友だちと別れたのは十五分前のこと。一人だけ違う路線を使っているため、地下への入り口に向かって小走りで進む。

 あぁ、ヒールって本当に走りにくいーー結婚式ということもあり、仕方なく履いてきたヒールのパンプスは、五年前に姉の結婚式で履いて以来、一度も靴箱から出していなかった。

 普段スニーカーしか履かない瀬名(せな)にとっては、ヒールの高い靴を履かなければならない日は、地獄のような苦痛を味わう一日なのだ。

 終電まで残り五分。公園をショートカットすればギリギリ間に合うかもしれないーーそう思いながら公園を抜けようとした時、突然体が沈み、バランスを崩して倒れてしまった。

「いったー……」

 足元を見てみると、パンプス本体からヒールがはずれ、無惨な姿になっている。

 これじゃあ走るなんて出来ないよーーため息をつきながら、ヒールが取れてしまったパンプスを手に、近くのベンチまで片足でジャンプしながら近寄り、ゆっくりと腰を下ろした。

 時計を見てみると、無情にも終電の出発時間を指している。

「あーあ、行っちゃったかぁ……」

 諦めてため息をつくと、背もたれにどさっと寄りかかる。星が見えない都会の空は真っ暗で、月だけが心の拠り所だった。

 ヒールが取れ、終電も逃してしまったことは、瀬名に大きなダメージを与える。気力が湧かず、目をそっと伏せた。

 すると瀬名の頭に、今日結婚式を挙げた友人の姿が浮かんできた。新婦が妊娠中ということもあり、式は親しい人だけを呼んだ小さくあたたかなものだった。

 高校時代の後輩から猛烈アタックを受けての結婚だったようだが、だからこそ、彼女が一身に彼からの愛を受けている様子が伝わってきたのだ。

 ふわふわのシフォンのドレス、すごく可愛かったなぁーー元々小さくて可愛い子だったから、尚更可愛いさに磨きがかかっていた。

 幸せいっぱいな彼女を見て、瀬名は嬉しくもあり、少し寂しさも覚える。家庭が出来たのだから、今まで以上に会う回数も減ってしまうに違いない。

 たぶん私は結婚出来ないだろうなぁ……ーー友人たちが結婚をしても、自分みたいなタイプは男性の興味を引かないことはわかっている。

 ショートカットの髪、可愛くない顔立ち、身長は167センチ。私はどう見たってお姫様のようにはなれないのだ。

『あいつ、男か女かわからねーよな』

 そう陰口を叩かれたあの日から、恋をするのが怖くなった。男の人はみんな自分のことを、そういう目で見ているような気がして、異性と話すことすら避けようとする自分がいる。

 折れたヒールを見つめながら、瀬名は涙が出そうになった。

 こんな私じゃ、誰も迎えになんか来るわなけがないーー瀬名は悲しくなって靴を放り投げると、膝を抱えて俯き、泣き始めたのだ。

 その時だった。月明かりの元、地面に伸びる影が目に入る。

「こっちに飛んできましたが」

 声をした方を見上げると、Tシャツにデニム姿の男性が立っていた。大学生くらいだろうか。こんな時間だったが、酔っているような空気は感じない。

 人差し指の先で、瀬名が投げたパンプスをぶらぶらと揺らしていることに気付き、慌てて頭を下げる。

「す、すみません!まさか人がいると思わず……怪我はしてないですか?」

 片足で立ち上がって、ヒールを受け取ろうとした時だった。男性は瀬名を見て、眉間に皺を寄せる。

「あれっ、お前……」

 男性に見覚えのない見覚えのない瀬名は首を傾げた。

 しかしその途端、男性は瀬名を見下したように鼻で笑ったのだ。

「イケメンのくせに女装が趣味なんだ」

 イケメン? 女装? 何言ってるの、この人ーー最初は意味がわからず呆然とした瀬名だったが、時間の流れとともに、言葉の意味を徐々に理解していく。

 あぁ、なるほど。私のことを男だって勘違いしてるんだーー学生の頃から何度も間違われてきたし、そう言われることには慣れている。今まで何度も冷静に切り抜けてきた。

 ただ今日は何かが違った。友人の結婚式に出て、自身の未来に悲観的になってしまったからかもしれない。それに普段の白衣とは違い、今日はきちんと黒のフォーマルなワンピースを着て、折れてしまったけどヒールのある靴まで履いていたのだ。

