大学に入ってからすぐに、ホテルのバーでアルバイトを始めた。ホール担当だったが、提供されるカクテルの魅力にどっぷりとハマり、自主的に勉強を始めた。
その熱意が伝わったのか、大学卒業後もここで働かないかと声がかかったのだ。ただ就職が決まっていたので、副業という形で店に留まった。
それに意外と夜の仕事は楽しかったりする。カクテルを通しての人との関わり、人間模様は俺の中に欠けていた何かを補ってくれるような気がした。
だからまさかここで彼女と再会するとは夢にも思わなかったんだ。
* * * *
このホテルの次期社長の副島譲の就任が決まると同時に結婚も発表された。
彼とは昔から仲が良かったため、突然のことに驚きを隠せなかった。だって結婚する予定はないと俺に断言していたから。
その発表から数日後、譲さんが女性を同伴して久しぶりにバーに来店した。自身はカウンター席に座り、女性を手招きで呼び寄せる。
「譲さん、久しぶりじゃないですか」
「あぁ、いろいろ忙しくてね。島崎には紹介しておくよ。今度結婚することになった永島瑛里華さん。ちょっと話があったから来てもらったんだ」
その名前を聞いた瞬間、俺は時間が止まったかのような錯覚を覚える。それから譲さんの隣に座った女性にゆっくりと視線を移行させる。
切長の瞳と長い黒髪、緩やかに体のシルエットを映し出す紺色の艶のあるワンピースは彼女によく似合っていた。
あの頃と変わらない、クールビューティーのイメージのまま大人になった瑛里華に、俺は懐かしさと親近感を覚える。だが彼女は全く周りを見ようとはしないため、俺の存在にも気付いていないように思えた。
「何を飲まれますか?」
「そうだな……俺はジントニックで。永島さんはどうされますか?」
「私はあまり強くないので……ノンアルコールでお任せしてもよろしいですか?」
「だってさ。よろしく」
「かしこまりました」
カクテルを作りながら、俺は二人の会話に耳を澄ます。平静を装うものの、息を吸うのもやっとだった。
「ではとりあえず明日ということで良いですか?」
「はい、早い方が離婚もしやすいですから。それよりも約束は大丈夫でしょうか。私、家事は何も出来ませんので」
「えぇ、それは構いません。専門の方を雇ってください。新居も二ヶ月だけですからね、お互い気兼ねなく、ホテルにでも泊まっているような感覚でいましょう」
「そうですね」
どういうことだ? まるで二人の会話は離婚前提の結婚のように聞こえる。
出来上がったカクテルをグラスに注ぎながら、鼓動が早くなるのを感じる。二人の前にグラスを差し出すが、未だに瑛里華と目が合うことはなかった。
「ありがとう」
「お客様にはノンアルコールのレモネードをご用意させていただきました」
その時にようやく瑛里華は俺の顔を見た。そしてゆっくりと目を見開くと、両手で口元を押さえた。
「島崎が作るカクテルは絶品ですよ。この間の大会で準優勝をしたくらいの腕前ですから」
「島崎……?」
「ノンアルコールのレモネードにもカクテル言葉ってあるのか?」
「ええ、もちろん」
それから俺は瑛里華の瞳を真っ直ぐ見つめるとこう言ったんだ。
「レモネードのカクテル言葉は『キス』」
その瞬間、瑛里華は顔を真っ赤にして俯く。彼女の反応を見て俺はようやく確信した。やっぱりあの日、空き教室に来たのは瑛里華だったんだ。そして彼女は俺にキスをして逃げていった。
「あっ、ちょっと失礼」
音は鳴らなかったが、電話がかかって来たようで譲さんは店から出て行く。二人きりになり、気まずい空気が流れ出した。
その空気を打ち破るように口を開いたのは瑛里華だった。
「……まさかこんな所で島崎くんと再会するとはね」
「同感。知らなかったよ。譲さんと結婚するんだ」
「……契約結婚だけどね」
「契約?」
