「この保育園は園児に対して平等じゃない!対応が不誠実極まりない!!」


 クラス懇談会をしていたとき、急にそう発言した保護者がいて、わたしは頭が真っ白になるほど驚いてしまった。


 その保護者の名前は岩上隼人さん。


 隼人さんは、わたしが担当する二歳児クラスの岩上美玲ちゃんのお父さん。


 歳は三十代半ばで、仕事は医者をしている。


 隼人さんの声色は低く、目が血走っていて、あきらかに誰が見ても怒っていることがすぐにわかる。


 そして、そのままわたしに強い言葉がぶつけられる。


 「朝陽先生たちは、いつもあの子のことばかり甘やかしてる!あの子ばかり抱っこして!うちの子なんて性格が大人しいから抱っこすらしてもらえない!それに、うちの子はいつもあの子にやられっぱなしだ!この前、あの子にやられたひっかき傷だって顔にまだ残ってる!女の子なのに、跡になるかもしれない!」


 おそらくあの子というのは、美玲ちゃんのクラスメイトで、ちょっと手のかかる木村善太くんのことだろう。


 隼人さんの言った通り、美玲ちゃんは何度も善太くんにおもちゃや場所の取り合いなどの理由で、ひっかりや噛みつきをされてしまっている。


 善太くんのお母さんである木村静香さんも、すぐに自分の子のことを言われていると気づいて部屋の隅っこでうつむく。


 「この前のひっかきの件、本当に申し訳ありませんでした。美玲ちゃんを守れなかった保育園の責任です」


 わたしは頭を下げて精いっぱいの謝罪をした。


 二歳児期の子どもの発達というのは、赤ちゃんのときから少し成長し、自我が強く芽生えてくる。


 しかし二歳児の子どもが、自分の中に湧いてくる自我のすべてを言葉にし、感情をコントロールしながら相手に伝えるなんてことは当然難しい。


 だから表現の仕方として、噛みつきやひっかきという姿が多く出てくるようになってしまう。


 これは今、隼人さんから問題視されている善太くんに限ってではなく、集団保育の中ではどの子にでも見られる普通の姿だ。


 実際に美玲ちゃんもやられっぱなしかというと、そうじゃなくてちゃんとやり返している。


 しかし善太くんは体が大きいので、美玲ちゃんがやり返そうとしても返り討ちにされてしまうのだ。


 もちろん、防げる噛みつきやひっかきは保育士たちが全力で止めている。


 しかし、保育士も人間。


 すべてのトラブルを止めることは難しいし。


 体調を崩し保育士の休みが多いイレギュラーな体制のときなどは、どうしてもトラブルを防げない場面もある。


 それでも、そんな言い訳は当然できない。


 あと。


 噛みつきやひっかきなどのトラブルが、絶対に起こってはいけないものかというと、そうではない。


 正直、集団保育の中では絶対に起こることなのだ。


 保育園の子どもたちはそういう経験も積み重ねながら、幼いうちから友達とのケンカ、話し合い、仲直り、物のわけっこ、力加減、折り合いなどを学んでいく。


 保育園という場所は、子どもたちが人との関わり方を学んでいく大切な勉強の場なのだ。


 そして、その子の特徴や発達に見合った補助を選択し、実践するのが保育士の役目。


 一応。


 噛みつきやひっかきが起こりますよということは、一歳児や二歳児クラスでは、四月の段階で事前情報として親たちには伝えてある。


 しかし、それを許せるか許せないかは、またべつの話だし。


 子どもの正常な発達で通る道だと、そんなことわかっていてもうちの子が傷つけられて許せるわけがない。


 そう思うことも、ひとつの親心なのだろう。


 だいたい。


 本当は保育園になんて入れたくないけど、共働きしなければならないし、ずっと家庭で子どもを見るなんて精神的にも体力的にも無理。


 だから仕方なく、不本意だけど保育園に子どもをあずけているご家庭は、全国に星の数ほどいるはずだ。


 近年では、親が希望する保育園や幼稚園への入所すら難しく、待機児童になってしまうという問題も起こっている。


 自分たちの生活を守るためにも、なんとか定員の空きが出たら希望する保育園に入れたい。


 そんな親ばかりなのだ。


 「去年もあの子とは同じクラスでした!保育士たちがぜんぜんうちの子を守ることもできてないのに、なんであの子とまた同じクラスなんですか?」


 そう言って、目の前のテーブルを威圧的に拳で叩いた隼人さん。


 合わない子がいて他のクラスに変わったとしても、結局変わった先のクラスにも同じような子はいるものだ。


 だから、また同じことが起こるだけと、心の中で思っても言うことなどできない。


 「あの子って、あきらかにグレーの子でしょ!年度の途中でいいからクラス変えてください!あの子だけ!」


 ん?


 そこでようやくわたしは気がつく。


 どうやら隼人さんは、美玲ちゃんのクラスを変えたいわけではなく、問題を起こす善太くんを移動させろと訴えているらしい。


 ちなみにグレーの子というのは、発達障害らしき傾向が見られるが診断の基準には満たない子どもという意味の言葉。


 わたしは個人的にグレーの子という言葉があまり好きじゃない。


 そもそも発達障害に見られる特徴というのは、必ず誰しもどこかは当てはまるものなのだ。


 目が合わない。集中力がなく落ち着きがない。突発的な行動をする。我慢が苦手。視覚優位。感覚過敏。忘れ物が多い。空気が読めない。約束や決まり事が苦手。人との関わり方が苦手など。


 誰しもがちょっとは持っているような特徴だけど、その程度が大きすぎて、周りの人や自分自身が困ってしまう。


 そういった人たちがみんなから理解されやすく、守られ、共存していくために発達障害という定義付けがされているのだと、専門学校や研修で教えてもらった。


 それなのにグレーの子という言葉はどこか…。


 周囲と馴染めない、そんな子どもを追いやり差別する言葉として使われていることが多い気がする。


 診断基準に満たないということは、保育士を加配しなくても、保育のやり方で守ることができるというわけだ。


 そして、善太くんの衝動的な噛みつきやひっかきを、やりすぎだからグレーだと定義するのなら。


 今、隼人さんがこのクラス懇談会という場で、他の親たちみんなの目がある中、怒鳴ったり威圧的に机を叩くという行動もグレーな行動だと言えるのではないだろうか。


 「グレーで問題のある子は、問題がある子同士でクラスを固めてください!こっちは迷惑なんです!」


 「すみません。それは保育園ではできません」


 きっぱりとそう断ると、隼人さんがわたしをきっと睨みつけてこう言った。


 「高校からだってそうでしょ!同じような人間が知能別で固まるんです!保育園だって、ある程度はそうあるべきじゃないの!?」


 自分はストレス耐性がそんなにあるわけじゃないし、正直もうだいぶしんどかったけど伝えておかなければならないと思い、わたしはちゃんと説明をした。


 「それは高校生は自分の将来に向かって、自分自身の努力で進んでいくことができる年齢だからです。保育園の子どもたちにそれは難しい。でも変わりに、幼児期の子どもたちはみんな、大人のわたしたちよりも備わっている力があります。それは柔軟性です。世の中には自分とはちがういろんな人がいます。そして人は大人になったとき生きていくうえで、絶対に自分と同じような人とだけ関わって生きていくなんてできないんです。いろんな人と関わって、人と関わることって素敵だなと感じる、そういう土台を作ることが幼児期にしかできない最大の学びなんです。保育園は、子どもたちの人と関わる機会を大切に保障する場所なんです」


