休憩中。職員室でスマホをぼーっと眺めているとSNSで、『人にはもう優しくしないでください!あなたの幸せが逃げます!』という見出しの自己啓発系ショート動画が流れてきた。


 そのコメント欄を見てみると、こんな内容で溢れている。


 「同感です!学校でクラスメイトに優しくしていて、いつもわたしばかりが損をしています!」


 「バイト先の後輩に優しくしてたら、結局最後は舐められました!」


 「人に優しくすることって、自分ばかりが我慢をすることだと思う」


 人に優しくしていて、損をする、舐められる、我慢をする…。


 なんか親近感が湧くなぁと思っていたら、あることに気づいてクスッと笑いが込み上げてきた。


 まるで保育士じゃん。


 そう思ったのだ。


 そんなことしょっちゅうあるのが、この仕事。


 でも人に優しくする中で損をするのではなく、泣いて感謝をされた経験がある。


 舐められるのではなく、あなたがいてくれてありがとうと心から慕われたこともあった。


 こっちが我慢するばかりではなく、その人のためにも、こうしたほうがいいとはっきり伝えたときもあった。


 人に優しくすること。


 それが自分を幸せにするか、不幸にするかなんて、その人の優しさの使い方次第。


 もしかしたら保育士という仕事は、優しさの使い方のプロなのかもしれない。


 ふと、そんなことを思った。


 でも、わたしは知っている。


 人間、最後の最後は。


 困ってどうしようもなく泣き崩れる人を目の前にしたとき。


 自分が人として、どう行動するのかだということを。


 保育士という仕事をしていると、そういう場面に立ち会うことが多々ある。


 そんなとき、わたしはいつも体が勝手に動いてしまう。


 きっとそれはもう、優しいからとかではない。


 単なる職業病。


 医者や看護師の目の前で意識不明になり誰かが倒れたら、きっと彼らはすぐさま蘇生のための適切な対応をとる。


 それと同じ。


 目の前の困っている誰かのために、今日も自分の身を削ってでもがんばる。


 なにがあっても、その人を笑顔にするために。


 試行錯誤しながら、現場に立ちつづける。


 そんな保育士たちが、世の中にはたくさんいる。




 「わたしだってもっと幸せになりたかった!もう、全部いやだよ…」


 夜、子どものお迎えに来たとき、そう言って泣き崩れるお母さんがいた。


 その場に居合わせた保育士たちはわけを全部知っているので、みんな言葉を失ってしまう。


 これはわたしが0歳児クラスの担任をしたときの話だ。





 大きくて真っ白な入道雲が浮かぶ、青い空。


 保育園から外に出てしまえば、すぐに汗が止まらなくなってしまうような暑い夏の日。


 あるお母さんと赤ちゃんが、こでまり保育園に緊急で途中入所をした。


 お母さんの名前は井上蒼葉さん。


 赤ちゃんは井上日向ちゃん、生後五ヶ月。


 蒼葉さんは、十九歳の若すぎるシングルマザー。


 旦那さんの浮気が原因で離婚を経験している。


 頼れる自分の両親は近くに住んでおらず、それに結婚のときトラブルになってしまったらしく今は絶縁状態とのこと。


 だから蒼葉さんは日向ちゃんが産まれてから、今までひとりきりで子育てをしてきた。


 蒼葉さんに生活の負担が掛かりすぎている。


 それを心配した区役所の勧めもあって、今回こでまり保育園に入所して来たというわけだ。


 区役所からも、なんとか手厚い支援をしてあげてほしいと頼まれている。


 ここで蒼葉さんが子育てに心が折れて諦めてしまえば、赤ちゃんの日向ちゃんは養子縁組が確実。


 世の中には壮絶な事情を抱えている家庭もある。


 親と子にとって、養子縁組が絶対に悪いこととは思わない。


 たとえ親子が離れ離れになって、子どもが養子になったとしても、その子の人生が決して不幸だとは決まっていない。


 でも、本当のお母さんと子どもがなんとか幸せに一緒に暮らすことができるのならば。


 そんな未来が可能なら。


 わたしたちは、そのための最後の砦となる。





 「初めまして!おはよございまーす!井上です!」


 明るい金髪の髪、羽のようなまつげに盛れすぎなカラコン、派手なネイル。


 絵に描いたような若いギャルが赤ちゃんを抱っこひもに入れて保育室に入ってきた。


 この人が蒼葉さんだ。


 「初めまして、おはようございます。0歳児クラスの担任をしている椿朝陽です。よろしくお願いします」


 わたしは他の赤ちゃんにミルクをあげながら笑顔で挨拶を返した。


 「わー!可愛い!先生に抱かれながらミルク飲んでる〜!」


 蒼葉さんはけっこう子ども好きらしく、わたしに抱かれてミルクを飲む赤ちゃんを覗き込み、にっこりと微笑みかけた。


 そのあと、他の保育士が日誌の書き方や、日向ちゃんのロッカー、保育園での過ごし方について簡単に説明をした。


 「あー!いっぺんに説明されても覚えられないかも!でも、がんばって覚えるね!しかし、保育士さんって大変そうなお仕事だねー。こんなわたしみたいな親にもぺこぺこしなきゃなんないし!メイクも地味だし!わたしには絶対できない仕事だ、あははは!」


 そうあっけらかんと話す蒼葉さんに、抱かれている日向ちゃんが急に泣き出した。


 「あー、またかー。日向泣き出したー!この子泣き出すと長いんだよー、もうー!」


 「オムツじゃないですか?」


 わたしがすぐに答えると、蒼葉さんが「え?」と半信半疑のまま日向ちゃんを床に寝かせてオムツを確認する。


 すると、紙パンツがおしっこでパンパンになっていた。


 「うっそー!本当だ!なんでわかったの?」


 「日誌を見たら睡眠とれてるし、ミルクも大丈夫そうだし。日向ちゃんの月齢だと場所見知りや人見知りもまだ強く出ないかなって。それに安心できるお母さんに抱かれているし。だから消去法でオムツだと思ったんです」


