大人たちはいつも結果に追われている。


 会社で上司に認めてもらうための資料を提出しなければならない。


 世の中に需要のある、売れる商品を出さなければならない。


 みんなが聴いてくれるような音楽を作らなければならない。


 宣伝するためのSNSがバズるように、可愛くおしゃれしなければならない。


 人の目を惹きつける面白い企画を考えなければならない。


 自分や会社にとっての利益を上げることこそが、結果である。


 仕事というものは、本来そういうことが求められるのが普通だと思う。


 でも、保育はちょっとちがっている。


 そもそも福祉というジャンルの仕事の結果は、お金やフォロワーじゃない。


 そんなこと言ったって、人はお金がなければ暮らしてはいけない。


 それでも、福祉関係の仕事が存在しなくならないのは、世の中にとって本当に必要なものだからなのだ。


 でも、だいたいどの福祉関係の仕事も、給料が安くって業務内容は過酷。


 当然、離職率が高いというのが、なんとも悲しい現実。


 もうちょっと福祉関係の仕事をしてても、得のある世の中でもいいのにと思う今日この頃だ。


 話を仕事の結果というテーマに戻す。


 保育士も当然仕事なので結果が求められる。


 じゃあ、その結果ってなんだろうって考えると。


 保育士という仕事の結果は、目に見えてわかりやすいものが少なすぎる。


 しかも、数値化ができない。


 だから結果が出ているのか、出ていないのか。


 どっちなのかがわかりづらい。


 職員会議でも、子どもたちの日々の様子やトラブルなどの確認。


 または、その対策の話ばかり。


 週案に子どもたちの様子や反省点を書き込んで、制作物を作ったり多忙な勤務をこなしていると、気づくとあっという間に一年が終わってしまう。


 保育にも、本当は常に結果が存在しているというのに。


 見えづらいから、保育士自身がちゃんと気がつかないとそのまま過ぎていってしまう。


 それじゃなんの意味もないと、わたしは思っている。


 トライ&エラーができないからだ。


 大切な結果が、なんなのかちゃんとわかっていない保育士は、いつか保育に矛盾を抱えて困ってしまう。


 きっと仕事に追われ、疲れ果てるだけの毎日がひたすらにつづく。


 どんなことにいちばんの価値を置いて、保育をがんばればいいかわからなくなってしまったとき。


 保育士は最終的に、こう思うことになるだろう。


 わたしって、なんのためにこんな大変なことをしてるんだっけ。


 こんな仕事、子どもが好きなだけじゃとてもやっていられない。


 労働時間、業務内容、給料、人間関係…。


 他にもっといい仕事って、世の中にはたくさんあるよね。


 じゃあ、べつに保育士じゃなくていいじゃん。


 これは、そんな現実にぶつかる保育士を見たときの話だ。






 わたしが三歳児クラスの担当をしたとき、ある保育士とペアを組んだ。


 その人の名前は西山真由美先生。


 三十代半ばの主婦で、二十代の頃はべつの園で保育士をやっていたけれど結婚を機に退社。


 子どもが中学生になり、子育てが落ち着いてきたので、こでまり保育園に再就職をした先生だ。


 担当している三歳児クラスは、子どもの人数が十五名。うち一名が自閉症児。


 やんちゃで活発な男の子が多くて大変だったけど、三歳児らしくみんな唯我独尊に自己主張をしてはケンカを繰り返し。


 それでも、すぐに仲直りしてけろっと一緒に遊んでいるようなことが日常茶飯事。


 本当ににぎやかで無邪気な可愛い子どもたちだった。


 そして途中入所で、自閉症と診断をされた鈴木枢くんが夏からクラスに仲間入りをした。


 クラスメイトの子どもたちも、枢ちゃん枢ちゃんと呼んでは新しく入ってきた友達を歓迎して喜んでくれた。


 しかし転園してきたばかりの枢ちゃんの心は不安で固く閉ざされ、誰の言葉も受け入れれるような状態じゃなかった。


 「枢ちゃんはどこの保育園から来たの?遠いところから来たの?」


 「枢ちゃんは、どんな食べ物が好きなの?」


 「枢ちゃん、一緒に遊ぼ〜!」


 クラスメイトの子どもたちが、枢ちゃんにたくさん声をかけてくれたけど全部無視。


 転園してきたばかりの慣れてない保育園で、枢ちゃんがわたしたちに見せたこのような反応は、対人関係が苦手でこだわりが強いなどの特徴を持つ自閉症児として、当たり前の反応だった。