 他の親たちからも、「なるほど。たしかに!」


 「朝陽先生の言う通りだと思います」


 「うちの子も保育園にいる間に、友達との接し方を学んでほしいなぁ」


 そんな声が、次々と上がった。


 他の親たちがわたしの説明を聞いて納得した様子をしているので、不服そうに黙り込み椅子にどかっと座る隼人さん。


 どうやら、わたしはこのとき隼人さんに目をつけられてしまったらしい。


 ここから、わたしへの嫌がらせが始まっていく。






 ちなみに善太くんの発達のことだが、たしかに衝動的な行動が目立つ。


 しかし、わたしたち保育士は、実はその衝動性がべつのところに原因があるのではと考えている。


 善太くんの家庭は去年、お父さんのDVが原因で離婚をした。


 静香さんは積み重なったショックが原因で、うつ病と医師から診断をされている。


 静香さんは今、仕事をフルタイムでがんばって子育てもひとりでなんて、まともにできるような状態ではないのだ。


 しかし、厳しい現実は待ってくれない。


 だから保育士たちは子育ての面でできるだけ協力し、ギリギリの静香さんと善太くんの生活をなんとか支援している。


 環境的要因。


 子どもの発達障害と似た特徴というのは、過酷で余裕のない環境下でも、同様な姿が見られることがある。


 だから保育士たちは、善太くんの衝動的な行動の数々は、家庭環境のつらさが大きな要因ではないかと分析をしている。


 理由は、善太くんは心が不安定なときほどトラブルを起こしやすいが、心が安定しているときはよっぽどトラブルを起こさない。


 普段からも友達や保育士の話は聞けるし、目もしっかりと合う。


 あそびの面でも発達障害の子は、一対一などの少人数を好む傾向があって人数が増えてしまうとあそびがつづかない。


 さっきまでどれだけ楽しくあそんでいても、フラフラっとどこかに抜けていってしまうし、誰かとおもちゃの取り合いなどですぐトラブルが起きて、そのあそびがつづかないことがほとんど。


 しかし、善太くんにはそのような傾向は見られない。


 わたしたち保育士は幼少期の愛着関係を大切にし、善太くんに人を信じる力を養ってほしいと、よく抱っこをして彼の不安を受け止めている。


 しかし、それは隼人さんから見たら、善太くんだけをひいきしているふうに見えてしまっているらしい。


 とにかく。


 そのような事情を持つ善太くん。


 うつ病を抱えるシングルマザーの静香さん。


 善太くんからよく怪我をさせられてしまう美玲ちゃん。


 そのことに憤る、隼人さん。


 みんなそれぞれ事情や想いがあるけれど、そのすべてを開示して、お互いに話し合いましょうなんてことはできない。


 すべての事情を裏で知り、みんなを守るために最善を尽くすのが保育士の使命。


 ただの噛みつきやひっかきが多いというだけの、一般的な二歳児期でよくある単純なトラブルじゃない。


 はぁ…。


 つくづく一枚岩じゃない。


 この仕事をやっていると、こんなことばかりが起こる。






 隼人さんは今回のクラス懇談会がきっかけで、保育園のいろんなことが、さらに不満に思えてしまったらしく。


 口頭や連絡ノートで、しばらく様々な無茶な要望がつづいた。


 「美玲が夜寝れなくなるから、うちの子だけ昼寝させないでほしい!保育園が休みの日曜だって昼寝なしで過ごしてるわけだし!」


 「すみません。保育園での集団生活は子どもにとって、家での生活以上に疲れるものです。中には絶対に昼寝がないと体力が持たない子もいます。美玲ちゃんだけを昼寝なしにしておくことが、職員配置的にも集団生活では難しい点があります。もちろん、いつも美玲ちゃんを無理やり寝かすということはしていません。でも布団でごろごろしているうちに寝てしまうのは、美玲ちゃんが疲れているからだと思います。昼寝の時間が終わったらなるべく早く起こすということで対応をさせてください」


 わたしがそう説明すると、隼人さんは、はぁっと大きなため息をわざとらしくついてあきらかに嫌な顔をして帰っていった。


 次の日。


 【うちでご飯が食べれなくなるから、給食の量を少なくしてほしい。美玲には、おかわりもさせないでほしいです】


 連絡ノートにそう書いてきた隼人さん。


 わたしはなんて説明をしようか考え、うーんと頭を悩ませた。


 保育園の給食というものは、調理師たちによって量と栄養バランスがちゃんと考えられてあるものだからだ。


 管理栄養士の資格を持つ職員も中にはいる。


 【当園では調理師たちによって適切な量の給食を用意しています。おかわりは集団生活の中で美玲ちゃんだけしちゃだめということにはできませんが、食べ過ぎているかを保育士が気にして、その都度本人に声をかけていきます】


 そう返すと、【本当にこの保育園はなにもしてくれませんね。がっかりです】と次の日のノートに書いてきた。


 となりでそのノートを見た休憩中の悠さんが、「親は家で作ったご飯を食べてほしいもんだからね。まぁ、隼人さんの気持ちもわからないでもない。ここ最近の保育園に突っかかってくる言動もね」と、呑気にコンビニ弁当を食べながら言った。


 「はぁー。悠さんはこういういろいろ言ってくるタイプの親は、いやだなとか、悩ましいとかないんですか?わたしはけっこう言い方とか強く言われちゃうと、へこんじゃうしストレスが溜まります」


 「あるよー!でも、そんなの保育士やってたら絶対いつかそういう親とも巡り会うものだからね」


 「そりゃ、そうですけどー…」


 「たしかに、めんどくさい親対応もしなきゃならない。いろんな要望を言ってくる隼人さんはわかりやすいけど、なにも言ってこない親にも、陰で抱えているものがあるかもしれないから気をつけとかなきゃいけないよ」


