「いない? やっぱり?」

 ノックが不安げに尋ねてきた。僕は頷く。

「うん、何も見えなかった」

「やっぱり、かあ……でもインターホン鳴ったのは二人とも聞こえたもんな? 俺の幻聴とかじゃないよね?」

 僕と星野さんを交互に見ながらノックがすがるように言った。僕は力強く肯定する。

「うん、ちゃんと聞こえたよ。ノックだけじゃない」

「私も」

「そ、っかあ……。そうだよね。やっぱこうなると、お祓いとかした方がいいのかな……」

 はあーと大きくため息が漏れる。特に相手は見えなかったけれど、やっぱりこの現象はあまりにおかしい。僕が知ってるあのお寺でも紹介してあげようか。

 そう考えている時、静かだった星野さんが口を開いた。

「ううん、困ったね。いっそ次の訪問で出てみればいいじゃない」

 ぶっ飛んだことを言い出したため、僕とノックは同時に彼女を見た。涼しい顔で星野さんは続ける。

「ドア開けてみればいいのに」

 男二人は情けなくもふるふると無言で顔を横に振った。そんな恐ろしいことできるわけがない、一体何が起こるのか想像もつかないじゃないか。

 僕は静かに反論した。

「やめたほうがいいよ……何が起こるかわからないし」

「う、うん確かに。お祓いとか頼んだ方が確かじゃねえ?」

 僕たちの弱気な態度に、星野さんはやや不服そうな顔をした。だってそうだろう、取り憑かれたい彼女とはわけが違う。普通の人間は出来ないに決まってる。

 三人沈黙が流れた。ノックがなんとなくカーテンをずらして外を見てみると、夕日は沈んで気がつけばだいぶ薄暗くなってきていた。もう六時を回っているのだから、日が落ちるのも当然なのだ。

 星野さんは一人じっと考え込むようにして立っていた。

「まあ……でも、二人が来てくれたおかげで、俺の頭がおかしいってわけじゃないことがわかったよ。機械の故障でもないんだし、やっぱり霊障的なことなのかなって思うから、どっかお祓いでも頼んでみる」

 ノックが小声で言った。僕は頷く。

「まあ、それがいいと思うよ」

「俺そういうことあんまり信じてないタイプだったんだけど……てゆうかお祓いって、金ないんだけどなあ。親に言って信じて貰えるかな」

「う、うーん……話だけじゃ信じないかもね……」

「じゃあ親に来てもらうってこと? うち実家遠いんだよ。すぐに来れないと思うし、そもそもこんな話で来てくれるのかも……それまでこの家で過ごさなきゃなのか」

「うちでよかったら泊まってっていいよ、狭いしボロいけど」

「え、ほんとにいいの?」

 僕たち二人が話を進めている時だ。ずっと黙っていた星野さんがふと動き出したのだ。

 彼女は静かにしているインターホンの前に移動した。そして迷う素振りもなく、細い指を出してインターホンをつけたのである。カメラ画面がピッと音をたてて付いた。

「! ほ、星野さん!」

 僕が慌てて声を掛ける。当の本人はケロッとした顔で答えた。

「まだ次の訪問の七時よりずっと前だし、これモニターよ。こっちの声は聞こえないから。外見るだけ」

「と、とは言ってもさあ……」

 つまりは、こちらから向こうを見るだけの機能というわけだ。星野さんの指先の向こうから、機械を通した雑音がわずかに聞こえてくる。彼女はそれを覗き込んでじっと観察している。

 彼女の好奇心の強さに呆れながら、僕は止めようと足を動かした。まあ時刻を見ても今は大丈夫な時だろうが、あまり余計な動きはしない方がいい、そう忠告しようとして。

「星野さ」

 声をかけた時だ。

 彼女のそばにあるモニター画面が視界に入る。先ほど僕がドアスコープを覗いた時より一気に周辺が暗くなっているのがわかった。そこに何かが映り込んだことに気づいたのだ。

 ついそちらに目を奪われる。画面右側からゆっくり誰かが現れた。荒い画質で、それでいて酷く俯いているため顔はよくわからなかったが、着物を着ている女性のようだった。

 彼女は非常に遅い歩き方で家の前を横切っていく。色は鮮明に見えないのだが、着物は黒のようだった。髪はひとまとめにされているようで、うなじが見えた。

(喪服、か……?)

