「よくある『終電逃しちゃったー』……ってさ、漫画とかでドラマで見かけるけど、そんなのある訳ないじゃんって思ってた」
「……うん?」
「電車の時間とか、移動時の最重要事項でしょ? 確認しておかないなんて有り得ないもん」
「あー……地元はバス一時間に一本だもんな」
「そう。一本逃したら一時間待ち。そして最終に近付くと何故か間隔空いて二時間に一本とかもある……」
駅に掲示された時刻表の前で立ち竦むわたしの神妙な顔につられたように、璃空は深く頷いた。髪を明るく染めて、ピアスなんてつけて、すっかり都会にかぶれた顔をした彼もまた、田舎の洗礼を受けて育った同志だ。
「場所によっては、夕方以降にあればいい方だよな」
「そして下手すれば日に数本……生活するのに不便すぎるよねぇ」
幼稚園からずっと一緒の幼馴染みである『高月璃空』は、大学進学を機にそんな不便とは無縁の電車のたくさんある都会で暮らしている。
わたしは実家に残り地元での進学で、彼は田舎を出て都会での一人暮らし。家も近所で小中高と同じ学校だった彼と離ればなれになるのは、その時が初めてだった。
それまで家族ぐるみでずっと仲良しだったのに、大学に上がってからはお互い新しい環境の忙しなさに流されて、寂しさなんて感じる暇はなかった。あるのは何と無く何かが足りないような、ほんの少しの空白。
そんな日々の中、先日たまたまうちに遊びに来ていた璃空のお母さんが「近頃あの子連絡寄越さないのよね」なんて寂しそうに話していたのを聞いて、わたしは様子見がてら、彼の住む都会の町に遊びに行くことにしたのだ。
お正月やお盆の帰省にはうちが祖父母の家に行ったりとすれ違いからタイミングが合わず、たまにメッセージアプリやSNSで連絡は取っていたものの、実際に会うのは今日が約二年ぶりだった。
「あ。いたいた……久しぶり、茉白!」
「えーっと……どちら様?」
「え!? 俺だよ、俺!」
「オレオレ詐欺の方……?」
「対面でそれは斬新すぎるだろ!?」
某有名なオブジェの待ち合わせ場所で久しぶりに会った璃空は、一瞬誰だかわからなかった。
なんだか背が伸びた気がするし、派手な髪色もピアスも知らない。基本ゆったりした着古したパーカーかスエットなイメージだったファッションも都会に合うよう洗練されていて、わたしの記憶の中の彼とは一切一致しなかったのだ。
若干本気でオレオレ詐偽を疑いつつも、カフェの席を予約しているからと言う都会色に染まった彼の後をついて、バーゲンセールみたいにごった返した人混みを抜ける。油断すると流されてしまいそうな町は、すべてを飲み込む海のようだった。
「……あ、すみません、注文いいですか? ランチパスタセットの和風カルボナーラ……はい、ドリンクは食後にアイスコーヒーで」
「えっ」
「……なんだよ」
「……なんでもない。……えっと、わたしは蜂蜜パンケーキセットで、飲み物はアイスココア……食後にストロベリーチーズパフェもお願いします」
「相変わらず甘いのに甘いのを重ねるんだな……胸焼けしそうだ」
「甘いものは正義。……そっちこそ……コーヒーなんて、飲まなかったくせに」
「はは、昔の話だろ」
「昔……」
駅近くのオープンテラスのあるお洒落なカフェで、彼が苦手だったはずのコーヒーを注文したのを見て、パンケーキもまだなのに胸の奥が重くなるのを感じた。
たった二年間離れていただけなのに、これまで十数年培ってきた時間が揺らいでしまった気がして、わたしの知っている璃空は、もう昔の彼なのだと。わたしはもうあの頃には戻れないのだと、その時漠然と理解した。
「この前、バイト先の先輩がここのコーヒー美味いって話しててさ、ずっと気になってたんだよ」
「……そうなんだ」
「あとさ、先月向こうの通りに出来たドーナツ店も人気で、いつも行列がすごくてさ……茉白好きだろ、ドーナツ」
若者で溢れた満席のカフェで、テーブルの上に鎮座する嗅ぎ慣れないコーヒーの香りと共に知らない人との知らない出来事を話す彼は、やっぱり見知らぬ他人のようで。彼と離れている間に感じていた空白は、もう一生埋まることはないのだろうと自覚する。
その瞬間、わたしは初めて、その空白の奥底でどうしようもない寂しさを感じた。
