとは。

「なに?なんであの一年が桐のこと呼んでんの?」
「えーっとちょっと色々あったっていうか、とにかく呼んでるから行ってくるわ!
「は?あ、おい!」

甲斐は志摩くんとのことを知らないし、ていうか周りから注目されてるのもちょっと気まずい……!

「やっと会えたー」ってにこにこしてる志摩くんの腕を引っ張って、とにかく人のいないところまで走る。
空き教室に入ったところで腕を離して、バッと志摩くんを振り返った。

「なにしてんの!?」
「えー?」

にこにこ顔で机に腰掛ける志摩くん。「先輩に会いにきたんだよ」ってなんてことないようにそう言って。

「連絡先教えてもらおうと思ったんだけど、よく考えれば名前しか聞いてなかったと思って。一組から順に探してました」

その言葉に驚愕する。
一組から順に?俺、八組だよ?めっちゃ時間かかるに決まってるじゃん。

「俺の名前出して何組か聞けばよかったのに……」

ぱちぱちと瞬きをした志摩くんは、わはと口を開けて笑った。

「まじだ。はは。すげー遠回りしちゃいましたねー」

そんな志摩くんに、俺は唇をきゅっと結ぶ。
……なんていうか、相変わらずゆるい。俺に告白してきたくせに、必死さを感じないっていうか。


「志摩くん……さ、この数日なにしてたの」
「んー。鬼ごっことか隠れんぼとか、クラスの奴らとたこ焼きパーティーしたりとか」


小学生みたいなラインナップに苦笑しつつ、やっぱりなって思った。
志摩くんは俺がいなくても十分楽しく学校生活を送っていて、この数日俺のことを放ったらかしにするくらいには余裕がある。

志摩くんは、本当に俺と恋人同士になりたいわけ。


「あのさ、なんで前にあぁ言ったの?"次の恋人俺にしませんか"って」
「え?」
「志摩くんにとって、俺の優先順位って低いと思う。本当に俺のこと想ってくれてたら、もっと早く会いにきてくれてたんじゃない」


俺だったらそうする。ていうか、そうしてた。いつだって俺が迎えに行く側、会いに行く側。……向こうから来てくれたことなんて、たぶん、一回もなかった。


「志摩くん、やっぱり俺のこと好きじゃないよ。あの時は同情してくれたんだと思う。ありがとね、励まそうとしてくれて。でも無理に恋人にまでなろうとしなくていいよ」


あの時、好きかどうかも自分の中ではっきりしてない様子だった。わざわざ男の俺に志摩くんがそんなことしなくていいよ。


「遊川先輩」


気づいたら、志摩くんが目の前にいた。
顔を覗き込んで、俺がどんな表情をしてるのか確認してるみたいだった。


「……なに?」
「泣きそうな顔してる。嫌な気持ちにさせてごめんなさい」


嫌な気持ち?俺が?まさか。
別にいいよ。志摩くんはただの後輩で、いつ誰と何しようが俺には関係ない。

……ただ、おまえ言ってくれただろ。


「俺の優しいところ、前からいいなって思ってたって、言ってくれたじゃん。俺、あれ嬉しかったんだよ」


昔から人には優しくあれって言われてきて、ずっとそうしてきてた。"ありがとう"って人から感謝されるのが嬉しくて、良いことが返ってくるかどうはどうでもよかった。

でも、ゆのに振られた時、今までの自分を否定されたような気がして、悲しかったんだよ。


「たぶん俺、おまえの言葉に少し救われたんだと思う」


だからきっと、あの時名前を教えたんだ。


「でもさ、おまえは名前を聞いたっきり音沙汰ないし、鬼ごっこして隠れんぼしてたこパしてるし。なんか、おまえのこと考えてた俺が馬鹿みたいじゃん」


志摩くんの胸をぐーっと手のひらで押しのける。何もしてこないかと思えば急に教室に来て注目の的になるし。なんなんだよ、おまえは。


「あのね、別に嫌な気持ちになってないし悲しくなってもないよ。恋人になろうって自分が言ったこと、忘れてんなよって思っただけ──っ!」


その時、急に志摩くんが俺の手を取ってぐいっと自分の方へ引っ張ってきた。びっくりして思わず抵抗すると、さらに強い力で引き寄せてくる。

あいつの顔を見ただけで、なんだか負けた気分になった。もう、なんなの。なんでそんな嬉しそうな顔してんだよ。

志摩くんの力に負けて、俺たちはたった数センチ先の距離にいた。腰を抱き寄せて、満足そうに目を細めて俺のことを見てくる志摩くんに、「なに……」って、こんなことしか言えない。


