「かんぱ~い」
 控え目に声を出しながら、冷えたマッコリの入った陶器のグラスを軽くぶつけ合う。
「香織の結婚に」
 私の向かいの席に座っていた裕美が付け加えた。
「ありがとう」
 裕美の隣に座る香織が答える。
「それと、麻衣の誕生日に」
 裕美が続けた。
「あれ? 麻衣の誕生日、今日だっけ?」
 香織がグラスを持った手を口の前で止めた。
「明日」
 私は短く答えてからグラスに口を付けた。
「そっか。麻衣も40代の仲間入りか」
 そう言って香織もグラスに口を付けた。
「私は12月生まれだから、まだしばらく30代」
 グラスを手に持ったまま、裕美が言う。
「50歩51歩でしょ」
「50歩100歩じゃなくて?」
「50歩も違わないでしょ」
「確かに」
 香織と裕美が笑い合う。
 私の隣に座る恵菜だけは、黙ってマッコリを飲んでいる。

 そう、明日、7月21日、私は誕生日を迎える。
 明日で私は、40歳になる。

 1ヶ月前にプロポーズされていた。相手は取引先の営業担当。中村という。36歳、年下だ。
 付き合っている、わけではない。
 接待の席で初めて会った。後日、食事に誘われた。
 中村に対する印象は悪くなかった。警戒心もあったが、担当同志の親密化、という思いもあり、承諾した。
 その場で突然、「結婚を前提として付き合ってください」と言われた。
「付き合う」、となると「結婚」を意識しないわけには行かない。お互いにそういう年齢だ。
 中村は、誠実な男、のようだった。だらだらとした、いわゆる「大人の関係」を望んでいるわけではないようだ。
 ならば私も、取り敢えず付き合ってみて違ったらやっぱり、というわけには行かない。誠実に答えないといけない、そう思った。

「考えさせてください。1ヶ月後、40歳になるまでに返事します」
 そう答えた。私の誕生日も伝えた。
 その回答期限が、今日だ。
 なのに私は、今、こうして大学時代の同級生と4人でお酒を飲んでいる。

 今年の3月。香織の結婚式に私、裕美、恵菜の3人は友人として招待された。
 私たちは大学の同級で同じゼミだった。
 卒業直後は毎月会ってお互いの近況報告、グチの言い合いをしていたが、次第に疎遠になり、コロナもあって、気が付けば、香織の結婚式は7年ぶりの再会だった。
 それをきっかけにまた時々会おうということになった。今日がその初日というわけだ。

 チゲと豆乳のスープが入った二色鍋が運ばれてきた。

「私たちも、二色に別れちゃったね」
 テーブルの中央に置かれた鍋の中、赤と白に仕切られたスープを見ながら恵菜が言った。
 既婚と未婚。そういうことだろう。香織と裕美は既婚、恵菜と私は、未婚だ。
 香織と裕美は何も答えない。ちょっとだけ気まずい雰囲気になった。
 新婚の香織を交えているのだから、当然そういう話になる。想定内。私はそう思っていた。香織と裕美に気を遣わせてはいけない。
「この前までは3対1の多数派だったのにね」
 私は恵菜に笑いかけた。
「うん」
 恵菜がうなずいた。
「やっぱ、40代、気にした?」
 香織に話しかけた。極力、明るく。
「うん。実は私も、ずっと独身でもいいかな、て思いかけてたんだ。でも両親から、これが終電だよ、これを逃したら次は無いよ、て言われて……」
 終電…… 次は無い……
 香織の言葉を心の中で反芻した。笑顔のままで。
「間に合ってよかったね」
 裕美が引き取ってくれた。
 左腕に嵌めていた時計に目が行った。
 午後6時45分。私が40歳になるまで、あと5時間15分。

「彼、ちゃんと公約守ってる?」
 酔いが回り始めた頃、裕美が香織に絡み始めた。
 裕美が言う公約とは、結婚式の時に新郎新婦が参列者の前で宣言した「公約」のことだ。

『私たちは、何事に対しても、夫婦で協働して行きます。分業はしません。外で働くのも、家事をするのも、育児も、二人が同じように分担し、同じように責任を持ち、協力し合って行きます』
 二人は参列者の前でそう宣言した。

