深夜〇時二十二分。二十二分前に、私は三十歳になった。
 
 「マジかぁ……」
 一メートル前で無情にも閉じる扉。再び一瞬開く願い届かず、ホームから緩やかに最終電車は滑り出した。
 車掌は通り過ぎる瞬間に、私の目をわざと見ないよう、目を逸らしていた。
 煉瓦作りで洒落た地下鉄のホームには、辺りを見回しても私一人。
 仕事終わりに終電を逃したのは、この八年で初だ。
 思えば朝からついていなかった。
 有休を使い切ることに命をかけている同僚は、今週二日しか来なかった。
 クビになっちまえと悪態をつきながらも、彼女の分までこなさないわけにはならない本日締めの仕事。
 毎月月初のルーティンワーク。
 自分の分だけなら手慣れたものでも、二人分となればさすがにしんどい。
 「どうして、私がやりますなんて言っちゃったかなあ」
 駅員が憐れむような目でこちらを見ていた。
 もはや独り言を聞かれていても、何も感じない。
 一分前に入った改札を再び通り、さてどうしたものかと円形のコンコースの天井を見上げた。
 改札前のコーヒーショップも、もちろん電気は消えている。深夜入館不可のオフィスビルにはもう戻ることはできない。
 ファミレスにでも行くか、と階段の手すりに手をかけた時、上階からピアノの音が響いた。
 吹き抜けのドーム型の天井に反響するメロディ。まるで教会の響きだ。

 この曲、なんだっけ?
 こんな時間に誰が弾いてるんだろう?

 階段をゆっくりと上がり、フロアに設置されたストリートピアノに目をやった。
 
 私は、あまりに情報量の多い光景に瞬きを忘れて立ち止まってしまった。
 子ども向け工作番組のおじさんが着ているようなカラフルなチェックシャツに、つなぎのズボン、背中にはフードデリバリーサービスの大きな四角い箱を背負った、やたらとマッチョな男子が優雅にピアノを弾いていたからだ。
 体が大きすぎてピアノが小さく見える。
 鍛え上げられた太い腕に見合わない細く長い指は、鍵盤の上を踊るように目まぐるしく動いていた。
 彼は、自分の指先から紡ぎ出される音楽に耳を澄ませ、目を閉じたまま、楽しそうな表情を浮かべている。
 「主よ……なんだっけ」
 閃いた題名の一部が無意識に口から溢れた。
 彼は一瞬だけこちらに振り向くと、演奏はそのままにニコリと笑って「人の望みの喜びよ」と私が忘れた部分の題名を口にした。
 そうだった。クラシック音楽なんて全く知らないけれど、音楽の授業で聴いたことがあるこの曲は、プードルみたいな髪型の作曲家と共に記憶に残っていた。
 鐘の音のように鳴り響くメロディに耳をすませ、不運な現実を忘れかけたのもわずかな時間だった。
 情緒も何もあったもんじゃない大声が、私の意識をこの場に連れ戻した。
 「お客さん、困るよこんな時間に!」
 いつの間にか階段を駆け上がってきていた駅員が、彼の肩に触れた。
 鐘の音は余韻を残して静かに消えてしまった。
 「すみません、ついつい。ここにピアノがあったもんだから」
 『マッチョのピアニスト』と仮に彼を心の中でそう呼ぶが、立ち上がって駅員にぺこぺこと頭を下げる彼は、駅員より頭ひとつ大きい。
 マッチョ(ゆえ)に、彼の向こう側に立つ駅員は、私の位置からだとすっぽりと彼の体に隠れてしまった。わずかに体をずらして駅員の様子を覗き見ると、あまりの巨体を前に若干怯えているように見えた。
 「じゃ、もう構内から出てくださいね。そっちの、お客さんも」
 怯えた駅員は、彼から目を逸らし、私に向かって忠告した。そして私が小さく頭を下げると、そそくさと階段を降りて行った。
 マッチョのピアニストは私の方をちらっと見てから、にんまりと口角をあげて笑顔を作り、ポケットから取り出したタオルで鍵盤を拭き始めた。
 彼の笑顔は若々しく、深夜残業で疲れ果てた三十歳OLの淀んだ顔とは雲泥の差だ。多分、まだ二十代前半だろう。
 「この曲知ってるんですね。知ってるか、有名だもんな」
 私が反応すべきなのかわからずに辺りを見回してしまったが、もちろん周りには誰もいない。
 「大昔に授業で聴いて、いい曲だなって思ったから覚えてました。詳しくはないけど」
 彼は鍵盤を拭き終えると丁寧にピアノの蓋を両手で閉じた。
 「わかるー。俺、バッハがめちゃくちゃ苦手で、大嫌いだったんですよ。でも、この曲初めて聴いた時、絶対弾きたい! って思ってそれから好きに……て、いきなりこんな話してもわかんないですよね」
 なんとなく出口の方向へ一緒に歩き出しながら、彼は照れたように後頭部を掻いた。並んでみると、あまりにも背が高く、見上げるこちらの首が痛い。
 「えっと、プロの方?」
 「音大を卒業したものの、演奏家になどなれるわけもなく、さまざまなバイトに明け暮れているフリーターです」
 失礼なことを聞いたのかもしれないと焦って彼の目を見ると、思ったよりは明るい表情で、ほっとした。
 「難しい世界なんですねえ」
 「そうですねえ、まあでも好きなので」
 彼はきっと階段まで歩くだろうと思い、私はファミレスに一番近い地上行きエレベーターのボタンを押した。
 なぜか彼も一緒に立ち止まったので首をかしげると、人差し指を上に向けて「ここの真上の駐輪場に自転車が」と私の疑問に先回りして答えた。
 「ああ、そうなんですね」
 何も気にしていないように答えたものの、エレベーターとはいえ深夜の密室に二人きりは気まずい。それでも今更「乗りません」とも言えず、扉が開くのを結局二人で待った。