 「まじかー!保育園の先生すごすぎ!まるで魔法使いじゃん!」


 そう言いながら蒼葉さんが新しい紙パンツにかえてあげると、日向ちゃんはすぐに泣き止んだ。


 「魔法使いって…。保育士なだけですよ。でも褒めてくれてありがとうございます」


 わたしと蒼葉さんは微笑みあった。


 保育は知識、経験、分析がものをいう。


 「あんま日向のことを保育園にあずけたくないな、まだこんな小さい赤ちゃんなのに可哀想って思ってたんだけど今、ちょっとだけ安心できた…」


 蒼葉さんがそう呟いた。


 「そう思っていただき、ありがとうございます」


 初めて保育園に大切な我が子をあずけるのだ。


 どんな親でも不安だし。


 どんな人かもわからないような先生ではなく、安心し信頼できる先生に我が子を託したいと思うのは親として当たり前。


 保育士はそんな親たちの願いにも応えなければならない。


 そして、いざあずかるとき。


 蒼葉さんから日向ちゃんを、わたしが抱っこであずかった。


 すぐにお母さんじゃないとわかって日向ちゃんがぐずりだす。


 わたしは立って抱っこのまま日向ちゃんを揺らし、わらべうたを歌った。


 すると、日向ちゃんがすっと泣き止む。


 「うっそ!本当に魔法じゃん!」


 「保育ですよ。でも泣く子はこれでもギャン泣きなんですよ」


 「へー、そうなんだ!それじゃ、いってきます!」


 「はい。いってらっしゃい!」


 保育園の玄関から笑顔で出ていく蒼葉さんを見送った。


 とりあえず、最初の関門はクリア。


 なるべく蒼葉さんが安心できるよう日向ちゃんをあずかることができた。


 それから順調に月日が流れていった。




 外では少し肌寒い風が吹き。


 街路樹の葉で並木道が赤と黄と茶色の絵の具を溶かしたような色合いで染まる。


 そんな秋のある朝。


 目を真っ赤に腫らした蒼葉さんが、保育園に日向ちゃんを連れてきた。


 今日の彼女には、いつもの明るさはなく、どこかどんよりとした重たい雰囲気が漂っている。


 「おはようございます。大丈夫ですか?蒼葉さん。ちょっと顔色が良くないふうに見えますが…」


 わたしは心配でさすがに声をかけた。


 「あはは…。ばれちゃったか。朝陽先生はさすがだなぁー…」


 苦笑いをしてそう答えたあと、「実は仕事でちょっといやなことがあって…。昨日は一睡もしてないんだ…」とぽつりと漏らす蒼葉さん。


 「そうですか…。仕事ってストレス溜まりますよね。それに子育てもありますし。本当に毎日お疲れ様です」


 「日向は最近夜泣きしちゃうけど大丈夫…。それより本当に仕事がストレスで…。もうやめたいって思ってる…」


 「なにがあったんですか?お聞きしても大丈夫ですか?」


