ほんの少しの量だが、束となってご丁寧に白い紐で結ばれている。長さは二十センチくらいだろうか。僕はスマホを持ったままただ停止した。

「ええ、なんだろう、前の住民のかな? それにしてはなんか綺麗な紐だねえ。昨日あんなに漁ったのに気づかなかったなんて。不思議」

「な……そ……」

「これも持って帰っちゃダメだよねえ?」

 目眩がするのを必死に足を踏ん張って堪えた。ざわざわと心臓が粟立つ。スマホを持つ手がカタカタと震えて光が揺れた。目の前の三面鏡に、自分の怯えてる顔が写っていた。そもそも、さっき引き出しを開けた時は何も無かったはずなのに……!

「なん、当たり前でしょう! ほ、星野さんすぐ置いて! かえ、帰るよ!」

「はあい」

 星野さんは残念そうに返事をすると引き出しにその髪の毛を戻す。その光景を見てほんの少しだけほっとした。鏡の中の自分も間抜けみたいに口元を緩めた。

「さ、じゃあ帰ろうか大山くん」

「うん、さあ早く……」

 くるりと方向転換をした時だ。ふと、あることに気がついたのだ。

 崩壊しそうなほどの古びた廃墟、底が抜けそうな階段、変色しているドレッサー、中が見えないほど汚い窓ガラス。どれもこれも時間の経過を感じさせる代物なのに、

 三面鏡だけなぜ綺麗なんだ??

 僕はゆっくり振り返る。ずっと静かに僕達を見ていた鏡が目に入った。怯えた顔の自分が映り込む。

 そのすぐ隣に、僕の顔を覗き込む髪の長い女性がいた。緑色の肌にこぼれ落ちそうな目玉が目立っていた。唇はやたら真っ赤に塗られており、この暗い部屋でその色だけが浮いていた。

「…………!!」

「じゃあ帰ろうかー」

 そう言いながら星野さんは何事もないように出口へ進んでいく。すると女はくるりと彼女の方を向き、その背中を追い出したのだ。すーーっとした動きで、星野さんと距離を詰めていく。

 あ、いけない、ついてくる!

 そう瞬時に思った僕は急いで前を歩く星野さんの手首を掴んだ。そしてすぐ背後にいる女に、とりあえず必死に念を込めて思い切り睨みを効かせてみた。こう表現すればかなりかっこよく決まったように思えるかもしれないが、生憎足はガクガクで踊り出しそうなくらいだった。

 女は僕と目が合うとピタリと動きを止めた。恨めしそうにじいっと僕達を眺める。真っ赤な口紅の下にある唇のシワまで見える距離だった。その隙に、星野さんの手首を引いてすぐさまそこから離れた。階段の床が抜けることも気にしてる暇なんてなく、一気に駆け降りていく。

 慌てて開けっ放しだった玄関から飛び出す。そのまま振り返ることもせず、車へ飛び乗った。

「ね、もしかしてなんかいた?」

「いいから早く出して!」

 のほほんとした彼女に懇願した。星野さんは素直に従った。映画じゃエンジンがかからない……なんて展開になりそうなものだが、案外スムーズにエンジンはかかった。

 車がゆっくり発車する。最後に一度だけ振り返ると、あの廃墟の前に女が立っていた。

 それどころか、中が見えないはずの全ての窓ガラスから、いろんな人がこちらを見つめていた。





「ねえ。なんかいた? いたの? 私、取り憑かれた?」

 ハンドルを切りながら星野さんは何度も僕にそう尋ねた。僕はもうぐったりしたまま無視した。

 目を閉じたまま疲れはてた体と精神を癒す。とんでもない目に遭ってしまった。こういう経験を避けるために今までずっと静かに暮らしてきたというのに。こんなわけのわからない人のせいで。

