その夜は、夏期講習に向けた決起会だった。
メンバーは大学生バイトの講師ばかり。授業を終えたのが22時半、そこから飲み始め、気づけば日付をまたいでいた。酔いに任せて駅までぞろぞろと歩いてきたその集団は、塾講師とはいえ皆私服で、名残惜しさに、誰も改札を通ろうとしない。なんとなく立ち止まって、くだらない話で時間を繋いでいた。
澄川千晴もその輪の中にいた。会話の間に、ICカード入りの財布を探してカバンを見ていた。
「桐椰くんくんてさあ、お姉さんいるでしょ」
その名前に、思わず顔を上げてしまう。
桐椰遥は、今日でぴったり試用期間の空ける新入りだ。人懐こい笑顔と態度と事務処理能力の高さで、すっかりバイトに溶け込んでいる。それでもって顔立ちが整い、末っ子らしい可愛さもあるという出来過ぎな要素が、桐椰を人気者にしていた。
その桐椰に絡んでいるのは、バイト最年長の沢木だ。夜の照明に映える濃い口紅とほくろは、いつにも増して色っぽい。肩に寄りかかるようにして、その唇を桐椰の唇に寄せる。
それを見ると、千晴の心臓は、まるで凧糸に締め付けられたように苦しくなる。
でも、桐椰はするりとそれを躱す。苦笑いと一緒に、さりげなく顔を背けて。
「いないです。よく言われるんですけど」
「えー! じゃ妹」
「それも言われますけど、いないです。男三人兄弟なんで」
「それでなんでそんな可愛いのー」
沢木は、それでも負けじと顔を覗きこむ。
それをじっと見つめている自分に気付き、千晴は慌てて、カバンの中に視線を落とし直した。
しかし、探せど探せど、肝心の財布が見当たらない。
え、あれ。一気に冷や汗が吹き出し、慌ててカバンの中を整理する。ペットボトルやハンカチを一生懸命どけて、財布が埋まっていないか探す。
その捜索は徒労に終わった。スカートだからポケットもない。でも飲み会でお金を払ったときはあった。ということは、置き忘れたに違いない。
「そろそろ終電近いんで、帰りましょう。俺こっちで、あとは――」
桐椰の視線が千晴を見た。桐椰とは路線が同じだった。
「私、ちょっと……お店に忘れ物しちゃって」
でも、声をかけられてはいけない。慌てて遮り、顔を背ける。沢木が「えー、大丈夫―?」と声を上げる。それに激しく頷いた。
「取りに行くんで、私は、これで。お疲れ様でした」
桐椰の顔を見てはいけない。そう自分に言い聞かせながら、でも心配されているとも思いたくて、視界の隅に桐椰を捉え続ける。桐椰の視線はこちらに向いている……気がした。その事実にほんの少し自惚れてしまう自分がいる。それでも、決して顔を見ないようにしながら、背を向けた。
幸いにも、居酒屋はまだ営業中だった。案の定忘れられていた財布を受け取り、何度も頭を下げて店を出た後に、もう一度スマホを見て、がっくりと肩を落とす。終電はもうない。
「……歩いて帰ろう」
千晴はティシャツの胸元をつまんだ。夏の夜の湿りに、走った汗も交ざっていた。
一人暮らしのマンションに帰るまで、JRで1駅分、徒歩40分。一人で歩くには遠い距離だ。残念ながらイヤホンはバッテリー切れだし、モバイルバッテリーを忘れたのでそもそもスマホの充電を消費するのも怖い。長く退屈な40分の始まりだ。生温い風を感じながら、千晴は、路線に沿ってゆっくりと歩き出す。
そうして、ほんの十分と経たないうちに、駅前に戻ってきた。しかし既に誰もいない。終電に飛び乗って帰ったのだろう。冷房の効いた車内のことを考えると、余計に背に汗が滲む。
……さすがに、わざとらしかったかな。
意味もなく立ち止まってしまいながら、桐椰のことが頭に過る。
桐椰とは、7月までは、そこそこ仲が良かったと思う。自惚れではない。千晴がバイトを始めたのは桐椰よりほんの2ヶ月前で、試用期間が被っていたのと、年も同じだったのとで仲良くなった。授業間の休憩はいつも喋っていたし、帰り道が一緒だったのも一度や二度ではない。千晴が敬語を遣わずに話す数少ない同僚だった。
でも、7月に入ってから全く喋っていない。正確には、千晴が意識して距離を取った。それからもう、1ヶ月が経とうとしている。
桐椰は、急に無視されるようになったと気にしているだろうか。寂しく思う気持ち以上に、申し訳なさがずっと胸にある。でも仕方がない。
バイトだって、集団生活だから。
もし自分に、はっきりと気持ちを口にする勇気があれば、なにか違っただろうか。スーパーヒーローになりたい子どもみたいな、馬鹿げた“もしも”を胸に抱いたとき、改札と反対側のコンビニ扉が開くのが見えた。
聞き慣れたメロディが聞こえてくる。視線を向けたことに特別な意味はなく、その先にあるのもごく日常的な光景である、はずだった。
「――澄川?」
それなのに、桐椰の声で、体ごと固まる。
終電で帰ったんじゃなかったんだ。そう驚くと同時に、違和感を抱いた。桐椰の声だ、と確信したはずなのに、違う。こちらへ向かって歩いてきた人は、桐椰ではない。いや、その声も仕草も桐椰だと思う。でも……。
「びっくりした。本当に……本当に、そのままだなあ、澄川」
桐椰の声は上擦っていた。しかも呼び方が違う。桐椰には「澄川さん」と呼ばれていたのに。
おかしなところはそれだけではない。桐椰はマスクをしていた。髪だってワックスで固めて、おじさんみたいだ。しかもスーツまで着ている。
なぜ、一人で、こんなところにそんな格好に着替えているのか。
桐椰は「よかった、会えて」と呟いてレジの向こうの時計に視線をやった。
「今からちょっと飲み行かない? 30分くらい」
「飲みに行かないって……」
もちろん話しはしなかったけれど、私達、ほんの1時間前まで同じ店の同じ座敷に座ったよね? そう答えたかったけれど、出てこなかった。
もしかして、待っててくれたの? 緊張と一緒に、そう自惚れた。お陰で、この状況に対する違和感は頭の片隅に追いやられていた。
「いや、分かるんだけど、驚くのは」
桐椰も少し緊張して見える。いつも余裕たっぷり、掴みどころのない桐椰には珍しい。
「あの……さ。信じられないかもしれないけど、聞いてほしくて」
「……何、を?」
返事をしながら、口から飛び出そうなほどに心臓が跳び上がった。
桐椰は、内緒話でもするように、そっと屈む。拍子にオレンジの香りがして、一瞬で胸が熱くなった。
「俺、タイムスリップしてきたんだ」
*
歩くと40分、たった一駅分の距離は、積もる話をするには短すぎる。
「だから――びっくりしたんだ。まさかこんな時間に澄川がいるなんて思わなかったし」
静まり返った線路の隣を歩きながら、桐椰は、手持無沙汰にビニール袋を揺らしていた。円形の缶と、スプレーと、四角い袋が透けている。社会人のエチケットグッズといったところだ。リュックはよく見る桐椰の持ち物だけれど、いかんせん無骨なので、同じデザインの別物かもしれない。
そこからもう一度、桐椰の横顔に視線を戻す。まだ信じきれなくて、でもあまりに真剣に話されて、否定することはできなかった。
初めてタイムスリップしてしまったのは先週の金曜日。仕事でちょうど地元に戻っていて、しかしクライアントの接待が長引いて、目と鼻の先で電車を逃してしまった後、仕方なく改札口まで戻ってくると、様子が変わっていた。同じなのは自分の格好と持ち物だけで、スマホに表示されている西暦は5年前だった。
先週は、当て所なく駅周辺を彷徨った。しかし、タクシーで実家に戻ると、変わらぬ景色があった――また未来に戻っていたというのだ。そして今週、また終電を逃すと、5年前に戻っていた……。
終電を逃した瞬間から、実家に帰るまでのほんの数時間だけ。その間だけ、桐椰は今にやってくるという。
桐椰は悪い冗談を言う人ではない……と思う。軽い冗談で笑わせてくれることはあっても、こんな風に大掛かりなドッキリを仕掛ける人ではない。
でもタイムスリップ……。はいそうですかと信じるには突飛過ぎる。まさかそんな漫画か映画みたいなことが起こるものだろうか。首を傾げながら、でもやっぱり、否定する気にはなれない。
「いまの桐椰くん……は、25歳?」
「そう。年食ったと思う?」
「……あんまり」
むしろ全く変わらない。桐椰はもともと落ち着いた雰囲気があるし、スーツ姿も見慣れている。髪型が変わっていなければ、いまと何も変わらないかもしれない。
あとはマスクくらいだ。顔を見上げて、「ん?」と目を細められ、慌てて目を逸らす。
「ていうか、マスクだと、分かんない。……なんでマスク?」
「ああ、社会人になると癖でずっとマスクする人いてさ。電車の中とか。だから、なんかもう、半分普通になってる」
「……そうなんだ」
言われてみれば、塾長はいつもマスクをしている。そんな細かいリアリティが、“嘘みたいな話”に現実味を与えた。
桐椰は「でも暑いな」と言いながら軽くマスクを引っ張った。マスクの下に少し見えた顔は、やはり桐椰で間違いない。そのおじさんみたいな髪型をやめれば、まだ二十歳と名乗れそうだ。でも社会人になったらそうするものなのかもしれない。
「――それよりさ、澄川」
突然、桐椰の声のトーンが変わった。
「5年前って……多分さ、俺達、なんか喋んなくなってたよね」
心臓が跳ね上がる。少し大人びた桐椰に胸を高鳴らせているから――ではなかった。
覚えてたんだ、と思う。隣の桐椰にとって、そんなことはもう5年も前の、ほんの些細なことであるはずなのに。
些細なことでは、なかったのだろうか。なぜ。ただ仲が良かったから? 急に無視されたように感じたから? 挨拶はしていたから嫌われたなんて思わないはずだけれど、それでも……桐椰にとって特別なことがあったから?