「ちゃんとやってるよ」
 香織が答えた。
「でもね、子供ができるとそうは行かないよ。結局、生むのも育てるのも母親。男にできることなんて限られてる」
 裕美が反論する。
 裕美は12年前、27歳で結婚していた。子供も二人。確か小学生、まだ低学年のはずだ。
「会社だって、男女平等って建前では言うけど、やっぱり男性優遇。その分男は休みが取りづらいようにできてる。私は3ヶ月の産休と1年の育休取ったけど、旦那の産休は1日だけ。男の育休なんて、そもそもそんな制度がないって言われた」
 現実は、そういうことなのかもしれない。
 口を尖らせて、香織が黙り込む。
「でも、ご主人、優しいよね。そういう気持ちが大事なのよね」
 私がフォローに入る。
「そう思うでしょ?」
 香織が笑顔になる。
「きれいごとじゃ済まないんだけどね……」
 裕美が横を向く。
 恵菜は黙って、何杯目かのマッコリを飲んでいる。
 腕時計に目が行く。午後8時。40歳まで、あと4時間。

「裕美の子供さんは、何か習い事してるの?」
 話題を切り替える。
「ピアノとスイミング」
「すごいね! 上手なの?」
「そうね……」
 子供の話になると裕美は盛り上がる。やっぱり母親だ。
「幸せそうだね」
 楽しそうに子供の話をする裕美に、香織が言った。
「そうね……今は、幸せ」
 微笑みながら、裕美が答えた。
「子供の成長が、今の私の生きがいだな」
 裕美が目を細めた。

 いつの間にか、話題は大学時代に飛んでいた。
 あの教授は今…… あのチャラ男はその後…… よく行っていたあの店は今も……

「悪いけど、私、そろそろ帰らないと」
 トイレから戻った裕美がスマホを見ながら言った。裕美は子供とご主人を家に残している。
「私もそろそろ」
 新婚の香織もそう言いながらスマホに目を落とした。
 私も腕時計に目を遣る。午後9時30分。40歳の誕生日まで、あと2時間30分。
「じゃ、このへんでお開きにしようか」
「うん、ごめんね」
「今日はありがとう」
 恵菜の声に裕美と香織が答える。
「楽しかったね。またやろうね」
 私も三人に合わせる。

 会計を済ませ、店を出る。
「ね、もう一件付き合わない?」
 後ろから、恵菜が言ってきた。
 明日も休日。特に予定はない。……今のところ。
「いいよ」
 そう答えた。
「じゃ、私たちはこれで」
 裕美と香織が手を振って駅に向かう。恵菜と私も手を振って二人を見送った。

 恵菜に連れられて入ったのは、雑居ビルの地下のショットバー。
 暗い店内。カウンターの向こう、壁一面に並んだグラスがライトに照らされて青白く光っている。
 私たちはカウンターに座ってウイスキーの水割りを注文した。
 恵菜はあっという間に一杯目を飲み干して、次はロックを注文した。

「大丈夫?」
 私の言葉を無視して、恵菜が話し始めた。
「未婚、ていう言い方、おかしいと思わない?」
「え?」
 ……よくわからない。
「未婚の『未』って、いまだ、なんとかじゃない、ていうことでしょ』
「……うん」
 私は曖昧に答える。
「『未成年」ていう言い方は、いい。誰もが、待ってれば必ず成人になるんだから。まだ、成人になってない年齢、それでいい。でも……例えば、『未上場企業』ていう言い方するでしょ。あれはおかしい」
「……そう?」
 私にはわからない。
「確かに、日本が高度経済成長を続けていた昭和の時代は、どの企業もみんな、会社を大きくして、いずれは東証とかに上場することを目指していたかもしれない。だから、上場してない会社は、まだ上場できていない企業、つまり未上場企業、それでよかったかもしれない」
 恵菜の言いたいことが、わかってきた。
「でも今は違う。起業した会社が全部、上場を目指してるわけじゃない。最初から、上場することを前提にしてない会社もいっぱいある。自分は自分、身の丈に合った経営でいい、そう思ってる。そういう会社は、『未』上場企業じゃなくて、『非』上場企業」
 そう。そういう……ことだ。
「だよね」
 私はそう答えた。
 グラスに一度口を付けてから、恵菜が言った。
「私……結婚しないから」
 私は答えなかった。
「男に、男でなくても、人に頼って行くような生き方はしない。したくない。自分の力で生きて行く」
 私は黙ってうなずいた。
「二人で力を合わせて行くという香織の生き方がうまく行くのかどうかわからない。でも、私は一人で生きて行く。そう決めてる」
 グラスを手に持ったまま恵菜が続けた。
「今のうちに稼げるだけ稼いで、将来は高級介護施設に入ればいい。そう思ってる」
 恵菜は外資系の証券会社で営業をしている。恵菜の考え方を、私は否定しない。