「嬉しいです。思ったより俺のこと受け入れてもらえてるみたいで」
「は……?」
「俺のこと、意識してくれてたんですか」
「っいや、意識してないから!別に!ただ嬉しかったってだけ!」
「はは。可愛いなぁー」
「いいよ、そんなこと言わなくて……さっきも言ったけど、志摩くんは俺のこと好きじゃないよ」

「先輩、これ見て」


片手で俺のことを抱き寄せたまま、志摩くんが見せてくれたのはスマホで撮った写真だった。

「これねー、鬼ごっこした時の雲。肉球みたいでしょ。これは学校で隠れんぼした時に見つけた机の落書き。めっちゃ絵うまいよねー。で、これは俺が焼いたたこ焼き。俺のが一番綺麗な丸だった。
これ全部、先輩にも一緒に見てもらいたいと思って撮ったやつなんですよ」
「……だからなに?」

スライドする指を止めて、俺のことを見る志摩くん。ふやり笑うその顔に、ドキッと胸が鳴った。


「こういうちょっとした嬉しいことを誰かに共有したいなーって思うのは、その人のことが好きだからなんじゃないかなーって思うんだけど、どう?」
「ど、どうって……」

「俺にとってその相手は遊川先輩なんだけど、これじゃあ好きってことにならない?」


いつのまにか、志摩くんのペースだった。
なんて返せばいいのかわからなくて、言葉に詰まる。志摩くんの温もりを感じることしかできない。


「俺ね、やっぱ先輩のこと好きなんだと思う。好きだから、先輩には笑っててほしいんだと思う。
ごめんね。期待してくれてたのに来るの遅くなっちゃって」
「っ!?」


ドン、と志摩くんの胸を押した。き、期待してくれてたのにって、なに……!

「期待してなかったよ!」
「そうなの?」

ゆるーと笑う志摩くんはどこか余裕そうで。顔がぼぼぼっと熱くなってくる。

「そんなことないと思うんだけどなー」
「〜〜っ」
「あ。ていうか連絡先交換しましょうよ」

……志摩くんは、ゆるくてふわふわしているっていうか。雰囲気は柔らかいのに、どうしてか勝てる気がしない。

友だち欄に表示された志摩くんの名前とアイコン。アイコンも猫の肉球の写真で、どんだけ好きなんだよって少し笑った。

「……」

さっき見せてくれた写真を思い出す。
肉球に見える雲と、机の落書きと、綺麗に焼けたたこ焼き。俺にも見てもらいたいって言ってた志摩くん。

……誰かの日常の中に、自分が当たり前にいるのって、こんなに嬉しいんだな。知らなかった。


「……ゆのの時は、」
「ゆの?だれ」
「あ、ごめん。元カノの時は、俺ばっか写真撮ってた」


美味しかったお菓子とかアイスの当たり棒とか。良いこと嬉しかったことって、共有したくなるんだよな。
まぁ、向こうがそれを返してくれることはなかったんだけれど。

……今まで、ただ俺が一緒にいたくて喜ぶ顔が見たくて、それだけだった。良いことが巡りめぐって返ってこなくたってよかった。

でも、きっと自分の中でわかってた。ゆのの好きと俺の好きはちがう。たぶん俺は、ゆのに大事にされたことなんか、なかった。

振られた時に嫌でもそれがわかって、それもあって俺、泣いてたんだな。


「……先輩、なにしたいですか。先輩のしてほしいこと、なんでも叶えてあげる」


スマホをブラザーのポケットにしまって、「そんなことしなくていいよ」って言った。


「誰かになにかしてもらうのちょっと苦手っていうか。落ち着かないんだよね」
「じゃあ、慣れてください」
「え」
「言ったでしょ。俺のほうが幸せにできるって。俺、割と尽くしてあげたい派なんです」
「いやそれは俺もだよ」

「先輩は、俺に甘やかされてればいいですよ」


笑いかけてくれる志摩くんに、認めたくないけど心の深いところがじわっと暖かくなってくる。
俺のことを好きって思ってくれてたのは、恥ずかしいけどわかった。

でも、だからこそどうして?という気持ちも強くなる。

志摩くんは、どうして俺のことをそんな風に好いてくれるんだろう。