終わった。それは月明かりもない、まだ昼間の暑さが残る夜の道を歩いている時のこと。四角い画面を見た途端に、そんな声を心の中でこぼす。
『0時00分』
終電は行ってしまったであろう時間。まだ新人の身で飲み会をお断りすることもできず、その上高級志向のお店だったから、お財布は寂しいことになっていて。
タクシーを呼びたいところだけど、当然そんなこともできず。画面の明かりは、その時間を無情に浮かび上がらせるだけ。
この時間だと泊まれる場所もないよなぁ、と思っていると。
「ねぇ、お姉さん。綺麗だね」
後ろを振り向くと、すぐそばに男の人が立っていた。ちょうど街灯に照らされているから、その容貌がはっきりと見える。背が高くて顔は赤くてって。これはまさか……。
いち早く危険を察知して、私は走り出した。あれは完全に酔っ払ってる。夜は一番に警戒しなければならない存在。なのに。
「ちょっと待ってよ」
逃げるなんてひどいなぁ、と吐きながらその人は私を追いかけ始めた。どれだけまけたと思っても、早い足音は止まなくて。私も疲労が蓄積して、もう体力の限界だというのに。
ガラガラ。
このままだと捕まってしまう。そう思っていた時、突如不気味な音が耳を貫く。見たくはないけれど、人の好奇心は恐ろしいもので、気になったら否が応でもそれを確かめようとする性質がある。
その性質通り、私はその方向へと視線をスライドさせてしまう。真夜中ならではの暗黒の世界。時折点滅する街灯。0時という、いかにも何かが起こりそうな時間。
それらすべての環境が、私の視界に映るものをさらに異様にさせた。
「校門が開いている……」
そう独り言を漏らしてしまうほどに、その光景は負のオーラで溢れていて。誰かが鍵を閉め忘れて、さらに風で揺れているんだと、この何とも言えない不気味な光景を理解することにした。風ってそんなに強かったっけと疑問に思いながらも。
だけどやっぱり怖いから、ここはスルーしておこう。だけど。
「おねぇさん、どこ?」
どうしよう。随分近くで声が聞こえた気がする。ひとまず身を隠せそうな場所を。
電柱に隠れるのはどうだろう? でもあれはフィクションの世界だから上手く隠れられてるだけで、実際に隠れたら服の一部とか見えそうだし。かといって家の塀とか不法侵入で訴えられるかもしれないし。だとすると……。
私は見たくない方へ再び視線を向ける。なぜか開かれている不気味な校門を。
行く勇気なんてない。だって私、怖いのが大の苦手だから。でも、今は危険が目の前まで差し迫っているわけで。う~ん、もう!
嫌々ながらも、私は一歩を踏み出した。キーという音が余計に恐怖心を増幅させる。もう、やだ。
だけど、同時にそれはある記憶を呼び起こして。甘くて、とても遠い記憶を。
『陽翠』
門の開く音と、私を呼ぶあまりにも懐かしい声がぴたりと重なった。
「ねぇ、知ってる? この学校の怖い噂話」
「わっ、びっくりした……」
突然机の前に男の子が現れる。私のよく知る男の子。
「聴きたいでしょ?」
「やだよ。今給食食べてるところだから邪魔しないで!」
小学生の頃、給食を食べ終えるのが遅かった私は、お昼休みの教室で一人、料理を口に運んでいる、はずだった……。
「よし始めるよ! 昔ね……」
「ちょっと。だからやめてよ、透真くん……」
透真くん。怖い噂話が大好きでそういうのが苦手な私にあえて聴かせる、そんな悪趣味を持つ男の子。そして幼稚園の頃からの私の幼なじみ。
「それで昔ね……」
やめてって、さっき言ったはずなのに透真くんは話を続けた。耳を塞ぎたかったけれど、早く食べないと先生に怒られてしまうから食べ進めないといけなくて。
「昔ね、食べるのが遅くて、お昼休みに一人で給食を食べてる女の子がいてね」
「待って、それ私と同じ設定……」
聴けば聴くほど、その女の子が私に見えてきて……。
「毎日毎日その女の子は給食が遅くて、先生に怒られてたんだ。本当に毎日毎日」
「うん……」
徐々にオチに近づいてきているのがわかるから、自然と反応が薄くなってしまう。
「それでね。本当に毎日怒られてばかりだからね、ある日その女の子は自分の教室の窓から身を投げたんだって。頭から落ちたみたいで即死だったらしいよ」
「いやーー」
給食中にも関わらず、私は大きく悲鳴を上げた。
「ちょっと待って。まだ話終わってないのに」
「もうやめてよ、お願い。私、その女の子みたいに怒られたくないから!」
「まぁ、もう少しで終わるから。我慢して?」
彼はにこっと笑って、私の懇願をやんわりとかわす。もう、聞きたくないのに。
「その女の子はこの世の子じゃなくなって、幽霊になったんだ。それ以来、この学校ではね」
一人で給食を食べている女の子をその幽霊が自分と同じ場所に連れて行っちゃうんだって、と囁いた。どの文よりも低く、はっきりと。
「きゃーー」
さっきよりも一際大きく悲鳴を上げる。目には涙がどんどんたまってきて。
「連れて行かれちゃうの、私……」
「そうみたいだね」
笑みを貼り付けたまま、彼は頬杖をつく。なんでそう平然としていられるの? 幼なじみなのに、これっぽっちも心配してくれないの?
「ひどいよ透真くん。もう知らない」
ぷいっと顔を横に向く。怖い話ばっかりするし、私のことを微塵も心配してくれない透真くんなんて、もう。
「でも、陽翠は一人じゃないでしょ?」
「えっ?」
目を三日月みたいに彼は細めて。
「僕がいるでしょ?」
「確かにそうだね……そうだよね!」
それなら、噂話の女の子に当てはまらない。透真くんがいるから、一人じゃなくて二人なわけで。
「でも今陽翠、もう知らないとか言ったよね。それならお望み通り、どっか行こうかな〜」
「待ってよ!」
立ち上がって教室の出入り口へと移動し始めた彼を呼び止める。
「なに、いてほしいの?」
「うん……怖いから……」
あっさりとそう言ったことに驚いたのか、振り返った彼はぼんやりと私の方を見た。
「そ、そっか。仕方ないなぁ、一緒にいてあげるよ。あっ、でも。」
「なに?」
いいことを思いついたと言わんばかりに、彼は目を輝かす。顔にはいたずらな笑みを浮かべて。……嫌な予感がする。
「貴重なお昼休みの時間をここで過ごす代わりに、とびきり怖ーい話をしちゃうね」
「えー」
だけど結局なにも言えなかった。彼の怖い噂話よりも、見知らぬ幽霊にあの世へ連れて行かれてしまうことの方がよっぽど怖いから。途端に頬の上をなにかが滑った。
すると彼は手をこっちに近づけてきて、やがてその指の先端が目元へと届いた。
「もう、泣き虫だなぁ」
「透真くんのせいだよ。怖い話なんてするから」
「だって、陽翠の反応が毎回面白いんだもん。幼馴染みでずっと一緒にいるけど、見飽きないんだよね」
拭ってくれる彼の手は、とても暖かくて、それが触れるたび強張っていた身体が解れていく心地がした。
それは噂話で私を怖がらせる、悪趣味な男の子の手とは思えないほどに。
さっきまで歩いていた細い路地よりもそこは、辺りが暗闇に包まれていた。きっと街灯がないせいで。
校門から入ってはみたけれど、ここからどうすればいいのか。少し遠くには校舎がそびえ立っているわけで……。いや、もちろん行かないけれど。とはいってもずっとここにいれば、あの酔っ払いに見つかってしまうし。
そして気がつけば、校舎がより近づいていて。ってよく見たら玄関開いてる? 真横を見ると少し遠くで二宮金次郎がこっち向きに建てられていて。
「おねぇさ~ん」
やばい。今結構近くで声が聞こえたような……。恐る恐る振り返ると、そこには、あの酔っ払いが。
目と目が合った途端、その人はまっすぐにこちらへ走ってきて。どうしよう、捕まると思ったその時。
ごつん、ごつん……。
岩がなにかにぶつかる音。人ではない、だけど足音のように連続的にそれは聞こえてきて。
向きたくない方に首はなぜか動いてしまう。そしてそこには、予想通り、いやそれ以上に恐ろしいものが映っていて。あの酔っ払いよりも遥かに。だってそこには。
「二宮金次郎像が動いてる……」
酔っ払いが掠れがすれに、信じられないことを呟く。こちらに向かって猛スピードで走ってくる二宮金次郎像。
『夜になると二宮金次郎像が勝手に動き出すんだって』
あの声。確かに聞こえた。だけど耳からというよりは頭の中で。噂話をする時の彼の表情が鮮明になるほどにはっきりと。そのおかげか、頭で早く理解できてなんとか足を動かして走り出すことができた。なにも考えず、ただひたすらに。
しくじった、完全に。パニック状態で走り続けていたら、いつの間にか校舎の、しかも体育館のど真ん中にいたわけで。
なんで。なんで私、校舎の中に入ってしまったの? 怖いことしか起こらない場所に自ら。そんな自問自答を繰り返していると。
『夜になると体育館でボールの跳ねる音が聞こえるんだって』
まただ。また透真くんの声。でもまさか。もう流石にないよね? さっきのはなにかの間違いだっただけで。うん、そう思うことにしよう。
私はひとまず体育館から出ることを決意する。冷静さを意識しながら、出口を目指していく。あともう少し。本当に少しだったのに。
どすん、どすん……。