「あれって、なんでだっけ」
なんて、自意識過剰な想像に浸っていたって仕方がない。
ええ、と千晴は笑って誤魔化した。
「なんか、シフトが合わなくなったっていうか……忙しくて、私も早く帰ってるっていうか。それだけだよ」
「ああ、そうなの? んー、でもなんか、急にぱったり話さなくなった気がしてたんだよな」
桐椰は納得できなさそうに頭を掻いていた。
「でも、そっか。俺がなんかしたんじゃないなら、よかった」
「全然。そんなことは、全然なかったから、安心して……っていうより、ごめん」
「いや、いいんだけどさ。あれなんでだったんだろうって、気になってたんだ。でも、そっか」
それならよかった、と桐椰はもう一度静かに繰り返した。
それから、たわいない話をしながら沿線を歩いた。まるでこの1ヶ月がなかったかのように、少し前にそうしていたように、塾や大学の話をした。桐椰は仕事の話もしてくれた。
「どんなことしてるの? 会社員」
「いまはね、んーと、弁護士」
「うっそ、すごい」
確かに桐椰は法学部だけれど、弁護士になるとまでは決めてないと話していたのに。でも5年後はなってるかもよ、なんて今の桐椰に話すとどんな反応をするだろう。……話すことはないだろうけれど。
「弁護士って、裁判とか行くの? どんな感じ?」
「裁判も普通にあるよ。でも普段デスクワークばっかで、ずっとパソコン見てる。めちゃくちゃ肩凝る」
馬鹿みたいな質問をしてしまったのに、桐椰は笑ってくれた。大人になっても、そうやって優秀さを鼻にかけることはない。
ああ、5年経っても、桐椰は格好いい。そう分かると余計に、今すぐ触れたくなるほど格好よく思えた。
40分はあっという間に過ぎ、千晴の足はゆっくりと速度を落とす。シャッターの下りた駅前で、やがて桐椰も止まる。
帰りたくなかった。いつまでももっと話していたかった。いまの桐椰とは話すことができないから、せめて5年後の桐椰とずっと話していたかった。
「……来週も」
そんな千晴の気持ちを汲んだように、マスクの裏から桐椰が喋る。
「来週も、終電逃してくれない?」
答えは決まっていた。
「……うん」
いつもより少し長い夜に、約束をした。
*
キュキュキュとホワイトボード上で黒いマーカーが動く。腕捲りをした桐椰が図形と数式を書く。
「こうやって図描いたほうが絶対早いし確実だから」
「えー、やだ、面倒くさい」
「面倒くさくても書くの」
その声を聞きながら、千晴は少し浮ついた気持ちで授業の準備をする。
5年後の桐椰がタイムスリップしてきたのが、先週の金曜日のこと。あれから既に2週間、今日で3回目になる。前回、半信半疑で行った駅前に、桐椰はやはりスーツ姿で現れた。会えてよかった、とはにかむ顔に、胸がきゅうと苦しくなった。線路沿いの道を歩きながら話題に困って「誰もいないね」とつまらないことを口にして、でも「澄川がいなかったら世界滅亡したって勘違いしてそう」とくだらないことを返してもらう、この夏休みのどんな瞬間よりも過ぎ去ってほしくないとき。
毎週毎週、その時間を想像して、浮足立つ自分がいる。
「お疲れー、澄川ちゃん」
「お疲れ様です」
「なんかいいことあったの? 機嫌いいね」
やってきた沢木が訝しむ顔も気にならない。笑って小首を傾げた。
「なんでもないです」
*
0時40分過ぎ、スーツ姿の桐椰は、駅前のコンビニに入ってくる。決まってスーツ姿で、マスクをして、相変わらずおじさんぽく前髪をワックスで固めている。今日は、妙に重たそうな腕時計もつけていた。
千晴が顔を上げると、桐椰もすぐに気がつく。
「おつかれ、澄川」
マスクを外さないまま、目だけで上手に笑う。つられて笑い返す。
「おつかれ、って。いまの桐椰くんにも声かけてるから、なんか変な感じ」
「そっか、そうだよね」
桐椰は、待ち合わせ場所代だと言ってペットボトルの水を一本買う。千晴もそれに倣おうとして「じゃ俺まとめて買うよ」と指だけ伸ばされた。指が長いし、手のひらも大きい。そんな些細なことにときめきを感じていると「ありがと」と蚊の鳴くような声になってしまった。
ただ終電後に会っているだけなのに、内緒でデートをしているみたいだ。
コンビニから出ながら、桐椰がペットボトルを渡してくれる。受け取るときに、手のひらが見えた。
「手、アルコールシートあげようか?」
「ん? ああ、どうしたんだろ。だいじょぶだよ」
どうしたってこともないのに、と小首を傾げる前に、桐椰は「それよりごめんね」とペットボトルのキャップを開ける。
「俺が終電後しか来れないせいで、一駅歩かせる羽目になって」
桐椰に会って、話せるのは、金曜日の終電後だけ。お陰で先週は金曜日が待ち遠しかった。金曜日さえなければ、ただ夏休みが過ぎ去ってしまうだけなのに、それでもちっとも無駄に感じることはない。
だから、と頷くのもおかしな気はしたけれど、千晴は頷く。
「いいよ、一駅だし。桐椰くんこそ、仕事終わりで疲れてないの?」
「ちょっと辛くなってきた、年かも」
「まだ25歳なのに」
「もう25歳だよ。こんな距離歩くことない、タクってる」
胸には、ほんのりと淡い期待が芽生える。タイムスリップした桐椰が、わざわざ千晴と歩いて帰ることを選ぶ理由。
「……タイムスリップして、やりたいこととかないの?」
それを桐椰に口から聞けないか。懸命に平静を装った。
「せっかく5年前だから。でも終電後しか来れないから、何もできないのかな」
「……やりたいこと」
意外にも、桐椰は考えてもなかったような顔をした。そもそもなぜタイムスリップしてしまうのか、その謎も追わなくていいのかとは思うけれど、あえて何も言わないことにしている。この手のものは、原因を突き止めると終わってしまうものだ。
「……夜中の公園とか」
「あ、ちょっと楽しそう」
「この間、通ったよね? ちょっと寄り道しよ」
桐椰は早速マップを確認し始める。その横顔はマスクがあっても子どもっぽく、今の桐椰と変わらなく見える。年上なのに可愛い、と思ってしまいながら、でもずっと見つめ続けるのも気まずく、千晴もマップを確認した。
隣駅まで半分あたりのところで公園に寄った。マップだと小さく見えたのに、滑り台つきのアスレチックに鉄棒、水遊び場まであった。前回通ったときは気が付かなかった。桐椰に夢中だったせいだろう。
「俺、結構運動神経いいよ」
「よさそう。でも頭、気を付けないと」
長身の桐椰は、一番高い鉄棒の前に立っても「駄目なやつだ」と笑って、軽く懸垂だけして終わらせた。千晴は、そのふたつ隣の鉄棒の上に座る。
「なんで話しかけてくんなくなったの?」
二度目のその質問は、唐突だった。
驚いて、顔を向けるより先に、鉄棒から滑り降りた。桐椰は鉄棒にぶらさがったまま軽く屈んで、でもマスク越しにじっと千晴を見ていた。
しばらく悩みたかった。というか、言いたくなかった。だから、桐椰が気遣って話題を変えてくれることを期待した。
でもどうやら、桐椰は、空気を読んでくれる気はないらしい。沈黙は重く、息苦しく、千晴はすぐに音を上げた。
「……沢木さん、桐椰くんのこと好きだって知ってた?」
「ぽいなとは思ってた」
桐椰の反応は軽く、至極どうでもよさそうだった。桐椰のことだ、異性にモテるのは慣れているに違いない。
「……それで?」
「……それで、って」
一から十まで説明することに、恥ずかしさのようなものがあった。たったそれだけのことで、と呆れられてしまう気もした。でも桐椰は視線を逸らしてくれない。
仕方なく、続ける羽目になる。
「だから……そういうことだよ。沢木さんは桐椰くんのこと好きだから。他の子が話しかけると、あんまよくない」