 ある日、午前中の主活動で公園に出発をするとき。


 クラスメイトの駆くんが枢ちゃんが手繋ぎをする友達がいなくて、ひとりぼっちになっていることに気がついてくれた。


 「枢ちゃん、一緒に手繋ご〜!」


 急に声をかけられた枢ちゃんは、次の瞬間なにも言わず駆くんの顔を叩いた。


 「いってぇ、朝陽先生!枢ちゃんに叩かれた!」


 そう言って半泣き状態の駆くんに、「ごめんね。今は枢ちゃんの代わりに謝っとく」と伝えたあとわたしは。


 「枢ちゃん。駆くんに手繋ごって言われたこと嫌だったの?」


 わたしは共感と質問の間の言葉を使ってそう訊ねてみる。


 こくんと、一回だけうなずく枢ちゃん。


 「なんで嫌だったの?」


 「急だったから、びっくりした…」


 「そっか。びっくりしたら友達のこと叩いていいんだっけ?」


 首を横にふりふりと振る枢ちゃん。


 「じゃあ、駆くんにごめんねはしとかなきゃね。自分でできる?」


 「うん!」


 そう返事をしたあと、すぐに駆くんのところに行って素直に謝る枢ちゃん。


 「ごめんね…」


 「うん。いいよ」


 駆くんは、快く許してくれた。


 子ども同士でトラブルが起きたとき、ごめんねと謝らせることがすべてではないと思っているが、とくに一から三歳児期の子どもたちにはトラブルになってしまったら必ずごめんねをするよう、わたしはあえて促している。


 トラブルを起こしてしまった子ども本人がごめんねと謝ることで、失敗しても友達とまた仲直りができていくという体験を積んでほしいし。


 やっぱり、やられてしまった友達側としてはごめんねと言ってもらったほうが嬉しい。


 それに、あとあとまで相手を悪く思って根に持つことが少なくなるからだ。


 やられた側の子にも友達を許す体験を積んでいってほしい。


 失敗しない人間はいない。


 いつか自分も失敗してしまう側になって、友達から許してもらう立場になることもあるのだから。


 大切なのは、幼少期のうちから誰かと一緒に生きていくことっていいなとたくさん感じるような、かけがえのない体験を積んでおくことだと思う。


 いつか大人になったとき、ちょっと失敗しちゃったり、人を信じられなくなるような出来事があったとしても。


 心の根っこに、人と生きることの良さを知っていて、人を大切に想うことのできる力を育てておくことで。


 何度でも、生きていれば人生はやり直せるし。


 子どもの頃から誰かに助けられてきた経験は、その子が本当に困ってしまったとき、社会の中で孤立してしまったとしても誰かに助けを呼ぶ行動に繋がる。


 世の中には、あなたの味方になってくれる人が必ずいると知っておいてほしい。


 幼少期から、そう思えるような体験をたくさん積んでおくことが、その子の人生を必ず幸せに導いてくれると、わたしは信じている。


 そんなこんなで。


 今は友達とまったく手繋ぎができない枢ちゃんは、いつもわたしと手を繋いで公園に行ったり、枢ちゃんが道で疲れて歩かなくなったときはわたしが抱っこをしてあげている。


 そろそろ腰が痛くなってきたし、腕もだるくなってきた。


 「あ〜、もう限界!枢ちゃん〜、重たいから降りてよ!ちょっとは自分で歩いてよ!」


 「やだー!朝陽先生の抱っこがいいもん!」


 そう言ってわたしに、ぎゅっとしがみつく枢ちゃん。


 「じゃあ、枢ちゃんが大人になって、朝陽先生が動けなくなったときは枢ちゃんに抱っこしてもらうからね!そのときは絶対見捨てずに助けてよ!」


 「え〜、どうしよっかなぁ〜」


 そう冗談めかしくにこにこと微笑む枢ちゃん。


 転園してきたばかりの頃の、強張った表情はだいぶ少なくなってきた。


 「朝陽先生が困ったときは、ちゃんと助けてよね!」


 「なんか朝陽先生って、いつも恩着せがましい!」


 恩着せがましい!?