まさか。振り向いてはいけない。そう言い聞かせても、首は勝手に動いてしまって。そこには。
どすん、どすん。動かないはずのものが、動いている。
倉庫に片付けられているはずのバスケットボールが、体育館の床の上で跳ねていて。意思を持って一人勝手に。
私は早々に退散する。また頭の中を空っぽにして。
気づけば、今度は目の前にグランドピアノが立っていた。存在感をどの楽器よりも主張して。
『夜になると勝手にピアノが鳴り出して、確か最後まで聞くとその人はあの世に連れて行かれるんだっけ? そうそう。あとベートーヴェンの肖像画の目が光るんだって』
そうだった。音楽室って噂話が絶えない教室なんだと、散々彼の噂話で聴かされたんだ。心の中で反芻する彼の声が、嫌でもそう理解させる。って。
軽やかなメロディーが響く。心ではなく耳から。私でも知っているクラシック曲の音色が辺りを包む。
「ピアノ、鳴ってる……」
誰もいないはずなのに。目の前のグランドピアノの鍵盤は、音色に合わせてへこんでいて。
このままだとあの世に連れて行かれてしまう。なのにどうしてか、足は動かなくて。
『僕、卒業したら……』
その時、噂話ではない彼の声が、私の中でこだました。そうだ、この音色。
小学生の私から卒業するまで、あとわずかという時期。もうすぐ卒業式だというのに、音痴な私は、なかなかクラスの皆と同じように歌うことができなくて。そんなとき。
「陽翠。この後、音楽室行こう」
ランドセルに教科書を詰めていると、透真くんが机の前で屈んでそう誘ってきた。
「もしかして、音楽室の噂話を確かめる、とか」
「あっ、それもいいね」
くしゃっと笑って、目を細める。まもなく卒業だけど、噂話で私を怖がらせるのは相変わらずで、今でも彼にとっての生きがいらしく。だけど、ふと思った。
「それもいいねってことは、本当の目的は違うの?」
「……陽翠も鋭くなったね。まぁ、出会った頃と比べるとね」
「じゃあ、透真くんからしたら、まだまだ鈍いってこと?」
「まぁ、そういうことになるね」
「もう……」
褒めてくれたと思ったのになぁ。まぁ、そもそも透真くんに褒めてもらうこと自体、間違ってるよね。
「今絶対、僕のこと、悪い風に考えてるよね?」
「えっ、透真くんってエスパーだったの?」
確かに透真くんの透って、透明の透だもんね。だから心も透けて見えるってことで。
「へ~」
不気味に響くその声に、私は口を手で押さえた。まずい、余計なことを口にしてしまった。目の前の彼を改めて見ると、何回も頷きながら、不機嫌そうな表情をしていて。
「ふ~ん。本当にそう思ってたとは、がっかりだよ。まぁ、いいや。歌の練習、一人で頑張って」
「待ってよ」
立ち上がって教室の出入り口へと移動し始めた彼を呼び止める。私も椅子から立ち上がって彼へと近づく。
「なに、歌の練習に付き合ってほしいの?」
「うん」
大きく頷くと、あっさりとそう言ったことに驚いたのか、振り返った彼はぼんやりとした表情で私の方を見た。
「そ、そっか。仕方ないなぁ。一緒に練習してあげるよ。あっ、でも」
これはその代わりにっていう流れ。これはもう嫌な予感しかない。
「話したいことがあるから、そのつもりでいてね」
「えーー。絶対それ噂話だよね」
「さぁ、どうだろう?」
そんなはぐらかさなくても、わかってるよ。
「じゃあ、早速行こう!」
えっ、という間もなく私の手首に力が込められる。気がつけば手を引っ張られながら、私たちは音楽室へと走っていた。
「陽翠、本当にちゃんと練習した?」
ピアノでメロディーを弾き終わった彼が、そんな疑いをかけてきた。正直ずっと一緒にいた幼馴染みに疑われるのは傷つく。
「したよ。透真くんも見てたでしょ?」
「まぁ、見てたけどさ。でも、まさかここまでひどいとは」
「そ、そんな、はっきり言わなくても……」
「とりあえず、もう一回やるから。僕の弾く音に耳を傾けながら歌ってみて」
ふぅ、と息を吐いてから、再びピアノから音が生まれる。心の汚いところまで洗ってくれるような、洗練された音色。
昔から好きだった音だ。意外にも透真くんは、ピアノが上手で、今回の卒業合唱でも伴奏に選ばれるくらいの実力の持ち主。普段の彼からは想像できないほどに、その音色は美しくて。それに、今さりげなくアドバイスしてくれたよね?
ふと気がついた。私が、彼を嫌いになれない理由。なんだかんだで一緒にいる理由を。もう歌うところに入るというのに、そればかりに意識がいってしまって。
歌いながら。歌いながら、これまでの彼との日々を思い返した。噂話で私を怖がらせる彼。普通なら、そんな人嫌いになるに決まってる。だけど、それでも嫌いにならなかった。なれなかった。
噂話はするけれど、お昼休みは私が給食を食べ終わるまで一緒にいてくれて、困っている時は必ず助けてくれて。今もそう。さりげなくだけど、私にアドバイスをしてくれた。だからきっと、私は……。
「今の、変なこと考えながら歌ってなかった?」
「そう?」
確かに考えごとはしてたけど。でも、変なことではないし。
「音外れてるし、歌い出しも間違ってるし」
「ごめん、歌下手で」
たくさん指摘されてしょんぼりとしていると、彼が突然、歌うはずの合唱曲とは違う旋律を奏で始めた。それはピアノを習う人が最初に練習する曲で。
最後まで弾き終えると、彼は私に笑みを向ける。なんの悪意も感じない、まっすぐな笑顔。それだけで、いつもの彼とは違うんじゃないかと思わせる。
「僕、この曲を練習してた時、ピアノ教室の先生に散々なことを言われたんだよね。弾く鍵盤を間違えてるとか、リズム感とか。まだ習いたてだったのに、本当に厳しくてさ」
「その話、初めて聴いた」
「まぁ、ほとんど噂話だったからね。陽翠に話してきたことは」
「ほんとだよ」
ムッとさせると、彼はくすり笑いをした。だけどすぐに真面目な顔に戻って。
「でも、その先生は一つだけ、僕に褒めてくれたことがあったんだ」
「そうなの?」
習いたての男の子に厳しく指導する先生が、褒めたことって。
「気持ちなんだって」
「気持ち?」
「そう。透真さんの音色には気持ちが込められているって。聴衆に届きやすい音色だから、そこは胸を張りなさいって」
「気持ちって、そんなに大事なことなの?」
「うん。僕も当時はわからなかったけど、今やっと理解できた気がする」
「今?」
どうして今なんだろう、と不思議に思っていると、彼が私を指さした。そして。
「陽翠の歌声にも、気持ちが込められてるなって思ったから」
「私にも?」
「うん。だから、僕的にはこれでいいと思う。気持ちさえあれば大丈夫だよ。あとはクラス練習で技術的なところはなんとかなると思うし」
キーボードマットを鍵盤の上から敷いて片づけ始める。まだ自信はないけれど、なんとなく浮ついた気分になった。滅多に褒めない彼に認められたことが嬉しくて。
「じゃあ、さっきの約束覚えてる?」
ピアノを片づけると、彼は椅子から立ち上がり、こっちに身体を向けた。
「約束って。あぁ、話があるって言ってたよね」
「うん……」
あれ、噂話で私を怖がらせるんじゃなかったの? 歯切れも悪いし、どうしたんだろう。
一度深呼吸してから、彼は一言放った。それは、怖い噂話よりも耳を塞ぎたくなるような内容で。
「僕、卒業したら」
この街を出て行くんだ。さっきまでの美しい音色と浮ついた気持ちを、その一言はいとも簡単に連れ去ってしまった。
「きゃーー。ベートーヴェンの目が光った!」
今度こそ、足を動かすことができた。走るたび、あの音色が遠のいていく。あのピアノの音、透真くんが奏でる音色に似ていた気がして。
そう思いかけて足を止めるも、突如身体がむずむずしてきた。まずい、これは……。
身体の異変に、私はすぐさま階段を目指す。学校の出口を探すことよりも優先して。
やがて階段が姿を現すと、一つ下の踊り場にある女子トイレへと駆け出した。一つ上の踊り場にもトイレはあるけれど、そこは3階の女子トイレ。最も有名だといっても過言ではない噂話のある場所なわけで、当然ながら私はそこを避けた。だけど。
下の女子トイレに入った途端、誰もいないはずの個室から。
「熱いよ……」
「誰か、助けて……」
悲痛な叫びが、勢いよく私の鼓膜を突き刺す。そして思い出したくない、またも彼の声を頭の中で再生してしまう。
『戦争があった時代、木造建てだった学校がほとんどでね。だから、焼夷弾が落とされるとすぐに燃え広がって、児童たちは一番火の手が回らなそうなトイレに避難するんだけど。でも結局そこにまで火が回って、避難した児童たちは全員焼死しちゃったんだって。それ以降、夜のトイレの個室からは、身を焼かれている児童たちの雄叫びが聞こえるらしいよ』
「もう、やだ……」
身体の苦痛をなんとか堪えながら、私は退散する。
その後、無意識に三階の女子トイレへ駆け込んだ。もう怪談とか言ってる場合じゃない。だけど個室に入っても、異変は起きず、私は身体の苦痛から解放された。
もうここまできたら大丈夫だと、油断して手を洗っていたその時。
「でたー」