 「わたし今、ラーメン屋で正規職員として働いてるんだけど。日向がいるから、夕方までしか入れないし。バイトもわたしより年上の子なんていくらでもいるの。その子たちがわたしの前だとすぐサボっちゃうから、それでわたしが店長に怒られちゃって…。でも、わたしがその子たちに注意をしても聞いてくれないの!わたしが年下だし、女だから舐めてるんだよ、きっと…」


 「なるほど。それはひどいですね…。蒼葉さんが悪いわけじゃないのに…」


 「でも、わたしはがんばるしかないの。だって日向のために働かなきゃだし。わたし、日向を産んだことを後悔なんてしたくないから…」


 そう呟いて胸に手を当て、深呼吸をしながら自分をなんとか奮い立てようとする蒼葉さん。


 そんな彼女からは、ひびの入ったガラスのようになにかあれば簡単に壊れてしまう、そんな精神状態であることがひしひしと伝わってくる。


 わたしはそんな不安を瞬時に感じとり、顔にこそ出さなかったが歯をぐっと食いしばった。


 自分が十九歳のとき、こんなに必死になって生きていただろうか。


 わたしなんて大学に行って勉強し、休みの日は彼氏や友達とあそんでいただけ。


 そのとき保育室の扉が開いて、重たくて暗い気分を変えてくれるような明るい声が飛んできた。


 「やっほー!赤ちゃんたちー!おー、よちよち!みんな可愛い可愛いー!」


 一歳児クラスの担任をしている悠さんが、うちのクラスにシールを取りに来たのだ。


 彼はうちのクラスの子どもたちの頭を片っ端から撫でていく。


 0歳児クラスでも月齢の高い子はもう一歳になっていて、悠さんの一歳児クラスの子どもたちとほぼ同じあそびができる。


 悠さんは自分のクラスの子どもたちとシールを貼ってあそぶ気でいるのだ。


 前も保育室の壁や床、そこらじゅうに子どもたちとシールを大量に貼るけどぜんぜん取って後片付けをしないので、同じクラス担任をしている小町ちゃんや園長先生にまで怒られていた。


 それでも忘れてしまい毎回後片付けをしないのが、自由で天然な悠さんという人なのだ。


 「おー!日向ちゃんじゃん!また大きくなってー!可愛いでちゅねー!今、ママと保育園来たんでちゅか?」


 そう言って悠さんが日向ちゃんを抱っこすると、日向ちゃんの顔がすぐに歪んで「えーん」と泣き出す。


 「え、日向泣くの?保育園の先生なのに?この前は悠先生でも大丈夫だったじゃん」と、首を傾げる蒼葉さん。


 「あー。これは人見知りです。日向ちゃんは今、人見知りの時期真っ盛りで慣れてない保育士だと泣いてしまうんです」


 「へー。そうなんだ。それっていいの?なんか、この人しかだめって子になっちゃわない?それってみんなからすると迷惑な子になっちゃわないの?」


 「大丈夫です。人見知りは日向ちゃんが、人をちゃんと見分けて成長している証拠ですし。これから保育園で、いろんな大人や友達との経験が日向ちゃんには積まれていくので大丈夫です。迷惑な子なんてとんでもないですよ。赤ちゃんはこれでいいんです!」