 「それって善太くんのお母さんの静香さんのことですよね。一応わたしも気にはしていて、なるべく声はかけるようにしています」


 「うん。それなら良かった。静香さんは完全に自責タイプだと思う。隼人さんは反対に他責タイプだね。どっちもうつ症状で、見られる特徴なんだよ」


 「それって。隼人さんもってことですか?隼人さんはお医者さんですよ!」


 「うーん。そりゃ医者も病むことあるでしょ。原因は仕事かもしれないし、子育てかもしれない。夫婦関係かもしれない。なんにせよ。保育園というのは親がちがう場所で溜め込んだストレスもぶつけやすい場所なんだ。隼人さんがクレームしてくる原因を保育園から見える範囲だけとは考えないように、分析をしていくんだよ」


 「わかりました…」


 次に悠さんは真剣な目をしてこう呟いた。


 「朝陽ちゃん。人間ってのは良いことより、悪いことのほうが強く印象に残ってしまう生き物なんだ。だから悪い感情ばかりに支配をされちゃだめだよ。保育士はそういうペースに乗ってはいけない。そして人の良いところを見つける。今回はそういうことが必要になると思う」


 悠さんはそうアドバイスをしてくれたけど。


 わたしだって、ただの人間だ。


 隼人さんへの対応は疲れるし、ものすごくストレスも溜まる。


 こんな文句ばかり言われつづけたら、良いところを見つけるほうが今の状況では至難の業だ。


 このままじゃ、わたしが病んできちゃうよ!


 でも隼人さんの前でいやな顔なんてしちゃいけない。


 笑顔でがんばろう。


 保育士は、みんなを笑顔にする仕事なんだ。


 隼人さんのことだって…。


 しかし、わたしのそんな決心は、隼人さんによって粉々に打ち砕かれることとなった。


 隼人さんからのクレームは、さらにエスカレートしてしまう。


 保育園に対するものだったのに、とうとうわたし個人に向けた攻撃へと変わってしまったのだ。


 ある朝、隼人さんが保育園に美玲ちゃんをあずけてから仕事に行くとき。


 隼人さんは保育室の壁に掛かっている体制表をぱっと手に取って覗くと、今日の保育士の配置を確認した。


 すると、あきらかにこっちに聞こえる大きな声で、「はぁ、今日の保育士はこれか。怪我が起きないといいけど」


 そう言ったのだ。


 もうひとりのクラス担任は今日はお休み。


 だからわたしが、主でクラスの活動を進めることに不安があるのだろうか。


 それとも不満?


 それとも嫌がらせ?


 おそらく、複合的な感情がこもった発言であるはず。


 隼人さんはなにを思っているのだろう。


 そう考えるだけで頭が真っ白になり、果てしない疲労に襲われてしまう。


 心の中が深く黒い霧で覆われ、もやもやとした感情が渦巻く。


 ちょうどそのとき、善太くんが他の子とケンカになり、噛みつこうとしている瞬間がわたしの目に飛び込んできた。


 しまった。


 余計なことを考えていて一歩対応が遅れた。


 わたしはなんとか手を伸ばし、寸前で善太くんの噛みつきを止めた。


 しかし咄嗟のことで勢い余って、子ども同士の間に入れようと思っていた自分の手で、善太くんを押してしまったのだ。


 善太くんはそのままうしろに倒れ、床で腰を打った拍子に驚いて泣き叫ぶ。


 「えーん。朝陽先生が押したー!!」


 「ごめん、善太くん。ケンカを止めようとしたらちょっと勢い良すぎちゃったね。怪我はない?」


 「うん」


 「良かった。ところでなんで友達を噛もうとしたの?」


 わたしは善太くんを撫でてあやしながらそう訊ねると、「あのおもちゃは、もともとおれのだった…」と善太くんが答える。


 「貸してあげたの?」


 「んーん。置きっぱなしにしてたら取られた」


 「まったく、もう。ちゃんと自分で守っとかなきゃ。でも、そういうときはお友達に噛みついていいの?」


 「ちがう…」


 「どうすればいいかわかる?」


 「わかんない」


 素直に首を横に振る善太くん。


 「そういうときは返してとか。ちょーだい。って相手に言うんだよ」


 「わかった!」


 そのあと善太くんは友達のところに行って「おれのだったから、それ返してほしいんだ」と伝えると、「そうだったんだ。うん。いいよ!」と友達も快く返してくれた。


 「朝陽先生、見て見てー!返してくれた!」


 そう言って嬉しそうな善太くんがにっこりと微笑む。


 こういうやりとりの繰り返しこそ、善太くんや友達にとっても、保育園で得られる価値ある体験なのだと思う。


 しかし。


 ちょうどその場面を目撃した隼人さんの目には、どうやらちがうふうに映ったらしい。






 次の日。


 わたしが登園してきた親たちに「おはようございます」と、いつも通りの挨拶をしたら数人に無視をされた。


 そして、なぜか冷たい目を向けられる。


 わたしなにかしたっけ?


 そのときはよくわからなくて、とくに気にも止めなかった。


 しかし、いつもは喜んでわたしのもとにやってくるはずの子どもたちが今日はやけに静かだった。


 「どうしたの?元気ないの?」


 子どもたちにそう訊ねると、「朝陽先生は暴力するから、近づいちゃだめだって」


 「わたしもママにそう言われた」


 「おれもー!」と、子どもたちが答えた。


 え?どういうことと一瞬戸惑う。


 「じゃあ、わたしがみんなに暴力したことある?」


 「ない!」


 「でも、ママがそうやって言ったんだもん!」


 「そっか。じゃあ大丈夫だって、みんなが思ったらまた朝陽先生とあそぼうね」


 「うん!」


 いったいなにが起こっているのだろう…。


 頭が困惑し油断をすると、溜まっていた疲れに押しつぶされそうになる。


 そのとき、善太くんがみんなに向かって叫んだ。


 「朝陽先生、そんなことしないもん!うちのママが言ってたもん!朝陽先生はすごくいい人だって!」


 その言葉に、わたしががんばらなきゃと背中を押された気がした。


 保育現場では、立ち止まってゆっくりとなんて悩んでいられない。


 「ありがとね、善太くん。元気出た」


 わたしはそう言って、善太くんをぎゅっと抱きしめる。


 涙がこぼれそうになったが保育中なので必死に我慢をした。


 その日の夜、お迎えのとき。


 静香さんが、うちのクラスの親たちの間で、なにがあったのかをわたしにこっそりと教えてくれた。


 どうやらわたしの悪口が、クラスの親たちのグループラインで回っているらしい。


 静香さんのスマホからそのラインを確認してみると、内容は【今日の朝、子どものケンカを止めるとき、朝陽先生が子どもを突き飛ばして言うことを聞かせていました】というものだった。