奥の個室の開かれた扉には白い手。これがあの有名な怪談の女の子じゃなければなんなのか、と私に嫌でも思わせる。私は一目散に逃げた。走って走って。既に冷静さを捨てた思考で、ただここを出ることだけを考えながら。
だけど、二階の廊下に差し掛かったところで、手首に強い力が加わった。身体の震えが止まらない。まさか、あのトイレの幽霊……。生温い手が、場をさらに氷漬けていく。
「見つけちゃった。もう先行かないでよ、おねぇちゃん」
だけど、その手はある意味で幽霊よりも怖いものだった。
「放してください!」
「つれないなぁ。まぁ、でも強引に連れて行けばいっか!」
二宮金次郎像でもう離れていたと思っていた酔っ払いが、しつこく私に迫ってくる。酔っ払っているとはいえ、男性の力は想像以上に強くて、抵抗するも手首をさらに強く掴まれて阻止されてしまう。そして、もう片方の手首を掴まれそうになっていると。
トコッ、トコッ。
どこからか、そんな足音が聞こえてきた。イカれた酔っ払いの男性も、さすがに動作を止めて、ただ不気味に連続する足音に耳を澄ましている。こんな時間に人がいるはずない。今まで体験してきた怖い出来事が、この音を普通の現象として捉えてくれない。
そしてその足音の主は突如姿を現した。だけどそれは幽霊ではなく、なんと。
「お前の臓器を奪ってやる」
ここにあるはずのない臓器むき出しの人体模型がそこにはあって、さらに喋り始めた。もうなにがなんだかわからなくなって、とうとう足も動かせなくなってしまう。きっと、諦めに似た感情から。しかも口にした言葉も強烈に恐怖を感じさせるもので。
「なんだよーこの学校」
私を襲ってきた男性は、足をふらつかせながら、だけどちゃんと走って私たちから離れていく。それがいいことなのか、悪いことなのか、私にはもう判断する要領も残されていない。唯一、これからこの人体模型が私を襲うことは思考できたけれど。
でも、きっと今ならこの人体模型に襲われても、大丈夫な気がした。恐怖を感じられるほどの心の余裕も思考も、なにもかもが今の私には欠けているから。
「陽翠、久しぶり!」
「えっ?」
だけどその人体模型が襲ってくることはなかった。それどころか、この雰囲気に不釣り合いな明るい声でって。この声?
今までずっと、頭の中で聴いていた声。昔のことを思い出すたびに聴こえてきた声。だけど、今はその声が耳から聴こえてくる。
そんなはずないのに。彼は、透真くんは、だって。
「もう、返事くらいしてくれてもいいのに」
私は顔を上げた。あるはずのないことが真実かどうかを確かめるために。だって彼は。
「どう、陽翠? 僕の噂話は本当だったでしょ?」
もうこの世にいない人だから。
あの日、音楽室で告げられた通り、彼はこの街からいなくなった。ただの幼馴染み。怖い噂話ばかりする、趣味の悪い男の子。ただの幼馴染み、だったはずなのに。
いなくなると知ってから。私は透真くんの気持ちに気がついてしまった。なんだかんだずっと一緒にいてくれること。優しいところ。とにかくその日を境に私は、彼を意識するようになった。
だけど、それを伝えることは二度となかった。それは夕方のいたって普通のニュースで知ったこと。
私の知らない街の中学校に通っていた透真くんは、下校中に事故で命を落とした。そんな内容が無感情に報道されていく。言える機会なんて、いくらでもあったのに。
「よかったね。噂話で陽翠を怖がらせる悪趣味な男がいなくなって」
透真くんの両親が引っ越し業者の人と話す中、彼はそんなことを口にした。
「ほんとだよ。だから今はホッとしてるよ。怖い思いしない中学校生活が今から楽しみだもん」
本当はそんなこと思ってないのに。卒業合唱も、彼がいたから自信を持って最後まで歌い切れたから。
「透真、そろそろだよ」
じゃあね、と一言残して彼を呼んだ両親へと身体を向けてしまった。
私はただ、その背中を見つめることしかできなくて。本当の気持ちを伝えられないままに。
そうやって、絶対に保証されている明日を、馬鹿みたいに、あの頃の私は信じていたんだ。
「どうして、生きてるの?」
報道番組で見たはずなのに。そこに写っていた画像も、名前も間違いなく彼だった。
「なに、陽翠は僕に生きてほしくないの?」
少し不機嫌そうに、彼は口を尖らせた。
「そういうわけじゃないよ」
白いワイシャツに黒い制服のズボン姿。それはどこからどう見ても学生の姿だった。あの報道はなにかの間違いで、ただ学生のコスプレをしている私の幼馴染みだと思い始めた時。
「触ってみて」
彼が手のひらを差し出してきた。それに触れようとした、けれど。
「触れない……」
普通の人なら、あの頃の彼なら、その手で私の手を受け止めてくれてたのに。どうして、どうして触れないの?
「へへっ、幽霊になっちゃった」
「笑って言うことじゃないでしょ!」
おどけて笑う彼に、思わず口調を強めてしまう。そして同時になにかが目に溜まっていくのを感じて。
「どうしたの? ほら、幽霊だよ。さっきみたいに叫んだり逃げたりしないの?」
「逃げない、よ……」
逃げるわけないよ。どれだけ噂話でいじめられてきたとしても、私は彼に。
「ずっと会いたかったから」
これは本当の気持ち。もう叶わないと、彼がいなくなったことを知ってから思っていたから。
「そうなの?」
少しの間の後、驚きを含んだような声が彼から漏れる。多分暑さのせいだと思うけれど、心なしか彼の頬が仄かに赤くなっている気がした。
なんとなく目を合わせるのが気恥ずかしくなって、視線を下に向けると。
「手首のところ、ちょっとアザできてない?」
「えっ?」
暗い中で見えづらいけれど、なんとなくそれっぽいのは確認できた。きっとあの酔っ払いの人のせい。
「しょうがないなぁ。ついてきて」
すると颯爽と彼はどこかへ行ってしまう。いや、飛んで行くが正しいなのかな。足が浮いているように見えたから。その光景が、彼がこっちの世界の人間でないことを実感させた。もう、彼が生きていないのだと。
「待ってよ」
でも、この感じが懐かしい。私は後を追いかけた。
今は、今だけはそんな真実を置いて、遠い記憶の中に意識を預けてみようと思いながら。
導かれて保健室に着いた途端、室内が明るく照らされた。スイッチもなにも押していないというのに。だけど、もう慣れてしまったのか、それとも目の前に透真くんがいるからなのか、多分どっちもだけど全然怖いとは思わなかった。
「幽霊って、物には触れるの?」
棚の引き出しからシップを取り出した彼は、私の方へ近づき。
「うん、そうだよ。だから、扉とか人体模型とか。あとはピアノも弾けるよ」
「待って。じゃあ、もしかして、私が今まで怖い目に遭ったのって、全部透真くんが仕掛けたことなの?」
明らかにいたずらな笑みを浮かべる彼。これはもう確信犯。
「どう、怖かった?」
「怖かったよ! 噂話ですら怖がる私だよ?」
「そうだったね」
軽く話を流しながら、彼は手に持ったシップをあざになっているところに貼ってくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして。今度から気をつけるんだよ?」
そういうところだよ。優しいところがあるから、私はどうしたって透真くんのことが嫌いになれなくて。正直ズルいと思った。
「夜は出歩かないほうがいいよ。だって夜は」
幽霊が出やすい時間帯だからね、と付け加えて彼は私を怖がらせる。もう、優しいと思った矢先にこうなんだから。
だけど、こんなやり取りを何度もしてきたからなのか、今はむしろあの頃のようにお話しできていることに喜びを感じていた。でも。
「本当に幽霊になっちゃったんだね」
不意打ちで手を伸ばすも、それはどこにも触れなくて。温もりの気配すら感じられなくて。
自然と視線を手首についているシップに落としていると。
「じゃあ、夜の学校の噂話を攻略した陽翠には、特別に良い場所に連れて行ってあげる。ついてきて」
「待ってよ」
また颯爽と行ってしまう彼に、私はついて行った。
「すごい」
ありきたりな称賛の言葉しか出ない。だけど本当にすごくて。
「学校の屋上って、本来入れる場所じゃないからね」
危険が潜んでいる屋上は多分どこの学校でも常に鍵がかけられていて、誰もその立ち入りをすることはできない。私も小説で、見たことない屋上の景色に憧れていたもの。
だから念願だったこの光景を見れて、とっても嬉しかった。真っ暗で星は見えないけれど、街を一望できて、私にとってはそれだけで絶景に見えて。
「フェンスに近づきすぎると危ないよ?」
彼に指摘されて、ピタッと足を止める。あまりにも夢中になりすぎて、そこまで近づいているとは思わなかった。
「陽翠みたいなのがいるから、屋上は立ち入り禁止になるんだよ」
「えー。でも、そうなのかな?」
フェンスに近づいても、落ちることはないと思うけれど。でもフェンスも絶対の安全が確保されてるわけじゃない。
当たり前に続くと思っていた彼の未来のように。
「じゃあ、綺麗な景色を見せた代わりに……」
「待って。その流れ、もしかして……」
嫌な予感しかしない。そしてその予感は当たってるよと言うように彼はにっこりとした表情を浮かべた。
「最後に教えるね。八つ目の七不思議」