「あんまよくないって、なんか困るの、澄川が」
「……困るよ」
やっぱり、桐椰みたいな人には分からないのだ。つい、呆れるような、諦めるような気持ちに襲われてしまう。
「桐椰くんが入ってくる前、沢木さんが嫌いな人がバイトにいたの。その人と一緒にいただけで、ずっと……ずっと、バイト無視されて、空気重いし、代講だって見つからなかったし……」
塾の講師は塾長を除いてバイトだ。生徒の時間割がバイトが自由に組むが、生徒によっては曜日の縛りがあり、都合がつかなければバイト同士で代理講師を探して調整する。2月、バイトに入りたての千晴は、人見知りながらに必死に順繰りに話しかけたけれど、無視されるか断られるかで終わった。泣く泣く友達との旅行を諦め、後から原因を聞いた。
『もっと空気読んだほうがいいよ、澄川さん』
「その人、沢木さんの『推し』と二人で飲みに行ってたんだって。それだけでバイトがやりにくくなるんだよ」
そんなことは、珍しいことではない。
小学生のときだってそうだった。友達が好きな子に好意を向けられるのは「裏切り」だと言われた。高校生になってもそうだった、友達の彼氏と喋っていると、その友達は移動教室に誘ってくれなくなった。
異性が絡んだとき、自分の気持ちは押し殺したほうがいい。目立ったり発言力があったりするわけでない自分の場合は特に。千晴はそう学んでいた。
『桐椰くんって格好いいよね』
だから、1ヶ月前、沢木にそう言われたときは、ピンときた。すぐにその意図を理解して、慌ててその場しのぎの答えを返した。
『私は、年上が好きなんで。あんまり、です』
ややあって桐椰は「なるほどね」と呟く。
「……そういうこと」
「……でも、ごめん、桐椰くんは何も悪くない」
怒っているかもしれないと、慌てて付け加えた。
「私の……私だけの都合。だから……5年も気にさせて、ごめん」
「……いや、いいよ」
そう言うわりに、桐椰の表情は硬かった。
「そういうのがあるのは、なんか分かるから。……馬鹿馬鹿しいけど。馬鹿にしちゃいけないのは知ってる」
桐椰は鉄棒から手を離した。立ち上がり、手の平を軽くこすり合わせる。
「帰ろっか」
怒っているかもしれない。もう一度謝ろうかと口を開いたけれど、でも謝ること以外できなくて、口を閉じる。
桐椰も、もう一度口を開くことはなかった。
*
次の日、千晴は、バックヤードから授業中の桐椰を見つめていた。
「おつかれさまー」
沢木に声をかえられ、我に返る。一瞬心臓が凍えたけれど、杞憂だった。沢木は着替えて戻ってきたばかりで、スマホを見ている。
それはそれとして、沢木に代理講師の依頼をしたかった。千晴は慌ててシフト表を取り出して時間を示す。
「すみません沢木さん、金曜の4時半、代講に入ってもらえないでしょうか? 予定変えたいって連絡があったんですけど、私空いてなくて」
「ん? あ、おっけおっけ。大丈夫だよ」
沢木はすぐに頷いてくれた。ロッカーから自分のシフト表を取り出して書き込み、スマホにも入力する。いまどきシフト表が紙だなんて原始的な、と最初は思ったけれど、多分バトの出入りが激しいから結局費用対効果を考えると紙なんだ――と5年後の桐椰は話していた。
「科目は?」
「英語です。浪人の岩井くんって子ですけど」
「あー、あの超金持ちの子ね。いいよ、あの子全然できないから。予習とか要らないし」
「いま三人称単数です」
「やば。あれで医学部入りたいとか、金積む以外ないっしょ」
ほらね。千晴は心の中で、5年後の桐椰に伝える。桐椰と喋らずにいるから、こうして快諾してもらえる。
昨晩の桐椰は、あれから、あえてたわいない話を選んでいたように見えた。沢木の話題に触れず、駅前でも「また来週」とだけ言い残して闇に消えた。
来週――また来週、桐椰は変わらず現れるのだろうか。
「すみません、赤ペンあります?」
そこに、不意に桐椰が顔を出す。
5年後の桐椰とは別人だと分かっていても、それでも緊張する。そうでなくとも、桐椰に話しかけられるだけで、いつも胸の奥は熱くなるのだ。久しぶりに話すいまの桐椰、5年後の桐椰と毎週話している距離、そして昨日別れたときの気まずさ、色んなものがごちゃ混ぜになり、息が詰まった。
何も知らない桐椰は、少し申し訳なさそうに眉を八の字にしていた。
「インク切れちゃって。あと15分でコマ終わったら返せます」
「あ、これ使って」
そこについ、手にあるペンを差し出してしまったのは、ある意味混乱のせいだった。桐椰が困ってる、そう思って手を出した。桐椰もごく自然にそれを受け取る。
「ありがと」
愛想よく笑われ、つられて笑い返して、ペンを受け取る桐椰の指が千晴の指を掠めたことに心臓を高鳴らせて。
「桐椰くん、汚れてるよお」
沢木の声で、また、我に返る。
沢木は、まるでひったくるように桐椰の手をペンごと握った。唖然とする千晴の前で、桐椰の手を握りしめたままハンカチを取り出し、そっとその掌を撫でてやる。
「あ、どうもすみません」
桐椰は後頭部に軽く手を当ててはにかみ、沢木の手が離れてから「じゃ、戻ります」とバックヤードを後にする。途端、沢木は笑みを引っ込め、手早く荷物を片付けた。そのままバッグを持つ。
――やってしまった。そう気付いても遅い。
「あ、あの、沢木さん――」
「おつかれでーす」
千晴の掠れた声を遮り、沢木は乱暴にロッカー扉を閉め、教室を出て行った。
あ、まずいかもしれない。耳には、自分の心臓の音が響いていた。
*
その予感は、翌週金曜日、ぴたりと当たった。
「お疲れ様です……」
教室に入った途端、妙な空気に刺された。カウンターの塾長が「あー、澄川さん」と疲れた声と一緒に立ち上がる。
「さっき、岩井さんのお母さんから電話があって」
「あ、お休みとか……」
沢木さんに代講を頼んだ授業だ。いまは5時前、きっといつまでも来ないので連絡してみたら風邪を引いていた、そんなところだろう。岩井のような生徒にはよくあることだ。
と思ったら、塾長は馬鹿げた返事でも聞いたように眉を吊り上げた。
「いや、そうじゃなくて。4時半から授業入ってたのに先生が来ないって、苦情があったんだよ」
「え?」
唖然としたのは一瞬で、すぐに全身から冷や汗が噴き出た。沢木に代講を頼んだはず――いやそんなことより、岩井の母親はいわゆる“モンペ”に近いものがある。
その対応をしたのだろう、塾長は参ったような様子で額を押さえた。
「浪人中の貴重な勉強時間をどうしてくれるんだって、カンカンでした。今月の塾代がどうって話もされて、それは澄川さんと話すことじゃないかもしれないんだけど。こういうの、本当困るんで」
「す、みません……でも、私……」
沢木さんに頼んだはずです――そう続けようとしたとき「こんにちはあ」沢木が入ってきた。
沢木も、千晴と塾長の緊張した空気にすぐ気付いた。「なにかあったんですか?」と濃く描いた眉を寄せる。
代講、頼みましたよね。はっきりとしたその苦情は、でも言葉にできずに一瞬胸の内に留まる。
「……あの、沢木さん……代講……」
「え、うん。だから来たんだけど」
「え、だから、もう5時で……」
沢木は眉根を寄せ、スマホを取り出す。指先で軽く画面をタップした後、一人で軽く頷いた。
「5時半からでしょ?」
ほら、と画面を見せられた。「5時半 代講」と表示されていた。
――どっちだっけ。それを目にした瞬間、千晴の冷や汗が増した。4時半から、と伝えたはずだ。でもなんて言ったか自信がない。特に手書きのシフト表は時間割が細かく、実際に読み間違えてしまったこともある。じゃあ、今回は?