「そう。二ヶ月だけ。親がしつこくてね。式の前に籍を入れて、すぐに離婚する約束なの。お互いにその方が楽だから」
瑛里華は淡々と語り、それからレモネードを口にすると、小さく微笑んだ。突然のことに俺は鼓動が早くなる。だって彼女の笑顔を見たのは初めてだったから。
「それにしても……寝てると思ってたのに、気付いていたのね」
「どうかな。ついさっきまでは確信が持てなかった」
「ということは、私の反応でバレたのね……」
瑛里華は息をふうっと吐くと、頬杖をついて目を閉じた。
どうしてキスをしたのか……そう聞きたかったのに、言葉にする前に譲さんが戻って来てしまったため、グッと喉の奥へ飲み込む。
「申し訳ない。急用で出ないといけなくて」
「構いません。タクシーで帰りますから」
「ありがとう。では来週からよろしくお願いします」
「こちらこそ」
譲さんの姿が見えなくなると瑛里華も立ちあがろうとしたため、俺は思わず手を掴んでしまう。どうしてそうしたのか、自分でもわからなかった。
「もう少しゆっくりしていきませんか?」
暫しの沈黙の後、瑛里華は首を横に振った。
「そろそろ終電の時間なの。もう帰らないと」
俺の中で焦りが生まれる。ここを逃したら、彼女と向き合って話すことは一生できない気がしたのだ。
「お、俺が今からあなたにぴったりなカクテルを作るから、それがもし気に入れば、もう少し話をしませんか?」
瑛里華は眉間に皺を寄せて、相当悩んでいるように見えた。だけどこのチャンスを逃すわけにはいかない。
「……わかりました」
俺はガッツポーズをしながら、必死になって頭を回転させる。瑛里華の心を掴むカクテルーーバーカウンターの中で考えを巡らせ、これしかないと思った。
俺はシェーカーを手に取り、材料と氷を入れるとシェークを始める。
彼女の視線を痛いほどに感じ、緊張して体がこわばるのを感じていた。
カクテルグラスに注ぐと、それを彼女の前に差し出す。
「お待たせしました。フロリダです」
彼女はグラスをじっと見つめてから、再び俺の方へ目を向ける。
「カクテル言葉は?」
「『元気』、それからもう一つ、『思いを馳せる』」
それを聞くと、彼女は目を細めながらグラスを手に取り、口に含んだ。
「……おいしい」
「オレンジとレモンがベースになってるんだ」
「甘酸っぱいのね……」
それから口角を少し上げてから、小さく息を吐く。
「いいわ、終電は見送ることにする」
あぁ良かった……なんとか彼女を引き止めることに成功し、ホッと胸を撫で下ろした。
* * * *
フロリダを眺めている横顔は、あの頃のままだった。
「永島さんって、俺のこと嫌ってると思ってたよ」
「……あなたみたいに自分に正直に生きている人は嫌いじゃないわ。私にはないものを持っているから」
「俺からすれば、永島さんの方がしっかり地面を踏み締めて生きているように思うけど」
「それはどうかしら……今は何が正しいのかもわからないもの」
昔は頑ななその姿が、自分の意志を持っている強さに見えた。だが今は、その姿にどこか脆さを感じる。
「あなたはどうなの? もう結婚はした?」
「生憎、そういうものとは縁遠いんだ」
「バーテンダーなのに? 恋人は?」
「今は一人が気楽で」
「……意外ね。先生と空き教室でイチャイチャしてた人の発言とは思えないわ」
「どうかな。軽い関係の方が楽なのは今も変わらないかな」
「……つまり女には苦労してないってことね」
どこか寂しげな様子の瑛里華に、俺は意を決してあのことを尋ねた。
「あの時どうしてキスしたの?」
彼女の動きがピタリと止まり、視線だけが泳ぎ始める。
「それに……俺のポケットから取っていったものがあるよね」
そこまで言うと、視線すらも止まり、ただ下を向いた。
「……帰るわ」
「えっ……ちょっ……永島さん!」
突然立ち上がると、足早に店を後にする。ここで彼女を帰したらいけないような気がして、俺は慌てて追いかけた。