「えっ、八つ目?」
七不思議なのに八つ目? その矛盾に困惑している私を差し置いて、彼は噂話をし始めた。あの頃と変わらぬテンポと声のトーンで。
「夜の校舎で男の子の幽霊に出会うと、その子と同じ場所に連れて行かれちゃうんだって」
「それって……」
暗闇の中、彼が口角を不気味に上げる。その瞬間、彼がおぞましい幽霊に見えた。
「でも、救われる方法もあって」
その一言で、私はほっとする。彼がそんな恐ろしい存在になったかと思って。
まだ薄暗い空の下で彼は、囁く。私にだけ聞こえる声の大きさで。
「僕の未練を晴らしてくれたら、陽翠はこの噂話から救われるよ」
「未練?」
そんなこと言われてもわからないよ。透真くんにどんな心残りがあるかだなんて。でもその未練があるからこそ幽霊でいるなら、見つけてあげたいとも思った。
「じゃあ、当ててみて」
「う~ん。あっ、無難に家族に会いたい、とか?」
いい線だと思ったけれど、どうやら違うらしく、彼は首を傾げた。
「まぁ、家族にも会いたいけど。でももっと僕にとっては大きなことかな」
大きなこと、大きなこと。あっ!
「私に噂話を聴かせること?」
記憶が正しければ、噂話で私を怖がらせるのが生きがいだと言っていたはず。
「それも未練だったんだけど、さっき陽翠に噂話をしたから晴れたよ」
まぁ、まだ話足りないくらいだけどね、と付け加えて、彼は小さく笑う。ふと、さっきよりもその表情がはっきり見えるようになった気がした。
「もうすぐ朝だね」
彼の向く方へ私も身体を動かした。さっきまで暗かった空に青が混じり始めて、水平線はわずかに白んでいて。
「私、朝になる瞬間って初めて見たかも」
いつもは夢の世界にいる時間。だけどここは、夢の世界よりも遥かに美しくて。ううん。きっとそれだけじゃない。
再び彼に視線を向けると、ちゃんと見えていた彼の姿は、所々透けて見えて……。
「もう、そろそろかな」
「えっ、なにが?」
言っている意味がわからなくて、ただ呆然と彼を見ることしかできない。だけどその意味がまったくわからないわけじゃないから、余計に頭の中が混乱して。
「あっちの世界に行かないと」
「やだ」
嫌だよ。せっかく会えたのに。また離れ離れになってしまうなんて。
「行かないでよ。私、透真くんの未練、まだ当ててないし、晴らしてないのに」
それを拍子に、私のなにかが壊れた。次から次へと、涙と記憶の波が私を胸の奥から襲っていく。もう、会えなくなる。本当に行ってしまうのなら、今度こそ。
あの日。彼が私の前からいなくなったあの日の彼の背中に伝えたかったことを、今。
「透真くん。私、透真くんのことが好きだったんだよ。ううん、好きだよ」
過去形を慌てて直す。ちゃんと言えた。あの頃からずっと伝えたかったことを。涙で視界が霞んでいたおかげで。
「陽翠、思いっきり目を瞑って」
頬に熱が帯びるのを感じながら、突然の彼のお願いに私は応える。そしてまた目を開けると、ぼやかしていた涙が晴れて、視界が綺麗に澄んだ。
「もういなくなるんだから、ちゃんと僕のこと見て」
そこには頬を赤く染めた彼がいた。幽霊じゃない、生きている彼だと思わせるくらいに、生気を宿らせて。そして彼は私にこれ以上近づけないほど近づいてきて。
「あっ、えっ」
一瞬の出来事に私は戸惑いを隠せない。だって今。
そしてなぜか、それをした透真くんも、慌てふためいている様子。
「あっ、ごめん。もしかして、今付き合ってる人とかいた?」
今さらそんな確認しても遅いよと思いながら、私は首を横に振った。全否定するように勢いよく。
「い、いないよ。いないから透真くんに気持ちを伝えられたんだもん」
「そ、そっか。よかった。じゃあ、これで未練は晴れたよ」
「えっ?」
今ので未練が晴れたってこと? じゃあ、今のが……。
「こうやって、陽翠に好きを伝えたかったんだ。陽翠が好きになってくれたその前から」
知らなかった。透真くんの未練になるほど、私を想ってくれていたなんて。
「今だから言えることだけど。給食の噂話も、僕の作り話でさ」
「えっ、あれ嘘だったの?」
「噂話だから嘘でいいでしょ」
「じゃあ、どうしてそんな嘘?」
「一緒にいたかったから」
まっすぐに届いたその一言が、顔を熱くさせた。手首に貼り付いたシップは、少しも冷やしてくれなくて。
その熱が、心の内のわがままを押し出す。彼を困らせてしまう想いを。でも、もしかしたらなんて、そんな馬鹿な期待をしてしまう自分もいて。
「ねぇ、透真くん。お願い」
白んでいく空は、まもなく光を放とうとしていた。それに比例するように彼の身体は薄れていって。
溢れそうになる涙を堪えて、私はわがままを放つ。彼が消えてしまう、その前に。
「私も連れて行って、あっちの世界へ」
気持ちを伝えられて、両想いになれて。だから、もっと。もっと一緒にいたいのに。
「もう未練は晴れたから、陽翠のことは連れて行けないよ」
きっぱりと彼はそう言った。私の期待をあっさりと切り捨てて。
「嫌だ……。行きたいよ……」
駄々をこねる子どものように、彼に反発する。こんなこと言っても、彼が困るだけなのは知っているのに。
「ダメ。一緒に来たら困るんだよ」
「なにが困るの?」
口調が自然と強くなってしまう。あまりにも必死になりすぎて。
「怖い噂話を集めて、いつか陽翠に聴かせたいからね。だから集め終わるまでは来ないでね」
「えっ、また怖い話するつもりなの?」
「当り前だよ。だって怖がる陽翠を見るのが生きがい、いやあっちの世界の話だから楽しみ、だから」
「もう……」
相変わらずの悪趣味。だけど彼といられるなら怖い話くらい、いくらでも我慢できる気がするから。だから。
「行かないで」
そんな切実な想いを込めても、彼は首を横に振った。空の明るさを振り払うように。
その時、光が、朝日が私たちを包んだ。透けていた彼の身体がさらに薄くなっていく。彼の向こう側の景色がはっきりと見えるくらいに薄く。
「本当に行かないと」
「待ってよ」
いつもなら、そう言いながら追いかけられるのに。だけど少しずつ空へと昇っていく彼に追いつくのはどうあがいてもできないことで。
「待ってるから」
優しい彼の声が、ふわっと頭上から舞い降りてきた。まるで小さな子どもをあやすような温かみをもって。
「ずっと。ずっと待ってるから」
彼の最後の一言が、大きく響いた。空へ昇る彼のほとんど透けた手に、私は手を伸ばす。だけど強く照った朝日が、彼をあっちの世界へと連れて行ってしまった。
朝日は、彼のいない今日の始まりを無情に告げる。もう青く澄んでしまった空を見上げたまま、私は誓った。
彼とまた出会うために。もっと、大好きな気持ちを伝えるために。
幾千の朝を越えていこうと。
<終わり>
『0時00分』
終電は行ってしまったであろう時間。まだ新人の身で飲み会をお断りすることもできず、その上高級志向のお店だったから、お財布は寂しいことになっていて。
タクシーを呼びたいところだけど、当然そんなこともできず。画面の明かりは、その時間を無情に浮かび上がらせるだけ。
この時間だと泊まれる場所もないよなぁ、と思っていると。
「ねぇ、お姉さん。綺麗だね」
後ろを振り向くと、すぐそばに男の人が立っていた。ちょうど街灯に照らされているから、その容貌がはっきりと見える。背が高くて顔は赤くてって。これはまさか……。
いち早く危険を察知して、私は走り出した。あれは完全に酔っ払ってる。夜は一番に警戒しなければならない存在。なのに。
「ちょっと待ってよ」
逃げるなんてひどいなぁ、と吐きながらその人は私を追いかけ始めた。どれだけまけたと思っても、早い足音は止まなくて。私も疲労が蓄積して、もう体力の限界だというのに。
ガラガラ。
このままだと捕まってしまう。そう思っていた時、突如不気味な音が耳を貫く。見たくはないけれど、人の好奇心は恐ろしいもので、気になったら否が応でもそれを確かめようとする性質がある。
その性質通り、私はその方向へと視線をスライドさせてしまう。真夜中ならではの暗黒の世界。時折点滅する街灯。0時という、いかにも何かが起こりそうな時間。
それらすべての環境が、私の視界に映るものをさらに異様にさせた。
「校門が開いている……」
そう独り言を漏らしてしまうほどに、その光景は負のオーラで溢れていて。誰かが鍵を閉め忘れて、さらに風で揺れているんだと、この何とも言えない不気味な光景を理解することにした。風ってそんなに強かったっけと疑問に思いながらも。
だけどやっぱり怖いから、ここはスルーしておこう。だけど。
「おねぇさん、どこ?」
どうしよう。随分近くで声が聞こえた気がする。ひとまず身を隠せそうな場所を。
電柱に隠れるのはどうだろう? でもあれはフィクションの世界だから上手く隠れられてるだけで、実際に隠れたら服の一部とか見えそうだし。かといって家の塀とか不法侵入で訴えられるかもしれないし。だとすると……。
私は見たくない方へ再び視線を向ける。なぜか開かれている不気味な校門を。
行く勇気なんてない。だって私、怖いのが大の苦手だから。でも、今は危険が目の前まで差し迫っているわけで。う~ん、もう!