「その場で登録したし。間違えるはずなくない?」
沢木のほうは自信満々で、呆れたとでも言いたげだった。
「なに、代講の時間間違えたの? そういうのやめてよお、そういうときの保護者、他のバイトにも怒るんだからさ」
私が間違えた。千晴の首筋を、滝のような汗が流れるのを感じる。キャミソール越しのシャツがびっしょりと濡れていそうだった。
沢木の冷たい視線を感じ、息が詰まった。泣きそうだった。どうしよう、間違えちゃった、塾長にも迷惑かけて、岩井くんの浪人中の時間が大事なのもそのとおりで、それなのに、うっかりミスで。
塾長は「これだからバイトは」と言いたげな失望を浮かべながら受話器に手をかける。
「ちょっと、改めて連絡しますって岩井さんには言ってあるから。こういうのは早めに連絡必要だから、いったん二人とも授業の準備してもらって……」
「4時半って言ってましたよ」
涙が零れそうになったとき、桐椰の声が割り込んだ。
桐椰は授業中らしく、マーカーを手に持ったままだった。
「4時半って言ってました。先週」
日頃人懐こい桐椰はにこりとも笑まず、冷ややかに沢木を見ていた。剥き出しのマーカーを手に持ったままだった。
「僕、ちょうど澄川さんに赤ペン借りたんで、聞いてました。4時半って言うの」
冷や汗で濡れた千晴のシャツは元に戻らない。その代わり、出る前の涙は引っ込んだ。
塾長はしばらく無言だった。沢木も、真っ赤な口紅を引いた唇をきつく結んだままだ。それを見た桐椰は一度閉口する。
「いま授業やってるんで、静かにしてください」
桐椰は踵を返した。静まり返ったカウンターには「ごめんごめん」と、桐椰が生徒に話す声だけが届いた。
「……すみません、塾長」
沢木がいささか硬い声と表情で塾長に向き直る。
「以後、気を付けます」
「ああ、うん――」
「沢木さん」
桐椰に背中を押されたような気がして、声が自然に零れた。
沢木は訝しげな顔を向けてきた。急になに、とでも言いたげだ。
「沢木さん、私にも謝ってください」
「……気を付けるって言ったじゃん」
「塾長に、です、それ」
慣れない強い言葉に声が震えた。また涙が溢れそうになっていた。
「私は、沢木さんにちゃんと、4時半って言ったんじゃないですか。間違っててごめんくらい、言ってください」
沢木は不貞腐れていた。なんでアンタなんかに謝らなきゃいけないの、とでも言いたげだった。
「……ごめんて。これでいい?」
よくはなかった。でも、いいということにした。
今までの自分なら有耶無耶にしていたから、そう言わせただけで、自分はいいんだと思うことにした。小さく頷くと、沢木は煩わしそうな態度で更衣室へと消えた。
以後、千晴は授業に謀殺され、22時半に片付けを始めたとき、沢木は既に建物を出ていた。塾長はカウンターで片付けをしていて、千晴が通りかかると、顔も上げずに「お疲れ様でしたー」と声をかけた。年が大きく離れた塾長に物申す勇気までは足りず、軽く会釈して建物を出た。
駐車場を通り、敷地を出たところで足を止める。時刻は22時46分。例によって、あと2時間もすれば、今日は5年後の桐椰に会える日だった。
でもいまの桐椰はまだ建物にいて、まだ、お礼を言っていなかった。
しばらく待っていると、桐椰が玄関口に見えた。イヤホンを耳に入れようとケースを取り出しながら、私服に着替えた姿で扉を開ける。そこで千晴に気付き、顔を上げた。
「……お疲れ」
「……お疲れさま」
声が上ずってしまうのはいつものことだ。桐椰に話しかけられるとき、話しかけるとき、いつも心臓はうるさく高鳴っている。
桐椰はイヤホンをケースに片付けながら「帰るの?」と笑った。
「一緒帰ろ」
頷くと、リュックを背負い直した桐椰が隣に並んだ。触れそうな肩は、今日も熱い。
「あの……ありがとね。沢木さんのシフト」
いまの桐椰と何を話せばいいだろう、そう焦ったこともあり、早口になった。
「私、正直自信なくて。何時って伝えたか」
「あれね。澄川が時間ミスるなんて、基本ないし」
桐椰にとって、まず千晴が時間を間違えることがないという信用が先にある。それだけのことが堪らなく嬉しかった。
「あ、でも聞いてたのも本当。赤ペン借りたときね」
「うん」
言われると、そのときの光景が脳裏によみがえる。正直、桐椰の声に意識をとられて、時間を間違えてしまったのではないかとも思った。でもよかった、間違えたのが自分ではなくて――。
そこで、沢木が桐椰の手を取っていたことも思い出した。
手、汚れてるよ――と言って。
「結局、塾長は謝ったの? なんかカウンターで気まずそうにしてたけど。……どうかした?」
桐椰が千晴を見る。その顔を、つい、見つめ返した。
「ん?」
どうかした、と笑うその顔は、今も5年後も変わらず。
ああ――そうか。千晴はそこで気が付いた。
「……タイムスリップって、嘘だよね」
桐椰が立ち止まった。それに合わせるように、千晴も立ち止まってしまった。
沈黙が落ちて、千晴は、自分が珍しいことをしてしまったと気付く。途端に少し顔が火照るのを感じた。
でも、先に目を逸らしたのは桐椰だった。
「あー……」
そのまま額を押さえながら夜空を仰ぎ、顔の上半分を隠す。口は笑っていた。
「……バレた」
それを聞いて、千晴も笑ってしまった。
桐椰は顔から手をどけなかった。空を仰いだまま、ただ、街灯でけでも分かるほどその耳を真っ赤にして、ややあって両手で顔を覆いながら、その場に屈みこんだ。
「……なんで分かったの?」
「……手のマーカー」
ん、と軽く目を見せた桐椰は、手を顔から離す。
「先週会ったとき、手のひらがマーカーで汚れてたでしょ。……マーカーだって、私は思ったの。桐椰くん、板書してること多いから。でも弁護士はそうじゃないよね」
なんなら、デスクワークばかりだと最初に話していた。パソコンを見てばかりで肩が凝るとまで話していた。それなのに、ホワイトボードに使うマーカーで手が汚れるなんて、あるだろうか。
そう気付くと、二週間前の桐椰の姿は急ごしらえだったのだと気付く。あの日、桐椰がコンビニで買っていたもの――おそらくワックスと制汗剤とマスクだ。少しでも印象を変えよう、社会人らしく見えるようにしよう、そう思って慌てて整えたと言われて納得する。
「あと、さっき、澄川って言った」
桐椰は千晴を「澄川さん」と呼ぶ。5年後の桐椰が千晴を呼び捨てにしたのは、桐椰なりの演技の一環だったのだろう。それがいつの間にか、演技が現実に追いついてしまった。
「……呼び方変えたほうが、ちょっと仲良くなってる未来感あるかと思ったんだけどな」
ちょっとやり過ぎたかもしれない、と桐椰は苦笑いを浮かべた。その視線の先の手のひらは、今日もマーカーで汚れていた。
「……なんで、タイムスリップ?」
「……それはもう言ったじゃん。なんか急に話さなくなったなと思って」
桐椰は立ち上がりながら、気まずそうに髪を軽く掻く。
「俺、なんかしたと思ったんだよ。澄川――さんが、全然話さなくなったから。何か事情あるとは思ったけど、LINEして何でもないって言われたらそこまでだし。……飲み会の日はさ、帰りの電車同じじゃん。だから、今日こそ聞くぞって、本当は思ってたんだ」
でも、千晴は居酒屋に戻ってしまった。例によって避けられているのかも思ったけれど、そうではなさそうだったから、桐椰も終電を逃して待っておくことにした。タイムスリップは、そのときの思い付きだったという。
「今の俺には話せなくても、未来の俺なら話せるかなとか。正直社会人なんて顔変わんないだろうし、スーツもあったし、暗いからマスクとかすれば誤魔化せると思って。塾長もいつもしてるし」
「……正直、結構、信じた」
「だよね」
桐椰は弾けたように笑った。でもそれは千晴を馬鹿にしているのではなかった。俺、結構頑張ったよね、とそんな無邪気な笑い方だった。
「先週は終電までカラオケで時間潰してた。あと……俺、兄貴弁護士なんだ。だからリアリティ出るかもと思って、兄貴に色々聞いて、変な顔されて……俺何やってんだろって思ってたけど。でも、5年後って言ったら話してくれるから。だから……なんか、やめ時も見失った」
本当はすぐにやめるつもりだったんだ、と桐椰は付け加えた。でもやめ方が分からなかった。
「……澄川さんが好きで」
心臓が跳ね上がる。そんな千晴を前に、桐椰も頬を染めて、居心地悪そうに髪を撫でた。ワックスのついていない、ふわふわの髪だ。
「俺、澄川さんが好きだったので。でも急に話さなくなったから、なんかしたと思ったら、言えなくて。……あとごめん、実はタイムスリップのこと考えたとき、澄川さんが年上好きって言ってるのも思い出した。あわよくば好みになんないかなと思って」
ああ、そういえば、沢木にそんなことを言った。
そんなことも、桐椰は聞いて、覚えていたのだ。
「……情けなくて、てか、狡くてすいません。でも付き合ってほしいです」
あー、気まずい。恥ずかしい。桐椰は熱い頬を手で冷やそうとでもするように、両手を頬に持ってきながらそう呟いた。
誰かを前に、気まずいとか恥ずかしいとか、情けないとか。そんなのは自分みたいな人だけのことで、桐椰には無縁の悩みだと思っていた。
「……私も」
でも、千晴を前にした桐椰も、同じだったのだ。
「ずっと、自分のことばっかりで、話しかけられなくて、ごめんなさい」
「……謝らなくていいから。……だから、返事もらっていいですか」
「あっ、えっと、はい」
気温とは無関係に、全身が熱に包み込まれる。さっき跳び上がった心臓はずっと高鳴っている。声が出ず、先に首を縦に振った。
「……桐椰くんのことが、好き、です。あ、あの、私のほうこそ、付き合って……」
言い終わる前に手を差し出され、意図が分からず一瞬止まり、次の瞬間に理解すると恥ずかしくて、やはり固まってしまった。でもその間に繋がれてしまった。
「……まだ終電過ぎてないけど、いい?」