 信じられないような風評被害に唖然としてしまう。


 自分が悪者として仕立て上げられている。


 まさかこんなことを書かれるなんて…。


 このラインを送っていたのは、隼人さんだった。


 わたしはこのとき。


 保育士という仕事は、自分が守ろうと思っている人たちからも容赦なく攻撃を受けることがある仕事なのだと知って、正直やるせなくなったし。


 そのことが、悲しくてたまらなかった。


 そして人間の集団心理というものは、心底愚かでこわいなと感じた。


 ライングループを見ていると、一定数の親はその話を信じてしまっている様子だったからだ。






 次の日。


 落ち込んでいるわたしに、さらなる追い討ちがかかるような事件が起こってしまう。


 午前の主活動で行った公園で、善太くんが拳ほどの大きさの石を投げてしまい、それが美玲ちゃんのおでこに運悪く当たってしまったのだ。


 あまりに突発的な出来事で、保育士たちは守ることができなかった。


 石が当たって痛くて泣き出す美玲ちゃん。


 わたしはすぐに美玲ちゃんの背中をさすりながら、おでこの怪我を確認する。


 不幸中の幸いで、怪我自体は大きくない。


 それでも美玲ちゃんのおでこには、たんこぶと傷ができてしまった。


 はぁ…。隼人さんにこれを報告するのが憂鬱だ。


 怪我の大小ではない。


 隼人さんにとって、自分の娘に石を投げられ怪我をして、それが善太くんの仕業だったということが、きっと許されない大問題になる。


 この前美玲ちゃんが、友達のしめた扉で指を挟んでしまったときは、相手の子が隼人さんが家族ぐるみで仲良くしている、ご家庭の子どもだったのでそれほど怒ってはいなかった。


 しかし、善太くんのことは目の敵にしてしまっている。


 とにかく。


 今は現状の事実確認が優先される。


 石を投げた経緯を善太くんから、訊かなければならない。


 「善太くん、なんで石投げちゃったの?」


 「バッタ捕まえようとしたんだけど、捕まえられなくて怒って投げちゃた…」


 「そっか。そういうとき、石投げたらどうなった?」


 「美玲ちゃんに当たった…」


 「そう!危ないから石は怒っても投げちゃだめ!」


 「うん。わかった…」


 自分の失敗に、心が沈んでうつむく善太くん。


 「こういうとき、美玲ちゃんにどうすればいいかわかる?」


 「わかる!ごめんねしてくる!」


 「うん!」


 善太くんはぱっと顔を上げて一回うなずいてから駆けて行き、美玲ちゃんの頭を撫でながら「美玲ちゃん、さっきは石投げちゃったのごめんね」と謝った。


 「いいよ!友達だもん!怪我だって、もう痛くないし。一緒におままごとしよ!」


 「うん!ありがとう、美玲ちゃん!」


 善太くんは振り返ってわたしのほうを見て満面の笑み。


 「ちゃんと謝ったら仲直りできた!」と、喜んで手を振ってくれた。


 わたしは、子どもたちのこういうところが本当にすごいと思う。


 相手を許す力を持っているのだ。


 柔軟性。


 それはこれから人生でたくさんの経験を積み、いろんな人がいる世の中で幸せに生きていくための大切な力。


 しかし、大人は子どもたちのようにはいかない。


 それが人間関係を、余計ややこしくしてしまう。


 保育園に戻ったあと、わたしは電話で隼人さんに事実のままを報告した。


 予想通り、隼人さんは大激怒。


 「早く美玲を病院に連れて行け!お前ら保育士は素人なんだから信用ならない!」


 耳が痛くなるほどの怒鳴り声が、受話器の向こうから飛んでくる。


 「はい。わかりました。受診結果をまたお電話させていただいてもいいですか?」


 「はぁ?ふざけるな!こっちも仕事中なんだ!!忙しい!!重大な怪我だったときのみ報告してこい!!あとレントゲンは撮ると思うけど、もし医者が撮らないと判断をしても絶対撮ってもらってこい!!まったく、保育士のやることは本当に信用ができない!どうやったら子どもが石を投げて、うちの子の頭に当たる状況になるんだ。お前らのしつけが悪いんだろ!いい加減なんとかしろよ!!」


 「はい。申し訳ありませんでした。善太くんにも、すぐに石を投げる危険について指導をいたしました」


 ちっ!と大きな舌打ちが飛んでくる。


 「その指導のやり方がだめなんだって言ってるんだ!やっぱり誰でもやれるような頭の悪い仕事はだめだな!いいか?今回の事件は絶対に他の保護者にも起こったことを全部伝えろ!そして、ちゃんと後日事件の説明会を開け!あとで園長にも直接電話しとくからな!!」