 三歳児なのにやけに難しい言葉を知っているなと、なんだか面白かった。


 お母さんかお父さんが使うのだろうか。


 それともスマホの動画からの情報だろうか。


 なんにせよ。


 わたしはいつも、こうやって子どもたちに恩を売っていく。


 その恩がわたしに返ってこなくても、将来この子たちが、誰かを助けるための原動力にちょっとでもなればいい。


 そういう行動ができれば自然と、周りの人と良い関係を築いていくことになるし。


 それが必ず、この子たちの幸せな未来に繋がっていくはずなのだから。






 夏が過ぎて秋になった。


 もうすぐ保育園では、運動会がある。


 西山先生が三匹の子ぶたの絵本を読んだことがきっかけで、うちのクラスでは今、三匹の子ぶたごっこが流行っている。


 「ここが子ぶたたちのお家か〜!子ぶたを見つけたら食べちゃうぞ〜!」


 公園で西山先生がオオカミの帽子をかぶって、そう叫びながら子どもたちを追いかける。


 「きゃー!西山先生のオオカミがきたー!」


 「食べられるー!」


 「こっちだ!みんな早く逃げろー!」


 きゃっきゃと笑いながら子どもたちが、西山先生のオオカミから逃げるという簡単なまてまてあそび。


 集めた落ち葉の上を、藁のお家。


 大きな木の下は、木のお家。


 そしてジャングルジムをレンガのお家に見立てて、子どもたちが順番に逃げ込んでいく。


 枢ちゃんも自然と、その三匹の子ぶたごっこに参加して友達と楽しむ姿が見られるようになっていた。






 今日の夜は、クラス懇談会がある。


 そこで保護者のお母さんやお父さんたちに、今年の運動会で子どもたちがなにをやるか説明をすることになっている。


 わたしと西山先生は事前に打ち合わせをして、今公園で流行っている三匹の子ぶたごっこを運動会でもやることにしようと話して決めた。


 いつもは職員室として使っている部屋に保護者たちが集まって、わたしと西山先生は、子どもたちのプールあそび、部屋での様子、最近公園であそんでいる三匹の子ぶたごっこを、スクリーンにそのときの子どもたちの写真を映しながらながら説明をした。


 「…なので、最近子どもたちがよくあそんでいる三匹の子ぶたごっこを、運動会でもみなさんにお見せしたいなと思っています。お楽しみにしてくださいね!」


 西山先生が運動会についての説明を終えると、お母さんとお父さんたちは拍手をしてこう言った。


 「運動会でもこの写真のように、楽しそうにあそぶ子どもたちが見られるのがとっても楽しみです!」


 「年に一回の運動会ですからね!今年は良い高いカメラ買っちゃいましたよ!」


 「うちの子の、去年とはちがう成長した姿が見たいなぁ!」


 「子どもの成長した姿にじーんと来ますよね。わたし泣いちゃうかもしれません!」


 「いやいや、まだ早いですよ〜!卒園もまだまだ先なんですから〜!あははは」


 そんな運動会への期待の声が、保護者の親たちから飛び交った。


 クラス懇談会を終えたあとの職員室。


 スクリーンやテーブルを、わたしと西山先生のふたりで片付けていると扉が静かに開いた。


 ゆっくりと中に入ってきたのは、枢ちゃんのお母さんだった。


 なにか忘れ物ですか?


 そう声をかけようとして、わたしはすぐにその言葉を飲み込む。


 枢ちゃんのお母さんが今にも泣き出しそうな、そんな悲しい表情を浮かべていたからだ。


 西山先生もすぐ異変に気づいて、「どうされましたか?」とそっと様子を伺うように声をかける。


 枢ちゃんのお母さんは、涙しながらわたしと西山先生にずっと抱えていた不安な気持ちを打ち明けてくれた。


 「うちの子はみんなとはちがう。きっと、わたしも枢も運動会に出たらショックを受ける。枢は運動会には出たがらないと思う。去年まで通っていた保育園の運動会に出たときも、ただただ悲しかった。枢はなにもできず隅っこでこわがって泣いていただけだから…」


 その言葉を聞いて、言葉を失う西山先生。


 「三匹の子ぶたごっこは、いつも公園で枢ちゃんも楽しめている遊びなんです。だから…」


 それでも西山先生は、なんとか言葉を絞り出したが途中で詰まらせてしまう。


 わたしは枢ちゃんのお母さんの背中をそっとさすりながらこう伝えた。


 「もしどうしてもつらいと思ったら、無理に参加されなくても大丈夫です。お母さんと枢ちゃんの心の健康がいちばんですし。運動会に出た出ないで枢ちゃんの将来の大切ななにかが決まるわけではありません」


 枢ちゃんのお母さんは、ハンカチで涙を拭きながら何度もうなずく。


 「でも、わたしたち保育士は素敵な出来栄えの一部の人が感動する運動会じゃなくて。みんなが心から楽しいと感じ、その気持ちを共有できるような運動会を目指しています。枢ちゃんとお母さんにも無理はさせません。もしちょっとでもわたしたちを信じていただけたら、ご参加していただけたら嬉しいです」


