子どもは、いつでも自分の本当の願いをうまく言葉にできるわけじゃない。


 素直に言いづらいのかもしれないし。


 自分でも本当はどうしたらいいのかなんて、わからないときだってたくさんある。


 でも、そういうことって大人になってもよくあると思う。


 だから、大丈夫。


 そんなこともあるよ。


 そう伝えてあげたい。


 しかし、実際に人は余裕がないとき。


 そんな悠長なことを言ってはいられない。


 ちょっとしたボタンの掛けちがいひとつで、人と人との関係がめちゃくちゃになってしまうことだってある。


 ちょうどわたしも取るに足らないようなことで、そのときの感情に任せて怒ってしまい。


 高校生の頃から付き合っていた彼氏と別れたばかり。


 思い出すとげんなりするので、話を保育に戻そう…。


 保育の場面で、子どもたちが自分の本当の願いを言葉にできないとき。


 わたしはいつも声なき願いに耳を傾けて。


 その子の本当の願いはなんなのか。


 想像してみることにしている。






 わたしの名前は椿朝陽。


 幼い頃、公園で迷子になっているわたしを助けてくれた保育士さんに憧れ、その人のように困っている誰かの力になれるような。


 そんな人になりたくて保育士を目指した。


 そして、保育科のある福祉大学を卒業後。


 市内で運営している、こでまり保育園に就職し働いている。


 これは、そんなわたしが保育士三年目のときの話だ。
 

 職員室で休憩中にスマホをかまっていると、内線で「朝陽ちゃんに話したいことがあって、ちょっと来てほしい」と呼ばれたので、園長室へと足を運んだ。


 「わたしに、なにか用ですか?」


 園長室の扉を開けてすぐ、パソコン作業をしている優しそうな雰囲気の初老の女性に訊ねた。


 園長先生は作業をしてる手を一旦止め、最近老眼になったと言って買い替えた眼鏡を外してこっちを見た。


 「朝陽ちゃん。来てくれてありがと〜!はぁ〜!もともと近眼で遠くが見えなかったけど、今度は老眼で近くも見えづらいの!本当になにこれって感じ!参っちゃうわ〜!」


 こうやって急にわたしを呼び出し世間話をしてくる園長先生は、決まってなにか厄介な頼み事をしてくるのがいつものパターン。


 「なにか頼み事があるんですよね?」
 

 ストレートにそう訊ねると、園長先生はやけににっこりと微笑んでこう言った。


 「朝陽ちゃん、明日から一週間くらい。ちょっと小町ちゃんの、四歳児クラスのピンチヒッターをやってあげてちょうだい!今、クラスが困ったことになってるみたいなのよ」


 「たしか後藤先生が不在なんですっけ?」


 「そうそう。後藤ちゃん、腰のヘルニアの手術でお休みなのよ〜。手術が終わったあとも、すぐには仕事復帰できそうもないの。とりあえず、お試しで一週間のピンチヒッターをお願い!」


