外に出て二人一緒に並んで大通りを歩き出した。彼女と歩くと普段より人目が気になる。みんな見惚れるように星野さんの顔を凝視していた。
当の本人はそんなこと慣れっこですとばかりに気にせず話す。
「ここの本屋さんって大きいしいいよね」
「そうだね。星野さんよく来るの?」
「うん、本好きなの」
「結構家近所だもんね、今まで会わなかったのが不思議か」
「それもそうだね。あ、こっち近道なの、知ってた?」
彼女はそっと右を指さした。細い下り坂が見える。特になんの変哲もない住宅街のようだった。僕は首を振った。
「まだ道あんまり知らなくて」
「そうなの。教えてあげる、来て」
星野さんはその下り坂に向かって歩き出した。僕も素直についていく。車二台すれ違うのがギリギリなぐらいの広さだった。
決して変な感じのする道などではなく、本当によくある住宅街。遠くから子供の遊び声が聞こえてくる平和な時間だった。
星野さんのゆったりとした歩調に合わせながら、気分良くその坂を下っていく。
「そうだ大山くん」
「何?」
「ベビーカーおばさん、知ってる?」
突然彼女はそんなことを言い出した。隣を見ると、涼しい顔で真っ直ぐ正面を見ながら歩く白い横顔がある。
「え、なに?」
「この道知らないならわからないよね。ベビーカーおばさん」
「ま、また心霊話……?」
「ううん、生きてるから安心して」
「え、生きてる人?」
どうせ幽霊の話だとばかり思っていた僕は予想外の言葉に驚いた。生きてる人で女性がベビーカー引いてるのは、普通の光景じゃないか。
「この坂道をよく通ってるの。年は四十すぎくらいかな。いつも全身真っ赤な服を着てるの」
なるほど、と心で思う。全身赤い色の服となれば確かにやや異質だ、噂になるのも仕方ない。でも僕はその理由が少し想像ついて、ちょっと得意げに言ってみた。
「赤ちゃんが最初に認識する色って赤とも言われてるんだよ! だからお母さん赤ばっかり着ちゃうんじゃない? 微笑ましい話だね」
そうだったの? 知らなかった! ……というセリフを期待して横をみたが、彼女は微笑んだまま何も答えなかった。風が吹いてその黒髪を巻き上げる。
「そうだね、そういう理由も考えられるね」
「で、でしょ?」
「でも、ベビーカーおばさんは出没し出してもう一年以上。とっくに赤ちゃんと呼べる年じゃなくなってるはずよ」
「……そう、なの」
「それに。一番肝心なところを言い忘れてた。
ベビーカーに乗ってるのは人間じゃなくて、ぬいぐるみよ。それをまるで本当の人間がいるように話しかけて散歩する。それが、ベビーカーおばさん」
星野さんがゆっくりとそう説明した。まだまだ続く下り坂を進みながら、僕は全身真っ赤な服の人がベビーカーを押している姿を想像した。
いい天気ね、赤ちゃん。気持ちいいわね、赤ちゃん。そうぬいぐるみに話しかけている姿を。
……確かに不気味ではある。噂にもなるだろう。近寄りたくないと思うのが普通だとも思う。
それでも僕はなんとなく、そのベビーカーおばさんを気味悪く思えなかった。
「それ、ってさ。やっぱりちょっと精神が疲れちゃってる人なのかな。
例えばだけど、子供が欲しかったけどできなかったとか、はたまた亡くしちゃったとか。だとすれば、可哀想な人だと思うし、誰かに迷惑かけてるわけじゃないから別に放っておけばいいんじゃないかな」
母親って生き物の気持ちはわからない。僕は男だし結婚すらしたことないから当然なのだが、母親の子供に対する愛情はすごいらしいってのは分かる。
不憫な人、なんじゃないのかな。
別に他の人に実害あるわけじゃないし、そんな噂あまりに気にしなければいい。
しばらく星野さんは黙っていた。勝手なイメージだが、星野さんがこういう噂を気にするのは意外だと思った。
彼女は取り憑かれるのが夢で色んな心霊話に食いついてる。怖いとはいえ、生きてる人間の奇行なんて目もくれなそうなのに。
「大山くん、優しいんだね」
「え、あ、いや別に。心霊話でもないし、星野さんが興味持つのがいが」
「この話には続きがあってね。
そのぬいぐるみを近くでみた人が、『笑った』っていうの」
一瞬足を止めた。坂道はまだ続いている。どこかからかずっと聞こえている子供達の声がやけに響いていた。
星野さんが僕を振り返る。口角を上げて微笑んでいた。
「残念ながら私には分からなかった」
「み、みたの……?」
「だって本屋に行くための近道なんだもの、何度か通ってれば会ってしまうのはしょうがないでしょ? ベビーカーおばさん、天気がいい日は毎日散歩してるらしいし」
僕は空を見上げた。それは晴れて雲ひとつない快晴だった。気持ちいいはずの天気が一気に嫌なものへと変わる。
星野さんは続けた。
「私も最初大山くんと同じこと考えた。子供を亡くしたりした人なのかなって。そうだとしたらすごく悲しい話だし、別に周りが騒ぎ立てることでもないと思ってた」
「…………」
「でも、ぬいぐるみの噂を聞いて思ったの。もし自分の子供を亡くしたりしたら、精神を病むか。前を向くか。それとも———もう一度子供と会おうとする人もいるかもって」
どくん、と心臓が鳴った。
星野さんの紺色のワンピースがふわりと揺れる。眩しいほどに僕たちを照らしている太陽の下で、彼女はあまりに美しく儚いとすら思った。
大切な人を亡くしたら。
精神を病むか、前を向くか、
……それとも


