「…………あの?」
その様子についのけぞる。強い眼光に引いてしまった。何か言ってはいけないことを言っただろうか。子育てしてる人には地雷だったとか? 褒めてしかないつもりなんだが……。
だが、次の瞬間彼女はにま〜っと笑った。それはそれは嬉しそうで、どこか卑しさを感じるような不思議な笑みだった。今までとは違った光景についたじろぐ。
「そう、そうか。そんなに可愛かった?」
「え、ええ、まあ……」
「抱っこしてあげて」
「い、いやでも寝てますし」
「大丈夫、大丈夫。起きてもまた散歩行けば寝るんだからこの子は」
僕の返事も聞かずおばさんは赤ちゃんのブランケットをとった。そしてそうっと優しく赤ちゃんを抱き抱える。幸い寝ているまま起きそうな素振りはなかった。
「ほら、ね。抱っこしてあげて」
正直、赤ちゃんは可愛いがこのおばさんの様子がなんだか怖い。それにまず知らない赤ちゃんを抱っこすること自体怖い。あまり抱き慣れていないし。
それでもおばさんからは絶対に引かない、という確たる強い意思が見えた。僕は迷った挙句、恐る恐る腕をさしだした。
「僕、赤ちゃんなんか抱っこしたことなくて……」
「大丈夫、その腕のままいればいいから」
僕が構えたところに、おばさんが赤ちゃんをストンと埋めた。こんな小さな子を抱っこしたのは生まれて初めてのことだった。
氷のように冷たかった。
それは驚きで落としてしまうんじゃないかと思うほど。
前腕に伝わる冷たさはひんやり、なんてものじゃなかった。氷を当てられたほどの温度で、僕はそのまま停止した。
それでも腕の中にいる赤ちゃんはすやすや眠っている。微かに呼吸の音が聞こえてくるし、胸元は小さく上下している。ちゃんと寝ている、寝ているんだ。
「あ、の? こ、この子」
戸惑った僕がおばさんに話しかけようとした時。すぐ至近距離におばさんの顔が近づいてきた。
ニマニマと笑いながら困っている僕の顔をじっと見つめている。ファンデーションが埋もれている毛穴すら見えてしまうほどの距離で、鼻からふーっふーっと荒い息が聞こえてくる。それでも赤ん坊が腕にいるので逃げることすらできず、僕はただ固まっているしかできなかった。
「そう、そう……ふふふふふ、お兄さんありがと。ありがとね」
どれくらい時間が流れただろうか。おばさんはそう言うと僕からそうっと赤ちゃんを取って再びベビーカーに乗せた。抱いていた腕の形から直す気力すらなく、僕は両腕を垂直に曲げたまま呆然としていた。
丁寧にブランケットをかけ直すと、おばさんは星野さんに言った。
「お姉さん、ありがとね。また会ったら声かけてね」
「ええ、さようなら」
おばさんは僕たちに頭を下げると、再びベビーカーを押して坂道をゆっくりと登り始めた。星野さんと二人無言でその背中を見つめる。
真っ赤の洋服が目には眩しすぎる、と思った。
「……星野さん、どういうこと」
だいぶ経ってから、僕はようやく彼女に恨みの台詞を投げつけた。
赤いおばさんはもう見えなくなっていた。誰もいなくなった坂道の途中で、僕と星野さんのみ残された。
確かに全身赤いおばさんはいたけど、ぬいぐるみだなんて嘘だった。それが笑うだとかも。あの赤ちゃんはなんか変だったけど、それでもぬいぐるみじゃないことは確かだ。
「え?」
「なんで僕を騙したの。なんか試したかったの?」
オカルトマニアの考えはよくわからない。星野さんはいつものように微笑みながら僕に説明……
しなかった。
彼女はキョトン、と目を丸くしてこちらを見たのだ。
「え、騙したって?」
「とぼけないでよ、ぬいぐるみのこと!」
「ああ、大山くんが抱っこするなんて意外だった。私も抱っこしたことないのに、よっぽど気に入られたのね」
「気に入られたのかどうか知らないけどさ。なんのためにあんな嘘ついたの。あの赤ちゃんなんか変だったし、関係あるの?」
僕が捲し立てる。だが、意外にも星野さんは未だに不思議そうにこちらを見ているだけだ。
「え、変だったって?」
「やたら冷たかったし! 未だに腕が冷たい気がする……」
「冷たかったの?」
「氷みたいにね」
「と、ゆうか不思議だなって思ったの。
あのぬいぐるみ、まつ毛もないし二重でもなくない?」
彼女とまるで会話が噛み合っていないことに、僕はようやく気がついた。
今聞いた言葉が理解しきれなくて、ただ唖然と彼女を見つめた。星野さんはふざけてる様子もなく、僕を見ている。
待って、くれ。
ガクガクと全身に震えが走る。さっき抱いた両腕を見つめる。冷たかったけど、あの重さ、感触。絶対に赤ちゃんだった。
「ぬい、ぐるみ?」
「そうよ。よくある布でできたぬいぐるみ。手作りぽぽいわよね、あのおばさんが作ったのかな」
「ま、待ってほしい。さっきベビーカーに乗ってたのぬいぐるみ?」
「え? 大山くん、何言ってるの? ぬいぐるみを随分大事そうに抱っこするんだなあって感心してたの」
あのおばさんが嬉しそうに笑って僕の顔を観察していた光景を思い出す。抱っこした感触を忘れたくて、僕は意味もなく腕を必死に擦った。
あれは僕にしか、いや、僕とおばさんしか見えてない?