エレベーターホールで立ち尽くす瑛里華の腕を掴み自分の方へ向かせると、彼女は泣きそうな顔を見られまいとそっぽを向く。
あぁ、なんでこうなるんだ……あの頃の懐かしい気持ちが再燃し始めた。彼女の本当の顔が知りたかった……ただそれだけだったはずなのに、今は何故かすごく胸がモヤモヤする。
譲さんと結婚するから? いつまでも心を開いてくれないから? そのどちらでもない。だってきっと理由は俺の中にあるんだ。
「なぁ……あの時のキス、返してくれない?」
「それってどういう意味……?」
「こういう意味だよ」
俺は瑛里華の唇を塞いだ。長いようで短いキス。でもあの日よりは確実に深いキスだった。
瑛里華は呆然としたまま、唇にそっと触れる。
「あぁ……こういう感じだったんだ……」
それから頬を染め、下を向いた。その仕草を愛おしく感じて息が出来ない。
「どういう意味?」
瑛里華の髪に触れ、離れて行かないように指に絡める。
「先生と島崎くんのキスを見てからずっと気になってた……キスってどんな感じなのかなって……だって先生、すごく気持ち良さそうな顔してたから……でもやっぱりあの日と同じね。煙草の匂いがした……。まだ吸ってるの? 健康には良くないって言ったじゃない」
あの日のことが脳裏に蘇る。柔らかな唇の感触、甘い匂い……胸が締めつけられ、呼吸すら忘れてしまいそうだった。
考えてみれば、あの瞬間に世界が変わってしまったのかもしれない。いつまで経っても心の中から瑛里華の姿が消えることはなかったから。
「……あぁ、だからあの時持って行ったのか」
そしてあれと一緒に、瑛里華はきっと俺の心を持ち出したんだ。
チンという音とともにタイミング良くエレベーターが到着する。瑛里華は俺の指をすり抜け、エレベーターの方に歩き出した。
「永島さん! あれ、返してくれないかな?」
そう言うなり、エレベーターの扉が閉まる。最後に見えたのは、あの日と同じ、彼女の小さくなった背中だけだった。
その熱意が伝わったのか、大学卒業後もここで働かないかと声がかかったのだ。ただ就職が決まっていたので、副業という形で店に留まった。
それに意外と夜の仕事は楽しかったりする。カクテルを通しての人との関わり、人間模様は俺の中に欠けていた何かを補ってくれるような気がした。
だからまさかここで彼女と再会するとは夢にも思わなかったんだ。
* * * *
このホテルの次期社長の副島譲の就任が決まると同時に結婚も発表された。
彼とは昔から仲が良かったため、突然のことに驚きを隠せなかった。だって結婚する予定はないと俺に断言していたから。
その発表から数日後、譲さんが女性を同伴して久しぶりにバーに来店した。自身はカウンター席に座り、女性を手招きで呼び寄せる。
「譲さん、久しぶりじゃないですか」
「あぁ、いろいろ忙しくてね。島崎には紹介しておくよ。今度結婚することになった永島瑛里華さん。ちょっと話があったから来てもらったんだ」
その名前を聞いた瞬間、俺は時間が止まったかのような錯覚を覚える。それから譲さんの隣に座った女性にゆっくりと視線を移行させる。
切長の瞳と長い黒髪、緩やかに体のシルエットを映し出す紺色の艶のあるワンピースは彼女によく似合っていた。
あの頃と変わらない、クールビューティーのイメージのまま大人になった瑛里華に、俺は懐かしさと親近感を覚える。だが彼女は全く周りを見ようとはしないため、俺の存在にも気付いていないように思えた。
「何を飲まれますか?」
「そうだな……俺はジントニックで。永島さんはどうされますか?」
「私はあまり強くないので……ノンアルコールでお任せしてもよろしいですか?」
「だってさ。よろしく」
「かしこまりました」
カクテルを作りながら、俺は二人の会話に耳を澄ます。平静を装うものの、息を吸うのもやっとだった。