 瀬名の頭の中で何かがプチっと切れた。その瞬間、衝動のまま男性の頬を平手打ちをし、裸足のまま走り出した。

「はっ……? えっ、ちょ、ちょっと待てよ!」

 裸足でいいから道路に出よう。タクシーを拾って早く帰るんだーー必死になって走ったが、追いかけてきた男性に腕を掴まれてしまう。

「離してください!」

 振り解こうにも、男性の力が強くて振り解けない。見た目はこんななのに、こういう時に限って力の差を実感してしまう。

「待てって言ってるだろ! 靴だけじゃなくて、ストールも落としてって……」

 涙を流す瀬名を見て、男性はギョッとしたように目を見開く。それから困惑したように視線を揺らしている間に、瀬名の胸の谷間が見えたらしく、驚いたように一歩退いた。

「えっ……女……?」

 初対面にも関わらず、失礼な発言ばかり繰り返す男性に、瀬名の怒りは頂点に達する。

「すみませんね! 男性にしか見えなくて。靴とストール、返してください。どうせ終電も行っちゃったし、タクシーを拾わないとなので」

 頬を膨らませ、男性の手からパンプスとストールを奪おうとしたが、彼の力が強くてなかなか離してもらえず、イライラが募っていく。

 男性は少し考えてから、瀬名を真っ直ぐに見つめた。

「もう終電は行っちゃったんですね。それなら足も痛そうですし、良かったら座りませんか」

 急に口調が穏やかになり、話し方も敬語になったものだから、瀬名の中のイライラが少しだけ落ち着く。とはいえ、間違われたことに対する怒りがなくなったわけではない。

「……嫌です。早く帰って寝たいので」
「明日予定でも?」
「……予定なんかありません。予定がなきゃ、早く帰っちゃいけないんですか?」
「じゃあお詫びをさせてください。その後で俺がタクシー呼びますから」

 いきなり引き止められたことに不快感を覚える。

「お詫びなんか必要ありません」
「じゃあこれは返しません」
「ど、どうしてそうなるんですか⁉︎」

 パンプスとストールを手に、こちらを見ている男性は、決してからかっているわけではなく、真剣な表情を浮かべている。瀬名と同じ目線の高さだからこそ、ダイレクトに伝わってくるものがあった。

 その姿にドキッとする。今まで瀬名にそういう言葉を投げかけてきた人たちは、薄ら笑いを浮かべて、バカにしたような視線を投げかけてきたからだ。

 この人はどこか違うかもしれないーーそんな感覚を覚えた。

「わかりました。少しだけなら……」

 早く帰りたかったし、パンプスとストールもを返してもらいたかった。それに地面を素足で走ったせいで足に痛みがある。

 瀬名と男性は近くにあったベンチまで歩き始めた。

* * * *

 男性は瀬名をベンチに座らせると、自動販売機を指差す。

「何か飲みたいものってありますか?」

 なるほど、お詫びというのは飲み物だったんだーーこんな時間にやっている店といえば、お酒を出す所くらいだが、ヒールの折れた靴で入店することは無理だった。

 気負う必要も、人の目を気にする必要もない公園のベンチは、逆にちょうど良い気がする。

「……じゃあミルクティーで」
「わかりました。ちょっと待っててください」

 そう言ってから走り出した男性の手には、しっかりと瀬名のストールとパンプスが握られている。まるで人質を取られているかのような気分だった。

 男性は自販機で買ったペットボトルを瀬名に差し出す。

「ありがとうございます……」

 それから突然しゃがみ込むと、濡らしたタオルで瀬名の足を拭き始めたのだ。

 驚いた瀬名は、慌てて足を引っ込めようとした。

「や、やめてください! タオルが汚れちゃいますから」
「大丈夫ですよ。洗えばいいだけです」
「……あの、私なんかより、あなたの頬の方が痛いでしょ?」
「それこそ問題ありません。気にしないでください」
「でも……」
「三木谷医院の先生ですよね?」

