「終点の、その先へ」
第1章 逃した終電
夜0時12分。祐介は、ひとり静まり返ったホームに立っていた。
残業が押しに押し、駅に着いた時には、終電はすでに発車した後だった。
「……マジか」
思わず口からこぼれた声も、誰に届くわけでもない。
人影のないホームに、夜風が吹き込む。蒸し暑い一日の終わりだというのに、夜の風だけは妙に冷たい。
スマートフォンを取り出すと、バッテリー残量は3%。タクシーアプリを開こうとするが、もたついたまま画面が暗転した。
あとはもう、電源が入ることを祈るしかない。
「終わったな……」
同僚の誘いも断って、仕事を片付けたのにこの仕打ち。
しかも、今日は上司に理不尽に怒鳴られた。言いたいことも飲み込んで、耐えて耐えて、帰るころにはぐったり。
それでも、「今さら会社辞めたってどこにも行けない」と、自分を言い聞かせていた。
──そんな夜だった。
腕時計を見る。0時16分。
終電はとっくに過ぎている。次の列車は朝5時過ぎ。
「とりあえず駅から出るか……」
そう思って足を踏み出そうとした、そのときだった。
ホームに、風と共に“音”が近づいてきた。
レールをこする金属音と、微かなモーター音。それは、明らかに電車の接近を知らせるものだった。
「え?」
この時間に、列車が来るはずがない。工事用車両か、回送列車か──。
構内放送や案内は一切ない。ただ、ひっそりとその列車は姿を現した。
白いボディに、くすんだ帯。どこか古びた雰囲気を持つその車両は、確かにこの路線のものだったが、見覚えはない。
行先表示には、大きくこう表示されていた。
『回送』
しかし、不思議なことに──
その「回送電車」は、祐介の目の前で静かにドアを開いた。
誰もいないホーム。誰も乗っていない車両。
それでもドアは、明らかに祐介ひとりのために開いたように見えた。
当然、回送列車に客が乗ることなどあり得ない。
祐介は、ドアの前で立ち尽くしたまま、しばし考える。
──乗ってもいいんだよ。
そんな声が、心のどこかで囁いている。
タクシーも捕まらない。バッテリーも切れた。行き場はない。
だからせめて、どこか遠くへ逃げたくなった。
祐介は、ゆっくりと足を踏み出した。
誰もいない車内へと、一歩。
ドアが音もなく閉まる。
列車は、走り出した。
それが、「終点の先」への旅になるとは──
このときの祐介には、まだ知る由もなかった。

第2章 奇妙な乗客たち
車内は妙に静かだった。
ガタン、ゴトン……というリズムすら吸い込まれるように、音が深く沈んでいる。
照明は薄暗く、蛍光灯の一本がチカチカと不安定に瞬いている。
日常的な車内の光景のはずなのに、どこか“現実”からずれているような違和感があった。
祐介はドアのそばに立ったまま、車内を見渡した。
座席はすべて空いている──ように見えた。
しかし、ほんのわずかに空気が「満ちて」いる。
空なのに、空じゃない。
誰かが“そこにいる”ような、視線のような気配がある。
「気のせい、だよな……」
そう呟いた祐介の前に、突然声が降ってきた。
「どこまで行くの?」
驚いて振り返ると、いつの間にか斜め向かいに女子高生が座っていた。
紺色のブレザーにチェックのスカート、カバンには小さなマスコットが揺れている。
どこにでもいる普通の高校生。
──のように見えた。
彼女の顔は、どこか無表情で、光を反射しない瞳をしていた。
「え……あの……どこって……」
「次で降りるの。わたし」
彼女は祐介の問いに答えることなく、淡々と言った。
そして、スカートのポケットから小さな切符を取り出して見せた。
そこには、手書きの文字で「未練町」と書かれていた。
「……え? なにそれ?」
「わたし、あの日ちゃんと謝ってたら、まだ生きてたかもしれない。だから、ここで降りるの」
女子高生はそう言って、カバンをぎゅっと抱きしめた。
そして、祐介の目をまっすぐ見つめて言った。
「あなたも、謝りたい人がいる?」
返答できなかった。
列車が減速を始め、やがて停車した。
ドアが開くと、車内に冷たい風が吹き込んできた。