嫌々ながらも、私は一歩を踏み出した。キーという音が余計に恐怖心を増幅させる。もう、やだ。
だけど、同時にそれはある記憶を呼び起こして。甘くて、とても遠い記憶を。
『陽翠』
門の開く音と、私を呼ぶあまりにも懐かしい声がぴたりと重なった。
「ねぇ、知ってる? この学校の怖い噂話」
「わっ、びっくりした……」
突然机の前に男の子が現れる。私のよく知る男の子。
「聴きたいでしょ?」
「やだよ。今給食食べてるところだから邪魔しないで!」
小学生の頃、給食を食べ終えるのが遅かった私は、お昼休みの教室で一人、料理を口に運んでいる、はずだった……。
「よし始めるよ! 昔ね……」
「ちょっと。だからやめてよ、透真くん……」
透真くん。怖い噂話が大好きでそういうのが苦手な私にあえて聴かせる、そんな悪趣味を持つ男の子。そして幼稚園の頃からの私の幼なじみ。
「それで昔ね……」
やめてって、さっき言ったはずなのに透真くんは話を続けた。耳を塞ぎたかったけれど、早く食べないと先生に怒られてしまうから食べ進めないといけなくて。
「昔ね、食べるのが遅くて、お昼休みに一人で給食を食べてる女の子がいてね」
「待って、それ私と同じ設定……」
聴けば聴くほど、その女の子が私に見えてきて……。
「毎日毎日その女の子は給食が遅くて、先生に怒られてたんだ。本当に毎日毎日」
「うん……」
徐々にオチに近づいてきているのがわかるから、自然と反応が薄くなってしまう。
「それでね。本当に毎日怒られてばかりだからね、ある日その女の子は自分の教室の窓から身を投げたんだって。頭から落ちたみたいで即死だったらしいよ」
「いやーー」
給食中にも関わらず、私は大きく悲鳴を上げた。
「ちょっと待って。まだ話終わってないのに」
「もうやめてよ、お願い。私、その女の子みたいに怒られたくないから!」
「まぁ、もう少しで終わるから。我慢して?」
彼はにこっと笑って、私の懇願をやんわりとかわす。もう、聞きたくないのに。
「その女の子はこの世の子じゃなくなって、幽霊になったんだ。それ以来、この学校ではね」
一人で給食を食べている女の子をその幽霊が自分と同じ場所に連れて行っちゃうんだって、と囁いた。どの文よりも低く、はっきりと。
「きゃーー」
さっきよりも一際大きく悲鳴を上げる。目には涙がどんどんたまってきて。
「連れて行かれちゃうの、私……」
「そうみたいだね」
笑みを貼り付けたまま、彼は頬杖をつく。なんでそう平然としていられるの? 幼なじみなのに、これっぽっちも心配してくれないの?
「ひどいよ透真くん。もう知らない」
ぷいっと顔を横に向く。怖い話ばっかりするし、私のことを微塵も心配してくれない透真くんなんて、もう。
「でも、陽翠は一人じゃないでしょ?」
「えっ?」
目を三日月みたいに彼は細めて。
「僕がいるでしょ?」
「確かにそうだね……そうだよね!」
それなら、噂話の女の子に当てはまらない。透真くんがいるから、一人じゃなくて二人なわけで。
「でも今陽翠、もう知らないとか言ったよね。それならお望み通り、どっか行こうかな〜」
「待ってよ!」
立ち上がって教室の出入り口へと移動し始めた彼を呼び止める。
「なに、いてほしいの?」
「うん……怖いから……」
あっさりとそう言ったことに驚いたのか、振り返った彼はぼんやりと私の方を見た。
「そ、そっか。仕方ないなぁ、一緒にいてあげるよ。あっ、でも。」
「なに?」
いいことを思いついたと言わんばかりに、彼は目を輝かす。顔にはいたずらな笑みを浮かべて。……嫌な予感がする。
「貴重なお昼休みの時間をここで過ごす代わりに、とびきり怖ーい話をしちゃうね」
「えー」
だけど結局なにも言えなかった。彼の怖い噂話よりも、見知らぬ幽霊にあの世へ連れて行かれてしまうことの方がよっぽど怖いから。途端に頬の上をなにかが滑った。
すると彼は手をこっちに近づけてきて、やがてその指の先端が目元へと届いた。
「もう、泣き虫だなぁ」
「透真くんのせいだよ。怖い話なんてするから」
「だって、陽翠の反応が毎回面白いんだもん。幼馴染みでずっと一緒にいるけど、見飽きないんだよね」
拭ってくれる彼の手は、とても暖かくて、それが触れるたび強張っていた身体が解れていく心地がした。
それは噂話で私を怖がらせる、悪趣味な男の子の手とは思えないほどに。
さっきまで歩いていた細い路地よりもそこは、辺りが暗闇に包まれていた。きっと街灯がないせいで。
校門から入ってはみたけれど、ここからどうすればいいのか。少し遠くには校舎がそびえ立っているわけで……。いや、もちろん行かないけれど。とはいってもずっとここにいれば、あの酔っ払いに見つかってしまうし。
そして気がつけば、校舎がより近づいていて。ってよく見たら玄関開いてる? 真横を見ると少し遠くで二宮金次郎がこっち向きに建てられていて。
「おねぇさ~ん」
やばい。今結構近くで声が聞こえたような……。恐る恐る振り返ると、そこには、あの酔っ払いが。
目と目が合った途端、その人はまっすぐにこちらへ走ってきて。どうしよう、捕まると思ったその時。
ごつん、ごつん……。
岩がなにかにぶつかる音。人ではない、だけど足音のように連続的にそれは聞こえてきて。
向きたくない方に首はなぜか動いてしまう。そしてそこには、予想通り、いやそれ以上に恐ろしいものが映っていて。あの酔っ払いよりも遥かに。だってそこには。
「二宮金次郎像が動いてる……」
酔っ払いが掠れがすれに、信じられないことを呟く。こちらに向かって猛スピードで走ってくる二宮金次郎像。
『夜になると二宮金次郎像が勝手に動き出すんだって』
あの声。確かに聞こえた。だけど耳からというよりは頭の中で。噂話をする時の彼の表情が鮮明になるほどにはっきりと。そのおかげか、頭で早く理解できてなんとか足を動かして走り出すことができた。なにも考えず、ただひたすらに。
しくじった、完全に。パニック状態で走り続けていたら、いつの間にか校舎の、しかも体育館のど真ん中にいたわけで。
なんで。なんで私、校舎の中に入ってしまったの? 怖いことしか起こらない場所に自ら。そんな自問自答を繰り返していると。
『夜になると体育館でボールの跳ねる音が聞こえるんだって』
まただ。また透真くんの声。でもまさか。もう流石にないよね? さっきのはなにかの間違いだっただけで。うん、そう思うことにしよう。
私はひとまず体育館から出ることを決意する。冷静さを意識しながら、出口を目指していく。あともう少し。本当に少しだったのに。
どすん、どすん……。
まさか。振り向いてはいけない。そう言い聞かせても、首は勝手に動いてしまって。そこには。
どすん、どすん。動かないはずのものが、動いている。
倉庫に片付けられているはずのバスケットボールが、体育館の床の上で跳ねていて。意思を持って一人勝手に。
私は早々に退散する。また頭の中を空っぽにして。
気づけば、今度は目の前にグランドピアノが立っていた。存在感をどの楽器よりも主張して。
『夜になると勝手にピアノが鳴り出して、確か最後まで聞くとその人はあの世に連れて行かれるんだっけ? そうそう。あとベートーヴェンの肖像画の目が光るんだって』
そうだった。音楽室って噂話が絶えない教室なんだと、散々彼の噂話で聴かされたんだ。心の中で反芻する彼の声が、嫌でもそう理解させる。って。
軽やかなメロディーが響く。心ではなく耳から。私でも知っているクラシック曲の音色が辺りを包む。
「ピアノ、鳴ってる……」
誰もいないはずなのに。目の前のグランドピアノの鍵盤は、音色に合わせてへこんでいて。
このままだとあの世に連れて行かれてしまう。なのにどうしてか、足は動かなくて。
『僕、卒業したら……』
その時、噂話ではない彼の声が、私の中でこだました。そうだ、この音色。
