「……あのさ、星野さん」

「なに?」

「あ、いやーなんにも」

 あの横断歩道を渡る羽目になるが、彼女には何も言わなかった。言ってもこの人はびっくりするぐらい鈍感で何も感じないタイプなのだ。あそこに男の霊がいるだなんて言っても喜ばせて終わるだけ。

 僕は黙って星野さんの歩幅に合わせて歩みを進めていく。この前会った時も有害そうな霊じゃなかったし。見えないふりをしていれば大丈夫だ。

 そう心の中で自分を納得させ地面を踏みしめていると、隣にいた星野さんが言った。

「ねえ大山くん」

「え、なに?」

「少しだけ寄り道していいかな」

 彼女がそう囁いた時、目の前にあの交差点が見えてきた。

 暗い夜、人通りはそこそこ。車が水飛沫を上げながら隣を通っていく。そんな中、一つだけ微動だにしない影が見えた。

 どきんと胸が鳴る。やはり、そこに立っていたのは三日前に見たあの人だった。

(まだいたのか……)

 彼は僕が前見たのと全く同じ格好でそこにいた。周りの人たちは誰一人気づいていないようで、おしゃべりしながら楽しそうに歩いたり音楽を聴きながら素通りする人たちばかりだ。彼は無表情でどこか一点をじっと見つめていた。

 僕だけが、あの男の人に気づいている。

 星野さんとそのまま近寄っていく。なんせあの交差点を渡らねばならないので仕方ない。僕はなるべく見ないように心がけて進んでいく。

 ついにあの横断歩道にたどり着いた時だった。星野さんが突然僕の方を見上げたのだ。

「大山くん」

「え、な、なに?」

「ここにちょっとだけ寄り道」

 彼女が指さした場所をみて一瞬言葉を失った。あの男が佇む足もとにある、献花が供えてある場所だった。花たちは雨に濡れているもののその小さな美しさを保っていた。

 僕は返事を返さなかったが、星野さんがそちらに進んでいく。慌てて彼女が濡れないように傘を持って追いかけた。星野さんは男性の前までくると、おもむろに持っていた鞄を漁った。

 中から出てきたのは缶コーヒーだった。

「ほ、星野さん、それ」

 僕が言うと、振り返った彼女は微笑む。

「一週間くらい前、ここで轢き逃げ事故があったの」

「あ、ああ……ニュースで見たかも」

「まだ犯人捕まってないんですって。悲しいね」

 彼女はそういうと、ゆっくりしゃがみ込んで缶コーヒーを供えた。それはちょうど男の右の革靴の目の前だった。星野さんはそのまま両手を合わせる。
 
 何か言いかけたが僕は黙った。思えば、誰かを悼んで手を合わせることは決してダメなことじゃない。むしろそういう気持ちは大事なことだ。まあ星野さんの場合もしかして変な目的があるのかもと思ってしまうが、行動自体は咎められることじゃない。

 みんな供えてある花たちを素通りする中、そこに祈る星野さんを珍しそうな顔で見ていた。僕はただ彼女が雨に濡れないよう、黙って傘を傾け続けた。

 立っている男は何も変化しなかった。一ミリも視線を動かすことなく、肩を落としたままでいる。

 ここにとどまってどうなるのか、とぼんやり思った。

 自分が死んだ場所。彼にとってはもっと思い出深い場所も人もいるだろうに、こんな交差点にとらわれている。それはとても悲しいことで、不憫だと思った。

 僕はなるべく自然を装って目線をずらし、あの男性を盗み見る。まだ若そうな外見。色の無い目だが、心の中でどうおもってるのかな。自分が死んだこと気づいているんだろうか。

 しばらくした後星野さんが無言で立ち上がる。彼女の靴は雨でぐっしょり濡れていた。

 じっと缶コーヒーを見つめたまま言う。

「趣味なのよね。事故現場とかに献花するの」

「……趣味って言うと一気にやな感じになるね……でも、そういう行為は別に取り憑かれないと思うよ」

「わかってる。これは憑かれるのが目的じゃないの。亡くなった方は本当に不憫だと思うし面白がってるわけじゃない。
 ただ、私がこうして手を合わせているとき、本当は目の前にその人が立っているのかも……って考えるだけで、ゾクゾクするの」