「でもね……」
 恵菜の声が小さくなった。
「私、おばあちゃんがいたの。もうだいぶ前に死んじゃったけどね」
 グラスの中の氷を回しながら、恵菜が続けた。
「私が4歳の時……私の父と母はけっこう年齢差があって、母が私を産んだ時、父はもう50を過ぎてたから、その時おばあちゃんももう80を過ぎてんだけどね……」
 恵菜がグラスを高く上げた。
「最後は、痴呆で、父のことも母のこともわからなくなってた……」
 恵菜は、グラス越しに天井のライトを見ているようだった。
「でも……私のことは、わかってたの。私が行くと、恵菜ちゃんが来た、恵菜ちゃんが来た、て言って、すごく喜んでくれて……」
 私は黙って恵菜の横顔を見ていた。
「例えば、私が歳をとって、ぼけてしまっても、その時、孫とかがいてくれたら……て、時々、思うことがある……」
 初めて、恵菜の弱気を聞いたような気がした。恵菜の弱気は……聞きたくなかった、そう思った。
 腕時計を見た。午後10時10分。40歳の誕生日まで、あと1時間50分。

 恵菜の目つきが怪しくなり、呂律が回らなくなってきた頃、店を出た。
 最後にマスターが冷たい水を一杯飲ませてくれた。おかげで駅前のタクシー乗り場についた時には、恵菜はいつもの恵菜に戻っていた。
「大丈夫? 家まで送ろうか?」
 私が言うと、恵菜は首を横に振った。
「大丈夫。言ったでしょ。私は、人に頼らないで生きて行く」
 そう言って、恵菜は一人でタクシーに乗り込んで行った。
 腕時計を見た。午後11時25分。40歳まで、あと35分。

 私は駅に向かった。
 改札を通ってホームへ。
 ホームの掲示板を見た。次の電車は11時45分発。
 その電車に乗ると、私は電車の中で40歳の誕生日を迎えることになる。
 私はホームのベンチに腰を下ろした。
 少し顔を上げると、駅の向こうにある高いビルが見えた。こんな時間だと言うのに窓にはまだ明かりが灯っていた。

 顔を下げて、目を閉じた。
 目を閉じて……考えた。

 私の父は、会社員だった。朝早くに出勤して、夜遅くまで働いていた。だから平日に父の顔を見ることはほとんどなかった。
 母は専業主婦だった。だから経済的には完全に父に依存していた、はずだ。
 私が大学生の時、父が死んだ。
 火葬場からの帰り、車の中。父の遺骨を抱えた母が、隣に座っていた私に言った。
「麻衣ちゃん……お願いがあるの。私が死んだら、私の骨も、この骨壺に入れて。別の骨壺じゃなくて、父さんと同じ、この骨壺に……父さんといっしょに……」
 そう言いながら、母は泣いていた。
 その時、私は冷静だった。
 もちろん父の死は悲しくはあった。でも、おそらく、母が強い人間ではないことをわかっていたから、自分がしっかりしなければならい、そういう想いがそうさせていたのだろう。

 まず思ったのは、現実的にはそんなことは不可能だろうということ。そして……
 母の、父に対する「想い」について。
 母は、そこまで父のことを愛していたのだろうか。家のことは任せっきりで、ほとんど家にはいなかった父のことを。
 これは、「愛」ではなくて「依存」なのではないか……母は、ずっと父に依存して生きて来た。だから、父から離れられない、離れたくないのではないか。私はそう思った。
 母はそれから1年後に再婚した。
 やはり……母は誰かに依存しなければ生きて行けない。そう言う人間なのだ。
 私は……そこまで、誰かに依存して生きて行きたくない。そう思った。
 恵菜のように、ずっと一人で生きて行こうと思ったわけではない。しかし、少なくとも、一人でも生きて行ける人間になろう。そう思った。