 ♩♩♩
 
 「ところで、終電過ぎちゃいましたけど、大丈夫なんですか?」
 一階行きボタンを押した後、彼は距離感を気にしてくれているのか、狭いエレベーターの中で最長距離をとって私に問いかけた。
 「仕方ないからファミレスで始発まで時間潰します」
 本当はあまりの不運に泣きそうだったけれど、なにも堪えていない風を装って私は軽く言った。
 「あちゃー、お仕事ですかね。大変でしたね」
 「そうなんですよねえ、うっかり出る時間を見誤っちゃって——うわあ!」
 突然、大きな音を立てて底が揺れた。思わず飛び上がりそうになって私はエレベーターの壁を手で押さえ、転ぶのを必死で堪えた。彼も同じように腰を落として扉を押さえた。
 一瞬電気が消え、その後もう一度明かりがつく。それでもエレベーターは再び動くことはなく、扉の向こうは真っ暗なコンクリートの壁面のままだ。
 「ちょ……何これ。嘘、地震⁉︎」
 彼は、焦る私と対照的に至って冷静で、静かに非常ボタンを押した。
 ”はい、日月警備です、どうされましたか?”
 「あのー、エレベーター止まっちゃったんですけど」
 彼が落ち着いて現状を伝えると、警備会社はすぐに駆けつけてくれることになり、それでもしばらくはこのまま待機になることが会話から察せられた。一人だったら相当焦っていただろうと思うと、この人がいて良かった、と思った。そもそも彼が悪い人には見えないという大前提はあるが、この現状に不思議と恐怖心は芽生えていなかった。
 「さてと。すぐ動き出すとは思うけど。疲れちゃうだろうから座ってましょうか」
 彼はそう言って配達の大きな箱を床に下ろした。箱を下ろした彼の背中には、スリーブケースほどの薄さのリュックが張り付いていて、その中からレジャーシートを取り出すと、エレベーターの床にそれを敷いた。
 「これは綺麗だから、よかったらどうぞ」
 「あ、どうも……。ていうかなんでこんなもの持ってるんですか?」
 私はレジャーシートの端に重たい鞄を下ろすと、三角座りをしながら彼を見上げた。
 「今日は、公園で子ども向けのイベントがあって、演奏とバルーンアートをやってきたので。荷物置き用に持ってました。いつも持ってるわけじゃないですよ。ついてるなあ、俺」
 子ども向けのイベントと聞いて、NHKの工作おじさんめいた格好の謎は解けた。彼はレジャーシートの反対側の端に大きな体を縮めて座ると、薄いリュックの中に入っていたタブレットを取り出した。
 「アニメソングをメインに演奏してきました」
 彼がスワイプする画面には、国民的アニメの主題歌や挿入歌の楽譜が表示されていた。楽譜の読めない私にその難しさは全くわからないが、たくさんの黒い丸が所狭しと並んでいる。
 「この辺の曲は覚えてるし楽譜は見ないんですけどね。たまに、音源もない全く知らない曲を弾いてって言われることがあるから、持ち歩いてるんです。サブスクで、たくさん楽譜が見られるので」
 「聞いたことのない曲でも弾けるんですか?」
 素朴な疑問を口にすると、「一応、ピアノ専攻卒なのでね、それくらいはできないと」と大きな体に似合わぬ可愛らしいはにかみ顔を見せた。
 「まあでもそれじゃあ生活できないんで、飲食の店員やったり、配達やったり」
 きっと死ぬほど練習して、音大に入ったのだろう。それでもその日暮らししかできないと聞くと、特になんの目的もなくとりあえず行けそうな大学に行き、とりあえず正社員で安定した暮らしを手にしている自分が、人生を舐めきっているような気持ちになった。
 そんな自分でさえ、最近は仕事に行き詰まり、今後一生一人でいる可能性も含めて将来を考えるようになった。何か新しいことを始めるなら今なのではないか、という迷いが終始付きまとっている。
 結婚を考える相手もおらず、節目の三十歳の誕生日の幕開けは、終電逃しの上エレベーターに閉じ込めらている。前途多難としか言いようがない。
 「そっか。みんな、それぞれ大変な思いしてるのよねえ」
 言葉と共に、重いため息がついうっかり漏れ出てしまった。
 「お姉さんも、揺れ動き中ですか? 人生」
 彼は、終始ニコニコとしていた。