小学生の私から卒業するまで、あとわずかという時期。もうすぐ卒業式だというのに、音痴な私は、なかなかクラスの皆と同じように歌うことができなくて。そんなとき。
「陽翠。この後、音楽室行こう」
ランドセルに教科書を詰めていると、透真くんが机の前で屈んでそう誘ってきた。
「もしかして、音楽室の噂話を確かめる、とか」
「あっ、それもいいね」
くしゃっと笑って、目を細める。まもなく卒業だけど、噂話で私を怖がらせるのは相変わらずで、今でも彼にとっての生きがいらしく。だけど、ふと思った。
「それもいいねってことは、本当の目的は違うの?」
「……陽翠も鋭くなったね。まぁ、出会った頃と比べるとね」
「じゃあ、透真くんからしたら、まだまだ鈍いってこと?」
「まぁ、そういうことになるね」
「もう……」
褒めてくれたと思ったのになぁ。まぁ、そもそも透真くんに褒めてもらうこと自体、間違ってるよね。
「今絶対、僕のこと、悪い風に考えてるよね?」
「えっ、透真くんってエスパーだったの?」
確かに透真くんの透って、透明の透だもんね。だから心も透けて見えるってことで。
「へ~」
不気味に響くその声に、私は口を手で押さえた。まずい、余計なことを口にしてしまった。目の前の彼を改めて見ると、何回も頷きながら、不機嫌そうな表情をしていて。
「ふ~ん。本当にそう思ってたとは、がっかりだよ。まぁ、いいや。歌の練習、一人で頑張って」
「待ってよ」
立ち上がって教室の出入り口へと移動し始めた彼を呼び止める。私も椅子から立ち上がって彼へと近づく。
「なに、歌の練習に付き合ってほしいの?」
「うん」
大きく頷くと、あっさりとそう言ったことに驚いたのか、振り返った彼はぼんやりとした表情で私の方を見た。
「そ、そっか。仕方ないなぁ。一緒に練習してあげるよ。あっ、でも」
これはその代わりにっていう流れ。これはもう嫌な予感しかない。
「話したいことがあるから、そのつもりでいてね」
「えーー。絶対それ噂話だよね」
「さぁ、どうだろう?」
そんなはぐらかさなくても、わかってるよ。
「じゃあ、早速行こう!」
えっ、という間もなく私の手首に力が込められる。気がつけば手を引っ張られながら、私たちは音楽室へと走っていた。
「陽翠、本当にちゃんと練習した?」
ピアノでメロディーを弾き終わった彼が、そんな疑いをかけてきた。正直ずっと一緒にいた幼馴染みに疑われるのは傷つく。
「したよ。透真くんも見てたでしょ?」
「まぁ、見てたけどさ。でも、まさかここまでひどいとは」
「そ、そんな、はっきり言わなくても……」
「とりあえず、もう一回やるから。僕の弾く音に耳を傾けながら歌ってみて」
ふぅ、と息を吐いてから、再びピアノから音が生まれる。心の汚いところまで洗ってくれるような、洗練された音色。
昔から好きだった音だ。意外にも透真くんは、ピアノが上手で、今回の卒業合唱でも伴奏に選ばれるくらいの実力の持ち主。普段の彼からは想像できないほどに、その音色は美しくて。それに、今さりげなくアドバイスしてくれたよね?
ふと気がついた。私が、彼を嫌いになれない理由。なんだかんだで一緒にいる理由を。もう歌うところに入るというのに、そればかりに意識がいってしまって。
歌いながら。歌いながら、これまでの彼との日々を思い返した。噂話で私を怖がらせる彼。普通なら、そんな人嫌いになるに決まってる。だけど、それでも嫌いにならなかった。なれなかった。
噂話はするけれど、お昼休みは私が給食を食べ終わるまで一緒にいてくれて、困っている時は必ず助けてくれて。今もそう。さりげなくだけど、私にアドバイスをしてくれた。だからきっと、私は……。
「今の、変なこと考えながら歌ってなかった?」
「そう?」
確かに考えごとはしてたけど。でも、変なことではないし。
「音外れてるし、歌い出しも間違ってるし」
「ごめん、歌下手で」
たくさん指摘されてしょんぼりとしていると、彼が突然、歌うはずの合唱曲とは違う旋律を奏で始めた。それはピアノを習う人が最初に練習する曲で。
最後まで弾き終えると、彼は私に笑みを向ける。なんの悪意も感じない、まっすぐな笑顔。それだけで、いつもの彼とは違うんじゃないかと思わせる。
「僕、この曲を練習してた時、ピアノ教室の先生に散々なことを言われたんだよね。弾く鍵盤を間違えてるとか、リズム感とか。まだ習いたてだったのに、本当に厳しくてさ」
「その話、初めて聴いた」
「まぁ、ほとんど噂話だったからね。陽翠に話してきたことは」
「ほんとだよ」
ムッとさせると、彼はくすり笑いをした。だけどすぐに真面目な顔に戻って。
「でも、その先生は一つだけ、僕に褒めてくれたことがあったんだ」
「そうなの?」
習いたての男の子に厳しく指導する先生が、褒めたことって。
「気持ちなんだって」
「気持ち?」
「そう。透真さんの音色には気持ちが込められているって。聴衆に届きやすい音色だから、そこは胸を張りなさいって」
「気持ちって、そんなに大事なことなの?」
「うん。僕も当時はわからなかったけど、今やっと理解できた気がする」
「今?」
どうして今なんだろう、と不思議に思っていると、彼が私を指さした。そして。
「陽翠の歌声にも、気持ちが込められてるなって思ったから」
「私にも?」
「うん。だから、僕的にはこれでいいと思う。気持ちさえあれば大丈夫だよ。あとはクラス練習で技術的なところはなんとかなると思うし」
キーボードマットを鍵盤の上から敷いて片づけ始める。まだ自信はないけれど、なんとなく浮ついた気分になった。滅多に褒めない彼に認められたことが嬉しくて。
「じゃあ、さっきの約束覚えてる?」
ピアノを片づけると、彼は椅子から立ち上がり、こっちに身体を向けた。
「約束って。あぁ、話があるって言ってたよね」
「うん……」
あれ、噂話で私を怖がらせるんじゃなかったの? 歯切れも悪いし、どうしたんだろう。
一度深呼吸してから、彼は一言放った。それは、怖い噂話よりも耳を塞ぎたくなるような内容で。
「僕、卒業したら」
この街を出て行くんだ。さっきまでの美しい音色と浮ついた気持ちを、その一言はいとも簡単に連れ去ってしまった。
「きゃーー。ベートーヴェンの目が光った!」
今度こそ、足を動かすことができた。走るたび、あの音色が遠のいていく。あのピアノの音、透真くんが奏でる音色に似ていた気がして。
そう思いかけて足を止めるも、突如身体がむずむずしてきた。まずい、これは……。
身体の異変に、私はすぐさま階段を目指す。学校の出口を探すことよりも優先して。
やがて階段が姿を現すと、一つ下の踊り場にある女子トイレへと駆け出した。一つ上の踊り場にもトイレはあるけれど、そこは3階の女子トイレ。最も有名だといっても過言ではない噂話のある場所なわけで、当然ながら私はそこを避けた。だけど。
下の女子トイレに入った途端、誰もいないはずの個室から。
「熱いよ……」
「誰か、助けて……」
悲痛な叫びが、勢いよく私の鼓膜を突き刺す。そして思い出したくない、またも彼の声を頭の中で再生してしまう。
『戦争があった時代、木造建てだった学校がほとんどでね。だから、焼夷弾が落とされるとすぐに燃え広がって、児童たちは一番火の手が回らなそうなトイレに避難するんだけど。でも結局そこにまで火が回って、避難した児童たちは全員焼死しちゃったんだって。それ以降、夜のトイレの個室からは、身を焼かれている児童たちの雄叫びが聞こえるらしいよ』
「もう、やだ……」
身体の苦痛をなんとか堪えながら、私は退散する。
その後、無意識に三階の女子トイレへ駆け込んだ。もう怪談とか言ってる場合じゃない。だけど個室に入っても、異変は起きず、私は身体の苦痛から解放された。
もうここまできたら大丈夫だと、油断して手を洗っていたその時。
「でたー」
奥の個室の開かれた扉には白い手。これがあの有名な怪談の女の子じゃなければなんなのか、と私に嫌でも思わせる。私は一目散に逃げた。走って走って。既に冷静さを捨てた思考で、ただここを出ることだけを考えながら。