桐椰の顔はまだ赤かった。でも千晴の顔も赤い。二人して間抜けな顔で向かい合ってしまっていたけれど、だからってどんな顔をしていいかも分からず、結局そのまま頷いた。
「……今日は、スーツに着替えなくていいからね」
「よかった。あれ暑かったんだ」
大きく口を開けて笑った桐椰に手を引かれ、歩き出す。
いつもより、少し長い夜だった。
メンバーは大学生バイトの講師ばかり。授業を終えたのが22時半、そこから飲み始め、気づけば日付をまたいでいた。酔いに任せて駅までぞろぞろと歩いてきたその集団は、塾講師とはいえ皆私服で、名残惜しさに、誰も改札を通ろうとしない。なんとなく立ち止まって、くだらない話で時間を繋いでいた。
澄川千晴もその輪の中にいた。会話の間に、ICカード入りの財布を探してカバンを見ていた。
「桐椰くんくんてさあ、お姉さんいるでしょ」
その名前に、思わず顔を上げてしまう。
桐椰遥は、今日でぴったり試用期間の空ける新入りだ。人懐こい笑顔と態度と事務処理能力の高さで、すっかりバイトに溶け込んでいる。それでもって顔立ちが整い、末っ子らしい可愛さもあるという出来過ぎな要素が、桐椰を人気者にしていた。
その桐椰に絡んでいるのは、バイト最年長の沢木だ。夜の照明に映える濃い口紅とほくろは、いつにも増して色っぽい。肩に寄りかかるようにして、その唇を桐椰の唇に寄せる。
それを見ると、千晴の心臓は、まるで凧糸に締め付けられたように苦しくなる。
でも、桐椰はするりとそれを躱す。苦笑いと一緒に、さりげなく顔を背けて。
「いないです。よく言われるんですけど」
「えー! じゃ妹」
「それも言われますけど、いないです。男三人兄弟なんで」
「それでなんでそんな可愛いのー」
沢木は、それでも負けじと顔を覗きこむ。
それをじっと見つめている自分に気付き、千晴は慌てて、カバンの中に視線を落とし直した。
しかし、探せど探せど、肝心の財布が見当たらない。
え、あれ。一気に冷や汗が吹き出し、慌ててカバンの中を整理する。ペットボトルやハンカチを一生懸命どけて、財布が埋まっていないか探す。
その捜索は徒労に終わった。スカートだからポケットもない。でも飲み会でお金を払ったときはあった。ということは、置き忘れたに違いない。
「そろそろ終電近いんで、帰りましょう。俺こっちで、あとは――」
桐椰の視線が千晴を見た。桐椰とは路線が同じだった。
「私、ちょっと……お店に忘れ物しちゃって」
でも、声をかけられてはいけない。慌てて遮り、顔を背ける。沢木が「えー、大丈夫―?」と声を上げる。それに激しく頷いた。
「取りに行くんで、私は、これで。お疲れ様でした」
桐椰の顔を見てはいけない。そう自分に言い聞かせながら、でも心配されているとも思いたくて、視界の隅に桐椰を捉え続ける。桐椰の視線はこちらに向いている……気がした。その事実にほんの少し自惚れてしまう自分がいる。それでも、決して顔を見ないようにしながら、背を向けた。
幸いにも、居酒屋はまだ営業中だった。案の定忘れられていた財布を受け取り、何度も頭を下げて店を出た後に、もう一度スマホを見て、がっくりと肩を落とす。終電はもうない。
「……歩いて帰ろう」
千晴はティシャツの胸元をつまんだ。夏の夜の湿りに、走った汗も交ざっていた。
一人暮らしのマンションに帰るまで、JRで1駅分、徒歩40分。一人で歩くには遠い距離だ。残念ながらイヤホンはバッテリー切れだし、モバイルバッテリーを忘れたのでそもそもスマホの充電を消費するのも怖い。長く退屈な40分の始まりだ。生温い風を感じながら、千晴は、路線に沿ってゆっくりと歩き出す。
そうして、ほんの十分と経たないうちに、駅前に戻ってきた。しかし既に誰もいない。終電に飛び乗って帰ったのだろう。冷房の効いた車内のことを考えると、余計に背に汗が滲む。
……さすがに、わざとらしかったかな。
意味もなく立ち止まってしまいながら、桐椰のことが頭に過る。
桐椰とは、7月までは、そこそこ仲が良かったと思う。自惚れではない。千晴がバイトを始めたのは桐椰よりほんの2ヶ月前で、試用期間が被っていたのと、年も同じだったのとで仲良くなった。授業間の休憩はいつも喋っていたし、帰り道が一緒だったのも一度や二度ではない。千晴が敬語を遣わずに話す数少ない同僚だった。
でも、7月に入ってから全く喋っていない。正確には、千晴が意識して距離を取った。それからもう、1ヶ月が経とうとしている。
桐椰は、急に無視されるようになったと気にしているだろうか。寂しく思う気持ち以上に、申し訳なさがずっと胸にある。でも仕方がない。
バイトだって、集団生活だから。
もし自分に、はっきりと気持ちを口にする勇気があれば、なにか違っただろうか。スーパーヒーローになりたい子どもみたいな、馬鹿げた“もしも”を胸に抱いたとき、改札と反対側のコンビニ扉が開くのが見えた。
聞き慣れたメロディが聞こえてくる。視線を向けたことに特別な意味はなく、その先にあるのもごく日常的な光景である、はずだった。
「――澄川?」
それなのに、桐椰の声で、体ごと固まる。
終電で帰ったんじゃなかったんだ。そう驚くと同時に、違和感を抱いた。桐椰の声だ、と確信したはずなのに、違う。こちらへ向かって歩いてきた人は、桐椰ではない。いや、その声も仕草も桐椰だと思う。でも……。
「びっくりした。本当に……本当に、そのままだなあ、澄川」
桐椰の声は上擦っていた。しかも呼び方が違う。桐椰には「澄川さん」と呼ばれていたのに。
おかしなところはそれだけではない。桐椰はマスクをしていた。髪だってワックスで固めて、おじさんみたいだ。しかもスーツまで着ている。
なぜ、一人で、こんなところにそんな格好に着替えているのか。
桐椰は「よかった、会えて」と呟いてレジの向こうの時計に視線をやった。
「今からちょっと飲み行かない? 30分くらい」
「飲みに行かないって……」
もちろん話しはしなかったけれど、私達、ほんの1時間前まで同じ店の同じ座敷に座ったよね? そう答えたかったけれど、出てこなかった。
もしかして、待っててくれたの? 緊張と一緒に、そう自惚れた。お陰で、この状況に対する違和感は頭の片隅に追いやられていた。
「いや、分かるんだけど、驚くのは」
桐椰も少し緊張して見える。いつも余裕たっぷり、掴みどころのない桐椰には珍しい。
「あの……さ。信じられないかもしれないけど、聞いてほしくて」
「……何、を?」
返事をしながら、口から飛び出そうなほどに心臓が跳び上がった。
桐椰は、内緒話でもするように、そっと屈む。拍子にオレンジの香りがして、一瞬で胸が熱くなった。
「俺、タイムスリップしてきたんだ」
*
歩くと40分、たった一駅分の距離は、積もる話をするには短すぎる。
「だから――びっくりしたんだ。まさかこんな時間に澄川がいるなんて思わなかったし」
静まり返った線路の隣を歩きながら、桐椰は、手持無沙汰にビニール袋を揺らしていた。円形の缶と、スプレーと、四角い袋が透けている。社会人のエチケットグッズといったところだ。リュックはよく見る桐椰の持ち物だけれど、いかんせん無骨なので、同じデザインの別物かもしれない。
そこからもう一度、桐椰の横顔に視線を戻す。まだ信じきれなくて、でもあまりに真剣に話されて、否定することはできなかった。
初めてタイムスリップしてしまったのは先週の金曜日。仕事でちょうど地元に戻っていて、しかしクライアントの接待が長引いて、目と鼻の先で電車を逃してしまった後、仕方なく改札口まで戻ってくると、様子が変わっていた。同じなのは自分の格好と持ち物だけで、スマホに表示されている西暦は5年前だった。
先週は、当て所なく駅周辺を彷徨った。しかし、タクシーで実家に戻ると、変わらぬ景色があった――また未来に戻っていたというのだ。そして今週、また終電を逃すと、5年前に戻っていた……。
終電を逃した瞬間から、実家に帰るまでのほんの数時間だけ。その間だけ、桐椰は今にやってくるという。
桐椰は悪い冗談を言う人ではない……と思う。軽い冗談で笑わせてくれることはあっても、こんな風に大掛かりなドッキリを仕掛ける人ではない。
でもタイムスリップ……。はいそうですかと信じるには突飛過ぎる。まさかそんな漫画か映画みたいなことが起こるものだろうか。首を傾げながら、でもやっぱり、否定する気にはなれない。
「いまの桐椰くん……は、25歳?」
「そう。年食ったと思う?」
「……あんまり」
むしろ全く変わらない。桐椰はもともと落ち着いた雰囲気があるし、スーツ姿も見慣れている。髪型が変わっていなければ、いまと何も変わらないかもしれない。
あとはマスクくらいだ。顔を見上げて、「ん?」と目を細められ、慌てて目を逸らす。
「ていうか、マスクだと、分かんない。……なんでマスク?」
「ああ、社会人になると癖でずっとマスクする人いてさ。電車の中とか。だから、なんかもう、半分普通になってる」
「……そうなんだ」
言われてみれば、塾長はいつもマスクをしている。そんな細かいリアリティが、“嘘みたいな話”に現実味を与えた。
桐椰は「でも暑いな」と言いながら軽くマスクを引っ張った。マスクの下に少し見えた顔は、やはり桐椰で間違いない。そのおじさんみたいな髪型をやめれば、まだ二十歳と名乗れそうだ。でも社会人になったらそうするものなのかもしれない。
「――それよりさ、澄川」
突然、桐椰の声のトーンが変わった。
「5年前って……多分さ、俺達、なんか喋んなくなってたよね」
心臓が跳ね上がる。少し大人びた桐椰に胸を高鳴らせているから――ではなかった。
覚えてたんだ、と思う。隣の桐椰にとって、そんなことはもう5年も前の、ほんの些細なことであるはずなのに。
些細なことでは、なかったのだろうか。なぜ。ただ仲が良かったから? 急に無視されたように感じたから? 挨拶はしていたから嫌われたなんて思わないはずだけれど、それでも……桐椰にとって特別なことがあったから?