 彼の生活は決して順風満帆ではない気がしたけれど、なんだかずっと笑っていて楽しそうだ。
 「そうですねえ。揺れ動きまくりで酔いそうですよ。色々考えちゃうお年頃なんで」
 その時、スピーカーから雑音混じりの音声が流れてきて、私たちは素早く立ち上がった。
 ”もしもし、大丈夫ですか?”
 「はい、大丈夫です。二人とも問題ないです」
 救助の声にホッとしていると、スピーカーの向こうの警備員は非情にも、復旧までまだ時間がかかることを伝えた。
 「まじか……。どれくらいかかるんですか?」
 さすがに不安の色を覗かせた彼が尋ねる。
 ”申し訳ありません、朝までには必ず復旧させます”
 確かに申し訳なさそうな警備員の声が庫内に虚しくこだました。
 朝まで——
 私は大きくため息をついてもう一度レジャーシートに座り込み顔を伏せた。
 そして、初対面の人にネガティブな姿を見せてしまったことに自己嫌悪し、両手で頬を叩く。
 彼は怪訝な顔をして私の様子を見た後で、どういう意味なのか、またにんまりと笑った。
 その時、自分の腹からグゥと大きな音が鳴り、エレベーターの中に響いた。
 「は……っずかしい」
 顔が熱くなるのを感じた。でも昼から何も食べていない事実を一度思い出してしまったら、何か食べ物を摂取するまで食欲がおさまることはなさそうで、猛烈な空腹感が襲ってきた。
 「いやあ、お腹減りますよねぇ。お姉さん、超ラッキーですよ」
 彼は足元に置かれたフードデリバリーの箱を引き寄せると、バリバリとマジックテープを剥がして蓋を開けた。突然庫内に漂う美味しそうなデミグラスソースの匂い。彼は、顔より大きな四角い箱状のものが入ったビニール袋を取り出し、レジャーシートの上にそれを置いた。
 「実はこれ、受取人不在で、廃棄になる予定の弁当なんです」
 「えっ」
 「もったいないから食べちゃおう、と思ってたやつです。しかも、あの壱番館の高級デミグラスハンバーグ弁当とエビフライ弁当の2つ!」
 壱番館は会社のそばにある老舗の洋食レストランで、明治時代の洋館そのままで営業している有名店だ。
 店の名前と芳醇なソースの匂いに反応したのか、もう一度腹からぐぅぅと音がした。
 「これって食べちゃってO Kなの?」
 「しばらく待機して受け取られなかったものは、廃棄するしかないので配達員が食べてもO Kなんですよ。食べましょ! なんと! お茶付き〜」
 箱の中にはご丁寧にペットボトルのお茶も二本入っていた。
 「これを受け取らないってどういうこと? もったいないなぁ」
 「案外あるんですよ。ほら、会社でお弁当取ったけど、結局届く前に仕事が終わっちゃって、じゃあ飲みに行こうかって出てっちゃう人。連絡してもキャンセルできないから放置、っていうパターンじゃないですかね」
 まさかエレベーターの中でお弁当を食べるという稀な体験をすることになるとは思わなかった。
 でも、人間、有事の空腹の前では、衛生観念といった理性的なものは二の次になるみたいだ。
 老舗レストランの高級弁当は冷めていても想像以上に美味しく、現金なもので私の気分はほんの少しだけ上向いた。
 「いやあ、俺まじでラッキーだなあ、この弁当自分じゃ絶対買わないもん」
 彼は本当に嬉しそうにエビフライを頬張った。こんな状況にいるというのに、ずっと笑顔だ。
 せっかく届けた料理は受取人不在で、ピアノを弾いて駅員に叱られ、その上エレベーターに閉じ込められているというのに、どうしてこんなに嬉しそうなのだろうか。
 私は、なんてついてないんだろう、としか思えないのに。
 「あなたはいつもそうやって笑ってるの? 結構最低な経験してると思うんだけど、今」
 食事を共にすると、精神的な距離が近付く気がする。私は失礼を承知で、彼に質問した。
 彼は目を丸くして、口元についたエビフライの衣をつまみ取ると、紙ナプキンで丁寧に自分の口の周りを拭って、またにんまりと大きく口角を上げた。
 「最悪って思う時もありますよ。でも、こんな最低な気分を知ったからこそわかる音楽とかもあって、なんでも糧だなと思うと楽しくなっちゃって。俺、全てが音楽一色で、音楽バカなんですよ」
 彼は、本当に純粋にそう思っているみたいだった。