 そう、女性が着ているのは喪服のようだった。現代ではなかなか珍しくなっているかもしれない。なぜわかったかというと、帯までもが真っ黒だったからだ。

 でも別に珍しい光景じゃない。同じ階の住民が、喪服を着てどこかへ出掛けていく。それは特別な場面ではないのだ。

「大山くん? どうしたの?」

「え、いや、別に」

 そう返事を返したとき。僕はまた新たなものを見つけた。

 喪服の女性の背後からもう一人喪服を着た人が現れた。その人も女性で、同じように酷く俯いたままゆっくりゆっくり移動していた。二人を見たとき、自分の体に寒気が走ったのに気がつく。突如頭の奥底から警報が鳴り響いた。

 あれ、ちょっと待ってほしい。もしかして、この人たち。

 そう僕が画面に注目していると、三人目の人が現れた。またしても着物喪服、そして異様に俯いている。喪服を身に纏った人間が、こんな小さなアパートで行列を作って歩いているのだ。次から次へと人は現れ画面の中で静かに横切っていく。会話をするわけでも、横に並んで歩くこともせず、ただ一列になって無言で移動している。僕はそれを見つめたまま二、三歩後退した。

 星野さんが不思議そうに見てくる。

「大山くん?」

「と、止めて……星野さん」

「え?」

「す、すぐに止め」

 僕がそう言いかけている途中だった。背後にいたノックが突然大きな声をあげたのだ。

「な、なんだこれ、なんか変じゃないか!!?」

 驚きで振り返る。ノックはモニターの画面を指差しながら顔面蒼白で震えていた。この葬儀の行列が彼には見えているらしい。多分、星野さんは気がついていないのだが。

「の、ノック」

「や、やばいよこれえ!!」

 そう彼が叫んだ、直後だ。

 モニターの中で部屋の目の前を歩いている列がピタリと止まった。

 はっとしてそちらを注目する。首を垂らして俯いていた一人の女性が、緩慢な動きで首をこちらへ向けた。それはぐにゃりと擬音を立てそうな角度で、首周りに出来た皺が異常さを物語っていた。

「! ノック、黙って!」

 僕は声を顰めながら注意した。これはモニターになっているのでこちらの声がマイクを通してあちらに聞こえることはない。だが、こんな小さな部屋で大きな音を出せば玄関の扉一枚通り越して向こうに聞こえてしまうかもしれないと思ったのだ。

 だが僕の忠告はもう遅かった。画面の中の女は、体をこちらへ向き直らせていた。そのときようやく顔が見えた。それはかなり年を取ったであろう老婆だった。

 画面が粗くほぼ白黒のような世界で、彼女の顔はやけにはっきり見えた。老婆は満面の笑みでこちらをみていた。かなり深い皺たち、まとめてはいるものの乱れ毛も多い髪、そして半分ほど抜け落ちた歯。彼女はただただ嬉しそうに、画面いっぱいになるくらい顔を寄せてきたのだ。


 ピンポーン


 六時十八分。インターホンが鳴った。

 どっと全身に汗をかく。ひゅーと自分の喉から変な音をたてて息が漏れた。画面の中で瞬きもせずにこちらを見つめる老婆は、あまりに恐怖だった。

「な、ななななんだよこいつ! やばいって、おかしいって!!」

 ノックはパニックになったように叫んだ。僕は慌ててそんな彼を止める。

「ノック、静かにし」

「やばいって、どうしよう!! これマジなやつだって!」

 狼狽えるノックの横で、星野さんだけはキョトンとしていた。まさかこの人、これが見えていないのだろうか。鈍感もここまでくると天才を感じさせる。


 ピンポーン


 再びチャイムが鳴る。びくんと自分の体が跳ねたとき、モニター越しにしゃがれた声が聞こえてきた。機械を通しているからか、それとも元々の声質なのか、低くて不愉快な声だった。