「ではとりあえず明日ということで良いですか?」
「はい、早い方が離婚もしやすいですから。それよりも約束は大丈夫でしょうか。私、家事は何も出来ませんので」
「えぇ、それは構いません。専門の方を雇ってください。新居も二ヶ月だけですからね、お互い気兼ねなく、ホテルにでも泊まっているような感覚でいましょう」
「そうですね」
どういうことだ? まるで二人の会話は離婚前提の結婚のように聞こえる。
出来上がったカクテルをグラスに注ぎながら、鼓動が早くなるのを感じる。二人の前にグラスを差し出すが、未だに瑛里華と目が合うことはなかった。
「ありがとう」
「お客様にはノンアルコールのレモネードをご用意させていただきました」
その時にようやく瑛里華は俺の顔を見た。そしてゆっくりと目を見開くと、両手で口元を押さえた。
「島崎が作るカクテルは絶品ですよ。この間の大会で準優勝をしたくらいの腕前ですから」
「島崎……?」
「ノンアルコールのレモネードにもカクテル言葉ってあるのか?」
「ええ、もちろん」
それから俺は瑛里華の瞳を真っ直ぐ見つめるとこう言ったんだ。
「レモネードのカクテル言葉は『キス』」
その瞬間、瑛里華は顔を真っ赤にして俯く。彼女の反応を見て俺はようやく確信した。やっぱりあの日、空き教室に来たのは瑛里華だったんだ。そして彼女は俺にキスをして逃げていった。
「あっ、ちょっと失礼」
音は鳴らなかったが、電話がかかって来たようで譲さんは店から出て行く。二人きりになり、気まずい空気が流れ出した。
その空気を打ち破るように口を開いたのは瑛里華だった。
「……まさかこんな所で島崎くんと再会するとはね」
「同感。知らなかったよ。譲さんと結婚するんだ」
「……契約結婚だけどね」
「契約?」
「そう。二ヶ月だけ。親がしつこくてね。式の前に籍を入れて、すぐに離婚する約束なの。お互いにその方が楽だから」
瑛里華は淡々と語り、それからレモネードを口にすると、小さく微笑んだ。突然のことに俺は鼓動が早くなる。だって彼女の笑顔を見たのは初めてだったから。
「それにしても……寝てると思ってたのに、気付いていたのね」
「どうかな。ついさっきまでは確信が持てなかった」
「ということは、私の反応でバレたのね……」
瑛里華は息をふうっと吐くと、頬杖をついて目を閉じた。
どうしてキスをしたのか……そう聞きたかったのに、言葉にする前に譲さんが戻って来てしまったため、グッと喉の奥へ飲み込む。
「申し訳ない。急用で出ないといけなくて」
「構いません。タクシーで帰りますから」
「ありがとう。では来週からよろしくお願いします」
「こちらこそ」
譲さんの姿が見えなくなると瑛里華も立ちあがろうとしたため、俺は思わず手を掴んでしまう。どうしてそうしたのか、自分でもわからなかった。
「もう少しゆっくりしていきませんか?」
暫しの沈黙の後、瑛里華は首を横に振った。
「そろそろ終電の時間なの。もう帰らないと」
俺の中で焦りが生まれる。ここを逃したら、彼女と向き合って話すことは一生できない気がしたのだ。
「お、俺が今からあなたにぴったりなカクテルを作るから、それがもし気に入れば、もう少し話をしませんか?」
瑛里華は眉間に皺を寄せて、相当悩んでいるように見えた。だけどこのチャンスを逃すわけにはいかない。
「……わかりました」
俺はガッツポーズをしながら、必死になって頭を回転させる。瑛里華の心を掴むカクテルーーバーカウンターの中で考えを巡らせ、これしかないと思った。
俺はシェーカーを手に取り、材料と氷を入れるとシェークを始める。
彼女の視線を痛いほどに感じ、緊張して体がこわばるのを感じていた。
カクテルグラスに注ぐと、それを彼女の前に差し出す。
「お待たせしました。フロリダです」
彼女はグラスをじっと見つめてから、再び俺の方へ目を向ける。