 「なら、良かった」


 蒼葉さんはほっとした顔になり、泣いている日向ちゃんのほうを見て柔らかく微笑んだ。


 わたしは悠さんのほうを見て呆れてしまう。


 泣いている日向ちゃんを抱っこしながら、変顔をしてあやす悠さん。


 あれは人見知りで自分が抱っこしたら泣くと知っていて、わざとやっているのだ。


 赤ちゃんの泣き顔が可愛くて、たまに0歳児クラスに顔を出しては、悠さんはこのようにいたずらをして帰る。


 「はいはい。もういいから!シール持って自分のクラスに帰りましょうね、悠さん!」


 「そんな邪険にしないでよ、朝陽ちゃん!これは俺が日向ちゃんに慣れてもらうためにやってんだって!ほら、今のうちからいろんな人と関わっといたほうが日向ちゃんの経験になるでしょ!」


 「はいはい。もっともらしい言い訳しないでください!それは今、泣かせてまでやることじゃないでしょ!人見知りおじさんは早く自分のクラスにお戻りくださいねー」


 「ちぇっ!」


 悠さんがわたしに日向ちゃんを抱っこで託すと、日向ちゃんはすっと泣き止む。


 「やっぱ慣れてる朝陽先生がいいんだね!日向は!」


 そう言って蒼葉さんが微笑むと、その顔を見た日向ちゃんもにっこりと笑う。


 悠さんはわたしにあっかんべーをしながら、しぶしぶシールを持って自分のクラスに帰っていった。


 だいたいあのシールだって、わたしが保育で使うために買ってきたんだけど…。


 いい加減自分でシールくらい買ってきてほいしものだ。


 まったく悠さんは…。


 「ところで朝陽先生と悠先生ってめっちゃ仲良いよね。もしかして付き合ってるの?」


 蒼葉さんがにやにやしながらそう訊いてきた。


 「わたし、おじさんは恋愛対象外なんですよー。ありえないです!」


 「えー!悠先生っておじさんなの?イケメンだし、そんなふうにぜんぜん見えないじゃん!」


 「騙されてますよ、蒼葉さん!保育士ってけっこう若く見られるから年齢不詳なんです。それに悠さんは性格がちょっとあれで…」


 「あれ?」


 「バカなんです」


 「えー!わたし、バカでもおじさんでも優しければありだなー!」


 「悠さんは優しいけど、天然で人を怒らすタイプの鈍感バカなんですよ!無神経だし!」


 「あー。漫画とかのキャラクターだったら許せるけど、いざそれが現実の彼氏だったら許せないやつね!」


 「まさに、そうなんです!」


 「あ、そうだ!朝陽先生聞いて!わたし今ね、ちょっと気になる人がいていい感じなのー!」


 蒼葉さんのかがやく瞳は、完全に恋をしている乙女の目になっていた。


 「えー!いいなぁ!どんな人なんですか?」


 「歳はわたしよりふたつ上で。系列は同じなんだけど、わたしとはちがう店舗で働いてる人なの。この前ご飯誘われて仲良くなったんだ〜」


 しばらくふたりでガールズトークをして盛り上がり、なんとか気持ちを立て直せた蒼葉さんだった。


 「あー!なんか朝陽先生と話せてスッキリした!いやなこともあるけど、良いことだってあるもんね!今日も仕事がんばろ!いってきます!」


 「はい。いってらっしゃい!」


 わたしは日向ちゃんを抱っこしながら、蒼葉さんを笑顔で見送った。


 それから数週間。


 蒼葉さんはハッピーなニュースをたくさん教えてくれた。


 好きだったその人がとうとう彼氏になった。


 保育園が娘をあずかってくれたから、彼と仕事の休みを合わせることができて、クリスマスデートに行けたよ!