他の人にはぬいぐるみに見てるのか? なぜ? どうしてそんなことが?
ベビーカーに話しかける様子を思い出す。とても幸せそうに、嬉しそうにしているおばさん。
もし自分の愛する子供を亡くしたら
精神を病むか、前を向くか、
——蘇らせようとするか
「大山くんどうしたの? なんか見えたの? ぬいぐるみ、笑ってた!?」
嬉しそうに聞いてくる星野美琴に、真実なんて到底話せそうになかった。
今起きた摩訶不思議な現象を。答えも何もない、あの出来事を。
なぜあんな現象が起きているのかはわからない。おばさんが子供を蘇らせようと試みたのか、はたまた何かが取り憑いているのか、真実は闇だ。
それでも、きっと彼女はこれから先も幸せそうにあの子を育てるんだ。人から見たら生きてるはずもない冷たいぬいぐるみを。
それが本当に幸せと呼べるのか……僕の人生経験は浅くてまだ分からない。
あの冷えた赤ん坊より、僕はただおばさんが怖かった。
嬉しそうに至近距離でこちらの顔を見てくるあの顔。正気か、狂ってるのかすら分からない。
その様子についのけぞる。強い眼光に引いてしまった。何か言ってはいけないことを言っただろうか。子育てしてる人には地雷だったとか? 褒めてしかないつもりなんだが……。
だが、次の瞬間彼女はにま〜っと笑った。それはそれは嬉しそうで、どこか卑しさを感じるような不思議な笑みだった。今までとは違った光景についたじろぐ。
「そう、そうか。そんなに可愛かった?」
「え、ええ、まあ……」
「抱っこしてあげて」
「い、いやでも寝てますし」
「大丈夫、大丈夫。起きてもまた散歩行けば寝るんだからこの子は」
僕の返事も聞かずおばさんは赤ちゃんのブランケットをとった。そしてそうっと優しく赤ちゃんを抱き抱える。幸い寝ているまま起きそうな素振りはなかった。
「ほら、ね。抱っこしてあげて」
正直、赤ちゃんは可愛いがこのおばさんの様子がなんだか怖い。それにまず知らない赤ちゃんを抱っこすること自体怖い。あまり抱き慣れていないし。
それでもおばさんからは絶対に引かない、という確たる強い意思が見えた。僕は迷った挙句、恐る恐る腕をさしだした。
「僕、赤ちゃんなんか抱っこしたことなくて……」
「大丈夫、その腕のままいればいいから」
僕が構えたところに、おばさんが赤ちゃんをストンと埋めた。こんな小さな子を抱っこしたのは生まれて初めてのことだった。
氷のように冷たかった。
それは驚きで落としてしまうんじゃないかと思うほど。
前腕に伝わる冷たさはひんやり、なんてものじゃなかった。氷を当てられたほどの温度で、僕はそのまま停止した。
それでも腕の中にいる赤ちゃんはすやすや眠っている。微かに呼吸の音が聞こえてくるし、胸元は小さく上下している。ちゃんと寝ている、寝ているんだ。
「あ、の? こ、この子」
戸惑った僕がおばさんに話しかけようとした時。すぐ至近距離におばさんの顔が近づいてきた。
ニマニマと笑いながら困っている僕の顔をじっと見つめている。ファンデーションが埋もれている毛穴すら見えてしまうほどの距離で、鼻からふーっふーっと荒い息が聞こえてくる。それでも赤ん坊が腕にいるので逃げることすらできず、僕はただ固まっているしかできなかった。
「そう、そう……ふふふふふ、お兄さんありがと。ありがとね」
どれくらい時間が流れただろうか。おばさんはそう言うと僕からそうっと赤ちゃんを取って再びベビーカーに乗せた。抱いていた腕の形から直す気力すらなく、僕は両腕を垂直に曲げたまま呆然としていた。
丁寧にブランケットをかけ直すと、おばさんは星野さんに言った。