 枢ちゃんのお母さんは、しばらくして気持ちが落ち着いてから帰って行った。


 あの場では、あんなふうには言ったものの。


 正直、妙案なんて思いつかない。


 これは、ちょっとやばいかもしれない…。


 でも西山先生も言っていた通り難しいあそびではなく、枢ちゃんもいつも公園でやっている三匹の子ぶたごっこだ。


 たぶん大丈夫だと思うけど…。


 しかし、そんな楽観的な考え方がわたしたち保育士の失敗を招いた。






 運動会の本番一週間前、リハーサル当日。


 手芸が得意な西山先生は、子どもたちの気持ちがもっと盛り上がるようにと、手作りの素敵な子ぶたの衣装を作ってきてくれた。


 しかし、それが枢ちゃんにとっては逆効果になってしまった。


 保育室で子ぶたの衣装に着替えた他の子どもたちを見て、敏感にいつもとちがうことを感じ取り緊張で表情が固まる枢ちゃん。


 「枢ちゃんも、子ぶたの衣装着てみたら?似合うかもしれないよ!」と、西山先生が声をかけた。


 「いやっ!絶対着ない!」


 もちろん。わたしや他の保育士が声をかけても、当然、衣装なんて着てくれない。


 それどころか、枢ちゃんの目からは大きな涙があふれて泣き出してしまう。


 いつもとちがうということが、枢ちゃんにとってはこんなにも不安になってしまう大きな問題なのだ。


 それでも時間になってしまったので、そのまま公園でリハーサルが始まる。


 園庭が狭いこでまり保育園は、いつも市から公園を借りて運動会を開催している。


 運動会でも三匹の子ぶたごっこの内容は、いつも公園でやっているあそび方とほぼ同じ。


 西山先生が追いかけるオオカミ役。


 子どもたちが逃げる子ぶた役。


 わたしは子どもたちを補助しながら逃げる大ぶた役。


 そして、最悪のリハーサルのスタートをきってしまった枢ちゃんは、まともに三匹の子ぶたごっこに参加できるわけもなく。


 パートの保育士さんに抱きかかえられながら、公園の隅っこで最初から最後まで泣いていた。


 他の子どもたちも泣いている枢ちゃんに気持ちが引っ張られ、とても楽しめる雰囲気にならないまま、その日のリハーサルが終わった。


 点数をつけたのなら0点の保育。


 リハーサルとはいえ、いつもやっているあそびだからと安心し、運動会という非日常が枢ちゃんにあたえる影響を、保育士が予測できていなかった。


 惨敗すぎるリハーサルの結果に、わたしと西山先生はさすがに肩を落とした。


 そして、その日の午後からは職員会議があった。


 運動会のリハーサルについて最終確認を職員同士でするためだ。


 「西山先生と朝陽ちゃんの三歳児クラス、ちょっと工夫が必要そうだね。このままじゃ、だめね!」


 いきなり園長先生からはっきりと痛いところを突かれる。


 「うん。ちょっと三歳児クラス、あれじゃバラバラすぎるね。枢ちゃんの立場に立ってもっと内容をシミュレーションしとかなきゃ!」


 主任からも、そう言われた。


 ごもっともすぎて、なにも言い返せない。


 重たい空気の中。


 「なにがいけなかったんでしょうか…。たしかに良かれと思って急に衣装を作ってきたのはわたしの失敗でした。でも内容としては難しくないし、子どもたちが好きなことをしているはずなのに…。このままじゃ保護者の方々の期待に応えられないし、枢ちゃんのお母さんにも、今日のことをどうやって伝えたらいいのでしょうか…」