「あれって、なんでだっけ」
なんて、自意識過剰な想像に浸っていたって仕方がない。
ええ、と千晴は笑って誤魔化した。
「なんか、シフトが合わなくなったっていうか……忙しくて、私も早く帰ってるっていうか。それだけだよ」
「ああ、そうなの? んー、でもなんか、急にぱったり話さなくなった気がしてたんだよな」
桐椰は納得できなさそうに頭を掻いていた。
「でも、そっか。俺がなんかしたんじゃないなら、よかった」
「全然。そんなことは、全然なかったから、安心して……っていうより、ごめん」
「いや、いいんだけどさ。あれなんでだったんだろうって、気になってたんだ。でも、そっか」
それならよかった、と桐椰はもう一度静かに繰り返した。
それから、たわいない話をしながら沿線を歩いた。まるでこの1ヶ月がなかったかのように、少し前にそうしていたように、塾や大学の話をした。桐椰は仕事の話もしてくれた。
「どんなことしてるの? 会社員」
「いまはね、んーと、弁護士」
「うっそ、すごい」
確かに桐椰は法学部だけれど、弁護士になるとまでは決めてないと話していたのに。でも5年後はなってるかもよ、なんて今の桐椰に話すとどんな反応をするだろう。……話すことはないだろうけれど。
「弁護士って、裁判とか行くの? どんな感じ?」
「裁判も普通にあるよ。でも普段デスクワークばっかで、ずっとパソコン見てる。めちゃくちゃ肩凝る」
馬鹿みたいな質問をしてしまったのに、桐椰は笑ってくれた。大人になっても、そうやって優秀さを鼻にかけることはない。
ああ、5年経っても、桐椰は格好いい。そう分かると余計に、今すぐ触れたくなるほど格好よく思えた。
40分はあっという間に過ぎ、千晴の足はゆっくりと速度を落とす。シャッターの下りた駅前で、やがて桐椰も止まる。
帰りたくなかった。いつまでももっと話していたかった。いまの桐椰とは話すことができないから、せめて5年後の桐椰とずっと話していたかった。
「……来週も」
そんな千晴の気持ちを汲んだように、マスクの裏から桐椰が喋る。
「来週も、終電逃してくれない?」
答えは決まっていた。
「……うん」
いつもより少し長い夜に、約束をした。
*
キュキュキュとホワイトボード上で黒いマーカーが動く。腕捲りをした桐椰が図形と数式を書く。
「こうやって図描いたほうが絶対早いし確実だから」
「えー、やだ、面倒くさい」
「面倒くさくても書くの」
その声を聞きながら、千晴は少し浮ついた気持ちで授業の準備をする。
5年後の桐椰がタイムスリップしてきたのが、先週の金曜日のこと。あれから既に2週間、今日で3回目になる。前回、半信半疑で行った駅前に、桐椰はやはりスーツ姿で現れた。会えてよかった、とはにかむ顔に、胸がきゅうと苦しくなった。線路沿いの道を歩きながら話題に困って「誰もいないね」とつまらないことを口にして、でも「澄川がいなかったら世界滅亡したって勘違いしてそう」とくだらないことを返してもらう、この夏休みのどんな瞬間よりも過ぎ去ってほしくないとき。
毎週毎週、その時間を想像して、浮足立つ自分がいる。
「お疲れー、澄川ちゃん」
「お疲れ様です」
「なんかいいことあったの? 機嫌いいね」
やってきた沢木が訝しむ顔も気にならない。笑って小首を傾げた。
「なんでもないです」
*
0時40分過ぎ、スーツ姿の桐椰は、駅前のコンビニに入ってくる。決まってスーツ姿で、マスクをして、相変わらずおじさんぽく前髪をワックスで固めている。今日は、妙に重たそうな腕時計もつけていた。
千晴が顔を上げると、桐椰もすぐに気がつく。
「おつかれ、澄川」
マスクを外さないまま、目だけで上手に笑う。つられて笑い返す。
「おつかれ、って。いまの桐椰くんにも声かけてるから、なんか変な感じ」
「そっか、そうだよね」
桐椰は、待ち合わせ場所代だと言ってペットボトルの水を一本買う。千晴もそれに倣おうとして「じゃ俺まとめて買うよ」と指だけ伸ばされた。指が長いし、手のひらも大きい。そんな些細なことにときめきを感じていると「ありがと」と蚊の鳴くような声になってしまった。
ただ終電後に会っているだけなのに、内緒でデートをしているみたいだ。
コンビニから出ながら、桐椰がペットボトルを渡してくれる。受け取るときに、手のひらが見えた。
「手、アルコールシートあげようか?」
「ん? ああ、どうしたんだろ。だいじょぶだよ」
どうしたってこともないのに、と小首を傾げる前に、桐椰は「それよりごめんね」とペットボトルのキャップを開ける。
「俺が終電後しか来れないせいで、一駅歩かせる羽目になって」
桐椰に会って、話せるのは、金曜日の終電後だけ。お陰で先週は金曜日が待ち遠しかった。金曜日さえなければ、ただ夏休みが過ぎ去ってしまうだけなのに、それでもちっとも無駄に感じることはない。
だから、と頷くのもおかしな気はしたけれど、千晴は頷く。
「いいよ、一駅だし。桐椰くんこそ、仕事終わりで疲れてないの?」
「ちょっと辛くなってきた、年かも」
「まだ25歳なのに」
「もう25歳だよ。こんな距離歩くことない、タクってる」
胸には、ほんのりと淡い期待が芽生える。タイムスリップした桐椰が、わざわざ千晴と歩いて帰ることを選ぶ理由。
「……タイムスリップして、やりたいこととかないの?」
それを桐椰に口から聞けないか。懸命に平静を装った。
「せっかく5年前だから。でも終電後しか来れないから、何もできないのかな」
「……やりたいこと」
意外にも、桐椰は考えてもなかったような顔をした。そもそもなぜタイムスリップしてしまうのか、その謎も追わなくていいのかとは思うけれど、あえて何も言わないことにしている。この手のものは、原因を突き止めると終わってしまうものだ。
「……夜中の公園とか」
「あ、ちょっと楽しそう」
「この間、通ったよね? ちょっと寄り道しよ」
桐椰は早速マップを確認し始める。その横顔はマスクがあっても子どもっぽく、今の桐椰と変わらなく見える。年上なのに可愛い、と思ってしまいながら、でもずっと見つめ続けるのも気まずく、千晴もマップを確認した。
隣駅まで半分あたりのところで公園に寄った。マップだと小さく見えたのに、滑り台つきのアスレチックに鉄棒、水遊び場まであった。前回通ったときは気が付かなかった。桐椰に夢中だったせいだろう。
「俺、結構運動神経いいよ」
「よさそう。でも頭、気を付けないと」
長身の桐椰は、一番高い鉄棒の前に立っても「駄目なやつだ」と笑って、軽く懸垂だけして終わらせた。千晴は、そのふたつ隣の鉄棒の上に座る。
「なんで話しかけてくんなくなったの?」
二度目のその質問は、唐突だった。
驚いて、顔を向けるより先に、鉄棒から滑り降りた。桐椰は鉄棒にぶらさがったまま軽く屈んで、でもマスク越しにじっと千晴を見ていた。
しばらく悩みたかった。というか、言いたくなかった。だから、桐椰が気遣って話題を変えてくれることを期待した。
でもどうやら、桐椰は、空気を読んでくれる気はないらしい。沈黙は重く、息苦しく、千晴はすぐに音を上げた。
「……沢木さん、桐椰くんのこと好きだって知ってた?」
「ぽいなとは思ってた」
桐椰の反応は軽く、至極どうでもよさそうだった。桐椰のことだ、異性にモテるのは慣れているに違いない。
「……それで?」
「……それで、って」
一から十まで説明することに、恥ずかしさのようなものがあった。たったそれだけのことで、と呆れられてしまう気もした。でも桐椰は視線を逸らしてくれない。
仕方なく、続ける羽目になる。
「だから……そういうことだよ。沢木さんは桐椰くんのこと好きだから。他の子が話しかけると、あんまよくない」