 とても、申し訳ないと謝ってやり過ごせない…。


 なんだそれ…。


 保育士は誰でもやれるような頭の悪い仕事なのか…。


 それに誰でもやれる仕事ってだめことなのか…。


 完全に職業軽視をした発言。


 それだけじゃない。


 隼人さんは、説明会を開くことで他の保護者たちの前でわたしを吊し上げようとしている。


 なにも言い返すこともできないし。


 これ以上、言い争うことすら疲れるだけだと思った。


 電話を切ったあと、わたしは美玲ちゃんを病院に連れて行った。


 ちゃんとレントゲンも撮ってもらった。


 結果は、ただのたんこぶと軽い切り傷。


 怪我の具合を見たら誰でもわかることだ。


 でも電話越しじゃ隼人さんは自分で怪我の確認をできないし。


 保育士のことを…。


 なによりわたしを信用していないので仕方がない。


 黒い感情が沸々と心の奥底から湧き上がってくる。


 信用してない…。


 じゃあ、もう保育園を利用するなよ。


 じゃあ、働き方を変えてでも自分の子どもを自分で見ろよ。


 子育てに自分でちゃんとリスクを負えよ。


 保育園は、その子をあずからせてくださいなどとは言わない。


 区役所に申請して、自分がこの保育園がいいから勝手に来たんだろ。


 そこまでいやなら転園すればいい。


 保育園にばかり自分の気に入らないことを押し付けてないで、自分でもがんばって変える努力をなにかしらしろよ。


 なんで保育園にばかり要求をしてきて、終いにはわたしが攻撃されなきゃならないんだ。


 これは他人のせいにする、他責思考。


 そのとき。


 わたしははっと悠さんが職員室で言った言葉を思い出す。


 隼人さんだけじゃない。


 自分も今、他責思考になっている…。


 心が追い込まれた人間は、思い通りにいかない現状を誰かのせいにしたくなる傾向が強く出やすい。


 もともとはわたしが止めれなかった事故なのに。


 怒りの矛先をわたしは隼人さんに向けようとしている。


 負の感情の連鎖。


 保育士は、こういう悪い感情に飲み込まれてはいけない。


 でも仕事が終わって家に帰ってからシャワーを浴びたあと、自分の部屋でベッドの上に腰掛けてふと一息ついたとき。


 わたしの胸の中で渦巻いているもの。


 それは、とてつもなく黒くてもやもやとしたいやな感情だった。


 体がものすごい疲労感に襲われる。


 だけど眠たくはならず、布団でごろごろしていてもうまく休むことができない。


 つらい…。


 明日保育園に行きたくない…。


 胃がきりきりとする。


 こんなとき、わたしが心から信頼していて相談できる人物はひとりしかいない。


 わたしの保育士としての師である理依奈さんだ。


 スマホで理依奈さんに電話すると、理依奈さんはすぐに出てくれた。


 本当は会って直接お話ししたかったけど、理依奈さんは今、県外に保育実践報告のための出張中だった。


 「やっほー、朝陽ちゃん。どうした?」


 理依奈さんのわたしを助けてくれる、いつもの優しい声を聞いた瞬間。


 もう、だめだった。


 膿のように溜め込んでいたつらかった感情が、水をせき止めていたダムの決壊のように溢れ出す。


 「理依奈さん…。わたしもう保育士やめたい…。つらいよ…」


 理依奈さんは、大丈夫?とか…。


 こうしたらどう?とか…。


 保育士をやめたいと言ったわたしを、引き止めるような言葉はなにもかけてこなかった。


 ただなにも言わず、うんうんとうなずいて、わたしの話をずっと聞いてくれた。


 わたしはスマホ越しに嗚咽した。


 言葉にならない言葉で、「もう、どうすればいいかわからないです」と叫んだ。


 「朝陽ちゃん…。そういう負の感情の連鎖は、保育士が断ち切るしかない…」


 理依奈さんは慎重に言葉を選びながら、静かにそう呟いた。


 「はい…」


 そんなことはわかっている。


 「でも、つらいよね。もう、やめたいよね…」


 「はい…」


 「世の中には、もっとらくな仕事だってあるし。こんなふうにストレスを溜めなくても給料が高い仕事だってあるしね…。保育士にどうしてもこだわる理由がないのならやめるのもありだと思う。朝陽ちゃんの人生が仕事で潰されるなんてあっちゃだめだから…」


 「はい…」


 涙を止めようと思っても、次から次へと溢れ出てくる。


 ふと疑問に思ったことを、わたしは嗚咽しながらストレートに訊ねた。


 「理依奈さんは、なんで保育士をやっているんですか…?」


 理依奈さんは、少し間を空けてから静かに口を開いて教えてくれた。


 それは普段、誰にでも優しい理依奈さんからは想像もできないような答えだった。


 「本当のわたしは良い人じゃないからさ。お金をもらってでも誰かを助けてあげれる、せめてそんな人でいたいからかな…」


 「理依奈さんは、いつもみんなから信頼されてるし。優しいし。助けてくれるし。誰がどう見たって良い人じゃないですか!」


 「んーん。それはちがうよ、朝陽ちゃん。本当のわたしは仕事じゃなきゃ、困ってる人を助けるような人間じゃない。本当はいつもモンスターペアレントのような親にも、厄介なやつとか、じゃあ保育園変えろよとか、文句があるなら自分で子どもを見ろよって思っているよ」


 まさか理依奈さんからそんな言葉が出てくるとは夢にも思わなかった。


 彼女は話をつづける。


 「本当のわたしはつくづく聖人じゃなくて、ただの人間なんだ。だからね…。お金をもらってなら、誰かをひたすらに助けてもいいかなってことにしてる。負の感情の連鎖だって断ち切る。そりゃ他にもそういう仕事はあるよ。介護士とか、看護師とか、福祉系はたいていそうだよね。でもわたしには、たまたまそれが保育士だった。それだけなの…」


 理依奈さんほどのベテラン保育士でも、ストレスで黒い感情が湧き上がることがあるんだ…。


 お金をもらってるから、人助けができる。


 そんな自分は、本当は良い人とか優しい人なわけじゃない。


 ちょっと、わかる気がする。


 だって本当に良い人とか、優しい人って、きっと困ってる人がいたら無償で手を差し伸べるような人たちなのだから…。


 そう。


 保育士は決して聖人ではない。


 あくまで保育に関することの、プロフェッショナルなだけなのだ。


 そのあと、しばらく理依奈さんとたわいもない話をしてから電話を切った。


 部屋にひとりきりでいると、もっと気が滅入ってしまいそうで、わたしは近所の桜舞公園を散歩することにした。


 眠れなくて悩んでいるとき、わたしはひとりでたいていここに来る。


 桜舞公園の中央ベンチ。


 昼間は暑かったが、夜になるとほんのり涼しい風が肌を撫でるように通り過ぎる。


 夜空には綺麗な丸い月が浮かび。


 街灯と月明かりがわたしの行く道を照らす。


 桜舞公園の中央ベンチに着くと、見覚えのある人影が見えた。


 身長は175センチくらい、細身の体にオーバーサイズのスケーターファッション。


 夜空の月のような金髪、白い肌、二重瞼に硝子玉のような綺麗な瞳、誰が見てもかっこいいと思うような整った顔立ち。


 わたしは彼をよく知っている。


 蘇轍月。


 わたしの元カレだ。


 はぁ…。本当にいやなタイミングで会ってしまったな。


 月はすぐこっちに気づいて、「よぉ。朝陽…」と声をかけてきた。


 「なんで、あんたがここにいるの?」


 無視するのも変だと思って、とりあえず会話をすることにした。


 「理依奈さんからちょっと聞いて…、朝陽がここに来るんじゃないかって思ってさ…」


 「待ってたわけ!?」


 「まぁ…」


 月は理依奈さんと同じ職場で保育士をしている。


 理依奈さんの後輩。


 理依奈さん、これはお節介が過ぎるよ…。


 だいたいわたしと月はもう別れてるわけだし。正直、今会ったって気まずいだけ。


 元カレに慰められるとか本当にごめんだ。


 「べつにわたしは月と話すことないから」


 月は少し言葉がどもったが、まっすぐな目をこっちに向けて言った。


 「朝陽にはなくても、俺にはあるから聞いてほしい!」


 「なに?」


 「朝陽のことだから本当にみんなを笑顔にしたいんだろ。子どもたちや、自分のことを攻撃してくるような親のことも」


 「したいよ。でも、わたしにはできない!それに今はもう、笑顔にしたいかすらわからない!」


 また目から涙が溢れてくる。


 元カレに泣き顔を見られるのなんて本当にいやだから、わたしは月に背を向けた。


 「みんなを笑顔にする。それが俺たち保育士の目的のはずだろ」


 「そんなのわかってるよ!でも、どうやっていいかわからないの!だってわたしがみんなの悪者にされてるんだよ!悪者がいなくなったほうが、親のみんなは笑顔になれるでしょ!」