 西山先生はうつむいて、自問自答をするかのようにそう呟いた。


 「そもそも運動会なんてものに無理があるんじゃないですか?」


 わたしがふいに言ったその言葉で職員のみんなが凍りついたようにしーんとなる。


 禁句な言葉だっただろうか。


 それともうまくお前がリハーサルできなかったくせにという、呆れた静けさだろうか。


 そんな空気の中でも、先輩保育士の悠さんだけはぼさぼさ頭を揺らしながら、「あはははは!朝陽ちゃんは相変わらず、今日も面白い!」と腹を抱えて笑っている。


 はぁ。


 この人は、またわたしをバカにしてる。


 犬塚悠さん。


 彼はとても自由な性格の持ち主で、わたしにとってはちょっとつかみどころのない人だけど、保育の腕はたしかだし。


 どこか子どもっぽいその一面とは裏腹に、たまに確信を突くようなアドバイスをくれる不思議な人。


 わたしは高校生のとき。


 自分の自信のなさが原因で自暴自棄になり、保育士になりたいという幼い頃からの夢を捨ててしまいそうになっていた時期があった。


 そんなときたまたま出会って、たくさん相談に乗ってくれて、わたしを保育士として導いてくれた悠さんは恩人なのだ。


 保育園での運動会というものは、もともと年に一回親に、子どもたちが保育園で友達と楽しんでいる運動あそびを見てもらおうというのが、本来の目的。


 そこに子どもたち一人ひとりの主体性を大切にする、という観点を入れると一気に話が難しくなる。


 たとえば子どもの主体性を大切にするということを一切抜きにして、親に見せるショーとして子どもたちを練習させれば運動会の出来栄えはものすごく良くなるだろう。


 しかしそれだと、上手くできる子はえらい、できない子は悪い。


 そのような価値観が、より強く発生ことになる。


 そうやって得られる学びを保育では、重要な価値として子どもたちに求めていない。


 普段からの保育内容と、運動会が乖離してしまう。


 たしかに子ども同士で、最初はできなかったけど一緒に切磋琢磨したねとか。


 できるようになって嬉しいねとか。


 仲間と励まし合えたね、などの学びはあるだろう。


 しかし、いろんな人が参加する運動会でわざわざそれを学ばなくても、日常の保育の中で子どもたちが体験していけばいいことだし。


 だいたいうちのクラスは三歳児の子どもたち。


 年齢的にも、そういう学びを得るのは難しい。


 いちばんそういうことを学ぶのが適切なのは、小学校高学年の学童期から、中学高校の青春時代のはずだ。


 とりあえず言えることは。


 運動会というものの出来栄えと、子どもたち一人ひとりの主体性を大切にするという観点は、考えれば考えるほど相反してしまうものなのだ。


 わたしはどうしたらいいか答えが出せず、迷いながら訊いた。


 「そもそも運動会って、子どもたちからやりたいって言い出したことありますか?運動会は誰の願いを叶える場なんですか?」


 すぐに悠さんから答えが返ってきた。


 「そう。朝陽ちゃんが言う通り、運動会というものは純粋に子ども主体の願いを叶えるイベントではないね」


 彼はそう言ったあと、わたしの目をまっすぐ見て話をつづける。


 「じゃあ、そういう運動会のようなイベントは保育園にはあっちゃいけないものなのかな?親たちの子どもの晴れ姿を見たいって願いは、ないがしろにしてもいいと?」


 「そんなことは思ってないけど…。でも、大人発信の願いを叶える保育じゃ、子どもたちの願いを叶える保育なんて成立しないじゃないですか!それで子どもたちの主体性を大切にしろって、運動会は矛盾しています!」


 わたしも少しむきになって、そう言い返した。


 「日常の保育だったら純粋に子ども発信の願いを叶えればいいと思う。でも運動会という場は非日常。大人たちの願いも混ざってくるものなんだよ。そんなんだったら運動会なんてなくなってしまえばいいって、0か100かみたいなこと言い出すわけじゃないでしょ?」


 「そりゃ、そうですけど!じゃあ、どうすればいいんですか?だいたい大人の願いだって子どもの晴れ姿を見たい人たちもいれば、枢ちゃんのお母さんのように不安を抱えている人もいるんですよ!みんなの願いがバラバラでちがいすぎる!」


 わたしがこれだけ頭を抱えて悩んでいるのに、悠さんはぽかんとした顔をして、それが当たり前かのように一言で返してくる。


 この人はそういうところがあるのだ。


 「え…。それをなんとかするのが保育士の実力でしょ」


 はぁぁぁぁ!まじでむかつく!


 しかも、それを心底悪気もないふうに言ってくるからまた腹が立つ。


 職員会議でみんなの前じゃなければ、このノンデリおじさんめと悪態でもついてやりたい!