「あんまよくないって、なんか困るの、澄川が」
「……困るよ」
やっぱり、桐椰みたいな人には分からないのだ。つい、呆れるような、諦めるような気持ちに襲われてしまう。
「桐椰くんが入ってくる前、沢木さんが嫌いな人がバイトにいたの。その人と一緒にいただけで、ずっと……ずっと、バイト無視されて、空気重いし、代講だって見つからなかったし……」
塾の講師は塾長を除いてバイトだ。生徒の時間割がバイトが自由に組むが、生徒によっては曜日の縛りがあり、都合がつかなければバイト同士で代理講師を探して調整する。2月、バイトに入りたての千晴は、人見知りながらに必死に順繰りに話しかけたけれど、無視されるか断られるかで終わった。泣く泣く友達との旅行を諦め、後から原因を聞いた。
『もっと空気読んだほうがいいよ、澄川さん』
「その人、沢木さんの『推し』と二人で飲みに行ってたんだって。それだけでバイトがやりにくくなるんだよ」
そんなことは、珍しいことではない。
小学生のときだってそうだった。友達が好きな子に好意を向けられるのは「裏切り」だと言われた。高校生になってもそうだった、友達の彼氏と喋っていると、その友達は移動教室に誘ってくれなくなった。
異性が絡んだとき、自分の気持ちは押し殺したほうがいい。目立ったり発言力があったりするわけでない自分の場合は特に。千晴はそう学んでいた。
『桐椰くんって格好いいよね』
だから、1ヶ月前、沢木にそう言われたときは、ピンときた。すぐにその意図を理解して、慌ててその場しのぎの答えを返した。
『私は、年上が好きなんで。あんまり、です』
ややあって桐椰は「なるほどね」と呟く。
「……そういうこと」
「……でも、ごめん、桐椰くんは何も悪くない」
怒っているかもしれないと、慌てて付け加えた。
「私の……私だけの都合。だから……5年も気にさせて、ごめん」
「……いや、いいよ」
そう言うわりに、桐椰の表情は硬かった。
「そういうのがあるのは、なんか分かるから。……馬鹿馬鹿しいけど。馬鹿にしちゃいけないのは知ってる」
桐椰は鉄棒から手を離した。立ち上がり、手の平を軽くこすり合わせる。
「帰ろっか」
怒っているかもしれない。もう一度謝ろうかと口を開いたけれど、でも謝ること以外できなくて、口を閉じる。
桐椰も、もう一度口を開くことはなかった。
*
次の日、千晴は、バックヤードから授業中の桐椰を見つめていた。
「おつかれさまー」
沢木に声をかえられ、我に返る。一瞬心臓が凍えたけれど、杞憂だった。沢木は着替えて戻ってきたばかりで、スマホを見ている。
それはそれとして、沢木に代理講師の依頼をしたかった。千晴は慌ててシフト表を取り出して時間を示す。
「すみません沢木さん、金曜の4時半、代講に入ってもらえないでしょうか? 予定変えたいって連絡があったんですけど、私空いてなくて」
「ん? あ、おっけおっけ。大丈夫だよ」
沢木はすぐに頷いてくれた。ロッカーから自分のシフト表を取り出して書き込み、スマホにも入力する。いまどきシフト表が紙だなんて原始的な、と最初は思ったけれど、多分バトの出入りが激しいから結局費用対効果を考えると紙なんだ――と5年後の桐椰は話していた。
「科目は?」
「英語です。浪人の岩井くんって子ですけど」
「あー、あの超金持ちの子ね。いいよ、あの子全然できないから。予習とか要らないし」
「いま三人称単数です」
「やば。あれで医学部入りたいとか、金積む以外ないっしょ」
ほらね。千晴は心の中で、5年後の桐椰に伝える。桐椰と喋らずにいるから、こうして快諾してもらえる。
昨晩の桐椰は、あれから、あえてたわいない話を選んでいたように見えた。沢木の話題に触れず、駅前でも「また来週」とだけ言い残して闇に消えた。
来週――また来週、桐椰は変わらず現れるのだろうか。
「すみません、赤ペンあります?」
そこに、不意に桐椰が顔を出す。
5年後の桐椰とは別人だと分かっていても、それでも緊張する。そうでなくとも、桐椰に話しかけられるだけで、いつも胸の奥は熱くなるのだ。久しぶりに話すいまの桐椰、5年後の桐椰と毎週話している距離、そして昨日別れたときの気まずさ、色んなものがごちゃ混ぜになり、息が詰まった。
何も知らない桐椰は、少し申し訳なさそうに眉を八の字にしていた。
「インク切れちゃって。あと15分でコマ終わったら返せます」
「あ、これ使って」
そこについ、手にあるペンを差し出してしまったのは、ある意味混乱のせいだった。桐椰が困ってる、そう思って手を出した。桐椰もごく自然にそれを受け取る。
「ありがと」
愛想よく笑われ、つられて笑い返して、ペンを受け取る桐椰の指が千晴の指を掠めたことに心臓を高鳴らせて。
「桐椰くん、汚れてるよお」
沢木の声で、また、我に返る。
沢木は、まるでひったくるように桐椰の手をペンごと握った。唖然とする千晴の前で、桐椰の手を握りしめたままハンカチを取り出し、そっとその掌を撫でてやる。
「あ、どうもすみません」
桐椰は後頭部に軽く手を当ててはにかみ、沢木の手が離れてから「じゃ、戻ります」とバックヤードを後にする。途端、沢木は笑みを引っ込め、手早く荷物を片付けた。そのままバッグを持つ。
――やってしまった。そう気付いても遅い。
「あ、あの、沢木さん――」
「おつかれでーす」
千晴の掠れた声を遮り、沢木は乱暴にロッカー扉を閉め、教室を出て行った。
あ、まずいかもしれない。耳には、自分の心臓の音が響いていた。
*
その予感は、翌週金曜日、ぴたりと当たった。
「お疲れ様です……」
教室に入った途端、妙な空気に刺された。カウンターの塾長が「あー、澄川さん」と疲れた声と一緒に立ち上がる。
「さっき、岩井さんのお母さんから電話があって」
「あ、お休みとか……」
沢木さんに代講を頼んだ授業だ。いまは5時前、きっといつまでも来ないので連絡してみたら風邪を引いていた、そんなところだろう。岩井のような生徒にはよくあることだ。
と思ったら、塾長は馬鹿げた返事でも聞いたように眉を吊り上げた。
「いや、そうじゃなくて。4時半から授業入ってたのに先生が来ないって、苦情があったんだよ」
「え?」
唖然としたのは一瞬で、すぐに全身から冷や汗が噴き出た。沢木に代講を頼んだはず――いやそんなことより、岩井の母親はいわゆる“モンペ”に近いものがある。
その対応をしたのだろう、塾長は参ったような様子で額を押さえた。
「浪人中の貴重な勉強時間をどうしてくれるんだって、カンカンでした。今月の塾代がどうって話もされて、それは澄川さんと話すことじゃないかもしれないんだけど。こういうの、本当困るんで」
「す、みません……でも、私……」
沢木さんに頼んだはずです――そう続けようとしたとき「こんにちはあ」沢木が入ってきた。
沢木も、千晴と塾長の緊張した空気にすぐ気付いた。「なにかあったんですか?」と濃く描いた眉を寄せる。
代講、頼みましたよね。はっきりとしたその苦情は、でも言葉にできずに一瞬胸の内に留まる。
「……あの、沢木さん……代講……」
「え、うん。だから来たんだけど」
「え、だから、もう5時で……」
沢木は眉根を寄せ、スマホを取り出す。指先で軽く画面をタップした後、一人で軽く頷いた。
「5時半からでしょ?」
ほら、と画面を見せられた。「5時半 代講」と表示されていた。
――どっちだっけ。それを目にした瞬間、千晴の冷や汗が増した。4時半から、と伝えたはずだ。でもなんて言ったか自信がない。特に手書きのシフト表は時間割が細かく、実際に読み間違えてしまったこともある。じゃあ、今回は?