 ばあちゃん、見えないフリなんてできなかった。だってあれ、ついてくる気満々だったよ。

 返事をしない僕に諦めたのか、星野さんは黙った。僕はただシートに身を任せて目を閉じていた。

 しばらく車に揺られていると、それがゆっくり停車した。うとうとし始めていた僕はぼんやりと目を開ける。やっぱりああいう奴らを蹴散らすのには結構力がいる。

 起きようとしてもなかなか起きれなかった。星野さんも何もいわないので、そのまま睡魔に負けてしまいそうだった。

「大山くん」

 柔らかな声が聞こえる。

「大丈夫?」

 いいかげん起きねば、と自分に言い聞かせた。そこでようやく目を開けた。フロントガラスから見えるのは明るいライトたち。行き交う車の音も聞こえる。それだけで安心感を抱けた。

「あ、ごめ、ん。寝てた」

 そう呟いて体を起こした時、足元にブランケットがかかっているのに気がついた。気が付かない間に星野さんがかけてくれていたのだろうか。

「ごめんね遅くまで付き合わせちゃって。はい」

 隣からすっと缶コーヒーが差し出された。受け取るとひんやり冷たい感触が伝わる。僕が眠りこけている間に買ってきてくれたのだろうか。この子、変人だけど悪い子じゃないのかな。喫茶店のマスターもそう言ってたけど。

「家まで送るから、道教えて」

「ああ……うんありが」

 そう言いかけて隣を見た時だった。

 彼女の真っ黒な顔はもう普通の人間に戻っていた。やはりあの櫛をちゃんと返したからか、僕が女を追い払ったからか。いや、そんなことはどうでもよかった。

「え、え、ええ??」

 情けない声が喉から漏れる。目の前にいたのはびっくりするくらい美しい女の子だったからだ。

 白い肌は陶器のようだった。色素の薄い瞳に長いまつげ。薄めの唇はほんのり桃色。まるで漫画から飛び出してきたような絶世の美少女だった。

「え、あ、星野さん??」

「どうしたの?」

 聞き慣れた声だ。ニコリと笑うとこっちは飛び跳ねてしまいそうなほど可愛らしい。

 嘘だ、まさか。あの黒い顔の下はこんな子だったなんて。

 もしかしてノックが言っていた『星野に話しかけるとか勇者じゃん』ってセリフ、まさかこういう意味? 確かに普段の生活だったら、絶対に話しかける勇気の出ない相手だった。情けなくも僕は見惚れて声も出ない。

「櫛返したけど、これで私死ななくてすみそう?」

「あ、は、はい、多分大丈夫」

「ふふ、なんで急に敬語なの? そっかあ、取り憑かれたいけど死なない程度がいいの。難しいかなあそれくらいのレベル」

 星野さんは笑いながら自分のために買ってきたらしい紅茶を飲んだ。そんななんでもない動作すら美しく見惚れる。

 まさか取り憑かれたいなんていう最高の変人が、こんな美少女……?

「それで、ねえ。大山くん、何が見えたのかな?」

「えっ」

「だって絶対なんか見たでしょ。櫛返した後急に私の手を取って走り出したし。教えて、お願い、教えて!」

「いや、嫌な感じがしただけでみてないから、ほんとにみてないから!」

 慌てて否定すると、星野さんはつまらなそうに口を尖らせる。視えた、そして追い払ったなんてことは言わない方がいい気がした。

「そう……感じるだけでも羨ましい。私何にもだったし。見てみたいな幽霊」

「感じなかったの? あれ?」

「うん全然」

 顔が真っ黒になるくらいだったのに。あんなにピッタリ女が背後にくっついてたのに。どうやら鈍感さはピカイチらしい。

 僕は何も答えずにコーヒーを開けて飲んだ。でもまあ、今回は無事に終わって何よりだ。失敗したらと思うとゾッとする。

「さて。じゃあとりあえず帰る? それとも違う心霊スポット行ってみる?」

「帰ります」

「残念」

 星野さんは本当に残念そうに言った。その横顔をみて心底呆れる。あの髪の毛を持ち帰ろうとしてたし、こんなに綺麗な子なのに本当に変人なんだな。

 ポケットから小袋を取り出して鷹の爪を齧りだした彼女を横目で見ながら、本当にもったいない、と心の中でつぶやいた。


 こうして僕と彼女の出会いの話は終わりを告げる。

 でも、この顔はいいのに度を超えたオカルト好きの星野美琴には、これから先も色んな事件に巻き込まれる羽目になる。

 その話はまた今度……ということで。