小さい頃から、親からよく言われてたことがある。『人には優しくすること。いつか巡りめぐって、自分にもいいことが返ってくるから』
そんなことを聞かされていたからか、自然と自分よりも相手を優先するような性格になっていた。困ってる人には声をかけていたし、落とし物は交番に届けた。いいことが返ってくるかどうかは重要じゃなくて、人からありがとうって言われることが嬉しかった。
「ずっ……」
そんな俺、遊川 桐、高校2年生。春、進級したばかりだというのに、彼女に振られました。
通学途中の電車の中で、声も出さずにボロボロ泣いてる奴なんて、たぶん日本中探しても俺だけだと思う。
元カノは、一年の時から付き合ってた子で、そりゃあもう可愛くて甘えん坊で、俺が幸せにする!って常日頃思っていたくらいには好きだったんだけど。
『うーん……桐くんすっごく優しくて好きなんだけど、優しいだけっていうか。飽きちゃったんだよね!』
向こうは、スパッと笑顔で別れられるくらいの気持ちだったらしい。
いやかなりへこんだ。へこんでいるからこそ、別れて三日経つのにまだ涙が出てくるわけで。
吊り革を掴む手に、無意識に力がこもる。
優しい人が好きって言ってなかった?もう俺にはチャンスない?
……とか、引き止めればよかったかな。そういうの言えない時点でって感じ?結局『わかった』で終わらせてしまったし。
あーもうだめ。思い出したら余計に涙止まらない。
学校の最寄駅に到着するアナウンスが響いて、ブレザーのポケットに手を突っ込んだ。
そろそろ涙拭かないと……こんな顔見せたらアイツにまた心配かけそうだし。
同じクラスの甲斐は、別れた日にファミレスに連れて行ってくれた。『奢るから飯食って元気出せ』って言ってくれて。マジでいい奴で涙出た。
泣いてる俺を見て『体中の水分飛んで蒸発しちゃうんじゃねぇの?』って心配もしてくれた。
これ以上友達に心配はかけたくない。
だから駅に着くまでに、こうやってハンカチで涙を拭うわけで……って、あれ。
ポケットにはなにも入っていない。
もしかして忘れた?やべ、こっちにも入ってないじゃん……。
「これ、使ってください」
「え」
突然隣から伸びてきた手と、肉球柄のハンカチ。え、なに、この柄……。なんでわざわざこれをチョイスした?
パッと顔をあげたら、同じ制服を着た男が俺のことを見ていた。
「うわ、かっけぇ……」
って、無意識に言ってしまうくらいには整った顔立ちをしている。背高いけど威圧感はなくて、むしろ雰囲気柔らかいっていうか。癖毛の髪とほんの少し垂れている目のせいかな。こんな目立つ奴、学校にいたっけ?
「はは。ありがとーございまーす」
俺の言葉に、ゆるーと目を細めて笑う男に瞬きを繰り返す。なんか、ふにゃーってしてる。肉球柄のハンカチ持ってるのも納得っつーか……。
……元カノのゆのも、こういう男だったら別れたいって言わなかっただろうな。だってそんくらいルックスがいい。あ、やべ、あいつのこと考えたらまた涙がっ!
「う、う〜……っ」
「えっ、なんでまた泣くの……」
困った様子で代わりに涙を拭いてくれる男に心の中でお礼を言った。格好良くて優しいなんて、出来過ぎだ。肉球ハンカチ、こんな奴の涙で濡らしてごめん。
「──ずっ、ごめん、ちょっと落ち着いた。ハンカチありがとう」
着いた駅のホーム、そのベンチに並んで座っている俺ら二人。「もう大丈夫?」って顔を覗き込むようにする肉球ハンカチくんになんとか頷く。
「はは。目ぇ真っ赤ー」
わはーと口を開けて笑う姿がなんか眩しい。イケメンの笑顔は罪深い。
「あれー?志摩くん、学校行かないのー?遅刻するよー」
「おはよー志摩。なにしてんの?」
学校の最寄駅ってことは、そりゃ同じ学校の奴らがたくさんいるのも当たり前なわけで。
なぜかベンチに座ったままの俺たちを、色んな奴らが不思議そうな目で見てくる。
そんな中で、肉球ハンカチくんは二分に一回は誰かしらに声をかけられてた。名前、「志摩」っていうのか。
「いま取り込み中だから先行っててー」
「なに、どしたのその人」
「その人って言っちゃだめでしょ。先輩だよ」
「げ、まじすか。すみません」
「っいや、いいよ、大丈夫」
むしろ醜態見せてごめん。
ぺこぺこ頭を下げてベンチから離れて行った男子生徒。ていうか……志摩くん、一年生なの?