 一ヶ月記念にお揃いのペアリングをふたりで買ったの。


 そう言いながら、右手の薬指にかがやくペアリングを嬉しそうに見せてくれた蒼葉さんだった。


 わたしは幸せに溢れる彼女の話を聞いたり、その表情を見ているだけで、すごく微笑ましく思えた。


 元旦那には浮気をされ、若すぎるシングルマザーとして想像もつかないほどの苦労をしている蒼葉さんには、このまま幸せな人生を送ってほしい。


 これから数えきれないほどの幸せで、つらかったことのすべてを塗り替えてほしい。


 心からそう思っていた。


 しかし人生というのは、なんでこんなにも上手くいかないのだろう。


 そう思うほど…。


 本当に残酷なときがある。






 凍てつく風が街を駆け抜け、灰色の雲に覆われた空にぱらぱらと白い雪が舞う。


 そんな、ある冬の夜。


 保育園の閉園時間である七時を過ぎても、蒼葉さんが日向ちゃんを迎えに来ない。


 十五分過ぎているので、さすがに保育園の電話から蒼葉さんにかけてみたが、まったく繋がらず。


 今までこんなことは一度もなかった。


 蒼葉さんは見た目は若くて年相応だが、母親としての自覚を持ち、きびしい社会に揉まれながらも彼女なりにがんばってきた。


 考えたくはないが、悪い予感がしてならない…。


 胸がざわざわする。


 当たり前だが、保育園は親が閉園時間に来ないからといって、職員だけ帰って子どもを外に置き去りにするなんてことは絶対にしない。


 いつ蒼葉さんが保育園に来るかわからないので、とりあえずパートの保育士さんには先に帰ってもらった。


 職員室でえんだよりを書いて残業をしていた悠さんと小町ちゃんも、遅番のわたしが戸締りをしないので異変に気づき、保育室に様子を見にやって来た。


 事情を説明すると、ふたりとも深刻な表情をすぐに浮かべた。


 蒼葉さんがギリギリな家庭状況であることは、保育士たちは職員会議で情報として共有をしている。


 だから、どうしてもみんな悪い想像をしてしまうのだ。


 以前、日向ちゃんの夜泣きがひどいと蒼葉さんが言っていた。


 あまり夜眠れてなくて、お迎え時間をうっかり寝過ごしてしまったのならそれでいい。


 お願いだから、なにも悪いことがありませんように。


 わたしはそう願った。






 十時。


 閉園時間から三時間が過ぎて、保育室の扉が静かに開いた。


 そこには涙を流しぐちゃぐちゃの顔をした蒼葉さんが立っている。


 あきらかに誰かに打たれたとわかる、赤く腫れた頬と血が滲む唇。


 あんなに嬉しそうにしていたのに、外された薬指のペアリング。


 言葉はなくても、ボロボロな蒼葉さんの姿が状況を物語っていた。


 その場に居合わせた保育士たちはそれぞれ、自分にできる最善の行動をすぐに選択する。


 「蒼葉さん、大丈夫ですか!?小町ちゃん、すぐに救急セットを」


 「はい!わかりました!」


 悠さんは怪我を確認しながら指示を出し、すぐに小町ちゃんが救急セットを職員室までとりに向かう。


 わたしも蒼葉さんに駆け寄って背中をさすった。


 言葉にならない声で嗚咽する蒼葉さんの涙をひたすらティッシュで拭いた。


 なんて声をかけたらいいかまったくわからない。


 でも、震える蒼葉さんの背中をひたすらさすった。


 そのとき、蒼葉さんが泣き叫びながら膝から崩れ落ちる。


 「わたしだってもっと幸せになりたかった!もう、全部いやだよ…」


 保育士たちは言葉を失う。


 蒼葉さんの頬を消毒する小町ちゃんの手は小刻みに震え、となりに立っている悠さんはぎゅっと握り拳を作る。


 わたしも泣いてしまいそうになったけど、歯を食いしばって我慢をした。


 「子どもがいるわたしじゃだめなんだってさ!わたしと結婚とか、先の未来は考えられないって!浮気されたり…。殴られて捨てられたり…。なんでこんなにもつらいの…?わたしだってこんなふうになりたくてなってるわけじゃない!もう、全部いや!わたしにはやっぱ無理だよ…。こんなんなら、こんなんなら…」