 「いや、ならない!」


 驚くほど、即答をした月。


 「なんで?」


 「次の標的になる保育士を決めて、同じことを繰り返すだけだから。子どもはそのたびに先生が変わって不安定になる。保育士は取っ替え引っ替えできるものじゃない。積み上げた信頼関係が大事だから」


 「じゃあ、わたしが今の仕事をやめずに残ったとして、なにができるの?とてもじゃないけど、みんなを笑顔になんてできないよ」


 「できる」


 「できない!」


 「朝陽、お前は勘違いしてる」


 「は?なにが?」


 「保育士はみんなを笑顔にする。その目的を果たすために、そいつらに嫌われててもべつによくね?って俺は思ってる」


 「は?」


 「んで、自分もそいつらのこと、そんなに好きじゃなくてもよくね?って思ってる」


 「なんで?」


 「だってそういう親から嫌われてても、こっちは保育士なんだから。こっちが勝手に目的を果たすために助けてやってりゃいいじゃん」


 彼はさらに自分の言いたい放題話をつづける。


 「俺たちはなんで困ってる人を助けてる?お人よしだからじゃないだろ?優しいからじゃないだろ?そいつから、良い人に思われて好かれたいからじゃないだろ?保育士だからだ!仕事の目的に価値を持てよ!朝陽、お前なんで保育士になった?」


 あぁ、そうだ。思い出した。


 こいつのこういう口が悪くてがさつで、すぐ言いたい放題なんでも言うところがきらいで、ケンカになって別れたんだ。


 でも、それが今はちょっと頼もしい。


 今だけは、こいつのこういう自分勝手なところを少し見習いたい。


 高校生の頃、変に真面目だったわたしはクラス委員とか任されると断れなくって。


 不器用なわたしは、クラス委員の仕事をうまくできなくて陰口をクラスメイトたちから言われてしまい。


 それでもがんばってクラス委員をつづけていたけど、やっぱり無理で心がつらくなってしまって。


 そんなとき、助けてくれたのが月だった。


 そのときも月はみんなに言いたい放題。


 「朝陽にクラス委員やれって言ったやつや、陰口言ってるやつは今すぐ出てこい!朝陽がうまくできなくて気に入らないなら、お前がクラス委員やれよ!」


 なかなかそのようなことを、人前で堂々と言える人はいない。


 それも自分のためとかじゃなくて、誰かを守るために。


 月は高校生の頃から、嫌われる勇気を持っていたのだ。


 人から嫌われても、自分の信念を貫く。


 それってすごく大切なことだと思う。


 あぁ、そうだったと、またひとつ思い出した。


 わたしはそんな彼を好きになったんだ。


 だいぶ昔のことだから、忘れてしまっていた。


 月は相変わらず、大人になっても変わらないな。


 そこが好きだけど、やっぱり彼のきらいなところでもある。


 でも今回は、大切なことをあらためて教えてもらった気がした。


 わたしが保育士になった理由。


 幼い頃、この桜舞公園で迷子になったわたしを助けてくれた保育士さん。


 その人に憧れ、わたしも見ず知らずの人に手を差し伸べられるような、そんな優しい人になりたいと願ったから。


 たったそれだけのことだけど、それがわたしの原点。


 こんな今のわたしじゃ、憧れのあの人のようにはとてもなれないや。


 でも。


 それでもわたしは、誰かに優しくできる自分でありたい。


 目の前で困っている人がいるのなら、手を差し伸べられるような人でありたい。


 たとえそれが本当の優しさではなく。


 理依奈さんみたいに給料をもらっている保育士の、技術としての優しさであったとしても。


 わたしは人を傷つけるのではなく、誰かを守り優しくできる人でありつづけたい。


 そう思ったとき、なんだか沸々と胸の奥から込み上がってくるものを感じた。


 これは勇気だ。


 わたしを攻撃してくる隼人さん。


 噂に流されわたしを蔑んだ目で見てくる親たち。


 そんな人たちだっていてもいい。


 わたしは保育士として、自分のやるべきことをやる。


 わたしが本当になりたい自分でいるために。


 心を覆っていた大きな黒い霧が晴れていく。


 心も体も疲れ果ててはいるけれど、自分がどうすればいいかもわからないさっきよりは、だいぶマシな気分だ。


 「お!ちょっといい顔してる、朝陽!」


 月がそう言って嬉しそうににこっと微笑んだ。


 「ありがとう!でも、月のことはきらいだから!わたし、もう帰るね!」


 すっきりした気分で帰るために振り返ったら、月に腕を掴まれる。


 「待って待って!なに自分だけめちゃくちゃすっきりした顔でさらっと帰ろうとしてんの!」


 「は?だって一緒にいてもなにもやることないし。わたしたち、もう恋人じゃないでしょ!」


 「たしかにそうだけど!」 


 そう言って月明かりに照らされる、彼の不服そうな顔はやはり芸能人並にかっこいい。


 こんなにイケメンなのだ。


 その気になればすぐに彼女なんて作れるだろうにバカだなぁと思う。


 「わたし、本当にやることがあるから忙しいんだよ。理依奈さんからも聞いてると思うけど、友達に石を投げてぶつけっちゃった子がいてね。怒った保護者の人が説明会を開けって言い出して、来週説明会をすることになったの。だから状況報告の資料を、これから作らなきゃならないの」


 月はまだなにか言いたそうだったが観念したのか、はぁっと大きなため息をついてからこう言った。


 「わかったよ…。負けんなよ、朝陽!」


 「最初から勝負なんてしてないし。でも負ける気はない。わたしは自分が保育士としてやるべきことをやる。それだけだよ」


 月が拳をこっちに向けたので、グータッチをして別れた。






 一週間後。説明会の当日。


 説明会は平日の夜、保育園が閉園してから、わたしともうひとりの担任の保育士、園長先生と主任、参加できる保育園全体の保護者という形で、場所は園内のホールで開かれた。


 わたしは作ってきた資料を保護者のみんなに配って、事件の報告と今後の対策について説明をした。


 するとすぐに「今後の対策って書いてあるけど、園児に適切な指導をするとか、公園では危ない石がないか確認しながら子どもの動きを予測し保育をするとか、結局なにも変わってないじゃないか!!今後、園児が石を投げないように公園には行かないとか、もっと徹底できないのか?」と、さっそくイライラしながらトゲのある発言をする隼人さん。