 申し訳なさそうな顔をしながら、ぱちんと手を合わせて頭を下げる園長先生。


 「はぁ…。わかりました」


 「ありがとう、朝陽ちゃん!あ、そうだ!今度職員室にウォーターサーバーでも置こうかしら!みんな喜ぶかなぁ〜?」


 「そういう機嫌取りはいいから、職員を増やしてください。現場には人がぜんぜん足りません」


 「それがいつでも募集してるけど来ないのよ!不思議ね〜」


 嘘をつけ!不思議じゃなくて、原因なんて本当はわかっているくせに…。


 まぁ…。


 みんなやりたくないよね保育士…。


 心の中でそう呟いた。


 一昔前の、子どもとあそぶ優しくて華やかなイメージの保育士像なんて、この令和の時代には残念ながらもうない。


 コスパやタイパを優先する現代人たちに、きつい割に合わない労働だということが完全にバレてしまっているからだ。


 これもSNSのおかげかな…。


 わたしがそんなことを考えて肩を落としていると、園長先生がまたにっこりと笑って言った。


 「とにかく、朝陽ちゃん!小町ちゃんを助けてあげてね!」


 「はい…。わかりました」


 とくにやれない理由もないし、断ることができそうにないので、わたしはせめてもの抵抗で精一杯いやな顔をして返事をした。


 園長先生は、そんなわたしの顔を見て笑っていた。


 小柄でポニーテールが可愛い桜井小町ちゃん。


 彼女は今年からこでまり保育園に入った二十歳の新人保育士。


 学生時代には、生徒会長を任されるほど真面目な性格なのだが、臨機応変が苦手。


 根は悪い子ではないのだけど、ちょっと頑固で不器用なところがある。


 そんな小町ちゃんを、保育士歴三十年であるベテランの後藤先生が一緒に組んでフォローをするはずだった。


 でも腰のヘルニアが悪化して、手術することになってしまったので仕方がない。


 腰痛は保育士の職業病のひとつ。


 ずっと子どもを抱っこしていたり、腰に負荷のかかる姿勢ばかりだとなりやすい。


 わたしも気をつけないと。


 園長先生が困ったことになってると言った通り、最近小町ちゃんの四歳児クラスが落ち着かないらしい。


 子どもたちが不安定になっている。


 小町ちゃんのクラスにいつも入っているパートの保育士さんたちが、そう話しているのを職員室で何度か耳にしたことがある。


 まったく。


 大変なクラスのピンチヒッターを任されてしまったものだ。






 次の日。


 小町ちゃんの四歳児クラスに入ったわたしは、まだ慣れていないので、まずは観察に徹する。


 午前中の主活動がもうすぐ始まる時間だというのに、子どもたちがイライラしていて不安定で怒りやすく、驚くほど落ち着いていなかった。


 狭い保育室の中で走り回って、友達とぶつかってはあっちでケンカ。


 友達の作っているブロックのおもちゃを壊してしまいこっちでケンカ。


 乱立して起こるトラブルに、パート保育士のふたりが対応に追われている。


 「部屋の中で走り回っちゃだめっ!」と、保育士たちの声が飛ぶ。


 すると今度は、走り回っていた子どものひとりが転んで頭を床でぶつけて大泣き。


 おでこに大きなたんこぶができてしまい、わたしはその子の頭に冷えピタを貼って手当てをした。


 うーん。


 そりゃエネルギーがありあまる子どもたちを、雨でもないのに外あそびにも出さず、ずっと部屋の中で篭りっぱなしにさせていたらこうなるよね…。


 こういうとき、保育士がよくとる行動がある。


 ひとつ目は、怒る。


 これはいちばんありがちなのだが、指導としての注意ならまだいいけど、焦って感情に任せて子どもに怒ってしまうのはナンセンス。


 先生の言うことを聞ける子は聞くけど、みんながそうじゃない。


 だからどっちにしろ、また同じトラブルが起こってしまう。


 ふたつ目は、そらす。


 保育士がもっと魅力的な他のあそびを展開することで、子どもたちを惹き寄せ問題行動から遠ざける。


 でも、これも所詮時間稼ぎしかできない。


 みっつ目は、要求を叶える。


 これが集団保育における正解。


 今の状況の場合、子どもたちが身体を動かすあそびをやりたいという要求を出している。


 なのに、それを叶えれる保育が展開されていないので、保育室の中でトラブルが起きてしまっているのだ。


 ならば、公園に行ったり園内のホールや園庭など、子どもたちが身体を思う存分動かすことのできる保育を展開してあげれば、子どもたちはすっきりとあそべるし、トラブルが激減する。