「あ、けどパンケーキにパフェまで食うなら、ドーナツは入らないか……行列もあるし時間も……」
「……ううん、行く! せっかく来たんだもん、都会の人気ドーナツ……十時間でも二十時間でも並ぶよ!」
「いや、待ち時間えぐすぎだろ。テーマパークのアトラクションでもまだ手心あるわ」
そんな子供じみた寂しさを悟られまいと、地元にはない大きな商業ビルやあちこちにある謎デザインの立派なオブジェに目一杯はしゃいでみせ、都会ならではのあちこちの行列にも並び、流行りのスイーツの買い食いに勤しんだ。大好きな甘いものをたくさん食べても、胸の奥に巣食う空白は埋まらなかった。
どうしようもない寂しさや悲しみをそんな煌びやかな都会の喧騒に紛れさせている内に、気付けば夜も更け、冒頭のように終電さえも逃してしまった訳である。
「……はぁ、完全に油断した……都会、電車たくさんあるし、数分毎に来るし。何なら永遠にある気さえするもん……日頃田舎の洗礼を受けてる身からすると魔法レベル」
「まあ、確かにわかる。こっち来たばっかの時、すぐ来るのが面白くてわざと何本か見送ったりしたし……」
「終わりがあることさえ忘れさせる、だから終電を逃す……それが世界の真理。完全に理解した」
「魔法規模まで過大評価してんのは、世界でも茉白くらいだと思うがな」
「世界最高峰の褒め言葉……ってこと?」
「……電車も光栄だろうな」
終電を逃した絶望を軽口で中和しながら、これから始発までどうしようかと考える。
幸い明日の講義は午後からで、昼前に家を出れば間に合う。朝イチで帰って少し仮眠が取れればいい。
けれどそれまで待とうにも、都会の夜は怖いものだ。わたしみたいな田舎者がふらふらしていたら、きっと酔っぱらいの喧嘩に巻き込まれて身ぐるみ剥がされてその辺に転がされるか、ぼったくり店か悪質なホストにでも捕まって、有り金全部巻き上げられるのだ。
そんな約束された危険に璃空を付き合わせる訳にもいかず、彼だけは家に帰そうと思ったものの、既に電車がないのだと振り出しに戻る。
タクシーならばまだあるだろうと考えたわたしは、一旦駅の出口に向かいながら、ふと思い付ききょろきょろと周囲を見渡した。
「……茉白? 何探してるんだ?」
「武器を探してる」
「武器……」
「都会の夜を戦い抜くための伝説の剣とか」
「あー……駅構内でそんな不審物あったら通報ものだし、拾って使おうもんなら銃刀法違反で捕まるな」
「戦う前に不戦敗になってしまう……!?」
戦わずして負けるのは不本意でわりと真面目にショックを受けていると、璃空はそんなわたしを見て楽しげに笑った。
「なんていうか……ほんと、全然変わらないな、茉白は」
「……? 不戦敗に甘んじた記憶はないけども」
「そっちじゃなくて」
「……もしや、成長がないとかそういう? 軽率にディスられてる?」
「いや、褒めてるんだよ。なんか一緒に居て安心する」
その屈託のない笑みは、幼い頃から見てきたものと変わらない。夜を照らすネオンみたいに明るい髪の毛の色も、町明かりを反射してキラキラ光る揺れるピアスの垂れた横顔も知らない人みたいなのに、そんな中にある懐かしい面影に、わたしもなんだか安心した。
「璃空は……ちょっと変わった」
「お。垢抜けた? 格好良くなった?」
「……なんか、大学デビューだなぁって」
「それはあんまり褒めてないな!?」
「そうとも言う」
「おいこら」
今日一日、わたしの知らない時間の話をして、わたしの知らない迷路みたいに入り組んだ場所をスムーズに歩く璃空は、なんだか違う人みたいで嫌だった。わたしの幼馴染みが、どこか遠くに行ってしまった気がした。
けれどもこんな風に変わらない会話のテンポ感も、並んで歩く時のわたしに合わせたゆったりした歩幅も、少し子供っぽい笑顔も、あの頃と変わらないものを見つけては、宝物みたいに大切にしまいたくなった。
「……ねえ、璃空」
「ん?」
「この町、楽しい?」
出口がたくさんある迷宮のような大きな駅からようやく脱け出して、一息吐く。外の湿気を含んだ生ぬるい風に煽られて、わたしは何気なく空を見上げた。