「年上かと思った……」
「ざんねん。ピカピカ一年ですよ」
「見えないね、まじで。あ、おれ二年で……てか気まずい思いさせてごめん」
入学早々大号泣してる先輩と同じ電車とか最悪だよな。
「全然いーですよ。なんか嫌なことでもあったんですか?昨日も泣いてたでしょ」
「えっ、昨日もいたの」
「たぶん俺たち最寄り一緒ですもん。めっちゃ泣くなーって思って見てました。その時もハンカチ貸そうか迷ってたんですけど」
あははーと笑いながら背もたれに背中を預ける志摩くん。ゆ、ゆるいなこいつ。一応遅刻ギリギリなんだけど……。俺の話聞いてる余裕なんかないだろ。
「と、とにかく!まず学校行こうぜ。遅刻したらまずいでしょ」
鞄を肩にかけ直して立ちあがろうとする。
そんな俺を止めたのは志摩くんだ。「まだ大丈夫だよ」って、俺の腕を掴んできた。
「その顔なんとかしてからのほうがよくないですか」
「う、結構やばい顔してる?」
「んー、うん。こことかやばい」
すり、と志摩くんの親指が目尻に触れた。
「え」って驚く俺に、「なに?」って笑って聞いてくるから頭が混乱する。え、この距離普通なの?
志摩くんは、笑った顔とか雰囲気とか、全体的にゆるくて柔らかくて暖かいイメージなのに、指は冷たい。じ、と俺の目を見てくる志摩くんに、吸い込まれそうになる。
「なんで泣いてたの?教えて」
どこか強引な感じがするのは俺の気のせいなのか。
「……や、まじ恥ずかしいんだけど、彼女に振られて……」
「それって、ボブでふわふわした感じの女?」
「そうだけど」
「色白くて小さくて」
「そうそう、可愛くて甘えん坊でさぁ……って、なんで知ってんの!?」
「はは」と笑いながら指を離した志摩くんは、「最寄り一緒だって言ったじゃん」って、可笑しそうに続けた。
「何回か一緒にいるとこ見かけたことあるよ」
「げ、まじ?お家デートの時かな」
「先輩すげー笑顔で、幸せそうだなーって思ったの覚えてる」
クスクス、その時のことを思い出すかのように、志摩くんは笑ってた。
「……や、ていうか、よく俺だってわかったね?俺ら今日初めて話したのに」
「元々認知してました。先輩よく電車の中で席譲ったり落とし物届けてたりしてたでしょ。優しい人なんだなーってずっと見て思ってたから」
「……」
"優しい人"
その言葉が自分の中で引っかかった。志摩くんはきっと褒めてるつもりで言ってくれたんだろうけど、でも今の俺にとってはちょっと、しんどい。
「優しいだけじゃだめらしいよ」
優しいだけで良いんなら、たぶん俺は振られてない。泣くこともなかったし、初対面の後輩とベンチに座ることもなかった。
「飽きちゃうんだって。元カノにそう言われた」
ぎゅ、と手のひらを握りしめる。いいことが返ってくるかどうかはどうでもよかったけど、あまりにも酷すぎやしないか?神様。
柔らかい風が吹いて、駅のホームに桜の花びらが一枚舞い込んできた。ゆっくりと落ちていく花を目で追っていた時、志摩くんは言った。
「じゃあ、次の恋人俺にしませんか」
……はい?
桜の花びらが音も立てずにホームに舞い落ちた後も、俺は頭の中で志摩くんの言葉を繰り返してた。
次の恋人、俺にしませんか?って言ったの?志摩くんが?
バッと隣に座る志摩くんを見た。膝に頬杖をついて俺と目を合わせてくる志摩くんは、焦りも緊張もなさそうで。ずっと変わらずゆるゆるふやふやしてる。
冗談かどうかもわからない。
「え、っと、志摩くん俺のこと好きなの?」
「んーどうだろ。好き……なのかなぁ」
「うん。それたぶん好きじゃないと思うけど」
なんだ冗談かって一息つこうとしたのもつかの間。
「でも」と、志摩くんがほんの少し力強く言葉を発した。びっくりする。こんどはなに。
「先輩にはもう泣いてほしくないんですよ。馬鹿みたいに笑っててほしいです」
「ちょっと、馬鹿みたいにってなに……」
「俺だったら、元カノより先輩のこと笑顔にさせてあげられるっていうか」
「……」
「絶対、俺のほうが先輩のこと幸せにできますよ」
こんな、馬鹿みたいな、あやふやな告白そうそうない。告白って好きな人に好きって言う神聖な行為で、はははって口開けて笑いながら言うもんじゃない。
「先輩、もしOKしてくれるなら名前教えて。
俺は、先輩の優しいところ、ずっと前からいいなぁって思ってましたよ」
そもそも、ゆるくてふわふわしてて悪く言えば適当に見える男の言うことなんて、間に受けていいのか。
わからない。俺、騙されてる?信じていいわけ?
「ね。教えて」
ふやり笑う志摩くんに、俺は。
「…………遊川桐、です」
名前を教えてしまったのは、自分を拒まれることの辛さを知っているからなのか。それとも、ゆるくても真っ直ぐに伝えてくれた言葉に不覚にもぐらついてしまったからなのか。
春の風が、俺たちの前髪を小さく揺らしていく。
なんかもう、自分でもよくわからなかった。