「カクテル言葉は?」
「『元気』、それからもう一つ、『思いを馳せる』」
それを聞くと、彼女は目を細めながらグラスを手に取り、口に含んだ。
「……おいしい」
「オレンジとレモンがベースになってるんだ」
「甘酸っぱいのね……」
それから口角を少し上げてから、小さく息を吐く。
「いいわ、終電は見送ることにする」
あぁ良かった……なんとか彼女を引き止めることに成功し、ホッと胸を撫で下ろした。
* * * *
フロリダを眺めている横顔は、あの頃のままだった。
「永島さんって、俺のこと嫌ってると思ってたよ」
「……あなたみたいに自分に正直に生きている人は嫌いじゃないわ。私にはないものを持っているから」
「俺からすれば、永島さんの方がしっかり地面を踏み締めて生きているように思うけど」
「それはどうかしら……今は何が正しいのかもわからないもの」
昔は頑ななその姿が、自分の意志を持っている強さに見えた。だが今は、その姿にどこか脆さを感じる。
「あなたはどうなの? もう結婚はした?」
「生憎、そういうものとは縁遠いんだ」
「バーテンダーなのに? 恋人は?」
「今は一人が気楽で」
「……意外ね。先生と空き教室でイチャイチャしてた人の発言とは思えないわ」
「どうかな。軽い関係の方が楽なのは今も変わらないかな」
「……つまり女には苦労してないってことね」
どこか寂しげな様子の瑛里華に、俺は意を決してあのことを尋ねた。
「あの時どうしてキスしたの?」
彼女の動きがピタリと止まり、視線だけが泳ぎ始める。
「それに……俺のポケットから取っていったものがあるよね」
そこまで言うと、視線すらも止まり、ただ下を向いた。
「……帰るわ」
「えっ……ちょっ……永島さん!」
突然立ち上がると、足早に店を後にする。ここで彼女を帰したらいけないような気がして、俺は慌てて追いかけた。
エレベーターホールで立ち尽くす瑛里華の腕を掴み自分の方へ向かせると、彼女は泣きそうな顔を見られまいとそっぽを向く。
あぁ、なんでこうなるんだ……あの頃の懐かしい気持ちが再燃し始めた。彼女の本当の顔が知りたかった……ただそれだけだったはずなのに、今は何故かすごく胸がモヤモヤする。
譲さんと結婚するから? いつまでも心を開いてくれないから? そのどちらでもない。だってきっと理由は俺の中にあるんだ。
「なぁ……あの時のキス、返してくれない?」
「それってどういう意味……?」
「こういう意味だよ」
俺は瑛里華の唇を塞いだ。長いようで短いキス。でもあの日よりは確実に深いキスだった。
瑛里華は呆然としたまま、唇にそっと触れる。
「あぁ……こういう感じだったんだ……」
それから頬を染め、下を向いた。その仕草を愛おしく感じて息が出来ない。
「どういう意味?」
瑛里華の髪に触れ、離れて行かないように指に絡める。
「先生と島崎くんのキスを見てからずっと気になってた……キスってどんな感じなのかなって……だって先生、すごく気持ち良さそうな顔してたから……でもやっぱりあの日と同じね。煙草の匂いがした……。まだ吸ってるの? 健康には良くないって言ったじゃない」
あの日のことが脳裏に蘇る。柔らかな唇の感触、甘い匂い……胸が締めつけられ、呼吸すら忘れてしまいそうだった。
考えてみれば、あの瞬間に世界が変わってしまったのかもしれない。いつまで経っても心の中から瑛里華の姿が消えることはなかったから。
「……あぁ、だからあの時持って行ったのか」
そしてあれと一緒に、瑛里華はきっと俺の心を持ち出したんだ。
チンという音とともにタイミング良くエレベーターが到着する。瑛里華は俺の指をすり抜け、エレベーターの方に歩き出した。
「永島さん! あれ、返してくれないかな?」
そう言うなり、エレベーターの扉が閉まる。最後に見えたのは、あの日と同じ、彼女の小さくなった背中だけだった。