見渡す限り大きな建物に囲まれて、眩しいくらいの街明かりに照らされて、地元では綺麗に見える星が何も見えない。なんだか遠い別の国に来たみたいだ。
「……すごいよね、都会。お店は遅くまでやってるし、電車もたくさんだし、夜中なのに人もいっぱいで……美味しいご飯屋さんも、お洒落な場所も、でっかいビルも……可愛い女の子たちも。地元にはないものばっかり。……やっぱり璃空は、こっちの方がいい?」
「茉白、俺は……」
慣れない都会での気疲れと、最終電車がなくなり、この町の夜に閉じ込められたような感覚。これまで当たり前だったはずの今は懐かしい空気感にあてられて、つい感傷的になってしまう。
あてもなく夜の町を歩きながら、終電後でも変わらず人が溢れる都会のざわめきに、わたしはほんの少しの弱音を乗せた。
「……わたしは、この町に璃空を取られちゃったみたいで、ちょっと寂しかった」
隣を歩いていた璃空は驚いたように目を丸くして、それからすぐに、少し眉を下げて笑った。
「そっか……俺も、寂しかったよ」
「え……?」
「美味い飯を食っても、綺麗なものや変わったものを見つけても、それを話す相手が居ない……いや、SNSに載せたりは出来るけど、そうじゃないんだ。……傍に茉白が居ないのが、寂しかった」
「ほんとに? でも、友達たくさん居るんでしょ? SNSのフォロワーは知らない子増えてるし……カフェで大学やバイトの話してた時、楽しそうだったし……」
「そりゃあ、大学の友達やバイト先の知り合いは居ても、それは茉白じゃないし……楽しそうだったなら、それは茉白と話せるのが嬉しかったんだよ」
璃空の言葉に思わず足を止めて、わたしは彼を見上げ様子を伺う。長年見てきた嘘をつく時の癖は出ていない。
なんだ、そうか。彼も同じだったのだ。わたしを置いて変わってしまったと思っていた。そっちを選んだのだと思っていた。けれど寂しかったのはわたしだけじゃなかったのだとわかり、心の中の冷たく固まったものが、じんわりと溶け始めるのを感じる。
「……コーヒーだって、飲めるようになったの、知らなかった」
「あれは……ちょっとでも成長したところを見せたくて。……本当はミルクと砂糖めちゃくちゃ入れたかった」
「ふふ……なにそれ。じゃあ、かっこつけてただけ?」
「う……悪いかよ……」
「ううん。なんか璃空らしいや」
「……それ、褒めてないだろ」
「あははっ、褒めてるよ。璃空はやっぱり璃空なんだなって」
「なんだそれ……」
都会の夜空が違って見えても、見慣れた空と繋がっているみたいに、知らない人のようだった目の前の彼は、あの頃の璃空と地続きなのだ。
もう埋まらないと感じていた空白が久しぶりに満たされていく感覚がして、わたしは嬉しくなって璃空の手を握った。
「ねえ、せっかくだから、都会の夜遊び教えてよ」
「えっ!? いや、俺夜遊びとかしないし……」
「あれ、そうなの? 行きつけの隠れ家的バーとか、行きつけのぼったくり店とかないの?」
「ぼったくり店を行きつけにする勇気はないな……」
夜明けにはまだ遠いけれど、心のもやは晴れていく。わたしは不戦敗リスクのある伝説の剣ではなく、驚いた顔の彼の手を引いて、夜の町を冒険するのだ。
派手なツートーンカラーの髪を揺らして歩くミニスカートの女の子や、夜遅くまで働くサラリーマン、飲み屋のキャッチに、楽器を演奏する人や、路上で寝る人。様々な人が集まって、眠らない夜をいろんな色に染める。
わたしは彼を奪った憎き都会に戦いを挑むのではなく、今の彼を形作るこの町を、改めて知りたくなった。そしてこの町で彼が過ごす時間に、わたしという存在を残したくなったのだ。
「よし。じゃあ、新規開拓だね!」
「えっ、ぼったくり店の……?」
「それでもいいけど……この町で、わたしの知らない時間じゃなくて、もっとわたしの居る思い出をたくさん作るの。そうしたら、寂しくないでしょ?」
「……ははっ、そっか、そうだな。そうかもしれない。……夜はまだ長いから、たくさん冒険してみるか」
「うん……!」
璃空がしっかりと手を繋ぎ直してくれて、記憶の中にある幼い掌との違いに改めて驚いて、それでも伝わる温もりの優しさは変わらないと微笑む。