 思いがけない言葉が彼の口から放たれ、瀬名は驚いて目を(しばた)く。

「……そうです。どうして知ってるんですか?」
「近くを通った時に偶然見かけたんです。可愛い女性があなたに抱きついていました」

 可愛い女性と聞いて、記憶を遡る。小児科を担当している瀬名に抱きついた女性ーー記憶に残るのは一つの出来事だけだった。

 あぁ、中学生のあの子だーーチアの大会で優勝したと報告してくれた日に違いない。

「背が高くてイケメンなら、女性関係は苦労はしないだろうなって思って、ちょっと憎らしかったんです」
「憎らしい?」
「女性はみんな、自分より背が低いのはちょっとって言いますからね」
「そんな……それはたまたまそういう女性が多い場所だったっていうだけだと思います。私はそうは思いませんから」

 ふと男性の手が止まって瀬名を見上げるが、無表情のため感情が読めなかった。

「三木谷さんみたいに背が高くてカッコいい人、俺の憧れです」

 嬉しいのか悲しいのか分からず、瀬名は苦笑する。

「……男性はそうでしょうね。でも私は逆です。小さくて可愛いくなりたかったんですよ」

 すると今度は男性が苦笑した。

「それは俺がよく言われるやつですね。俺にとっては不快な言葉でしかありません。だからあなたを男性だと勘違いして、八つ当たりしてしまったんです。すみません」
「いえ……大丈夫です。背が高くて可愛くもない(おとこ)(おんな)って、よく影でコソコソ言われてきたので。言われることに慣れてしまいました」
「嫌な慣れですよね。俺も我慢することに慣れてしまいました」

 もしかしたら二人は似たもの同士かもしれないーーそんなふうに思っていると、男性は瀬名の足に折れたヒールのパンプスを履かせてから立ち上がると、隣に腰を下ろした。

「でもおかしいですね。慣れているはずのあなたが泣いていたのは、どうしてなんですか? 慣れてるはすなのに、男性だと勘違いした俺に対して怒ったのは、そう言われたくない理由があったからですよね」

 思っていた以上に観察されていたことを知り、瀬名は困ったように笑った。

「私の姿を見て、どこに行ってきたか見当がつきませんか?」
「結婚式ですか?」
「はい、高校の友人の式でした。すごく可愛くて綺麗で、昔から可愛い子だったからもうきゅんとしちゃって。すごく素敵な式だったんです……でも自分が同じようにドレスを着てチャペルに立つ姿が想像出来なくて……」

 男性は眉間に皺を寄せ、思案しているように見えた。何か答えが出たのか、瀬名の方に向き直る。

「じゃあ神前式はどうです? この間参加しましたけど、なかなか良かったですよ」

 瀬名の想いとは全く違う考えを示した男性に対し、諦めに似たため息をついてしまう。

「私ね、こう見えて可愛いものや人が大好きなんです。そんなこと、なかなか口には出来ないけど。だから結婚式で可愛いふわふわのドレスを着るのが憧れだったんです。でもそんな自分の未来が想像出来なくて」
「結婚したいんですか?」
「……そうですね、憧れます。でも結婚って一人では出来ないってこと、新郎新婦を見ていて気付かされたんです。まずは恋愛しなきゃいけないのに、男に間違われるような私なんかが相手にされるわけがないじゃないですか。それに異性との関わりを極端に避けている私には、たぶん一生出来ないことなんだろうな」

 不思議そうにこちらを見ている男性の視線に気付き、瀬名も不思議そうに見返す。

「どうして避けるんですか?」
「うーん……、男性と一緒にいて、いい思いをしたことがないから、かな」

 妙に納得したように頷くと、彼は月しか見えない空を見上げる。

「恋愛を始めたくても、スタート地点にすら立てない俺みたいな奴もいますけどね」
「そうなんですか? こう言ったら失礼かもしれませんが、すごく……可愛らしいお顔立ちですよね」
「遠回しに言ってくださってありがとうございます。要は童顔で、身長も165センチ。なかなか恋愛対象にしてもらえません」