 ぎくり、とした。うっとりとそう言う彼女の目の前には、確かに男性が立っている。
 
 これを面白がってるわけじゃない、と言うのは無理があるんじゃないだろうか。僕は無駄に咳払いをした。

 目の端に映る男性を確認するが、特に怒ってる様子などは見られない。僕は少し声を大きくして彼女に注意した。

「それは面白がってるって言うんだよ。不謹慎だからやめ」

「あとね。この事故みたいに未解決の事件だと、もしかして犯人が戻ってきてて、すぐそばに立ってるんじゃないかって思っちゃって。犯人は現場に戻るって言うじゃない。
 だから、やめられないのよね」

 足元の花を眺めながら、星野さんはそう呟いた。

 僕は黙り込んだ。果たしてどう返答すればいいのかわからない。でも、あの男の人の目の前でこんなことを言い出す彼女をどうにかして止めなきゃとは思ったが、声が出てこないのだ。

 雨は少し弱まっていた。大粒だった水はサラサラと小雨に変わっている。地面を打つ雨音もだいぶ小さくなっていた。

 そんなとき、突然僕たちの足元に何かが放られたのに気がつく。小さなものだったが、先端が赤く光っている。

 それはちょうど手向けられている白い花びらに落ちた。あっと自分の喉から声が漏れる。吸いかけのタバコだったのだ。

 火が移ってしまっては燃え上がるかもしれない。そう慌てた僕だが、瞬時に黒い靴が花ごとそれを踏み潰した。ぐしゃり、と音を立てて花達が潰される。黒い靴は念入りにぐりぐりと容赦なく花束を踏みしめていく。

 僕は唖然と隣の星野さんを見た。彼女は冷たい目で自分の黒い靴を見下ろしている。そしてようやく足を上げると、ペシャンコにつぶれたタバコの吸い殻をそっと指でつまみ上げた。

 じっとタバコを見つめる。僕は下にあるぐしゃぐしゃの花たちを見た。幸い、火は燃え移らなかったようだ。雨だったのと、すぐに星野さんが踏み潰したおかげ。

 だが黙っていた星野さんが突然、勢いよく右を向いた。そしてちょうど信号待ちで並んでいる人たちの中から、躊躇なく一人の若者の腕を掴んだのだ。

「!? 星野さん!?」

 腕を掴まれたのは二十代半ばくらいの普通の青年だった。びっくりした顔で星野さんの顔を見ている。

 彼女は無表情で青年の顔をじっと見て言った。

「ねえ」

「え、な、なに」

「これ。落としましたよ」

 星野さんは短く告げると、持っていた吸殻を青年の手のひらに置いた。青年は唖然とした顔で、吸殻と星野さんの顔を交互に見ている。

「は、はあ?」

「ゴミはゴミ箱に、ね」

 ニコリともせず星野さんは言い切った。小雨が彼女の髪に小さな水の玉をつけている。青年は唇を震わせて何も答えない。

 そのときちょうど信号が青信号に変わった。青年と星野さんを残し、人々は横断歩道を歩き出す。僕はどうしていいかわからず、とりあえず彼女に声をかけようと思ったときだ。

 ふと横を見ると、あのサラリーマンがいなくなっていた。

……あれ? ずっと微動だにしなかったのに?