 「はい。うちの保育園は園庭が狭く、午前中の主活動で公園に行かないというのは、子どもたちの身体を動かしたい要求を叶えられず、集団保育の中では逆にトラブルや怪我が増えてしまいます。また、公園で石を含めそこにある自然物を通し、様々な経験を積み重ねていくことが幼少期の子どもたちには必要です」


 そうわたしが答えると、「あのなぁ。それやっててうちの子は怪我してるんだわ!頭に石をぶつけられたんだぞ、いい加減にしろよ!」と、怒る隼人さん。


 この人は、子どもたちが公園に行かず保育室に篭りっぱなしになって、溜まったストレスでトラブルが起きてしまったら、今度は公園に連れ出さないからそうなったと文句をつけてくるのだろう。


 「石を投げた子どもへの適切な指導と書いてあるが、その子どもがもう何回もトラブルを起こしてるんだろ!グレーの子どもへのしつけが悪いとしか言いようがないだろ!それにわたしは善太くんが友達に噛みつこうとしたとき、朝陽先生が善太くんを突き飛ばしたのを見た!それがあんたの言う適切な指導なのか?どうなんだ?言ってみろ!」


 わたしが善太くんを突き飛ばしたという言葉を聞いて、え?、という表情をする他の親たち。


 わたしに視線が一気に集まる。


 そして、次に親たちからこんな言葉が飛び交う。


 「それが本当ならちょっと信じられないです。子どもをこの保育園には任せられない」


 「保育園は、保育士のそういう問題に対策はなにかしてるんですか?前から思ってたんですけど、ちょっと保育士に対する監視がゆるくないですか?」


 「ちゃんと保育士を見張る対策をしてください!子どもをあずけている親としては今の話を聞いて不安になりました!」


 心臓がどくどくと音を立てて鳴る。


 身体が小さく震えてきた。


 自分が精神的に、どんどんと追い詰められているのを自覚した。


 守ろうとしているはずの人たちに。


 わたしの目にはこのとき、ここにいる保護者全員が敵に見えた。


 こんな人たちを守る価値なんてあるのか?


 なにも知らずに、わたしの言い分だけを聞いた人ならそう答えるのだろう。


 反対に親としての立場しかわからない人なら。


 そうだよね。最近は保育士が起こす事件のニュースもよく聞くからこわいもんね。保育園にしっかり責任取ってほしいよね。


 そう答えるのだろう。


 でも、わたしたち保育士は、そういう次元にはいない。


 いちゃいけない。


 いつだってやることはこれしかないのだ。


 相手がどんな人だろうが、保護対象であるならばみんなを笑顔にする。


 足りなかったのは、わたしのそういう覚悟だ。


 たとえその人たちから嫌われていようが、冷たい目で蔑まれようが、陰で悪口を言われていようが、わたしは保育士としての仕事をまっとうする。


 「たしかに隼人さんの前で子ども同士のケンカを止めたとき、善太くんを押してしまう形にはなってしまいましたが、わたしは突き飛ばしてなどいません!」


 「でも、それって朝陽先生が勝手に言ってるだけで、事実なんて保育士がなんとでもいい曲げれるじゃないか!正直、こういう保育士さんにはやめてほしいと思っています!」


 そう言った隼人さんの次に、ある人が口を開く。


 「待ってください!」


 声のほうを見ると、静香さんが手で自分の胸を押さえながら立ち上がっていた。


 「善太は、朝陽先生に突き飛ばされてなどいません!」


 「じゃあ、それをどうやって証明するんですか?わたしは見たんですよ!」


 「できます!だって、善太は朝陽先生に嫌悪感など抱いていません!いつも朝陽先生が自分のことを助けてくれる!友達と仲良くできる方法を教えてくれるって言っていました!他の子どもたちだって、そうじゃないですか?朝陽先生が暴力で子どもを指導する人だったら、みんなこわがっているはずです!でも子どもたちはみんな朝陽先生のことが大好きで懐いている!それがなによりもの証拠じゃないんですか?なんでそんなことがわからないんですか!」


 わたしは静香さんがこんなふうに声を張り上げるのを初めて見た。


 もともと落ち着いていて、どこか少しだけ気の弱そうな静香さん。


 クラス懇談会でも、保育士の話や他の親たちの会話を聞いているだけで、いつもなにも発言などはしない。


 その静香さんが、こんなふうに必死になって言うなんて。


 びっくりしたのはわたしだけじゃないようで、他の親たちも揃って目を丸くした。


 そして静香さんにつづいて、他の親たちからもこんな声が上がった。


 「去年、朝陽先生のクラスだったけど、うちの子は今でも朝陽先生が大好きですよ!」


 「うちの子だって、いつも朝陽先生が抱っこしてくれないと、わたしから離れられずいってらっしゃいできないんです!」


 「うちの子もこの前、朝陽先生に無くし物を一緒に探してもらって、おかげで見つけることができたって喜んでいました!朝陽先生が、子どもにひどいことをするような先生には、わたしも思えません!」


 わたしは、悠さんが言った言葉をまた思い出す。


 人は悪いことのほうが強く印象に残る生き物。


 だからこそ、保育士は人の良いところを見つけなければならない。


 自分の中に渦巻く大きな黒い感情のせいで、今まで気づくことができなかった。


 親全員がわたしに対して、悪く思っているわけではないのだ。


 こんなふうに、わたしのことを信じてくれる人たちもいるのだ。


 「いつもがんばってくれている保育士さんを、この場で吊し上げるような言い方はひどいと思います。朝陽先生のクラスの知り合いから聞いたんですけど、ライングループで担任の先生の悪口言い合うのって保護者としてどうなんですか?」


 他のクラスの親の人がそう言うと、またみんながざわざわとし出す。


 「言いづらかったから黙ってたんですけど、ちょっと、あのライングループはやりすぎだなって思ってました」と、わたしのクラスの親である佐藤さんもつづいてそう発言してくれた。


 わたしを責める意見ばかりじゃなくなり、今度は自分の立場が悪くなってきた隼人さんが咄嗟に口を開く。


 「じゃあ、みなさんは自分の子どもに石をぶつけられるような保育園でいいんですか?」


 「そりゃ、我が子が傷つくのはいやだけど。子どもたちの集団生活でそういった多少のトラブルは付き物だし。わたしはそういうリスクも含めて、生活のために我が子をあずけていますよ。それに本当にしちゃいけないような重大な大怪我から、先生たちはちゃんと守ってくれていると思います!」