 瀬名とは正反対の理由だったが、受け取る感情は同じに思える。どうしようもない理由であしらわれ、自分の感情が蔑ろにされる現実は、誠実に生きようとする人を卑屈にさせるのだ。

「あぁ、だから憎らしいって……」
「えぇ、でもそれだけじゃないんですよね。趣味がバイクとか言うと、『見た目に反して』とか、『じゃあお一人でどうぞ』とか言われるんです」
「それはショックですね」
「だから三木谷さんの気持ち、なんとなくわかります。俺も異性といていい思いをしたことがないので」
「じゃあ私たち、似たもの同士ですね」

 瀬名がそう言うと、二人は微笑み合う。先ほどまで感じていた怒りや苛立ちが消え、同志と向き合っているような感覚に陥る。

 この人ともう少し話してみたいーーそう思った。

「あの……時間はたっぷりあるし、他にどこが似てるか探してみませんか? あっ、もしよろしければ、お名前を聞いてもいいですか?」
樫村(かしむら)です。樫村徹平(てっぺい)、二十九歳です。いいですね、俺も三木谷さんのことが知りたいです。三木谷さんの下のお名前をきいてもいいですか?」

 二十九歳と聞いて驚く。大学生だと思ったなんて、口には出来なかった。

「あぁ、すみません。三木谷瀬名と言います。今年二十八歳なので、樫村さんの一つ下ですね」
「年下でしたか。あの、お医者さんですよね」
「家の小さな病院を手伝ってます。父が内科で私が小児科」
「お子さんが好きなんですか?」
「好きですね。保育士と悩んだくらいですから。樫村さんは?」
「製薬会社の営業です。三木谷医院の近くの薬局に薬を卸してまして」
「あぁ、なるほど。近くにいても気付かないものですね」

 頭の中で近くの薬局を想像したが、徹平が出入りする姿を思い出すことはなかった。

「じゃあ普通の質問をしましょうか。俺はグレーが好きです。服は白かグレーばかりで」
「んー……私は白か水色かな。ホッとするというか……」
「なるほど。それなら食べ物はどうですか?」
「食べ物なら麺類が好きです。特にうどん」
「俺も麺類は好きですよ。うどんとラーメンが同じくらい好きかな」
「あとは……夜景とか好きです。私には似合わないかもしれませんが」

 高い場所から夜景を見下ろす人々は、周りに目を向けたりしない。眼下の美しさに目を奪われるだけで、互いに干渉しない感じが好きだった。

「似合うとか似合わないとかは関係ないですよ。俺も夜景は好きです。オススメとかありますか?」
「どうでしょう……私の場合は高いところから見るものばかりかも」

 すると徹平は、再び何かを考えるように目を細めてから、瀬名の方を向く。

「三木谷さん、もし良かったら、タクシーではなくバイクなんてどうですか?」
「えっ、バイクには乗ったことがなくて……ちょっと乗り方がわからないです。しかもヘルメットがないし」

 戸惑う瀬名だったが、樫村は大きく頷き微笑んだ。

「大丈夫です。俺に任せてください」

 返事ができずにいる瀬名の首にストールを巻くと、立ち上がって突然瀬名をお姫様抱っこをしたものだから、瀬名は驚いて暴れてしまう。

「えーっ! だ、ダメです! 重いから下ろしてください!」
「全然重くないですよ。俺、こう見えてずっと水泳やってたんで、筋肉には自信ありますから。怖かったら俺の首に手を回してください」

 お姫様抱っこなんて、生きてきて初めての経験なんだけど! ーー徹平は歩き出し、公園の外に出た。

 人の目が恥ずかしくて、瀬名は徹平の肩を掴んで顔を埋める。

「ど、どこに行くんですか……?」
「すぐですから、大丈夫です」
「大丈夫って……」
「着きました。ここです」

 顔を上げると、そこはグレーの外観のアパートの駐輪場だった。徹平は瀬名を一番端の中型バイクの後部席に乗せると、一階のある部屋に入っいく。そして部屋の中からヘルメットを二つ持って戻ってきた。