 その日の職員会議は結局、わたしと悠さんの大激論で時間がなくなり幕を下ろした。


 西山先生はとなりで完全に思考停止、意気消沈してしまっている。


 わたしは必死に考えた。


 枢ちゃんや他の子どもたちにとって本当に楽しい運動会とは。


 我が子の晴れ舞台を見にくる親たちが、来て良かったと思える運動会とは。


 そして不安を抱える枢ちゃんのお母さんが、この保育園には我が子の居場所があるんだって、心から安心できるような運動会とは。


 バランスを考えながら、全部を成立させる。


 保育士の実力で。


 悠さんめ…。めちゃくちゃな無理難題言わないでほしい。


 でも、やるしかない。


 みんなを笑顔にするために。


 だって、わたしは保育士なのだから。






 さっそくわたしは今日の勤務上がりに、ある人を近所のカフェに呼び出した。


 店内でストレートティーを飲みながら待っていると、その人も自分の勤務上がりにやって来た。


 ミルクラテ色のパーマがかかったボブヘア、芸能人のように整った顔にはぱっちり二重瞼と綺麗で大きい瞳。


 薄いピンク色の潤んだ唇、三十代半ばとは思えない白くて美しい肌。


 大人でおしゃれな女性という感じのきれいめなブラウンのワンピースに、雪のように淡くて白い薄手のカーディガンを羽織っている、ため息が出るほどの美人。


 この女性は先輩保育士、川口理依奈さんだ。


 理依奈さんは、店内にいるわたしを見つけると無邪気に微笑みながらこっちに手を振る。


 そして、正面の席に座ると「久しぶり、朝陽ちゃん!ごめんねー、もしかして待った?」と言った。


 彼女はこんなにも美人だというのに恋に奥手で、もう長いこと彼氏がいない。


 本人も、そのことをちょっぴり気にしている。


 でも、そのぶん仕事熱心で保育士としての実力はピカイチ。


 理依奈さんと初めて出会ったのは、わたしが高校生の頃、職場体験で行ったかえでのは保育園。


 そこで理依奈さんが働いていて、知り合って仲良くなることができたのだ。


 ちなみに理依奈さんは、現在もかえでのは保育園で働いている。


 おしゃれな服のコーデやメイクなどを教えてもらったし。


 一緒に恋バナもする仲で、彼女は歳の離れた頼りになるお姉ちゃん的な存在。


 それだけでなく。


 わたしは保育でも困ったことがあると、今回のように理依奈さんに相談をしている。


 彼女は保育士としても、わたしの師匠のような存在で、今の自分の保育観というものは、ほぼ理依奈さんに育ててもらったようなものなのだ。


 「理依奈さん〜、助けてください〜!」


 泣きつくように頼み込むと、「よしよし。なにがあったんだい」と微笑みながら理依奈さんが事情を聞いてくれた。


 運動会まで時間も妙案もなくて、こっちはものすごく困っているというのに、実力でなんとかしろと一蹴された。


 そんな悠さんのノンデリエピソードも話すと、それがつぼにはまったらしく、くすくすと笑い出す理依奈さん。


 「犬塚君、そんなこと言ったんだ〜。犬塚君らしいわ〜。あ〜、本当に面白い!」


 理依奈さんは保育士一年目のとき、こでまり保育園で働いていて悠さんとは同期の仲。


 なのでふたりは、お互いのことをよく知っているのだ。


 「ぜんぜん面白くないですよ!めちゃくちゃですよ!それをなんとかするのが保育士の実力って!こっちが本気で困って悩んでるのも知らないで、あの一言ですよ!パワハラです、パワハラ!鈍感パワハラ!」


 そう愚痴るわたしに、理依奈さんも笑いながら確信を突く一言。


 「まぁ、本当になんとかしなきゃならない課題だからね〜」


 「うー…。そうなんですけどー」


 「まぁ、でも。犬塚君って自分の言いたいことだけ言って、相手の気持ちに気づかない鈍感なとこあるからね〜。そんなんだから奥さんにも怒られるのにね!」


 理依奈さんはやっぱり優しい。


 口を尖らせて膨れる、そんなわたしのフォローもちゃんとしてくれた。


 「ですよね!本当に困ってるわたしに向かってあの一言はないです!先輩だけど、あの人は鈍感バカです!」


 「まぁ、そこも犬塚君の魅力なんだけどね〜」


 理依奈さんは、カフェラテを一口飲んだあとグラスを見つめながらぷっと笑ってそう呟いた。


 「さて、そろそろ本題といこうか!」


 次に顔を上げてそう言った理依奈さんの目は、心強い保育士の目になっている。


 わたしは理依奈さんほどの実力を持った保育士を知らない。


 彼女の経験値と分析力は、どんなピンチなときも、みんなを笑顔にするための最大の一手を常に叩き出す。


 「朝陽ちゃんは、みんなが心から楽しいと思えるような運動会を成立させたい」


 「はい」


 「じゃあ、まずみんなの中でいちばん困っていて、誰かに合わせることが難しいのは、誰だと思う?」


 「自閉症の子です」


 個人名を出さず守秘義務守って理依奈さんに相談をしているので、今は枢ちゃんを自閉症の子と呼んで話を進めている。


 「そう。正解!その自閉症の子だけは、誰かに合わせてなにかを変えることは難しいの。つまり、その子を中心にしてより良い保育の工夫をすることで、合わせれる他の子どもたちがついてきて、みんなが楽しいと思える保育が理屈では成立していく。この問題の突破口は、その自閉症の子なんだよ!」