外には、古びた木造の駅舎と、錆びた看板。かろうじて読める「未練町」の文字。
女子高生は静かに立ち上がり、祐介に小さく会釈をしてホームに降りた。
次の瞬間、彼女の姿は、霧のようにすっと消えた。
「……夢か?」
祐介は自分の頬をつねった。痛い。
いや、これは夢じゃない。少なくとも、目の前で起きた出来事だった。
列車は再び静かに走り出す。
次に現れたのは、スーツ姿の中年男性だった。
肩からぶら下げた革鞄は、使い込まれて黒光りしている。
男は祐介の隣に座り、独り言のように話し出した。
「定年退職の日にね、帰り道で電車を逃したんだ」
「……はあ」
「ずっと仕事一筋で、家族を顧みなかった。でも最後くらい、花束でも持って帰ろうと思ったんだ。……でも、帰れなかった」
「……それで?」
男は静かに笑った。
「降りる駅は、“言えなかったホーム”。……ふざけてるだろ?」
次の駅が近づいてくる。
アナウンスはない。ただ、車窓に「言えなかったホーム」の表示が見えた。
男は立ち上がり、最後にこう言った。
「なあ、君。まだ若いなら、言えるうちに言っておくといい。“ありがとう”も、“ごめん”も、伝えたいやつに伝えとけ」
祐介は、声をかける間もなく、男の背中を見送った。
そして気づく──彼の足元には影がなかった。
列車はさらに速度を上げ、次々と“ありえない”駅を通過していく。
「ためいき通り」「夢見ヶ原」「過去戻し」……
もはや、これは現実ではない。
だが、夢でもない。
そしてふと、祐介の隣にもう一人、誰かが座っていた。
小さな男の子だった。幼稚園くらいの年齢で、赤い帽子をかぶっている。
こちらを見上げるその顔に、見覚えがあった。
「……俺、か?」
祐介は自分の声に驚いた。
男の子は、にこりともせず、じっと祐介を見ていた。
そして、こう言った。
「お兄ちゃん、あのとき、どうしてやめちゃったの?」
祐介は息を呑んだ。
──大学三年のとき、内定を蹴って漫画家を目指した。
でも、夢は現実の重さに押し潰された。結局、やりたいことも、やりたかった理由も、何もかも中途半端になった。
そしていつしか、会社員という“無難”にすがるようになった。
「……怖かったんだよ」
祐介が答えると、男の子はただ、寂しそうに目を伏せた。
列車は、次の駅に向かっていた。
そこには、こんな名前が書かれていた。
『さようなら駅』

第3章 祐介の過去
「さようなら駅──か」
窓の外に、かすかな文字が揺れている。
ただの演出にしては、よくできている。冗談にしては、冷たすぎる。
祐介は、再び隣の席を見る。
さっきまでいたはずの小さな男の子──幼い頃の自分──の姿は、もうなかった。
「やっぱり、あれも幻覚か」
だが、幻にしてはリアルすぎた。
手のひらに残る温もりや、あの目に浮かんだ失望の色は、確かに“自分”のものだった。
車窓を眺める。
ビル街が流れるかと思えば、次には見覚えのある商店街が現れる。
そして──祐介の目が止まった。
そこは、もう取り壊されたはずの、祖父の家の近くだった。
木造の二階建て。盆にしか会えなかった祖父の家には、祐介が小学生の頃、よく泊まりに行っていた。
「……じいちゃん」
祐介は立ち上がり、車窓に手を当てた。
画面のように映し出されるその風景には、まるでビデオテープのような“ノイズ”がかかっていた。
しかし、家の前に立っているあの背中──白髪にネイビーの甚平──は間違いなく、祖父のものだった。
そして、その横に立つ小さな祐介。
花火を握りしめ、何かを話している。
音は聞こえない。けれど唇の動きから、祖父の言葉が読み取れた。
──「おまえは、誰のためでもなく、自分のために生きなさい」
かつて祖父が言ってくれた言葉だった。
それを、いつから忘れていたのだろう。
「じいちゃん、ごめん……俺、こんなんなったよ」
祐介は、思わず呟いた。
車窓の中の祖父が、ふっと祐介の方を振り返った気がした。
幻だと分かっていても、祐介は立ち尽くすことしかできなかった。
列車はゆっくりと進む。
次に見えたのは、大学時代によく通った美術棟の裏手──そして、そこに立っていたのは、元恋人・遥香だった。