「これ、かぶってください」
「えっ、あっ、はい」

 瀬名がヘルメットをかぶっている間に、徹平はバイクに跨り、エンジンをかける。

 どうしていいのかわからずにおろおろしていると、徹平は瀬名の手を取って自分の腰に回す。

「ちゃんと掴まっててください」
「は、はいっ!」

 急に距離が近くなり、瀬名の鼓動がとてつもない速さで打ち始める。頬に触れる徹平の背中にもたれかかっていいものか悩んでから、振り落とされる怖さを想像し、諦めたようにギュッとしがみついた。

 瀬名が深呼吸をするとともに、バイクがスピードを上げて走り出した。

* * * *

 高速道路を疾走するバイク。吹き抜けていく風が心地良い。こんな爽快感は初めてだった。

 徹平の体の熱や、指先に感じる鍛えられた腹筋に、瀬名の心臓が早鐘のように打ち続けている。

 どうして彼とバイクに乗ることになったのかは、いまだによくわからなかったが、初めての体験に心が躍っていた。

 バイクは高速を下り、一般道を進んでいく。そこから人通りの少ない暗がりの道に入ると、高台にある展望台で止まる。

 スピードがゆっくりと落ち、バイクから降りた徹平は、瀬名のヘルメットを外した。

「着きましたよ」

 髪がボサボサになった気がして慌てて直そうとするが、それよりも前面に広がる光景に瞳を輝かせる。

 目の前には工場地帯の夜景に、瀬名は思わず感嘆の声を漏らした。見下ろすような夜景ではなく、同じ目線に広がる風景。美しく見せようとしているわけではない、働く現場の輝きに、心をギュッと掴まれた。それを見て嬉しそうな樫村。

「キレイですね。まさか工場の夜景だとは思いませんでした」

 そんな瀬名の様子を見ていた徹平が、嬉しそうに微笑んだ。

「機械の灯りもなかなかキレイですよね」
「えぇ、すごくキレイです」

 バイクの前に立つ徹平は、座ったままの瀬名より目線が高く、彼の横顔を見上げた途端にドキッとした。

「本当は家に帰った時に、代わりのサンダルを貸そうか悩んだんです。でもそれをしたら、三木谷さんは帰ってしまう気がしたから、あえて言いませんでした」
「どうして……ですか?」
「わかるでしょう? 帰したくなかったから。もっとあなたと一緒にいたいって思ったんです」
「う、嘘つかないでください。だって私たち、まだ会ったばかりだし……」
「会ったばかりだからこそ、もっと一緒にいたいっていう感情に意味があると思いませんか?」

 同じことを思っていたから、彼の言葉を嬉しいと思っている自分がいる。

「そんなストレートに……ずるいです」
「三木谷さん、本当は来て良かったって思ってますよね?」

 まるで魔法みたいな言葉だと思った。心がくすぐったくて、俯いてしまう。

「……思ってますよ。こんなに楽しい夜は久しぶりですから」

 徹平の手が髪に触れ、瀬名は上目遣いで彼を見つめた。

 絡み合う視線が、解ける気配はなかった。引き寄せられるように、目が離せなくなる。

「キスしていいですか?」

 徹平は真面目な顔でそう口にすると、瀬名に顔を近付ける。驚いた瀬名は、慌てて自分の口を両手で覆った。

「い、いきなり⁉︎ な、なんでですか?」
「さっき会ったばかりなのに信じてもらえないかもしれませんが、三木谷さんのことが好きになりました」

 嬉しくて涙が出そうになる。こんなこと、初めて言われたのだ。

「わ、私なんか……男と間違われるような人間ですよ」
「関係ありません。カッコよくて可愛いなんて、三木谷さんは俺のタイプど真ん中なんです」

 頬が熱くなり、徹平を直視出来ずに目を伏せる。

「……か、可愛いなんて、初めて言われました……」
「初めての可愛いも、言われて照れる三木谷さんも、俺が初めてってことですね。良かったです」
「やめてください。恥ずかしいです」
「もし嫌なら言ってください」