 佐藤さんは、そうきっぱりと言った。


 「ここの保育園はやっぱりおかしい!平等じゃない!いつも怪我をさせられたほうが我慢しなきゃならない!」


 そう呟いた隼人さんに、伝えなければならい。


 保育士として。


 そう思ったとき、わたしはすっと立ち上がった。


 またみんなの視線がこっちに集まる。


 「美玲ちゃんの顔に怪我をさせてしまったことは本当に申し訳ありませんでした。それは守ることができなかったわたしたちが悪いです。でも隼人さんが言う平等ってどういうことですか?」


 「はぁ?平等は平等だろ!子どもごとに扱いがちがうって言ってるんだ!ちゃんと同じにしろよ!不平等だろ!」


 「じゃあ、全部同じだったらそれが正解なんですか?美玲ちゃんが怪我をさせられたとき、やられたらやり返せと教えるんですか?そうやって自分の気に入らない人をやっつけてしまうような生き方は、将来美玲ちゃんを幸せにしますか?」


 「じゃあ。こっちはどうしろって言うんだよ!やられっぱなしで泣き寝入りするだけじゃないか!」


 「いつも美玲ちゃんは泣き寝入りしていますか?やられっぱなしだと家で言っているんですか?」


 「美玲はまだ二歳児だぞ!そんなしっかり親に報告ができるわけないだろ!そうやって自分で言えない時期の子どもだから、親が代わりに言ってあげなきゃならないだろ!」


 「わたしは美玲ちゃんにいつも、自分の気持ちを相手に伝えれるよう言葉の代弁をしてあげる手助けをしています。そして相手の気持ちを聞くということの手助けもしています。友達と心を通わせることの大切さを、美玲ちゃんが知っていくためにです」


 「べつにそれは悪いとは言ってないだろ!俺は、子どもによって扱いがちがうから平等にしろと言っているんだ!」


 「ちゃんと友達の心を知ったとき、美玲ちゃんは不平等を感じていません。不平等を感じるのは相手の事情が想像できないからじゃないですか?」


 隼人さんはわたしの言葉を聞いて、よくわからないといった困惑した顔をしている。


 「たとえば片足を骨折している人が、短距離走で勝負をしたとき。怪我もなにもしていない健康な人と、平等だと言えますか?」


 「平等なわけないだろ!骨折してるんだから!」


 「それは目で見てわかるからそう思ったんですよね。保育士は目に見える事情だけで判断をしているわけではありません。それぞれの家庭事情、子ども一人ひとりの発達や性格などの特徴、その日の体調、目には見えない、形もない、数値化もできない、いろんなことから常に判断をしなければならない仕事なんです。そして子ども一人ひとりに適切な対応をしようと思ったとき、どの子にも同じ扱いをするのが平等とは言えないんです!全部同じが良い保育なわけじゃないんです!」


 「じゃあ、はっきり言う!そんな保育は変えろ!お前ら保育士の言うことなんてエビデンスに欠ける!そうやって育った子が幸せになるという根拠があるわけじゃないだろ!それは感情論だ!そういった子どもによって対応のちがう保育が、今回のような事故の原因になったりしてるんだろ!」


 隼人さんがそう言ったとき、園長先生がとなりで真剣な表情をして急に呟いた。


 「保育を変えろ…。エビデンスがない…」


 どうやら園長先生は、その言葉に引っ掛かったらしい。


 「エビデンスはものすごくたくさんあります!日々、保育は時代に合わせて進化をしています。保育士たちは毎年自分の実践を書いて報告している。たとえば全国保育研究会では保育士と大学の先生とで、その実践報告から毎年研究を深めています。そこから本も何冊も出版されています。それに…」


 園長先生は言葉をつづける。


 「うちの職員が言っているように、どの子どもにも同じ対応をすることが正しいというような、不適切なやり方に保育を変えることなどはできません!理由は、みんな同じが本当の平等じゃないからです!わたしたちは子どもたち一人ひとりを大切にする保育に、誇りを持って職務にあたっています。隼人さんの中でのそれ以上を望むのなら、自分で他の合う園を探すしかありません」


 まさか園長という立場がありながら、ここまではっきり言うとは思っていなくて、わたしは驚いた。


 周りの親たちも、みんな静まり返る。


 そんな中、隼人さんが「それは出てけってことか?この保育園から出てけって今言ったのか?」と怒鳴り散らした。


 「この場にいるみなさんには、わたしが出ていけと言ったふうに聞こえましたか?」


 園長先生は冷静な声で問う。


 この場に来ているほどんどの人が首を横に振った。


 「区役所の相談窓口に行くからな!園長も含め、不適切な保育園だと伝えてくる!」


 「はい。わかりました」


 最後は園長先生と隼人さんのやりとりで時間が来てしまい、今夜の説明会はそのまま幕を閉じた。


 散々保育園に対しめちゃくちゃ言った隼人さんだったが、こでまり保育園がなんだかんだ都合がいいので、退園することなどなかった。


 苦情はいったらしいが区役所も、親の中にはこういう人もいることを知っているので、保育園に対しお咎めはなかった。






 わたしは今年度、クラスを変えられることなく、保育士もやめることなく、自分のやるべきことをまっとうした。


 保育園は隼人さんを、保育士や他の保護者との関係で、注意が必要な人物としてマーク。


 次の年度からは隼人さんの標的になりづらい、ベテラン保育士のふたりを隼人さんがいるクラスに配置し対応をした。


 わたしは、ちがうクラスへの配属となった。


 また、善太くんもとなりのクラスに移動となった。


 それが妥当な判断だと思う。


 結果として、わたしと善太くんが自分がいるクラスからいなくなったことで隼人さんは満足なのだろう。


 そのあとも、隼人さんは卒園までの三年間。


 ちょくちょく人間関係でのトラブルが職員会議で報告されたが、大事にはならずベテラン保育士たちがうまくかわした。


 モンスターペアレントというものは、本当に存在する。


 しかし、親をモンスターにしてしまわないようにするのも、保育士の工夫だと思う。


 だってその人も、保育園にとっては保護対象なのだから。


 モンスターになりたくて、なってしまっているモンスターペアレントなどいない。


 保育園との距離感や、自分の気持ちの伝え方が不器用なだけなのだ。


 わたしは隼人さんとの一件で、あらためて自分の力不足を反省した。


 もっと美玲ちゃんが、怪我をしない保育が実現できていたのなら。


 美玲ちゃんはもちろん、善太くんや静香さんも心が傷つかずにすんだし。


 隼人さんとだって、あんなふうに関係が崩壊してしまうこともなかった。


 やっぱり悔しい…。


 みんなを笑顔にできなかったことが。


 そして悲しい。


 守るべき人たちから自分が蔑まれたことが。


 こんなこともあるのが、この仕事だ。


 それでもわたしは、今日も保育士をしている。