 彼の笑った顔には嘘がない。
 最初は無理やり笑顔を作って、自分の気分を敢えてポジティブな方向に持っていこうとしているのかと思った。
 でもどうやら、本心のようだ。
 若い彼には、この先どうやって生きていこうかという不安や、夢破れた時自分には何が残るのか、といった想像をすることがまだないのだと思って私は口を噤んだ。
 「暇つぶしによかったら見てください」
 彼はタブレットを開いて操作すると、カバーをスタンドにして折りたたみ、配達の箱の上に置いた。
 始まった動画の画面中央には、グランドピアノが置かれている。
 コンクール会場と思しき舞台の左袖から、ひょろひょろと細い長身の男の子が登場し、舞台の真ん中で不機嫌そうに頭を下げた。
 「……これは?」
 「十九歳の俺です」
 「はっ⁉︎」
 私の目は画面に釘付けとなった。ピアノの前に座る男の子はマッチ棒みたいに細く、随分と苦々しい顔で私の知らない難しそうな曲を弾きはじめた。
 「何をどうしたら、これが、こういう体になる……?」
 私は思わず画面の中の彼と、現在隣に座っている彼を順番に指差して尋ねた。
 多分、彼が見せたいのは体型のことではないのだと思うが、私はそちらが気になって仕方がなかった。
 「俺、この通り元々ガリガリで、コンプレックスだったんですよ。ピアノ弾くにも体幹とか筋力は必要なんで、毎日ジムに行ってたらハマっちゃって。今は、ピアノの仕事がない日はマッスル食堂ってとこで働いてるんですよね。そこ、店員が全員マッチョなんです。ジム代補助出るし時給高いし、実益を兼ねてます」
 ピアニストとしては、繊細そうな元の姿の方が確実に売れるだろうに、と思ったことは口にしなかった。
 それにしても、画面の中の彼があまりに今と違うのは、体型だけではないと気がついた。
 とにかく苦痛な顔をしているのだ。
 駅のピアノを弾いていた彼は、心から嬉しそうに、自分の指先から奏でられる音を楽しんでいるように見えた。画面の中の彼とはまるで別人だ。
 「この映像の俺、すごく嫌々ピアノ弾いてるでしょ」
 「そうね」
 「上手い人に囲まれて、自分が下手すぎて嫌で嫌で仕方なくて。そんな時の、最低の演奏なんです、これ。もちろん結果も散々で」
 私には、正直に言って演奏の上手い下手はわからない。でも聞いていてこちらまで癒される気持ちになったのは、先ほど聞いた演奏の方だということだけは胸を張って言える。
 どん底の中で聴いたあの教会の鐘のような音は、確かに私のくさった気分を和らげてくれた。
 「この曲の方が難しそうだけど、さっきのあなたの演奏の方が良かったと思う。素人意見だけど」
 彼は私の率直な感想を聞いて「でっしょ〜?」と手を叩いて子どもみたいに喜んだ。
 「人と比べるの、辞めたんです。同世代にも上手い人はたくさんいて、彼らはとっくに世界に出てるし、俺にそういう演奏はできないから。でも自分が納得できて、楽しいと思う演奏だけはしよう、って。まあ生きていくためにはお金も必要だから、仕事はちゃんとしないとなあとは思いつつ、今はどんな小さい仕事でも弾くのが楽しくて」
 彼はお弁当を頬張りながら満面の笑みを浮かべた。
 私とは、まるで真逆だ。
 人に迷惑をかけたくないから、楽しさなんて感じなくても仕事はきっちりこなす。たとえそれが誰の分でも、与えられた仕事は会社のために完成させるべきで、自分のことなど二の次だ。
 ——大した仕事でもないのに、そこまで自分削ってやる意味あんの?
 昨年別れた男に言われた言葉を不意に思い出した。
 あの時は、人の仕事に対して『大した仕事ではない』なんて失礼な、と思ってブチキレた。
 でも、あれは、自分でも全く同じことを思っていて、それを他人から叩きつけられたことによる怒りだったと今ならわかる。
 「一生、そんなふうに思える仕事は私にはできないなあって思うよ。好きなことがあるって、羨ましいな」
 私には何もない。今の生活に漠然とした不安や不満を抱えながらも、積極的に何か変えようともしない。
 心のどこかに、生きていけるお金がもらえれば仕事なんてなんでもいい、そんな風に諦め切っている自分がいる。