だけど、二階の廊下に差し掛かったところで、手首に強い力が加わった。身体の震えが止まらない。まさか、あのトイレの幽霊……。生温い手が、場をさらに氷漬けていく。
「見つけちゃった。もう先行かないでよ、おねぇちゃん」
だけど、その手はある意味で幽霊よりも怖いものだった。
「放してください!」
「つれないなぁ。まぁ、でも強引に連れて行けばいっか!」
二宮金次郎像でもう離れていたと思っていた酔っ払いが、しつこく私に迫ってくる。酔っ払っているとはいえ、男性の力は想像以上に強くて、抵抗するも手首をさらに強く掴まれて阻止されてしまう。そして、もう片方の手首を掴まれそうになっていると。
トコッ、トコッ。
どこからか、そんな足音が聞こえてきた。イカれた酔っ払いの男性も、さすがに動作を止めて、ただ不気味に連続する足音に耳を澄ましている。こんな時間に人がいるはずない。今まで体験してきた怖い出来事が、この音を普通の現象として捉えてくれない。
そしてその足音の主は突如姿を現した。だけどそれは幽霊ではなく、なんと。
「お前の臓器を奪ってやる」
ここにあるはずのない臓器むき出しの人体模型がそこにはあって、さらに喋り始めた。もうなにがなんだかわからなくなって、とうとう足も動かせなくなってしまう。きっと、諦めに似た感情から。しかも口にした言葉も強烈に恐怖を感じさせるもので。
「なんだよーこの学校」
私を襲ってきた男性は、足をふらつかせながら、だけどちゃんと走って私たちから離れていく。それがいいことなのか、悪いことなのか、私にはもう判断する要領も残されていない。唯一、これからこの人体模型が私を襲うことは思考できたけれど。
でも、きっと今ならこの人体模型に襲われても、大丈夫な気がした。恐怖を感じられるほどの心の余裕も思考も、なにもかもが今の私には欠けているから。
「陽翠、久しぶり!」
「えっ?」
だけどその人体模型が襲ってくることはなかった。それどころか、この雰囲気に不釣り合いな明るい声でって。この声?
今までずっと、頭の中で聴いていた声。昔のことを思い出すたびに聴こえてきた声。だけど、今はその声が耳から聴こえてくる。
そんなはずないのに。彼は、透真くんは、だって。
「もう、返事くらいしてくれてもいいのに」
私は顔を上げた。あるはずのないことが真実かどうかを確かめるために。だって彼は。
「どう、陽翠? 僕の噂話は本当だったでしょ?」
もうこの世にいない人だから。
あの日、音楽室で告げられた通り、彼はこの街からいなくなった。ただの幼馴染み。怖い噂話ばかりする、趣味の悪い男の子。ただの幼馴染み、だったはずなのに。
いなくなると知ってから。私は透真くんの気持ちに気がついてしまった。なんだかんだずっと一緒にいてくれること。優しいところ。とにかくその日を境に私は、彼を意識するようになった。
だけど、それを伝えることは二度となかった。それは夕方のいたって普通のニュースで知ったこと。
私の知らない街の中学校に通っていた透真くんは、下校中に事故で命を落とした。そんな内容が無感情に報道されていく。言える機会なんて、いくらでもあったのに。
「よかったね。噂話で陽翠を怖がらせる悪趣味な男がいなくなって」
透真くんの両親が引っ越し業者の人と話す中、彼はそんなことを口にした。
「ほんとだよ。だから今はホッとしてるよ。怖い思いしない中学校生活が今から楽しみだもん」
本当はそんなこと思ってないのに。卒業合唱も、彼がいたから自信を持って最後まで歌い切れたから。
「透真、そろそろだよ」
じゃあね、と一言残して彼を呼んだ両親へと身体を向けてしまった。
私はただ、その背中を見つめることしかできなくて。本当の気持ちを伝えられないままに。
そうやって、絶対に保証されている明日を、馬鹿みたいに、あの頃の私は信じていたんだ。
「どうして、生きてるの?」
報道番組で見たはずなのに。そこに写っていた画像も、名前も間違いなく彼だった。
「なに、陽翠は僕に生きてほしくないの?」
少し不機嫌そうに、彼は口を尖らせた。
「そういうわけじゃないよ」
白いワイシャツに黒い制服のズボン姿。それはどこからどう見ても学生の姿だった。あの報道はなにかの間違いで、ただ学生のコスプレをしている私の幼馴染みだと思い始めた時。
「触ってみて」
彼が手のひらを差し出してきた。それに触れようとした、けれど。
「触れない……」
普通の人なら、あの頃の彼なら、その手で私の手を受け止めてくれてたのに。どうして、どうして触れないの?
「へへっ、幽霊になっちゃった」
「笑って言うことじゃないでしょ!」
おどけて笑う彼に、思わず口調を強めてしまう。そして同時になにかが目に溜まっていくのを感じて。
「どうしたの? ほら、幽霊だよ。さっきみたいに叫んだり逃げたりしないの?」
「逃げない、よ……」
逃げるわけないよ。どれだけ噂話でいじめられてきたとしても、私は彼に。
「ずっと会いたかったから」
これは本当の気持ち。もう叶わないと、彼がいなくなったことを知ってから思っていたから。
「そうなの?」
少しの間の後、驚きを含んだような声が彼から漏れる。多分暑さのせいだと思うけれど、心なしか彼の頬が仄かに赤くなっている気がした。
なんとなく目を合わせるのが気恥ずかしくなって、視線を下に向けると。
「手首のところ、ちょっとアザできてない?」
「えっ?」
暗い中で見えづらいけれど、なんとなくそれっぽいのは確認できた。きっとあの酔っ払いの人のせい。
「しょうがないなぁ。ついてきて」
すると颯爽と彼はどこかへ行ってしまう。いや、飛んで行くが正しいなのかな。足が浮いているように見えたから。その光景が、彼がこっちの世界の人間でないことを実感させた。もう、彼が生きていないのだと。
「待ってよ」
でも、この感じが懐かしい。私は後を追いかけた。
今は、今だけはそんな真実を置いて、遠い記憶の中に意識を預けてみようと思いながら。
導かれて保健室に着いた途端、室内が明るく照らされた。スイッチもなにも押していないというのに。だけど、もう慣れてしまったのか、それとも目の前に透真くんがいるからなのか、多分どっちもだけど全然怖いとは思わなかった。
「幽霊って、物には触れるの?」
棚の引き出しからシップを取り出した彼は、私の方へ近づき。
「うん、そうだよ。だから、扉とか人体模型とか。あとはピアノも弾けるよ」
「待って。じゃあ、もしかして、私が今まで怖い目に遭ったのって、全部透真くんが仕掛けたことなの?」
明らかにいたずらな笑みを浮かべる彼。これはもう確信犯。
「どう、怖かった?」
「怖かったよ! 噂話ですら怖がる私だよ?」
「そうだったね」
軽く話を流しながら、彼は手に持ったシップをあざになっているところに貼ってくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして。今度から気をつけるんだよ?」
そういうところだよ。優しいところがあるから、私はどうしたって透真くんのことが嫌いになれなくて。正直ズルいと思った。
「夜は出歩かないほうがいいよ。だって夜は」
幽霊が出やすい時間帯だからね、と付け加えて彼は私を怖がらせる。もう、優しいと思った矢先にこうなんだから。
だけど、こんなやり取りを何度もしてきたからなのか、今はむしろあの頃のようにお話しできていることに喜びを感じていた。でも。
「本当に幽霊になっちゃったんだね」
不意打ちで手を伸ばすも、それはどこにも触れなくて。温もりの気配すら感じられなくて。
自然と視線を手首についているシップに落としていると。
「じゃあ、夜の学校の噂話を攻略した陽翠には、特別に良い場所に連れて行ってあげる。ついてきて」
「待ってよ」
また颯爽と行ってしまう彼に、私はついて行った。
「すごい」
ありきたりな称賛の言葉しか出ない。だけど本当にすごくて。