 大学のゼミで金融を勉強した。卒業後、金融機関に就職した。
 仕事は忙しく、厳しかった。ようやく、父の気持ちがわかった、ような気がした。
 一人でも生きて行ける人間になる。あの時の思いが私を支えていた。
 それでも、結果が出れば嬉しかった。次第に、やりがい、みたいな物も感じられるようになった。
 いつの間にか、同僚や部下から、そして上司からも、信頼され、期待され、頼りにされるようになっていた。
 この仕事をずっと続けたい、そう思うようになった。
 
 結婚する機会はあった。ちょうど10年前、20代の終わり。相手は会社の同僚だった。
 結婚が仕事の障害になることに抵抗があった。
 部署は違ったが、彼の仕事も私と同じように多忙を極めていた。
 結婚しても家事を分担するなんてできなかっただろうし、当時はそういう発想もなかった。
 あの時も、「30歳になるまでに返事する」と言ったような気がする。
 結局、返事はしなかった。そのまま……終わった。

 その思いは今も変わっていない。
 今の仕事を辞めたくない。辞めるつもりはない。
 中村は、香織のご主人のように家事を分担してくれるだろうか。子供が出来たら育児を負担してくれるだろうか。裕美が言うように、それは実際には難しいことなのだろうか……
 であれば、私は、このままでも……

 停車にていた電車が発車した。次は……終電だ。
 私はまた目を閉じた。
 
 あの時、彼に言われた。
「今は麻衣も幸せかもしれない。でも、30年後、40年後を考えてみろよ。その時に、今と同じように幸せでいられるかって……」
 恵菜の言っていたことを思い出した。
「歳をとって、ぼけてしまっても、その時、孫とかがいてくれたら……」
 やっぱり、最後は、一人では生きて行けないのだろうか……家族が、頼りになる人が必要なのだろうか……

 それに……そう、自分のことより前に、母のことがある。
 もし、母が、介護が必要な状態になったら。
 母の再婚相手もいる。「父」とは呼びたくないが、もし、二人を介護しなければならない状況になったら……私一人で支えられるだろうか。中村と結婚したら、中村も協力してくれるだろうか。中村に、そんな負担を掛けてもいいのだろうか……
 そうだ、中村の両親はどうなのだろう。健在なのだろうか。聞いてない。そっちまで、私が負担することになったら……

 目を開けて、腕時計を見た。午後11時55分。あと5分だ。

 香織の、両親から言われたという言葉を思い出す。
「これが終電だよ、これを逃したら次は無いよ」

 これが……本当に終電なのだろうか。
 40歳になっても、結婚しようと思えばいくらでもやりようはあるように思う。婚活ナントカに申し込むとか……
 でも、自分がそんなことをしないことは、自分でわかっていた。
 本当に、中村が終電かもしれない。

 私も、終電に乗った方がいいのだろうか……乗るべきなのだろうか……

 そのまま、時計を見つめる。

 11時57分。あと3分。
 
 指が動かない。「YES」の返事ができない。返事をする、勇気がない。

 あと2分、あと1分。
 あと30秒、あと20秒、あと……10秒。

 心の中でカウントダウンする。
 
 9、8、7、6、5、4、3……2……1……0。

 7月21日に、なった。
 私の誕生日。
 私は、40歳になった。

 バッグの中に入れていたスマホが振動した。
 LINEのメッセージ。中村からだった。
『お返事の期限が過ぎました。お返事、いただけませんでしたね』
『ということは、NOと言うことでしょうか?』

 そのまま、スマホをバッグにしまった。
 
 終電に、乗らなかった……

 乗り遅れたんじゃない。乗らなかったんだ。
 終電に、乗らなかった。
 乗らなかった。乗らなかった。乗らなかった。
 心の中で繰り返した。

 ホームに電車が入って来た。本物の終電だ。

 いつの間にか、ホームにはたくさんに人がいた。
 その人たちが一斉に電車に乗り込む。あっという間に電車は満員になった。
 人に揉まれながら帰るのは嫌だと思った。私は改札から駅の外へ出た。