 「他にできることがあれば良かったなあって思うけど、俺はこれしかないから。ビジネスマンができる人って、尊敬します」
 彼の顔を見る限り、何もない自分を馬鹿にする表情ではなく、本気でそう思ってくれている気がした。
 「もういい歳なのにさあ、仕事も中途半端、特定のパートナーもいないし、一人で生きてく覚悟もできてなくてさ。なんだかなあって最近毎日凹んでるんですよ」
 出会って一時間ほどの人に何を話しているんだろう、と思いながらも、私は漏れ出たまま止まらない愚痴を彼に聞かせていた。
 仕事に責任感のない同僚、毎月月初にやってくるルーティンワーク。それをこなしていると、何ひとつ成長しなくとも十二回同じ仕事を繰り返すだけで過ぎていく一年。
 このままずっと今の仕事を続けていくことが、自分にとってプラスになるのかどうかという不安。
 彼はとりとめのない私の悩みをうん、うん、と真剣な顔で頷きながら聞いてくれた。
 「その上ね。実は私、今日誕生日なんですよ」
 「えっ⁉︎」
 別に、何にも特別なことはない。むしろ、祝いたくもないし、あるのはついに二十代が終わってしまったというほのかな寂寥だけだ。
 日々楽しそうに過ごしている先輩たちを、羨ましいと思うこともある。なんだかすごく吹っ切れて見えるからだ。
 先輩たち皆が、三十代の方が楽しい、と言っている。でも、私は何も成し遂げないまま二十代を終わらせてしまったことに、思った以上のショックを受けていた。
 自分の中で、三十歳という節目の年齢がこんなに大きな意味を持っていたのかと気がついたのは、つい数時間前だ。
 イベントの企画がやりたくて入った今の会社で、配属されたのは管理部。会社にとって大事な仕事なのがわかっているから、手は抜けない。何事も真面目に取り組むのは自分の良いところだとは思うが、完全なる裏方の仕事にやりがいも見出せないまま早八年だ。
 「おめでたい日じゃないですか! そりゃ、誕生日に終電乗り損ねてエレベーターに閉じ込められたら、ついてないって思いますよねえ」
 「まあどうせ家帰って寝るだけだったから、壱番館のハンバーグ食べられてラッキー、って思うことにするわ」
 私は箸で掴んだハンバーグを持ち上げて彼に見せながら、嬉しそうな顔を無理やり作った。
 画面の中の彼は、苦しそうな顔で演奏を終えて立ち上がった。
 細長い体は緊張のためか、疲労のせいか、わずかに揺れているように見える。
 彼が舞台の袖へ消えていったところで、映像は終了した。
 「俺は、田舎の神童だったんです」
 ひと足さきにお弁当を食べ終えた彼は、丁寧に箱を閉じながらポツリと溢した。
 「東北の田舎で、県のコンクールは常に総ナメ。親や先生、学校の友達も、俺がいつかピアニストになるって信じていて、みんなの期待を背負って東京に出てきました」
 よく聞く話だなあと思って私は頷いた。私はこの地で生まれ育ったから、常に都会の競争の世界にいた。その中で初めからずっと平凡。飛び抜けたことなど何もなかった。自分が何者でもないことをとても早い段階で知っていた。
 だからこそ、たとえどんな場所でも、一度頂点を見てしまった人間の挫折は苦しいものだろうなと、むしろ想像はできた。
 「今はこんなだから、親にはもう戻って地元で教師やれって言われるんですけどね。もう少し、演奏の世界にいたくて」
 「そっか……」
 「偉そうなこと言ってるけど、俺は何もできてないです。金もないし、手に職もない。できることに縋り付いてるだけです。でも、まだやりきってない気がして、頑張ろうと思ってます。だから——」
 彼は、出会って初めて、困惑した表情を見せた。
 「だから?」
 「一生に数十回しかない大事な誕生日を、偶然でも同じ場所で過ごした仲間のよしみで、一緒に頑張りましょ。まだ、やれることがあるはずです、お姉さんにも」
 彼は恥ずかしそうに言うと、少し顔を赤らめて私の目を見た。
 彼の今までの全人生を賭けてきた音楽を辞める辞めないの問題は、あまりにも大きい。自分の答えもまだ出せていないのに、不器用ながらも私の小さな悩みに向き合ってくれた。それだけで、彼の励ましは誰の言葉よりも私の心を軽くした。
 「そうだね。頑張ってみよう、かな」
 