「その場で登録したし。間違えるはずなくない?」
沢木のほうは自信満々で、呆れたとでも言いたげだった。
「なに、代講の時間間違えたの? そういうのやめてよお、そういうときの保護者、他のバイトにも怒るんだからさ」
私が間違えた。千晴の首筋を、滝のような汗が流れるのを感じる。キャミソール越しのシャツがびっしょりと濡れていそうだった。
沢木の冷たい視線を感じ、息が詰まった。泣きそうだった。どうしよう、間違えちゃった、塾長にも迷惑かけて、岩井くんの浪人中の時間が大事なのもそのとおりで、それなのに、うっかりミスで。
塾長は「これだからバイトは」と言いたげな失望を浮かべながら受話器に手をかける。
「ちょっと、改めて連絡しますって岩井さんには言ってあるから。こういうのは早めに連絡必要だから、いったん二人とも授業の準備してもらって……」
「4時半って言ってましたよ」
涙が零れそうになったとき、桐椰の声が割り込んだ。
桐椰は授業中らしく、マーカーを手に持ったままだった。
「4時半って言ってました。先週」
日頃人懐こい桐椰はにこりとも笑まず、冷ややかに沢木を見ていた。剥き出しのマーカーを手に持ったままだった。
「僕、ちょうど澄川さんに赤ペン借りたんで、聞いてました。4時半って言うの」
冷や汗で濡れた千晴のシャツは元に戻らない。その代わり、出る前の涙は引っ込んだ。
塾長はしばらく無言だった。沢木も、真っ赤な口紅を引いた唇をきつく結んだままだ。それを見た桐椰は一度閉口する。
「いま授業やってるんで、静かにしてください」
桐椰は踵を返した。静まり返ったカウンターには「ごめんごめん」と、桐椰が生徒に話す声だけが届いた。
「……すみません、塾長」
沢木がいささか硬い声と表情で塾長に向き直る。
「以後、気を付けます」
「ああ、うん――」
「沢木さん」
桐椰に背中を押されたような気がして、声が自然に零れた。
沢木は訝しげな顔を向けてきた。急になに、とでも言いたげだ。
「沢木さん、私にも謝ってください」
「……気を付けるって言ったじゃん」
「塾長に、です、それ」
慣れない強い言葉に声が震えた。また涙が溢れそうになっていた。
「私は、沢木さんにちゃんと、4時半って言ったんじゃないですか。間違っててごめんくらい、言ってください」
沢木は不貞腐れていた。なんでアンタなんかに謝らなきゃいけないの、とでも言いたげだった。
「……ごめんて。これでいい?」
よくはなかった。でも、いいということにした。
今までの自分なら有耶無耶にしていたから、そう言わせただけで、自分はいいんだと思うことにした。小さく頷くと、沢木は煩わしそうな態度で更衣室へと消えた。
以後、千晴は授業に謀殺され、22時半に片付けを始めたとき、沢木は既に建物を出ていた。塾長はカウンターで片付けをしていて、千晴が通りかかると、顔も上げずに「お疲れ様でしたー」と声をかけた。年が大きく離れた塾長に物申す勇気までは足りず、軽く会釈して建物を出た。
駐車場を通り、敷地を出たところで足を止める。時刻は22時46分。例によって、あと2時間もすれば、今日は5年後の桐椰に会える日だった。
でもいまの桐椰はまだ建物にいて、まだ、お礼を言っていなかった。
しばらく待っていると、桐椰が玄関口に見えた。イヤホンを耳に入れようとケースを取り出しながら、私服に着替えた姿で扉を開ける。そこで千晴に気付き、顔を上げた。
「……お疲れ」
「……お疲れさま」
声が上ずってしまうのはいつものことだ。桐椰に話しかけられるとき、話しかけるとき、いつも心臓はうるさく高鳴っている。
桐椰はイヤホンをケースに片付けながら「帰るの?」と笑った。
「一緒帰ろ」
頷くと、リュックを背負い直した桐椰が隣に並んだ。触れそうな肩は、今日も熱い。
「あの……ありがとね。沢木さんのシフト」
いまの桐椰と何を話せばいいだろう、そう焦ったこともあり、早口になった。
「私、正直自信なくて。何時って伝えたか」
「あれね。澄川が時間ミスるなんて、基本ないし」
桐椰にとって、まず千晴が時間を間違えることがないという信用が先にある。それだけのことが堪らなく嬉しかった。
「あ、でも聞いてたのも本当。赤ペン借りたときね」
「うん」
言われると、そのときの光景が脳裏によみがえる。正直、桐椰の声に意識をとられて、時間を間違えてしまったのではないかとも思った。でもよかった、間違えたのが自分ではなくて――。
そこで、沢木が桐椰の手を取っていたことも思い出した。
手、汚れてるよ――と言って。
「結局、塾長は謝ったの? なんかカウンターで気まずそうにしてたけど。……どうかした?」
桐椰が千晴を見る。その顔を、つい、見つめ返した。
「ん?」
どうかした、と笑うその顔は、今も5年後も変わらず。
ああ――そうか。千晴はそこで気が付いた。
「……タイムスリップって、嘘だよね」
桐椰が立ち止まった。それに合わせるように、千晴も立ち止まってしまった。
沈黙が落ちて、千晴は、自分が珍しいことをしてしまったと気付く。途端に少し顔が火照るのを感じた。
でも、先に目を逸らしたのは桐椰だった。
「あー……」
そのまま額を押さえながら夜空を仰ぎ、顔の上半分を隠す。口は笑っていた。
「……バレた」
それを聞いて、千晴も笑ってしまった。
桐椰は顔から手をどけなかった。空を仰いだまま、ただ、街灯でけでも分かるほどその耳を真っ赤にして、ややあって両手で顔を覆いながら、その場に屈みこんだ。
「……なんで分かったの?」
「……手のマーカー」
ん、と軽く目を見せた桐椰は、手を顔から離す。
「先週会ったとき、手のひらがマーカーで汚れてたでしょ。……マーカーだって、私は思ったの。桐椰くん、板書してること多いから。でも弁護士はそうじゃないよね」
なんなら、デスクワークばかりだと最初に話していた。パソコンを見てばかりで肩が凝るとまで話していた。それなのに、ホワイトボードに使うマーカーで手が汚れるなんて、あるだろうか。
そう気付くと、二週間前の桐椰の姿は急ごしらえだったのだと気付く。あの日、桐椰がコンビニで買っていたもの――おそらくワックスと制汗剤とマスクだ。少しでも印象を変えよう、社会人らしく見えるようにしよう、そう思って慌てて整えたと言われて納得する。
「あと、さっき、澄川って言った」
桐椰は千晴を「澄川さん」と呼ぶ。5年後の桐椰が千晴を呼び捨てにしたのは、桐椰なりの演技の一環だったのだろう。それがいつの間にか、演技が現実に追いついてしまった。
「……呼び方変えたほうが、ちょっと仲良くなってる未来感あるかと思ったんだけどな」
ちょっとやり過ぎたかもしれない、と桐椰は苦笑いを浮かべた。その視線の先の手のひらは、今日もマーカーで汚れていた。
「……なんで、タイムスリップ?」
「……それはもう言ったじゃん。なんか急に話さなくなったなと思って」
桐椰は立ち上がりながら、気まずそうに髪を軽く掻く。
「俺、なんかしたと思ったんだよ。澄川――さんが、全然話さなくなったから。何か事情あるとは思ったけど、LINEして何でもないって言われたらそこまでだし。……飲み会の日はさ、帰りの電車同じじゃん。だから、今日こそ聞くぞって、本当は思ってたんだ」
でも、千晴は居酒屋に戻ってしまった。例によって避けられているのかも思ったけれど、そうではなさそうだったから、桐椰も終電を逃して待っておくことにした。タイムスリップは、そのときの思い付きだったという。
「今の俺には話せなくても、未来の俺なら話せるかなとか。正直社会人なんて顔変わんないだろうし、スーツもあったし、暗いからマスクとかすれば誤魔化せると思って。塾長もいつもしてるし」
「……正直、結構、信じた」
「だよね」
桐椰は弾けたように笑った。でもそれは千晴を馬鹿にしているのではなかった。俺、結構頑張ったよね、とそんな無邪気な笑い方だった。
「先週は終電までカラオケで時間潰してた。あと……俺、兄貴弁護士なんだ。だからリアリティ出るかもと思って、兄貴に色々聞いて、変な顔されて……俺何やってんだろって思ってたけど。でも、5年後って言ったら話してくれるから。だから……なんか、やめ時も見失った」
本当はすぐにやめるつもりだったんだ、と桐椰は付け加えた。でもやめ方が分からなかった。
「……澄川さんが好きで」
心臓が跳ね上がる。そんな千晴を前に、桐椰も頬を染めて、居心地悪そうに髪を撫でた。ワックスのついていない、ふわふわの髪だ。
「俺、澄川さんが好きだったので。でも急に話さなくなったから、なんかしたと思ったら、言えなくて。……あとごめん、実はタイムスリップのこと考えたとき、澄川さんが年上好きって言ってるのも思い出した。あわよくば好みになんないかなと思って」
ああ、そういえば、沢木にそんなことを言った。
そんなことも、桐椰は聞いて、覚えていたのだ。
「……情けなくて、てか、狡くてすいません。でも付き合ってほしいです」
あー、気まずい。恥ずかしい。桐椰は熱い頬を手で冷やそうとでもするように、両手を頬に持ってきながらそう呟いた。
誰かを前に、気まずいとか恥ずかしいとか、情けないとか。そんなのは自分みたいな人だけのことで、桐椰には無縁の悩みだと思っていた。
「……私も」
でも、千晴を前にした桐椰も、同じだったのだ。
「ずっと、自分のことばっかりで、話しかけられなくて、ごめんなさい」
「……謝らなくていいから。……だから、返事もらっていいですか」
「あっ、えっと、はい」
気温とは無関係に、全身が熱に包み込まれる。さっき跳び上がった心臓はずっと高鳴っている。声が出ず、先に首を縦に振った。
「……桐椰くんのことが、好き、です。あ、あの、私のほうこそ、付き合って……」
言い終わる前に手を差し出され、意図が分からず一瞬止まり、次の瞬間に理解すると恥ずかしくて、やはり固まってしまった。でもその間に繋がれてしまった。
「……まだ終電過ぎてないけど、いい?」
桐椰の顔はまだ赤かった。でも千晴の顔も赤い。二人して間抜けな顔で向かい合ってしまっていたけれど、だからってどんな顔をしていいかも分からず、結局そのまま頷いた。
「……今日は、スーツに着替えなくていいからね」
「よかった。あれ暑かったんだ」
大きく口を開けて笑った桐椰に手を引かれ、歩き出す。
いつもより、少し長い夜だった。