 その先は絶対に言わないでほしい…。


 わたしは咄嗟に蒼葉さんをぎゅっと抱きしめた。


 今、人としてだったら蒼葉さんにかける言葉なんてとても見つからない。


 でも保育士としてならば、わたしには伝えなければならないことがある。


 「これからも蒼葉さんを、わたしたちが必ず全力で支えます。だから日向ちゃんを明日からも保育園に連れてきてください。お願いします」


 蒼葉さんは泣きながら何度もうなずいた。


 そのとき、小さな天使の声が聞こえる。


 「ママ…」


 声のしたほうを見ると、布団で眠っていた日向ちゃんが起き上がってこっちを指さししていた。


 「日向ぁ…。だいすき。可愛い…。ごめん、どうしようもないママで…」


 すぐに蒼葉さんは駆け寄って、日向ちゃんを抱きしめた。


 日向ちゃんは蒼葉さんが泣いていることに気がついて頭を手でよしよしする。


 「え、日向ぁ…。今、ママをよしよししてくれたの?それも保育園で教えてもらったの?」


 泣いてる子がいたらよしよしする。


 保育士がいつも子どもたちにやっていることを日向ちゃんは真似しているのだ。


 蒼葉さんはしばらくして少し落ち着いてから、「今日はたくさん迷惑をかけて本当にごめんなさい。わたしには朝陽先生たちがこれからもついててくれるって思ったら、すごく心強いよ。いつも、本当にありがとね」


 そう言って日向ちゃんを抱っこしながら、保育園の玄関を一歩出た。


 「また明日」


 わたしがそう言って見送ると、蒼葉さんはこっちを振り向いてにっこりと笑ってうなずいてくれた。





 重すぎる。


 ひとりきりの子育て。


 社会人としても新人すぎる。


 なんなら蒼葉さんの同級生の多くは、まだ大学や専門学校に通っている年齢だ。


 そして恋愛も…。


 そのすべてをひとりで背負うには、蒼葉さんは若くて状況が重すぎる。


 世の中には、お前が子どもを作ったんだから当たり前だろ!


 自分で責任をとれ!


 そんな心ないことを言う人もいるだろう。


 蒼葉さん本人だって泣いて言っていた通り、こんなふうになりたくてなってるんじゃない。


 たとえ年齢を重ねて計画的に結婚や出産をしたとしても、人間なんてなにがあるかわからない。


 リストラ、借金、不倫、離婚、病気、事故、死別など。


 今はとても想像のつかないようなことが、たとえ自分のせいじゃなくても、人生には舞い込んでしまうときがある。


 そんなひとりで背負うには重すぎる難問だとしても。


 一緒に背負えるのなら、少しでもあなたの肩を軽くすることができるのなら。


 わたしたちは保育をすることで、いつでも力を貸す。


 不安定で今にも関係が壊れてしまいそうな、そんなギリギリな親と子どもを支えるため。


 何度だって最後の砦となってみせる。






 五年後。


 日向ちゃんは無事にこでまり保育園を卒園していった。


 卒園してからも青葉さんはたまに、日向ちゃんを連れて保育園に顔を出してくれる。


 「朝陽先生!また来るねー!」


 ランドセルを背負った日向ちゃんは元気にそう言うと、保育園の玄関を出て青葉さんと手を繋いで帰っていく。


 わたしはふたりの背中を目を細めて見送った。


 保育士は給料が安いくせに、責任は重い。


 ときに親から攻め立てられてしまうこともある。


 バカみたいな仕事量があったり。


 やめてしまいたい理由なんていくらでもあるけれど…。


 今日の日向ちゃんと青葉さん、心から幸せそうに笑ってた。


 その笑顔が何万倍ものエネルギーとなり保育士を突き動かす。


 なにがあっても。


 あなたを笑顔にするために。


 今日もがんばって現場に立ちつづけている。


 そんな保育士たちが、世の中にはたくさんいる。