「お姉さん、ありがとね。また会ったら声かけてね」
「ええ、さようなら」
おばさんは僕たちに頭を下げると、再びベビーカーを押して坂道をゆっくりと登り始めた。星野さんと二人無言でその背中を見つめる。
真っ赤の洋服が目には眩しすぎる、と思った。
「……星野さん、どういうこと」
だいぶ経ってから、僕はようやく彼女に恨みの台詞を投げつけた。
赤いおばさんはもう見えなくなっていた。誰もいなくなった坂道の途中で、僕と星野さんのみ残された。
確かに全身赤いおばさんはいたけど、ぬいぐるみだなんて嘘だった。それが笑うだとかも。あの赤ちゃんはなんか変だったけど、それでもぬいぐるみじゃないことは確かだ。
「え?」
「なんで僕を騙したの。なんか試したかったの?」
オカルトマニアの考えはよくわからない。星野さんはいつものように微笑みながら僕に説明……
しなかった。
彼女はキョトン、と目を丸くしてこちらを見たのだ。
「え、騙したって?」
「とぼけないでよ、ぬいぐるみのこと!」
「ああ、大山くんが抱っこするなんて意外だった。私も抱っこしたことないのに、よっぽど気に入られたのね」
「気に入られたのかどうか知らないけどさ。なんのためにあんな嘘ついたの。あの赤ちゃんなんか変だったし、関係あるの?」
僕が捲し立てる。だが、意外にも星野さんは未だに不思議そうにこちらを見ているだけだ。
「え、変だったって?」
「やたら冷たかったし! 未だに腕が冷たい気がする……」
「冷たかったの?」
「氷みたいにね」
「と、ゆうか不思議だなって思ったの。
あのぬいぐるみ、まつ毛もないし二重でもなくない?」
彼女とまるで会話が噛み合っていないことに、僕はようやく気がついた。
今聞いた言葉が理解しきれなくて、ただ唖然と彼女を見つめた。星野さんはふざけてる様子もなく、僕を見ている。
待って、くれ。
ガクガクと全身に震えが走る。さっき抱いた両腕を見つめる。冷たかったけど、あの重さ、感触。絶対に赤ちゃんだった。
「ぬい、ぐるみ?」
「そうよ。よくある布でできたぬいぐるみ。手作りぽぽいわよね、あのおばさんが作ったのかな」
「ま、待ってほしい。さっきベビーカーに乗ってたのぬいぐるみ?」
「え? 大山くん、何言ってるの? ぬいぐるみを随分大事そうに抱っこするんだなあって感心してたの」
あのおばさんが嬉しそうに笑って僕の顔を観察していた光景を思い出す。抱っこした感触を忘れたくて、僕は意味もなく腕を必死に擦った。
あれは僕にしか、いや、僕とおばさんしか見えてない?
他の人にはぬいぐるみに見てるのか? なぜ? どうしてそんなことが?
ベビーカーに話しかける様子を思い出す。とても幸せそうに、嬉しそうにしているおばさん。
もし自分の愛する子供を亡くしたら
精神を病むか、前を向くか、
——蘇らせようとするか
「大山くんどうしたの? なんか見えたの? ぬいぐるみ、笑ってた!?」
嬉しそうに聞いてくる星野美琴に、真実なんて到底話せそうになかった。
今起きた摩訶不思議な現象を。答えも何もない、あの出来事を。
なぜあんな現象が起きているのかはわからない。おばさんが子供を蘇らせようと試みたのか、はたまた何かが取り憑いているのか、真実は闇だ。
それでも、きっと彼女はこれから先も幸せそうにあの子を育てるんだ。人から見たら生きてるはずもない冷たいぬいぐるみを。
それが本当に幸せと呼べるのか……僕の人生経験は浅くてまだ分からない。
あの冷えた赤ん坊より、僕はただおばさんが怖かった。
嬉しそうに至近距離でこちらの顔を見てくるあの顔。正気か、狂ってるのかすら分からない。