 保育中に起こることは、すべて理屈で説明がつく。理由のないことなんてなにひとつない。


 そのとき起きたトラブル。そのときの子どもの行動や気持ち。


 保育の中のありとあらゆることは、すべて理屈で説明ができなければならない。


 それがプロの保育士だ。


 たしかに保育士には直感や感覚も大切。


 しかしそれは保育士の性格やセンスが大きく影響してしまう。


 でも保育の理屈は努力でどれだけでも磨かれる。


 だから常に保育を理屈で考え、分析力を鍛えなければならない。


 わたしは理依奈さんから、そう口酸っぱく叩き込まれている。


 「枢ちゃんが楽しいと思えるような運動会…。そもそも運動会などという非日常で、枢ちゃんは楽しい以前に安心を確保することが難しい…。つまり、安心の確保…。それが要になる…。そのためには、もっとなにが必要なのだろう…」


 ぶつぶつ呟きながら思考するわたしに、理依奈さんからの大ヒントが飛んでくる。


 「その自閉症の子が、世界でいちばん安心できる人って誰だと思う?」


 その一言で、わたしの頭の中にあることが閃く。


 「そうか!その手があったんだ!」


 わたしは思わず大きな声が出た。


 何十にも複雑に絡まっていた紐が解けたような清々しい気分だ。


 ぱっと気持ちが明るくなって顔を上げると、理依奈さんはこっちを見てにこにこと微笑んでいる。


 今話を聞いただけで、すぐに正しく状況を分析し、わたしには思いつかないような答えをぽんと出してしまう発想力。


 本当にこの人は、保育士として天才なのだと思う。


 やっぱり理依奈さんはすごい!


 「理依奈さん、本当にありがとうございます!めちゃくちゃ助かりました!」


 「朝陽ちゃんの力になれたのなら良かった!」


 にっこり笑ってそう言ったあと、「あ、そうだ!月くんがさ〜!」と理依奈さんの口から今は聞きたくない名前が飛び出したので、わたしは慌てて立ち上がる。


 「あははは、あいつとは別れたから、もういいんですよ!それより理依奈さん、今日はありがとうございました!わたし、自分がやればいいことがわかったから今日は帰ります!すぐに作戦を考えなきゃ!」


 そう言って逃げるようにカフェを飛び出た。


 月くんというのは、わたしの同級生で元カレのこと。


 月は理依奈さんと同じ、かえでのは保育園で働いている。


 つまり、理依奈さんの後輩保育士なのだ。


 そんなやつのことは、今はどうでもいい。


 今の自分にはすぐにでも、やるべきことがある。


 わたしはさっそく閃いたことの内容を文章にして、西山先生、園長先生、悠さんの三人にスマホで送信した。


 すると悠さんから、グッドサインのスタンプが一個だけぽんっと送られてきた。


 そのあとすぐ西山先生と園長先生からも、その案でいこうと前向きな返信がきた。


 わたしは家に帰るとパソコンで、親向けに運動会の内容が一部変更になったというおたよりを作って、次の日各家庭のレターケースに配布をした。


 変更の内容はこうだ。


 もともと西山先生がオオカミ役になって追いかけ、わたしと子どもたちが子ぶた役で逃げるという内容に追加をして、親も各家庭につき一名子ぶた役として参加し、自分の子どもと一緒に逃げて三匹の子ぶたごっこを楽しんであげてくださいという変更だ。


 つまり、親子参加型のあそびに変更をしたのだ。


 これなら運動会という非日常で、不安を感じる場面だとしても、枢ちゃんがいちばんそばにいてほしいお母さんと一緒にいることができて、不安を緩和することができる。


 それに近くに安心できる人がいてほしいという、その気持ちは他の子だって同じはずなのだ。


 親たちにも客席から見たりするだけでなく、自分が子どものあそびに参加することによって、よりわかりやすく普段の保育内容を伝えることができると考えたのだ。




 そして迎えた運動会当日。


 三匹の子ぶたごっこは、親参加型で行われ無事に終わった。


 やっぱり運動会はどうしても枢ちゃんにとって心から楽しめる活動といえるわけじゃないけど、お母さんに抱っこされながら逃げる枢ちゃんが微笑んだ瞬間があって、わたしはそれを見逃さなかった。