 狭い部屋の中で走り回るより、広い場所のほうが安全で怪我をしないのは当たり前。


 ケンカばかりよりも、楽しくたくさんあそびたい。


 そんな毎日を繰り返すことができれば、友達との関係が良好に深まっていく。


 つまり、良いことのサイクルが大切なのだ。


 子どもの要求を叶えることと、安全を守ることは両立する。


 それが質の高い集団保育だ。


 しかしこのクラスは、なんで今こんな状況になってしまっているのだろう。


 観察をつづけたら、すぐにその原因がわかった。


 クラスの主活動を進めなければならないはずの担任である小町ちゃんが、旬くんというひとりの男の子にずっと付きっきりで折り紙をしているからだ。


 わたしは小町ちゃんと旬くんの会話に耳を傾けた。


 「小町先生〜。ここ早く折って!」


 「旬くんは折り紙得意でしょ!自分でもやってよ!」


 「えー!いやだよ!あ、そこはちがう!こうやるの!」


 「わかったわかった。ねぇ、旬くん。そろそろ公園行こうよ」


 そう言って、一応公園に誘ってみる小町ちゃん。


 「いやっ!行きたくない!」


 旬くんは、小町ちゃんの目も見ずに首を横に振る。


 「なんで?」


 「だって公園行ってもやることなくてつまんないもん。折り紙のほうが楽しい!」


 次に痺れを切らせたクラスメイトの楓くんが、「あー、むかつく!なんで小町先生、旬の言うことばっか聞くんだよ!」


 同じくクラスメイトの琴音ちゃんも「旬のわがまま!きらい!わたしたちは公園行きたいのに!」と、強い言葉をぶつける。


 すると、旬くんは顔を強張らせてそのまま黙り込んだ。


 「ごめんね、楓くん、琴音ちゃん。こうやって付き合ってあげたら、きっと旬くんも満足して公園に行けるから」


 となりで小町ちゃんが、苦笑いをしながらふたりに謝った。


 実は旬くんの両親から。


 うちの旬は保育園への不安が強い。


 いつも家から出るとき「保育園に行きたくない」と大泣きして、本当に困っていると担任は相談されているのだ。


 そんな裏事情があることを、わたしは職員会議で聞いている。


 さて、どうしたものか。


 小町ちゃんは自分が旬くんの要求をがんばって叶えることで、信頼できる保育士として、旬くんや両親に少しでも安心してほしいと熱心になっている様子だ。


 そうやって子どもや親の願いを叶えて、支えてあげたいという気持ちは悪くない。


 しかし、それをやっていると他の子どもたちの要求を叶えることができず、クラス全体としては、落ち着きがなく不安定になってしまっている。


 小町ちゃんは、そんな負のサイクルが起こっていることを認識していない。


 それとも、わかっていても突破口を叩き出せず変えられないのか…。


 結局、その日は保育室に篭りっぱなしで、わたしたちは一日中トラブルに追われた。


 しばらく、そんな毎日がつづいた、ある日。


 休憩室から三人の女性の口論が聞こえてきた。


 小町ちゃんと、パート保育士の今井百合子ちゃんと佐藤美波ちゃんの声だった。


 百合子ちゃんと美波ちゃんは、保育士の夜間専門学校に通う学生。


 いつも昼間はこでまり保育園でアルバイトをして、夜は専門学校で勉強をしている。


 「小町先生が、保育でなにをしたいのかわかりません!」


 そう強い言葉を放ったのは百合子ちゃんだった。


 「旬くんの願いを、ちゃんと本人が納得するまで付き合って叶えてあげたいの!」


 そう自分の意見を伝える小町ちゃん。


 「旬くんの願い叶えるって。じゃあ他の子の願いはどうでもいいんですか?小町先生と旬くんのふたりがずっと折り紙をやってるから、公園にも行けない!他の子どもたちが不安定になっているんですよ!」


 美波ちゃんが、あきらかに怒った口調でそう言った。


 「じゃあ、旬くんの願いは置き去りにするの?無理やり公園に連れてくの?それって子どもの主体性を大切にしてる保育って言えるの?」


 小町ちゃんも、必死にそう反論をした。


 正規職員とパート職員の気持ちのすれちがい。


 きっと、どこの保育園でもよくあることだと思う。


 小町ちゃんが言ったように、保育士というものは基本、子どもたちの一人ひとりの主体性を大切に保育をしている。


 なぜなら、子ども自身が自分の思いを友達の中で主張し、友達と一緒に、自分と相手の気持ちを大切にしながら共同生活を過ごしてほしい。


 その中で豊かな人間関係を学んでいってほしいからだ。


 子どもの主体性を大切にしない保育だと、子どもたちが大人の言いなりになってしまう。


 そうなると子どもは自分で考え工夫することができなくなるし、友達に思いを伝えることが経験不足で苦手になり、自分の思いに気づいて向き合うことすら難しくなってしまうのだ。