 タクシー乗り場は長蛇の列だった。恵菜を見送った時はまだそうでもなかったのに。最後尾に並ぶ気にはなれなかった。
 ホテルに泊まるつもりもなかった。こんな時間に女性が一人でチェックインしようとしたら、何て思われるかわからない。

 歩いて帰ることにした。一人暮らしのマンションまで、約10キロ。時速5キロで歩いたとして、2時間。歩けないことはない。
 自分に負荷を懸けたい。そう思った。深夜でも車通りの絶えない国道の歩道を歩けば危険はないだろう。

 歩き始めて5分。大粒の雨が降り出した。
 香織たちとの集合時間が夕方だったから、普段は持ち歩いている日傘も持っていなかった。
 スマホで天気の情報を確認した。激しい雨が2、3時間は続くようだ。
 傘も差さずに雨の中を歩くのは嫌だ。
 仕方ない。駅の方に引き返した。
 あっという間にドシャ降りになった。
 途中にハンバーガー店があった。24時間営業。思わず飛び込んだ。

 温かいコーヒーを買って、客席のある二階へ昇った。
 広い客席に、数人の客がまばらに座っていた。私は一番奥のソファ席に進んだ。

 髪から服まで、ビショ濡れだった。
 このまま座るのは悪いと思い、バッグからハンカチを取り出して身体を拭いた。
 若い男性の店員がやって来て、「これ、使ってください」と言って、タオルを手渡してくれた。
「ありがとう」と言って受け取った。
 そのタオルで服と髪の毛を拭いた。
 店内にいた人たち全員から注目されているような気がした。

 ようやく席に座って、コーヒーを一口、飲んだ。

 こんなことなら、終電に乗って帰ればよかった。
 
 終電に乗って……
 終電に……

 急に悲しくなった。涙が出てきた。
 なぜなのか、自分でもわからなかった。悔しいのか、淋しいのか……
 見られるのが恥ずかしくて、テーブルの上に両腕を組んで、そこに顔を埋めた。
 上から借りたタオル被った。

 そして、泣いた。
 泣き出すと、止まらなくなった。
 声を出して、泣いた。
 周りに聞こえていたかもしれない。でも、止められなかった。
 声を上げて、泣いた。

 そして、眠った。
 いつの間にか、眠っていた。

 膝の上に乗せていたバッグの中のスマホの振動で目が覚めた。
 顔を上げる。まぶしい。
 一度目を閉じて、またゆっくりと目を開けた。

 明るい店内。
 ところどころに座っているのは、きっと、私と同じように終電を逃した人たち。
 腕を組んで眠っている人、パソコンに向かって何か作業をしている人……

 少し離れたソファ席の男女が目に入った。

 若い男女。二人とも髪の毛を金色に染めている。
 ソファにもたれ、寄り添うようにして寝入っている。
 彼女の方は、彼の肩に頭を乗せ、口を開けて眠っている。
 彼女のよだれが、彼のTシャツの胸に染みを作っていた。

 笑ってしまった。

 どうして、彼女はあんなにも、安心しきった顔をしているのだろう。していられるのだろう。そう思った。

 すぐにわかった。
 彼に、愛されているからだ。そう信じているからだ。

 突然、単純なことに気が付いた。

 私は……愛されたいのだ。

 母のことを思った。
 やっぱり、母は父を愛していたのだ。
 なぜなら、母は、父から愛されていたからだ。
 思い出した。
 父はいつも夜遅くまで仕事をしていた。でも、母の誕生日には必ずきれいな花を買って来ていた。
 母の誕生日の翌朝には、食卓にきれいな花が飾られていた。

 そして私も……父から愛されていた。
 私の誕生日の朝には必ず、枕元にプレゼントが置かれていた。クリスマスの朝のように。

 私は、母からも愛されている。
 私が小さかった頃、母はずっと私のそばにいてくれた。
 わかっていた。父が死んだ後、母が再婚したのは、私のためだ。私に迷惑を、負担を掛けたくない。掛けない。そのためだ。

 恵菜、裕美、香織のことを思った。三人とも、私のことを愛してくれている。
 そんなことを言ったら、三人とも「やめてよ」て言って笑うだろう。でも、三人とも私のことを信頼してくれている。だから、何でも話してくれる。

