やはりというか、彼女が選んだ席はあの席だった。僕たちがいない間に埋まっていればいいものを、無意識に人間たちは避けるのか。混みだした店内の中であそこだけ未だ空席だった。

 星野さんは嬉しそうに腰掛けた。それは流石、僕が間違えてお冷やを差し出した女の霊がいる方に、である。ここまできたら引き下がれなくなってしまった僕は、女を見ないようにして向いに腰掛けた。

 星野さんのすぐ隣に女は俯いたままいる。僕はどきどきしながらメニューに視線を移す。平然を装うんだ。何も見えないふりをしろ、今までもそうやって生きてきたんだ。

「オススメはね、ドリア美味しいよ。あとハンバーグ」

「あ、うん……」

「ふふ、どうしたのやけに静かだね?」

「べ、べつに。そうだな、僕ハンバーグに……」

 そう話している時だった。まだ勤務中のノックがこちらに笑顔で近寄ってきたのだ。みるからに好奇心でたっぷりの顔だった。

「はいは〜い。二人とも急に仲良くなったんだね〜」

 ニヤニヤしながら僕の顔を見てくる。言ってやりたい、幽霊絡みに巻き込まれてるだけなんだこっちは。

 星野さんは笑いながらサラリと交わす。

「ちょっと共通の話題があって、私から誘ったの」

「へえー! うらやまし。はいではご注文をどうぞー」

 そう注文を取ろうとする彼に、僕は返答する。

「あ、いやまだ決まってないんだ、もう少し後で」

「え? じゃあなんの呼び出しだった?」

 キョトンとしてノックが言った。僕はその途端、彼がここに来たのはちょっかいをかけに来たわけではなく、呼び出しボタンの音を聞いて来たのだということを理解する。

 恐る恐るボタンを見た。ボタンはあの女のすぐ隣に配置されていた。

 彼女は俯いていてよく顔が見えなかったが、その時ようやく口元が小さく動いていることに気がついた。真っ白な唇が僅かに震えており、ほとんど空気のような声をかぼそくだしていたのだ。

「…………に…………な………て……………する…………」

 途切れ途切れにそんな言葉が聞こえて背筋に寒気が走った。慌てて視線を逸らす。案の定気づいていない星野さんは笑ってノックに言った。

「ええ? 呼んでないよ?」

「うそ、違った?」

「違う席じゃない? あ、そうだ。来たついでに、もう一つお冷やもらえる?」

 にこやかに言った彼女をギョッとして見た。まさかと思ったが、さすがは取り憑かれたい彼女である。ノックが持ってきたお冷やを、あの俯く女の前に置いたのだ。本当に視えてないんだよね? と聞きたいくらい完璧な位置だった。カラン、と涼しげな氷の音が響く。

 僕はただ青ざめた。視えてないフリしたいのに、これじゃあ全く逆だ。

「は、はは……星野さん、そのお水は」

 とりあえず何も気づいていないふりをして顔を引き攣らせて尋ねる。彼女は微笑んで首を傾げる。

「え? 別に深い意味なんてないよ。ふふ」

 意味深に微笑む彼女を見て、僕はもう何も言葉を返せなかった。星野さんを見ていると、自然と視界にあの女も入ってくる。どんなに見ないでおこうと思っても、勝手に入りこんでくるのだ。最悪だ、と心中で絶望する。

 とりあえず二人で夕飯を注文した。その間も、星野さんはどうでもいいテレビの話をし、女はブツブツ何かを言いながら俯いているだけだった。あまりにカオスな状況に失神してしまいたいと思った。

 しばらくして頼んだ料理が運ばれてくる。星野さんはドリア、僕はハンバーグだった。値段の割にボリュームも見た目もいいそれだが、あいにく今は食欲がほとんどない。

 ちらりと星野さんを見ると、彼女はすっとテーブルの奥に手を伸ばした。その腕が女の顔スレスレ前を通って行き、つい体を固めてしまった。もちろん星野さんは気づいていない。

 置かれているタバスコを手にし、彼女は平然と元に戻った。小さなキャップを開けると、それを逆さにしてドリアに振りかけた。いつまで振るんだ、と突っ込みたいほど延々とかけ続けた。

「…………に…………なん……て……り…………す……」

 はっとする。僕は慌ててナイフとフォークを取り出して、あからさまに嬉しい声を出した。

「美味しそう! いただきます!」

 じゅうじゅうといい音を立てているそれは本当に美味しそうだった。ただ、カットして口に運んでみるが、味も温度もイマイチよくわからなかった。もう心の中は慌てふためいているのだ。

 女の声が徐々に大きくなってきている。

 最初蚊の鳴くような声でほとんど聞こえなかったのに、今はそれより声のボリュームが上がっている。未だ何を言ってるかは聞き取れないが、聞いてはだめだと思った。聞こえてしまう前に自然とここから出て行きたかった。

 視えてると気づかれないように。自然に。僕はここから脱出せねば。