 将来、仲間の中で自分の思いを主張する術を、知らない子にはなってほしくない。


 でも今の小町ちゃんは、旬くんの主体性を大切にしているかといったら、わたしはちょっとなにか違和感を感じる。


 ただ保育士が、子どもの言いなりになっているだけのように見えたからだ。


 たしかに、子どもから出てきた願いをひたすらに聞くのが正解のときもある。


 でも、今はなにかがちがう気がするんだよなぁ…。


 一人ひとりの子どもたちの主体性を大切にする保育って、いったいどういうことなのだろうか。


 あらためて自分も考えさせられる。


 とりあえず、誰かの言いなりになるということではない。


 「ふたりのその言い方、なんか怖くない?そんなひどい言い方しないでよ!」


 そう吐き捨てて泣きながら休憩室を飛び出す小町ちゃん。


 開いた扉の向こうには、呆れ果てた百合子ちゃんと美波ちゃんふたりの顔が見える。


 怒っているのだから、言い方が怖くなるのも当然なのだが…。


 これはボタンの掛けちがい。


 小町ちゃんも、百合子ちゃんと美波ちゃんのふたりも、子どもたちの願いを叶えてあげたい。


 その思いは共通している。


 しかし、どうしたらいいのか正解がわからず、両者とも困ってしまっているのだ。


 こういうボタンの掛けちがいがつづくと、大きな溝となり人間関係が壊れていってしまう。


 こんなとき、わたしはどうすればいいか知っている。


 保育でのボタンの掛けちがいは、保育でしか解決できない。


 (はぁ、こういうことか…。園長先生は相変わらず狸だな…)


 ピンチヒッターをやけににこにこ笑顔でお願いしてきたときの、園長先生の顔をふと思い出した。


 わたしはこのクラスの担当保育士じゃないし、大人しくしていようと思ってたけれど、どうやら本当にピンチヒッターをするしかないらしい。






 次の日。


 相変わらず今日も、同じようなクラスの状況。


 本来なら、これから午前の主活動が始まる時間なのに…。


 子どもたちは、ブロック、トランプ、塗り絵などを今日はやっているが…。


 「またブロック作り直すのことになったのお前のせいだぞ!」


 「は?おれお前のブロック壊してないし」


 「今のばば抜き、ずるだったじゃん!ちゃんとやり直して!」


 すぐにあっちこっちでトラブルが起こりそうな予感。


 子どもたちがイライラしていて落ち着かない様子だった。


 普段から悪いサイクルの人間関係が積み上がってしまっていると、このようになにもなくてもトラブルが起きやすいし、人は心が不安定になる。


 そんな毎日じゃつまらないし、周りの仲間も自分自身もつらくなってしまう。


 もっと楽しい人間関係の積み重ね。


 それが大切だと保育で子どもたちに伝えていくのも、保育士の役目だ。


 わたしは、折り紙をしている旬くんと小町ちゃんの机の前に立って言った。


 「今から公園行くよ、旬くん!」


 「いやだ!だって、折り紙やりたいもん!」


 「じゃあ、公園でやればいいじゃん!」


 わたしがそう言ったとき、クラス中のみんなの目が点になった。


 旬くんのとなりに座っている小町ちゃんも、なにを言ってるんだろうと言わんばかりに口を開けたままぽかんとしている。


 たまたま四歳児クラスに画材を借りに来て居合わせた、わたしと同じクラス担任をしている先輩保育士の犬塚悠さんも「また朝陽ちゃんが面白そうなことを言い出してるじゃん」と、うしろでくすくすと笑い出した。