彼女は絵を描く人で、祐介と同じサークルだった。
真剣に夢を語る姿に憧れて、自分も何か描きたいと思い、漫画を描き始めたのがすべての始まりだった。
彼女は最後まで「描けばいいじゃん、好きなんでしょ?」と言い続けてくれた。
でも、就活でうまくいかず、バイトで疲れ、親とも喧嘩して、全部投げ出した。
遥香にも何も言えず、自然消滅のように離れた。
風景の中の遥香は、キャンバスの前で筆を動かしている。
まるで、まだあの頃の時間が流れているかのように。
彼女が描いている絵を、祐介は見た。
そこに描かれていたのは、あのときの自分だった──
夢を追って、目を輝かせていた、自分だった。
「……もう一度、描けるのかな」
ポツリと祐介は言った。
だが、次の瞬間、車内に冷たい声が響いた。
「時間です」
その声とともに、列車が急に減速を始めた。
車内放送など一切なかったはずなのに、今の声は確かに聞こえた。
視線を前に向けると、車掌服を着た男が通路の奥に立っていた。
つばの深い帽子で目元は見えない。だが、その存在感は異様だった。
「さようなら駅、間もなく到着します」
「……さようならって、何に?」
祐介が問うと、車掌は少しだけ笑ったように見えた。
「それは、お客さま次第です」
「降りたらどうなる?」
「過去を手放し、悔いも痛みも、なかったことにできます」
「……じゃあ、戻れないってことか」
「はい。ここから先は、選べません。選ばない人生を、ただ生きていくだけです」
その瞬間、祐介の胸の奥に、冷たい針のようなものが刺さった気がした。
選ばない人生。
他人のレールに乗ったまま、波風立てず、無難に過ぎていく時間。
今、自分がそうして生きているという実感が、ずしりと重くのしかかる。
車掌がゆっくりと帽子を持ち上げる。
その顔は──鏡のように、自分自身だった。
「さあ、どうします?」
列車が停車する音がした。
外には、無人の駅と、深い霧に包まれたホーム。
そこにはたしかに、「さようなら駅」の文字があった。
そして、ドアが開く。

第4章 終点「さようなら駅」
ドアが開いた。
冷たい霧が、車内へと静かに流れ込んでくる。
外は白く、何も見えない。音もない。
ただ、そこには“終わり”の気配だけが満ちていた。
「ここが、さようなら駅です」
車掌──祐介自身の姿をしたその男が、無表情のまま言った。
「あなたの未練も、悔いも、失望も、ここで全て降ろすことができます。降りれば、何も背負わずに済む」
祐介は、ドアの前に立ったまま動けなかった。
「……降りたら、本当に楽になれるのか?」
「はい。痛みも、迷いも、過去の記憶さえも消える。人生という重荷から、完全に自由になれます」
それはたしかに、甘美な提案だった。
過去の失敗、叶わなかった夢、人に傷つけられ、自分を責めてきたすべてを手放せる。
もう、何も考えなくていい。何も、感じなくていい。
「……でも、それって、生きてるって言えるのか?」
思わず口をついて出た言葉に、車掌は初めて表情を崩した。
それは、微笑とも、苦笑ともつかない、どこか哀しい顔だった。
「どうでしょう。あなた次第です」
祐介は立ち尽くしたまま、目を閉じた。
脳裏をよぎるのは、祖父の言葉。
──「自分のために、生きなさい」
遥香の笑顔。
──「描けばいいじゃん、好きなんでしょ?」
子どもの頃の自分。
──「どうして、やめちゃったの?」
全部、自分が背負ってきたものだ。重かったけど、捨てたくてここに来たわけじゃない。
ただ、もう一度“選びたい”だけだった。
そのとき。
「ねえ、お兄ちゃん……帰りたい」
背後から、小さな声がした。
振り返ると、あの幼い男の子──祐介自身の子どもの姿──が立っていた。
「ここ、怖い。ずっとここにいたら、寂しいだけだよ」
その目に、涙が浮かんでいた。
祐介はしゃがみこみ、そっとその肩に手を置いた。
「……ごめんな。ずっと置いてけぼりにしてた」
「ううん。いいよ。でも……」
「でも?」
「ちゃんと、もう一回、描いて」
その言葉に、祐介の胸が詰まった。