 そう不思議に思った瞬間、自分の耳が変な音を感じ取った。それはズズズっと何かが這うような音だった。その音の方に顔を向けると、星野さん達が立っている場所だった。

 男はいつのまにか青年の背後に立っていた。その顔を見て、持っていた傘を落としそうになる。ずっと無表情だった男の顔は、口の端が異様なほど広がり笑っていた。
 
 目は眼球がこぼれ落ちそうなほど見開かれ、白目が血走っていた。そして彼は骨の存在を無視するような動きで両手をあげ、青年の肩にそれを掛けた。もちろん、青年は何も気が付いていない。

 そのまま強く青年を締めた。決して離してなるものか、という気持ちが伝わってくるように思える。そして青年の肩に顔を乗せると、大声で笑った。

 あはは、ははははは、あははははははははは

 僕にしか聞こえない笑い声が、辺りに響き渡る。

 顔を揺らして笑い続ける男を、僕は何も出来ずに見つめたままでいた。あの青年は確実に憑かれただろうけど、ここまでしがみつかれては睨んで怯ませてももう逃げられない。何も出来ないのが申し訳ないが、もう僕にはどうしようもできなかった。

 霊が、人に取り憑く瞬間を、初めて見た。

 ごくりと唾を嚥下した。自分の手が震えているのがわかる。

 ただ立っていただけの彼が突然豹変し人に取り憑いたこと。その光景はあまりにショッキングだった。

「な、なんだよ、変な女!」

 ずっと黙っていた青年は、そこで初めて声を出して星野さんの腕を払った。そして僕たちに強く睨みつけると、もうチカチカ点滅し始めた青信号に向かって走り去ってしまった。

 背後に、大きなものを背負ったまま。

 その背中を見送った後、僕はようやく星野さんに近づいて傘を差し出した。彼女には全く視えていないだろう。そう思って彼女の顔を覗き込んだとき、ぎょっとして少したじろいだ。

 星野さんは一人で笑っていた。もう見えなくなってしまった青年の方をみたまま、一人でふふふっと楽しそうに笑っていたのだ。

「……ほ、星野さん?」

「え?」

「な、なに笑ってるの」

 僕が問いかけると、彼女はようやくこちらを見る。その顔は光悦の表情にも見えた。

「だって、あの人」

「え? さっきのタバコ捨てた人?」

「うん。あの人……」

 そう呟いてまたふふふっと笑う。僕は何がなんだかわからず、混乱した。何をそんなに楽しそうなんだ、ポイ捨てを注意されて戸惑ってる様子が面白かったのだろうか。

「何?」

「ううん……多分、そのうち分かる」

 それだけ言うと、星野さんは勝手に歩き出した。僕は慌てて傘を彼女の頭上にキープしながら追いかける。

「て、いうか……あの人が捨てたってなんでわかったの?」

「え?ああ……。
 私ね、幽霊は視る能力はないけど。人間を見る目はあるつもりよ」

 彼女は含みを持たせた言い方でそれだけ言って、あとはこたえなかった。きっと言うつもりがないんだと思って僕は諦めた。

 その後は黙って二人でマンションまで歩き、あとはただ解散しただけ。何もなかったように、星野さんはにこやかに手を振って僕とさよならを交わした。

 あんな壮絶なものをみなくて済むなんて、羨ましいな……なんて思っていた。





 それから二日後、ニュースであの轢き逃げ事件の犯人が捕まったと報道があった。僕は自分のボロアパートでそれを見ていて、次の瞬間全身が固まった。

 出てきた犯人の顔写真は、あの青年だった。

 その上、あの轢き逃げは故意によるものだった可能性も出てきているらしく、そうなれば事故ではなく殺人だということになる。

 最後に笑って取り憑いた彼の姿を思い出した。突然豹変して高らかに笑った理由をようやく知る。自分を殺した人間をようやく見つけることができたのか……。

 なんだかモヤモヤした気分のままバイトへ向かうと、星野さんが働いていた。彼女は僕の顔を見るなり、嬉しそうに笑って『ね?』とだけ言った。僕は詳しく聞こうとしたのに、客に呼び出された星野さんはそのままホールに出てしまいきくタイミングを失った。

 星野さんは、あの青年が轢き逃げの犯人って知っていたんだろうか。だとしたらなぜ? 実は事故を目撃していたんだろうか。わからないことだらけだった。

 彼女は未だに、何も教えてくれない。