「学校の屋上って、本来入れる場所じゃないからね」
危険が潜んでいる屋上は多分どこの学校でも常に鍵がかけられていて、誰もその立ち入りをすることはできない。私も小説で、見たことない屋上の景色に憧れていたもの。
だから念願だったこの光景を見れて、とっても嬉しかった。真っ暗で星は見えないけれど、街を一望できて、私にとってはそれだけで絶景に見えて。
「フェンスに近づきすぎると危ないよ?」
彼に指摘されて、ピタッと足を止める。あまりにも夢中になりすぎて、そこまで近づいているとは思わなかった。
「陽翠みたいなのがいるから、屋上は立ち入り禁止になるんだよ」
「えー。でも、そうなのかな?」
フェンスに近づいても、落ちることはないと思うけれど。でもフェンスも絶対の安全が確保されてるわけじゃない。
当たり前に続くと思っていた彼の未来のように。
「じゃあ、綺麗な景色を見せた代わりに……」
「待って。その流れ、もしかして……」
嫌な予感しかしない。そしてその予感は当たってるよと言うように彼はにっこりとした表情を浮かべた。
「最後に教えるね。八つ目の七不思議」
「えっ、八つ目?」
七不思議なのに八つ目? その矛盾に困惑している私を差し置いて、彼は噂話をし始めた。あの頃と変わらぬテンポと声のトーンで。
「夜の校舎で男の子の幽霊に出会うと、その子と同じ場所に連れて行かれちゃうんだって」
「それって……」
暗闇の中、彼が口角を不気味に上げる。その瞬間、彼がおぞましい幽霊に見えた。
「でも、救われる方法もあって」
その一言で、私はほっとする。彼がそんな恐ろしい存在になったかと思って。
まだ薄暗い空の下で彼は、囁く。私にだけ聞こえる声の大きさで。
「僕の未練を晴らしてくれたら、陽翠はこの噂話から救われるよ」
「未練?」
そんなこと言われてもわからないよ。透真くんにどんな心残りがあるかだなんて。でもその未練があるからこそ幽霊でいるなら、見つけてあげたいとも思った。
「じゃあ、当ててみて」
「う~ん。あっ、無難に家族に会いたい、とか?」
いい線だと思ったけれど、どうやら違うらしく、彼は首を傾げた。
「まぁ、家族にも会いたいけど。でももっと僕にとっては大きなことかな」
大きなこと、大きなこと。あっ!
「私に噂話を聴かせること?」
記憶が正しければ、噂話で私を怖がらせるのが生きがいだと言っていたはず。
「それも未練だったんだけど、さっき陽翠に噂話をしたから晴れたよ」
まぁ、まだ話足りないくらいだけどね、と付け加えて、彼は小さく笑う。ふと、さっきよりもその表情がはっきり見えるようになった気がした。
「もうすぐ朝だね」
彼の向く方へ私も身体を動かした。さっきまで暗かった空に青が混じり始めて、水平線はわずかに白んでいて。
「私、朝になる瞬間って初めて見たかも」
いつもは夢の世界にいる時間。だけどここは、夢の世界よりも遥かに美しくて。ううん。きっとそれだけじゃない。
再び彼に視線を向けると、ちゃんと見えていた彼の姿は、所々透けて見えて……。
「もう、そろそろかな」
「えっ、なにが?」
言っている意味がわからなくて、ただ呆然と彼を見ることしかできない。だけどその意味がまったくわからないわけじゃないから、余計に頭の中が混乱して。
「あっちの世界に行かないと」
「やだ」
嫌だよ。せっかく会えたのに。また離れ離れになってしまうなんて。
「行かないでよ。私、透真くんの未練、まだ当ててないし、晴らしてないのに」
それを拍子に、私のなにかが壊れた。次から次へと、涙と記憶の波が私を胸の奥から襲っていく。もう、会えなくなる。本当に行ってしまうのなら、今度こそ。
あの日。彼が私の前からいなくなったあの日の彼の背中に伝えたかったことを、今。
「透真くん。私、透真くんのことが好きだったんだよ。ううん、好きだよ」
過去形を慌てて直す。ちゃんと言えた。あの頃からずっと伝えたかったことを。涙で視界が霞んでいたおかげで。
「陽翠、思いっきり目を瞑って」
頬に熱が帯びるのを感じながら、突然の彼のお願いに私は応える。そしてまた目を開けると、ぼやかしていた涙が晴れて、視界が綺麗に澄んだ。
「もういなくなるんだから、ちゃんと僕のこと見て」
そこには頬を赤く染めた彼がいた。幽霊じゃない、生きている彼だと思わせるくらいに、生気を宿らせて。そして彼は私にこれ以上近づけないほど近づいてきて。
「あっ、えっ」
一瞬の出来事に私は戸惑いを隠せない。だって今。
そしてなぜか、それをした透真くんも、慌てふためいている様子。
「あっ、ごめん。もしかして、今付き合ってる人とかいた?」
今さらそんな確認しても遅いよと思いながら、私は首を横に振った。全否定するように勢いよく。
「い、いないよ。いないから透真くんに気持ちを伝えられたんだもん」
「そ、そっか。よかった。じゃあ、これで未練は晴れたよ」
「えっ?」
今ので未練が晴れたってこと? じゃあ、今のが……。
「こうやって、陽翠に好きを伝えたかったんだ。陽翠が好きになってくれたその前から」
知らなかった。透真くんの未練になるほど、私を想ってくれていたなんて。
「今だから言えることだけど。給食の噂話も、僕の作り話でさ」
「えっ、あれ嘘だったの?」
「噂話だから嘘でいいでしょ」
「じゃあ、どうしてそんな嘘?」
「一緒にいたかったから」
まっすぐに届いたその一言が、顔を熱くさせた。手首に貼り付いたシップは、少しも冷やしてくれなくて。
その熱が、心の内のわがままを押し出す。彼を困らせてしまう想いを。でも、もしかしたらなんて、そんな馬鹿な期待をしてしまう自分もいて。
「ねぇ、透真くん。お願い」
白んでいく空は、まもなく光を放とうとしていた。それに比例するように彼の身体は薄れていって。
溢れそうになる涙を堪えて、私はわがままを放つ。彼が消えてしまう、その前に。
「私も連れて行って、あっちの世界へ」
気持ちを伝えられて、両想いになれて。だから、もっと。もっと一緒にいたいのに。
「もう未練は晴れたから、陽翠のことは連れて行けないよ」
きっぱりと彼はそう言った。私の期待をあっさりと切り捨てて。
「嫌だ……。行きたいよ……」
駄々をこねる子どものように、彼に反発する。こんなこと言っても、彼が困るだけなのは知っているのに。
「ダメ。一緒に来たら困るんだよ」
「なにが困るの?」
口調が自然と強くなってしまう。あまりにも必死になりすぎて。
「怖い噂話を集めて、いつか陽翠に聴かせたいからね。だから集め終わるまでは来ないでね」
「えっ、また怖い話するつもりなの?」
「当り前だよ。だって怖がる陽翠を見るのが生きがい、いやあっちの世界の話だから楽しみ、だから」
「もう……」
相変わらずの悪趣味。だけど彼といられるなら怖い話くらい、いくらでも我慢できる気がするから。だから。
「行かないで」
そんな切実な想いを込めても、彼は首を横に振った。空の明るさを振り払うように。
その時、光が、朝日が私たちを包んだ。透けていた彼の身体がさらに薄くなっていく。彼の向こう側の景色がはっきりと見えるくらいに薄く。
「本当に行かないと」
「待ってよ」
いつもなら、そう言いながら追いかけられるのに。だけど少しずつ空へと昇っていく彼に追いつくのはどうあがいてもできないことで。
「待ってるから」
優しい彼の声が、ふわっと頭上から舞い降りてきた。まるで小さな子どもをあやすような温かみをもって。
「ずっと。ずっと待ってるから」
彼の最後の一言が、大きく響いた。空へ昇る彼のほとんど透けた手に、私は手を伸ばす。だけど強く照った朝日が、彼をあっちの世界へと連れて行ってしまった。
朝日は、彼のいない今日の始まりを無情に告げる。もう青く澄んでしまった空を見上げたまま、私は誓った。
彼とまた出会うために。もっと、大好きな気持ちを伝えるために。
幾千の朝を越えていこうと。
<終わり>