 そこから私たちは他愛もない会話をして、演奏動画の中の彼が徐々にマッチョに育っていく過程を見て笑いながら過ごした。
 体が大きくなるごとに、迫力と同時に繊細さを併せ持つようになった演奏は、この狭いエレベーターの中をコンサートホールに変えた。
 一体どれくらいの時間が経っただろうか、しばらくして、スピーカーから雑音が響いた。
 ”もしもし、体調にお変わりありませんか?”
 私たち二人は顔を合わせて同時に立ち上がった。
 「はい! 大丈夫です!」
 ”お待たせしました、復旧完了しました。今地上に向けて動き出しますので、なるべく姿勢を低くして、安全な体勢をとってください。”
 時刻は午前三時五十分。
 始発まではあと一時間ちょっとだ。
 エレベーターが地上に着いてドアが開いた瞬間、庫内で寛ぐ私たちを見た警備会社の職員は、目を見開いて驚いた。
 丁重に何度も頭を下げられ、それほど苦痛を感じていなかった私たちは、苦笑いをしながらそれに応じた。人を閉じ込めてしまったことで今日大変な目に遭うのは、この警備会社の人たちの方だろう。なんだか申し訳ない気がした。
 電車が動き出すまでの時間、私は予定通りファミレスに向かおうと、彼に最後の挨拶をするために振り向いた。
 彼もちょうど、私と別れる挨拶をしようと思っていたのか、こちらを向いて口を開きかけたところだった。
 「えっと——」
 「良かったら、始発まで、食後のデザートでもどうですか? まだ時間潰さないとですよね。良ければ、ですけど」
 彼は遠慮がちに後頭部を掻きながら、口にした。
 多分同じ気持ちを抱いて、このまま別れることに名残惜しさを感じていた私は、小さく何度も頷いた。
 「そうだ、俺、恒司(こうじ)です。(まき)恒司」
 「あ、私は山中春奈」
 マッチョのピアニスト、改め恒司君は、深夜の街灯の下で爽やか微笑むと、私を「春奈さん」と小さな声で呼んだ。