 お母さんと手を繋いでオオカミから逃げる子もいれば、枢ちゃんのようにお母さんに抱っこしてもらって逃げる子もいた。


 なんとかみんなが無理せず楽しく参加できる運動会というものを成立させれたと思う。


 運動会が終わり親と子どもたちが帰ったあとの公園で、職員たちでテントやブルーシートの後片付けをせっせとする中、西山先生がとなりでこう呟いた。


 「はぁ。運動会…、あれで良かったのかな。でも、なんとかなって良かったね…」


 疲れが目立つ表情を覗かせる西山先生に、「はい。西山先生もお疲れ様」と労いの声をかけた。


 「ありがとう、朝陽ちゃんもね。正直リハーサルで失敗したときはもうだめだって思ったけど、朝陽ちゃんが同じクラス担当で本当に良かった!朝陽ちゃんは最後まで諦めずに、みんなにとってどういう運動会にしたらいいのか考えててすごいと思った…」


 「いえいえ」


 本当は理依奈さんにだいぶ助けてもらったけど…。心の中でそう呟いた。


 次に西山先生は、自分が思い詰めていた本音をこそっとわたしに教えてくれた。


 「わたしはさ。自分の子が保育園に通っているとき、もっと素敵な運動会をしてくれたらいいのになって気持ちがずっとあったの。だから保護者の人たちが言う、我が子の成長を見て感動できるような素敵な運動会にしてあげたいって思ってた。でも保育士として運動会というものを本気で考えたとき、保護者だけの気持ちじゃなかった。子どもたちの気持ちが一致しないと、運動会はろくに成立しないことがわかった…」


 運動会というものは、期待する親、不安な親、そして子どもたち。


 そのすべての願いを考慮し今回のように工夫しなければならないので、保育士にとっても毎回プレッシャーになるイベントなのだ。


 「親や子ども、いろんな人たちの気持ちを読み解き、それに寄り添ってあげること、わたしには向いてないかも…。自分がなんだか疲れちゃうし。どうしても素敵な運動会を成功させてあげたいって、自分がもともとそういう性格だからなのか、それが価値のあることなんだって思ってしまうんだ。保育ってさ。なにが価値あることなのか複雑すぎてちょっとわからない。だから、わたしは今年度いっぱいで転職しようと思ってる…」


 そう宣言した西山先生は次の四月、新年度が始まるとき、本当にもう保育園にはいなかった。


 今回は運動会を親子参加型という形にしたが、それがどこの保育園でも絶対に正解というわけではない。


 それぞれの保育園の、子ども、親、保育士の思いがあるからだ。


 ただ、わたし個人としては子どもたちが望んでもないのに、大人の見せ物ショーになってしまうような、そういう運動会は正直好きじゃない。


 西山先生が、わたしに言った保育の中でなにが価値のあることなのか。


 その言葉が妙に心の中で引っかかる。


 もう一度、運動会の価値についてよく考えてみる。


 運動会というものは、上手にできた、反対にできなかったからといって、良い保育でも悪い保育でもない。


 子どもたちの保育園生活の中で、やっぱり運動会はただの通過点であって、ものすごく価値のあるものとは言えない。


 それなのにわかりやすいからだと思うけど、妙に大人は運動会のような発表会的なものに価値を置いてしまう傾向がある。


 そんなことよりも…。






 季節は春。


 わたしは去年からの持ち上がりので今四歳児クラスを担当している。


 午前中の主活動で公園に行く前。


 「枢ちゃん、一緒に手繋ご〜!」


 「うん」


 いちばんの親友である駆くんが誘うと、枢ちゃんはにっこり笑って手を繋いだ。


 去年の夏に、手を繋げない枢ちゃんと駆くんでケンカが起きた日のことをふと思い出す。


 保育園生活を積み重ねた結果、今、枢ちゃんの心の中には駆くんがいる。


 そして、駆くんの心の中にも枢ちゃんがいる。


 こういう変化こそ、わたしたち保育士にとって、たしかな結果なのだと思う。


 運動会や生活発表会などの特別な一日を過ごしたくらいでは、このような変化は決して訪れない。


 だからこそ、わたしたち保育士がいちばん価値を置いてがんばるところ。


 それは、日常の保育の積み重ねなのだと思う。


 そこを大切にしていれば、いつかこういう良い結果がついてくる。


 保育士は、子どもたちの素敵な小さな変化に気づかなければならない。


 るんるんで手を繋ぎ公園に向かうふたりの背中を見ていると、思わず目が細くなってしまう。


 枢ちゃんは最近、駆くんと手を繋いで公園に行ってるんですよ。友達の中で笑ってる枢ちゃんを見ると本当に微笑ましいです。


 枢ちゃんのお母さんにも、そういうことをもっと伝えて安心させてあげたい。


 今日もわたしは。


 みんなを笑顔にするための保育を工夫しつづけている。