いろんな人達を受け入れるこの都会の夜でなら、変わり行くものも、変わらないものも、すべて愛せそうな気がした。
「……うん?」
「電車の時間とか、移動時の最重要事項でしょ? 確認しておかないなんて有り得ないもん」
「あー……地元はバス一時間に一本だもんな」
「そう。一本逃したら一時間待ち。そして最終に近付くと何故か間隔空いて二時間に一本とかもある……」
駅に掲示された時刻表の前で立ち竦むわたしの神妙な顔につられたように、璃空は深く頷いた。髪を明るく染めて、ピアスなんてつけて、すっかり都会にかぶれた顔をした彼もまた、田舎の洗礼を受けて育った同志だ。
「場所によっては、夕方以降にあればいい方だよな」
「そして下手すれば日に数本……生活するのに不便すぎるよねぇ」
幼稚園からずっと一緒の幼馴染みである『高月璃空』は、大学進学を機にそんな不便とは無縁の電車のたくさんある都会で暮らしている。
わたしは実家に残り地元での進学で、彼は田舎を出て都会での一人暮らし。家も近所で小中高と同じ学校だった彼と離ればなれになるのは、その時が初めてだった。
それまで家族ぐるみでずっと仲良しだったのに、大学に上がってからはお互い新しい環境の忙しなさに流されて、寂しさなんて感じる暇はなかった。あるのは何と無く何かが足りないような、ほんの少しの空白。
そんな日々の中、先日たまたまうちに遊びに来ていた璃空のお母さんが「近頃あの子連絡寄越さないのよね」なんて寂しそうに話していたのを聞いて、わたしは様子見がてら、彼の住む都会の町に遊びに行くことにしたのだ。
お正月やお盆の帰省にはうちが祖父母の家に行ったりとすれ違いからタイミングが合わず、たまにメッセージアプリやSNSで連絡は取っていたものの、実際に会うのは今日が約二年ぶりだった。
「あ。いたいた……久しぶり、茉白!」
「えーっと……どちら様?」
「え!? 俺だよ、俺!」
「オレオレ詐欺の方……?」
「対面でそれは斬新すぎるだろ!?」
某有名なオブジェの待ち合わせ場所で久しぶりに会った璃空は、一瞬誰だかわからなかった。
なんだか背が伸びた気がするし、派手な髪色もピアスも知らない。基本ゆったりした着古したパーカーかスエットなイメージだったファッションも都会に合うよう洗練されていて、わたしの記憶の中の彼とは一切一致しなかったのだ。
若干本気でオレオレ詐偽を疑いつつも、カフェの席を予約しているからと言う都会色に染まった彼の後をついて、バーゲンセールみたいにごった返した人混みを抜ける。油断すると流されてしまいそうな町は、すべてを飲み込む海のようだった。
「……あ、すみません、注文いいですか? ランチパスタセットの和風カルボナーラ……はい、ドリンクは食後にアイスコーヒーで」
「えっ」
「……なんだよ」
「……なんでもない。……えっと、わたしは蜂蜜パンケーキセットで、飲み物はアイスココア……食後にストロベリーチーズパフェもお願いします」
「相変わらず甘いのに甘いのを重ねるんだな……胸焼けしそうだ」
「甘いものは正義。……そっちこそ……コーヒーなんて、飲まなかったくせに」
「はは、昔の話だろ」
「昔……」
駅近くのオープンテラスのあるお洒落なカフェで、彼が苦手だったはずのコーヒーを注文したのを見て、パンケーキもまだなのに胸の奥が重くなるのを感じた。
たった二年間離れていただけなのに、これまで十数年培ってきた時間が揺らいでしまった気がして、わたしの知っている璃空は、もう昔の彼なのだと。わたしはもうあの頃には戻れないのだと、その時漠然と理解した。
「この前、バイト先の先輩がここのコーヒー美味いって話しててさ、ずっと気になってたんだよ」
「……そうなんだ」
「あとさ、先月向こうの通りに出来たドーナツ店も人気で、いつも行列がすごくてさ……茉白好きだろ、ドーナツ」
若者で溢れた満席のカフェで、テーブルの上に鎮座する嗅ぎ慣れないコーヒーの香りと共に知らない人との知らない出来事を話す彼は、やっぱり見知らぬ他人のようで。彼と離れている間に感じていた空白は、もう一生埋まることはないのだろうと自覚する。
その瞬間、わたしは初めて、その空白の奥底でどうしようもない寂しさを感じた。