 ♩♩♩

 オフィス街のど真ん中、ほとんど客のいないファミレスで、私たちは猫の顔をした配膳ロボットが運んでくるチーズケーキとショートケーキを食べた。半分凍っていたケーキは美味しくも不味くもなかったけれど、非日常の事故から救出された直後のテンションも相まって、それをあっという間に平らげた。なぜか何をしてもおかしくて、笑いが止まらない。
 離れた席でテーブルに突っ伏して仮眠をとっていたビジネスマンが、迷惑そうな顔でこちらを睨みつけた。お互いに人差し指を口の前に立て、静かにする気もないのに「シー」なんて言ってまた笑い合う。完全に、私たちは稀有な体験のせいで興奮してしまっていたようだ。
 結局なんだかんだと話も止まらず、始発の電車の時間を少しオーバーして、ファミレスを出た。
 日の出直後の青くなりきれない薄明の空は、昨夜までの憂鬱を拭い去ってくれた。あんなに最低最悪の夜だと思っていたのに。
 「春奈さん、帰る前に、ひとついいかな?」
 恒司君は、エレベーターを避けて階段まで辿り着くと、突然小走りで駆け降りた。
 「えっ! なになに、ちょっと待って!」
 普段歩くことくらいしか運動をしない私は、暇さえあれば鍛えているマッチョな恒司君の後を必死で走って追いかけた。
 寝不足と疲労のせいで、ゼエゼエと肩で息をする私の目の前で、ほんの五時間前に自らの手で閉じたストリートピアノの蓋を、恒司君はゆっくりと開けた。
 タイル張りの床と、椅子の足が擦れて大きな音が響く。

 ポーン。

 恒司くんは右手の人差し指で白鍵を叩いた。
 コンコースの天井に反響する音に耳を澄ませ、恒司君は目を閉じたまま、にんまりと笑って顔を上げた。
 鍵盤に置かれた彼の指先が、五時間前と同じ曲を奏で始める。
 教会の鐘の音が、再びここに響き始めた。
 馴染んだメロディに耳を澄ませていると、どこか違うメロディが混じり始めたことに気がついた。
 『主よ、人の望みの喜びよ』の中に混ぜ込まれるように、『ハッピーバースデー』の歌が聞こえる。
 恒司くんは驚いている私に向かって、「マッシュアップって言うんだ」と、イタズラ小僧のように片側の口角だけあげて笑った。
 