 徹平は瀬名の手を取り、口元からそっと離した。

 心臓が高鳴り、耳にまで音が響いてくる。喉がカラカラに乾いていくのを感じながら、瀬名は言葉を絞り出した。

「嫌では……ないです……けど……」

 二人の視線絡み合い、どちらからともなくキスをする。

 呼吸を忘れてしまうくらいの緊張感。体を包み込む満たされたような温かさ。

 終電を逃したから見えた景色と、感じた鼓動と、触れ合う熱と熱。

 唇が離れると、徹平は瀬名に笑顔を向けた。

「三木谷さん、めちゃくちゃ可愛い」
「樫村さん、直球過ぎますよ……」
「癖なんです。どうせ相手にされないなら、言いたいことを言った方がいいじゃないですか。その方が諦めもつきますし」
「……そのストレートさが羨ましいです」

 それは瀬名の本音だった。言いたいことを言えずに我慢することばかりだった瀬名にとっては、はっきり言える徹平が眩しく映る。

「もう一度していい?」
「……うん」
「素直な三木谷さんも、ストレートで可愛いけどな」

 素直なことがストレート? ーーそう疑問に思ったところで唇が重なり、瀬名は何も考えられずに目を伏せた。

 もしそうならば、彼がそうさせてくれるのだと、心の片隅で思った。

 目を細めた瀬名は、徹平の肩越しに朝日が上り始める様子を目にする。こんなに清々しい朝は久しぶりだった。

「もう朝だ」
「楽しい時間はあっという間に過ぎちゃいますね」
「もっと一緒に話したいけど、そろそろ寝る時間だよね」
「起きる時間じゃないんですね」

 クスクス笑いながらも、この時間が終わってしまうのがもったいない気がして寂しくなる。

「明後日の夜、迎えに行ったらダメかな? オススメのうどん屋さんがあるんだ」

 そう言われた瀬名は驚きながらも、少し時間を置いてから頷く。

「お迎え、バイクで来てくれる?」

 徹平が目を見開いたので、瀬名は慌てて言い直した。

「あの疾走感が気持ち良かったというか……」
「スーツでバイクでいいなら」

 なんてアンバランスな姿ーー想像して、二人揃って吹き出す。

「最高なお迎えですね」

 こんなお願いを聞いてくれるなんてーー初めて自分自身を肯定された気がして嬉しくなる。

 その時、徹平の頬が赤く腫れていることに気付き、瀬名は手を伸ばして彼の頬に触れる。すると徹平はその手に自分の手を重ねる。

「少しこのままでいてほしいな。冷たくて気持ちがいいから」
「……急に叩いてしまってすみませんでした」
「元はといえば俺のせいだから」

 徹平は瀬名の手を取ると、そっと唇を押し当てる。その瞬間、まるで電気が流れたかのように体が震えた。ドキドキが手のひらから伝わってしまいそうで、緊張してしまう。

「手は冷たいけど、唇は熱いんですね」
「……は、恥ずかしいからやめてください」
「キスを受け入れてくれたのは、三木谷さんも同じ気持ちだって思っていいですか?」

 顔を真っ赤に染め、おずおずと頷く。

「ずるいです。そんな可愛い顔で男前なんて……」
「でも瀬名のタイプど真ん中じゃない?」

 急に名前を呼び捨てにされ、体がピクッと反応してしまう。

「……大好きですよ、徹平さんみたいなタイプ」
「やっぱりね。俺たち、相性がいいみたいだ」

 身長なんて関係なかった。上手くいかない理由を身長のせいにして卑屈になっていただけ。

「さっ、そろそろ帰ろうか」
「そうですね」

 ヒールが折れた時は最低な夜の始まりと思ったのに、明けてしまうのがもったいないくらい素敵な夜になった。

 きっとあの瞬間にかけられていた魔法が解けて、ありのままの自分でいられる等身大の恋が舞い降りた。

 再び走り出したバイクの後部席で徹平の熱を感じながら、喜びに目を伏せた。