「あ、けどパンケーキにパフェまで食うなら、ドーナツは入らないか……行列もあるし時間も……」
「……ううん、行く! せっかく来たんだもん、都会の人気ドーナツ……十時間でも二十時間でも並ぶよ!」
「いや、待ち時間えぐすぎだろ。テーマパークのアトラクションでもまだ手心あるわ」
そんな子供じみた寂しさを悟られまいと、地元にはない大きな商業ビルやあちこちにある謎デザインの立派なオブジェに目一杯はしゃいでみせ、都会ならではのあちこちの行列にも並び、流行りのスイーツの買い食いに勤しんだ。大好きな甘いものをたくさん食べても、胸の奥に巣食う空白は埋まらなかった。
どうしようもない寂しさや悲しみをそんな煌びやかな都会の喧騒に紛れさせている内に、気付けば夜も更け、冒頭のように終電さえも逃してしまった訳である。
「……はぁ、完全に油断した……都会、電車たくさんあるし、数分毎に来るし。何なら永遠にある気さえするもん……日頃田舎の洗礼を受けてる身からすると魔法レベル」
「まあ、確かにわかる。こっち来たばっかの時、すぐ来るのが面白くてわざと何本か見送ったりしたし……」
「終わりがあることさえ忘れさせる、だから終電を逃す……それが世界の真理。完全に理解した」
「魔法規模まで過大評価してんのは、世界でも茉白くらいだと思うがな」
「世界最高峰の褒め言葉……ってこと?」
「……電車も光栄だろうな」
終電を逃した絶望を軽口で中和しながら、これから始発までどうしようかと考える。
幸い明日の講義は午後からで、昼前に家を出れば間に合う。朝イチで帰って少し仮眠が取れればいい。
けれどそれまで待とうにも、都会の夜は怖いものだ。わたしみたいな田舎者がふらふらしていたら、きっと酔っぱらいの喧嘩に巻き込まれて身ぐるみ剥がされてその辺に転がされるか、ぼったくり店か悪質なホストにでも捕まって、有り金全部巻き上げられるのだ。
そんな約束された危険に璃空を付き合わせる訳にもいかず、彼だけは家に帰そうと思ったものの、既に電車がないのだと振り出しに戻る。
タクシーならばまだあるだろうと考えたわたしは、一旦駅の出口に向かいながら、ふと思い付ききょろきょろと周囲を見渡した。
「……茉白? 何探してるんだ?」
「武器を探してる」
「武器……」
「都会の夜を戦い抜くための伝説の剣とか」
「あー……駅構内でそんな不審物あったら通報ものだし、拾って使おうもんなら銃刀法違反で捕まるな」
「戦う前に不戦敗になってしまう……!?」
戦わずして負けるのは不本意でわりと真面目にショックを受けていると、璃空はそんなわたしを見て楽しげに笑った。
「なんていうか……ほんと、全然変わらないな、茉白は」
「……? 不戦敗に甘んじた記憶はないけども」
「そっちじゃなくて」
「……もしや、成長がないとかそういう? 軽率にディスられてる?」
「いや、褒めてるんだよ。なんか一緒に居て安心する」
その屈託のない笑みは、幼い頃から見てきたものと変わらない。夜を照らすネオンみたいに明るい髪の毛の色も、町明かりを反射してキラキラ光る揺れるピアスの垂れた横顔も知らない人みたいなのに、そんな中にある懐かしい面影に、わたしもなんだか安心した。
「璃空は……ちょっと変わった」
「お。垢抜けた? 格好良くなった?」
「……なんか、大学デビューだなぁって」
「それはあんまり褒めてないな!?」
「そうとも言う」
「おいこら」
今日一日、わたしの知らない時間の話をして、わたしの知らない迷路みたいに入り組んだ場所をスムーズに歩く璃空は、なんだか違う人みたいで嫌だった。わたしの幼馴染みが、どこか遠くに行ってしまった気がした。
けれどもこんな風に変わらない会話のテンポ感も、並んで歩く時のわたしに合わせたゆったりした歩幅も、少し子供っぽい笑顔も、あの頃と変わらないものを見つけては、宝物みたいに大切にしまいたくなった。
「……ねえ、璃空」
「ん?」
「この町、楽しい?」
出口がたくさんある迷宮のような大きな駅からようやく脱け出して、一息吐く。外の湿気を含んだ生ぬるい風に煽られて、わたしは何気なく空を見上げた。
見渡す限り大きな建物に囲まれて、眩しいくらいの街明かりに照らされて、地元では綺麗に見える星が何も見えない。なんだか遠い別の国に来たみたいだ。