 会社の仲間たちのことを思った。あの人たちも、みんな、私のことを信頼して、頼ってくれている。
 私は、みんなから愛されている。そう実感できる。

 大丈夫。私は、愛されている。

 中村は……どうだろう。
 中村は、本当に私のことを愛しているのだろうか。まだ、二回しか会ってないのに……

 スマホに着信があったことを思い出した。
 バックからスマホを取り出した。
 中村からのLINEだった。

『忘れていました。今日は麻衣さんの誕生日でしたね』
『おめでとうございます』

 続けてメッセージが入っていた。
『40歳になった麻衣さんに、改めてお願いがあります』
『僕と、結婚を前提に付き合っていただけないでしょうか』
 そうあった。

 嬉しかった。
 ただ、嬉しかった。

 時刻を確認した。3時40分。
 時刻表を開いて始発電車の時刻を確認した。
 始発は、5時10分。あと1時間30分。

 始発に乗って帰ろう。そう思った。

 終電を逃しても、朝になればまた始発電車が動き出す。
 終電に乗れなかったら、次の日の始発を待てばいい。
 それだけのことだ。

 トイレへ行き、化粧を直した。
 タオルを貸してくれた男性店員を見つけ、タオルを返してお礼を言った。
 暖かいコーヒーを買った。
 コーヒーを飲みながら、夜が明けるのを待った。

 窓の外が明るくなってきた。朝日が昇ったのだ。
 腕時計を見た。
 4時50分。
 席を立って、店を出た。
 
 外はもう、明るかった。
 雨はすっかり上がっていた。
 空を見上げた。青い、空。

 周囲を見渡した。
 シャッターを下ろした店舗が並ぶ駅前通り。その向こうに見える高いビル。
 ビルの間から朝日が差していた。ビルの側面が白く光っていた。まぶしかった。

 深呼吸した。
 雨上がりだからだろうか。都会の真ん中でも、朝の空気はおいしかった。清々しかった。
 昼間の、ねっとりとした蒸し暑い空気とは違った。
 肺一杯に、その空気を吸い込んだ。

 私は駅に向かって歩き出した。

 始発に乗って、帰る。
 帰ったらまず、シャワーを浴びよう。それから、もう少し眠ろう。
 起きたら、何か食べて、それから……母に電話しよう。
 今日は私の誕生日だ。
 母は、私の誕生日を忘れない。忘れるはずない。きっと、お祝いの言葉を言ってくれるだろう。
 来週には、母に会いに行こう。父の墓参りにも行こう。

 近いうちにまた、恵菜に会おう。裕美と香織はきっと忙しい。恵菜と二人で話そう。
 恵菜の話を、いっぱい聞いてやろう。私のことも話そう。恵菜に聞いてもらおう。

 明日になったら、また会社へ行く。会社には、私のことを待ってる仲間がいる。いっしょにがんばれる仲間がいる。

 そして……中村。

 中村とも、一度、きちんと話そう。
 私の仕事のこと。子供のこと。そして、私の両親のこと。母のこと。
 中村の両親のこともちゃんと聞いておこう。
 結婚うんぬんは、それからだ。

 もし、中村が私のことを愛してくれてるなら……考えてくれるだろう。何とかしようと、考えてくれるだろう。
 そして私も……中村を愛せたら、愛することができたら、何とかしようと思うだろう。きっと、何とかするだろう。

 駅に着いた。
 ホームにはもう始発電車が待っていた。
 電車に乗り込み、座席の中央に腰を下ろす。
 スマホを開いて、中村からのメッセージを見直した。

『40歳になった麻衣さんに、改めてお願いがあります』
『僕と、結婚を前提に付き合っていただけないでしょうか』

 ……なんて返そう。

『考えさせてください』
『41歳になるまでに返事します』

 そう打った。
 すぐに返信が入った。

『待ってます』

 時刻を見た。5時8分。
 中村はずっと、私の返事を待っていたのだろうか。
 朝まで、ずっと。
 一睡もせずに……

 続けてメッセージが入った。

『いつまででも、待ってます』

 電車の出発を告げるアナウンスが流れ、ドアが閉まった。

 「ガタン」
 一度大きく揺れてから、始発電車は動き出した。


 —END—