──あの頃、自分はたしかに描いていた。
上手くなくても、笑われても、それでも描くのが楽しかった。
誰かに評価されるより先に、「描くこと」が自分を支えていた。
「……もう遅いかな」
「遅くないよ。だって、お兄ちゃん、まだここにいるじゃん」
霧の向こうで、電車のブレーキ音が鳴った。
車掌が、そっと告げた。
「まもなく扉が閉まります。降車される方は、今すぐお進みください」
祐介は立ち上がった。そして、ドアの前に立ったまま──足を引いた。
「やめた。俺、降りない」
車掌はわずかに眉を上げた。
「よろしいのですか? この先に、保証はありませんよ」
「保証なんて、人生にあった試しがないよ。だけど、俺は……やっぱり、まだ何か描きたいんだ。今度こそ逃げずに」
そう言って、祐介は小さな自分の手を取った。
「帰ろう」
子どもは、嬉しそうに笑った。
そのとき、ドアが音もなく閉まり、車両がわずかに揺れた。
車掌──祐介自身の姿をした“もう一人の自分”が、ふっと消えていた。
車内に残されたのは、祐介と、彼の“中にいた”子どもの自分だけだった。
祐介は座席に腰を下ろした。
その胸の奥に、不思議なほどの静けさがあった。
嵐が去ったあとのような、静かな、でも確かな“希望”が。
やがて、車内の照明がふっと明るくなった。
ずっとチカチカしていた蛍光灯が、何の音もなく安定した光を放つ。
車窓には、見慣れた町の風景が流れている。
夜が、少しずつ明け始めていた。

第5章 朝のホームへ
目を開けたとき、そこには静まり返ったホームがあった。
まだ空は淡い藍色で、夜とも朝とも言えない曖昧な時間。
時計の針は「4:51」を指していた。
祐介はベンチに座っていた。
手には、いつの間にかスマートフォンが握られている。電源も、バッテリーも、正常だ。
「……夢、だったのか?」
だが夢にしては、あまりにも記憶が鮮明すぎた。
女子高生も、定年退職の男も、小さな自分も、車掌も──。
あの“回送列車”に乗った記憶は、消えていない。
ポケットに手を入れると、何かが入っていた。
取り出してみると、それは古びた切符だった。
そこには、こう書かれていた。
「未練町 → さようなら駅 経由:希望ヶ原」
裏には、小さな手書きの文字で「また、いつか乗れるよ」とあった。
──あの子の字だ。
祐介は小さく笑いながら、切符を財布にしまった。
二度と乗らないという確信と、またいつか必要になるかもしれないという淡い恐れが、なぜか共存していた。
駅構内にアナウンスが流れる。
「始発電車がまもなく到着いたします。白線の内側までお下がりください」
今度は現実の列車だった。
朝が、本当に始まろうとしていた。
祐介はベンチから立ち上がり、スマートフォンを操作する。
昨日、消しかけたままの“あのページ”がまだ開かれていた。
──イラストコンテスト応募サイト。
「未経験歓迎・年齢不問・“描きたい”気持ちがある方、歓迎します」
彼は、息を吸って保存ボタンを押した。
そのまま、封印していたフォルダから、大学時代のスケッチの写真を数枚選び、添付する。
「どうせ落ちるよな」と呟く自分と、
「でも、やらなきゃ絶対に始まらない」と言う自分が、心の中でぶつかり合っていた。
──違う。
もう、「やらない言い訳」は卒業した。
遠くで、始発の電車のライトがトンネルから顔を出した。
ホームに吹いた風が、祐介の前髪をわずかに揺らす。
肩にかかる重さが、不思議と消えていた。
ドアが開き、人がまばらに乗り込んでいく。
祐介もその列に並び、静かに乗り込んだ。
車内は明るく、冷房の風が生ぬるく心地よい。
彼は窓際の席に腰を下ろし、外を見つめた。
見慣れた景色が、今は少し違って見える。
たぶん何も変わっていない。
でも、“見る目”が少し変わっただけで、世界はほんの少し優しくなる。
電車が動き出す。
祐介は、胸ポケットに入れた切符にそっと触れた。
「行ってくるよ、俺」
そう呟いた声は、誰にも聞かれなかったが、どこかであの列車の音に溶けていった気がした。
そして朝は、本当に始まった。
(了)