「……すごいよね、都会。お店は遅くまでやってるし、電車もたくさんだし、夜中なのに人もいっぱいで……美味しいご飯屋さんも、お洒落な場所も、でっかいビルも……可愛い女の子たちも。地元にはないものばっかり。……やっぱり璃空は、こっちの方がいい?」
「茉白、俺は……」
慣れない都会での気疲れと、最終電車がなくなり、この町の夜に閉じ込められたような感覚。これまで当たり前だったはずの今は懐かしい空気感にあてられて、つい感傷的になってしまう。
あてもなく夜の町を歩きながら、終電後でも変わらず人が溢れる都会のざわめきに、わたしはほんの少しの弱音を乗せた。
「……わたしは、この町に璃空を取られちゃったみたいで、ちょっと寂しかった」
隣を歩いていた璃空は驚いたように目を丸くして、それからすぐに、少し眉を下げて笑った。
「そっか……俺も、寂しかったよ」
「え……?」
「美味い飯を食っても、綺麗なものや変わったものを見つけても、それを話す相手が居ない……いや、SNSに載せたりは出来るけど、そうじゃないんだ。……傍に茉白が居ないのが、寂しかった」
「ほんとに? でも、友達たくさん居るんでしょ? SNSのフォロワーは知らない子増えてるし……カフェで大学やバイトの話してた時、楽しそうだったし……」
「そりゃあ、大学の友達やバイト先の知り合いは居ても、それは茉白じゃないし……楽しそうだったなら、それは茉白と話せるのが嬉しかったんだよ」
璃空の言葉に思わず足を止めて、わたしは彼を見上げ様子を伺う。長年見てきた嘘をつく時の癖は出ていない。
なんだ、そうか。彼も同じだったのだ。わたしを置いて変わってしまったと思っていた。そっちを選んだのだと思っていた。けれど寂しかったのはわたしだけじゃなかったのだとわかり、心の中の冷たく固まったものが、じんわりと溶け始めるのを感じる。
「……コーヒーだって、飲めるようになったの、知らなかった」
「あれは……ちょっとでも成長したところを見せたくて。……本当はミルクと砂糖めちゃくちゃ入れたかった」
「ふふ……なにそれ。じゃあ、かっこつけてただけ?」
「う……悪いかよ……」
「ううん。なんか璃空らしいや」
「……それ、褒めてないだろ」
「あははっ、褒めてるよ。璃空はやっぱり璃空なんだなって」
「なんだそれ……」
都会の夜空が違って見えても、見慣れた空と繋がっているみたいに、知らない人のようだった目の前の彼は、あの頃の璃空と地続きなのだ。
もう埋まらないと感じていた空白が久しぶりに満たされていく感覚がして、わたしは嬉しくなって璃空の手を握った。
「ねえ、せっかくだから、都会の夜遊び教えてよ」
「えっ!? いや、俺夜遊びとかしないし……」
「あれ、そうなの? 行きつけの隠れ家的バーとか、行きつけのぼったくり店とかないの?」
「ぼったくり店を行きつけにする勇気はないな……」
夜明けにはまだ遠いけれど、心のもやは晴れていく。わたしは不戦敗リスクのある伝説の剣ではなく、驚いた顔の彼の手を引いて、夜の町を冒険するのだ。
派手なツートーンカラーの髪を揺らして歩くミニスカートの女の子や、夜遅くまで働くサラリーマン、飲み屋のキャッチに、楽器を演奏する人や、路上で寝る人。様々な人が集まって、眠らない夜をいろんな色に染める。
わたしは彼を奪った憎き都会に戦いを挑むのではなく、今の彼を形作るこの町を、改めて知りたくなった。そしてこの町で彼が過ごす時間に、わたしという存在を残したくなったのだ。
「よし。じゃあ、新規開拓だね!」
「えっ、ぼったくり店の……?」
「それでもいいけど……この町で、わたしの知らない時間じゃなくて、もっとわたしの居る思い出をたくさん作るの。そうしたら、寂しくないでしょ?」
「……ははっ、そっか、そうだな。そうかもしれない。……夜はまだ長いから、たくさん冒険してみるか」
「うん……!」
璃空がしっかりと手を繋ぎ直してくれて、記憶の中にある幼い掌との違いに改めて驚いて、それでも伝わる温もりの優しさは変わらないと微笑む。
いろんな人達を受け入れるこの都会の夜でなら、変わり行くものも、変わらないものも、すべて愛せそうな気がした。