 午前五時三十五分。
 最低最悪のトラブルで始まった誕生日。
 恒司君と次に会う約束をすることもできた。
 でも私たちは、結局、連絡先を交換しなかった。
 多分、それは私たちにとって、『今』じゃなかったからだ。

 ♩♩♩

 
 「山中さん、まずいですよお!」
 一年後輩の川上さんが、今にも泣きそうな声で会場の扉から駆け込んできて叫んだ。
 「なになに、どうしたの?」
 「ピアニストの上野さん、ストライキに巻き込まれて帰国できない、って向こうのマネージャーから連絡が入ってるんですぅ」
 「ええ⁉︎」
 あの誕生日の日をきっかけに、私は会社を辞めることを決めた。
 そして元の会社より、給料も、社格も下がったイベント企画会社に再就職した。現在は企画部で、企業のパーティーや、販促イベントの企画を担当している。以前より激務で、家族や友人からも馬鹿なことをしたと言われることもある。
 それでも、自分の企画したイベントが形になったのを見た瞬間、私は毎回この仕事について良かったと喜びを感じているのだから、誰に何を言われようがこの転職は自分の人生に必要なものだったのだ。
 今回のイベントは、社長自らが直談判して実現した音楽イベントだ。海外でも活躍するピアニストを迎えてのイベントで、会社の命運がかかっているとも言える。
 チケットは完売、他のアーティストはもちろん全員揃っているから中止はあり得ない。
 川上さんが震える手でスマートフォンを手渡してきた。
 恐る恐る耳にあて、「もしもし」と掠れた声で応対する。
 「はい、山中です。はい……。代役? その方はどちらの——。え?」


 「こういうのって、サカデンとかで買うの?」
 舞台袖でガチガチに固まったタキシード姿の恒司君を、上から下まで舐め回すように見た後、私は有名なビッグサイズ専門店の名を挙げて揶揄い半分で言った。
 岩のような巨体は、あの日会った時より幾分細くなった気がする。ジムに行ける時間が減ってしまったのだそうだ。それは彼にとって、決して悪いことではない。
 「まさかこんなところでまた春奈さんに会うなんて」
 あまりにもフォーマルで『らしくない』姿をつい笑ってしまうのは、私の照れ隠しでもあった。
 「代役が恒司君って聞いて、びっくりしちゃった。上野さんの大学の同級生だったのね」
 「このイベントを任せられるの、お前しかいないって電話もらった時から、もう手の震えが止まらなくて」
 舞台上では、来るはずだったピアニストが空港で急遽撮って送ってくれたビデオメッセージが流れている。
 大半の客はそのピアニストのファンだ。その彼が来られないとわかっても、ほとんどの観客が会場に足を運んでくれたのは、彼のビデオメッセージがあったことと、彼自身のお墨付きのアーティストが代役を務めることを、自身のS N Sで発信してくれたおかげだ。
 このイベントは、純粋なクラシックの演奏会ではない。ジャズやポップスのアーティストと、クラシックのピアニストが組み、尚且つ即興で競演するという趣向で、誰にでも頼めるものではなかった。
 どんなジャンルの音楽にも即座に反応できるのは槙しかいない、と、ピアニスト本人の希望で恒司君は選ばれたのだという。
 「恒司君。チャンス、ものにしないとダメだよ」
 私の言葉に、恒司君は大きく頷いた。
 「あとね。とにかく楽しんで。君なら、きっと大丈夫。私が保証する」
 恒司君の頬がわずかに緩んで、大きな口の両端がにんまりと上がってエクボを作った。

 大丈夫。頑張ってきた君を、見てきた人がたくさんいるから。

 「今の春奈さん、めっちゃかっこいいですね」
 恒司君の言葉には嘘がない。
 そりゃ、そうでしょう?
 そう言う代わりに、私は振りかぶって壁みたいな恒司君の背中を思い切り平手で叩いた。
 「さあ、行ってこい!」
 後ろ手に、長い指でピースサインを作って、恒司君は大きな一歩を踏み出した。