 わたしと旬くんのやりとりはつづく。


 「折り紙なんて公園に持ってっちゃだめじゃん!朝陽先生、怒られるよ!」


 「公園に折り紙を持って行ったらだめって、そんなの誰が決めたの?」


 「誰も言ってないけど…、でも持ってったことないもん!」


 「大丈夫!朝陽先生がいいよって言ってるじゃん!」


 「でも、ゴミになって散らかるじゃん!」


 「それくらい公園から帰るとき、先生たちが気をつければ大丈夫!」


 ここで旬くんも片付ければいいじゃんと言ってしまえば、片付けるのめんどくさいから行かないと返される気がしたので、あえてそういう言い方はしなかった。


 しかし、遊んだあとのゴミのことまで気にするとは…。


 旬くんは周りのことをなにも考えていないわがままな子なわけじゃない。


 自分の中で気になっているなにかがあって、一歩が踏み出せないから公園に行くという選択肢を選べないのだと、わたしはそのとき分析をした。


 このようなことは、どの四歳児でも陥りやすい発達段階の悩みではある。


 赤ちゃんから成長し、安定した歩行を獲得し動きが活発になり、言葉も上手にしゃべっていろんな人とやりとりができるよになった三歳児から、さらに次の段階へと進むとき。


 四歳児は必ず周りの目というものを、ある程度気にするようになる。


 それがきっかけで自分に自信をなくしてしまったり、変に完璧主義っぽく振る舞ってしまうことがある。


 しかしそれは、その子が今まで自分だけの世界しか見えていなかったけれど、見える世界が広がったという成長の証なのだ。


 周りを見る力。


 それはこの先、その子自身が友達を作って、仲間と一緒に生きていくための大切な力なのだ。


 でも年齢ごとの発達というものは、子ども一人ひとりによって必ず幅があるもの。


 だから四歳児になったけれど、うちの子はぜんぜん周りが見えていないと心配することはない。


 発達の姿が早い子もいるし、反対にゆっくりな子もいる。


 その子のペースがあるし、得意不得意もあるのだ。


 そして今の旬くんは、得意な折り紙だけをやることにこだわっていて、なにか気になる理由があって頑なに公園に行くことを拒否している様子。


 それは四歳児の発達段階の姿に、類似する部分がある。


 わたしはそう分析をした。





 結局、旬くんは公園にしぶしぶついてくることになった。


 公園に着いてからも、旬くんを遠目から見守る小町ちゃんは、そわそわとしていて心配そう。


 きっと旬くんが行きたいと自分から言っていないのに、連れてきて本当に大丈夫だったのだろうか。


 これは子どもの主体性を大切にしている保育なのだろうか、などとごちゃごちゃ考えているのだろう。


 他の子どもたちは鬼ごっこをして盛り上がる中、旬くんだけはやることが見つからず、公園の中をふらふらとひとりで歩き回って最後にわたしの前に辿り着いた。


 なぜなら、わたしのリュックの中に折り紙が入っていることを、旬くんは知っているからだ。


 「ねぇ、朝陽先生。折り紙出して!やっぱり公園なんてなにも楽しくない!やりたいこともない!」


 旬くんのその言葉を聞いて、小町ちゃんがやっぱりかと落胆して肩を落とす。


 「いいよ。じゃあ、今日はわたしと折り紙をやろう!」


 リュックから折り紙を出してそう言ったら、旬くんが「え、朝陽先生と?」と首を傾げる。


 「旬くんは、折り紙上手なんでしょ!」


 「おれ、超上手だよ!」


 顔をうつむかせて、少し照れながらそう答えた旬くん。


 「じゃあ、わたしと紙ヒコーキ飛ばしの勝負をしようよ!」


 にこっと微笑んでわたしが勝負を挑むと、「うん!いいよ!」と旬くんは自信満々にうなずいた。


 ルールはわたしが砂利の地面に木の枝で線を引いたところから、どこまで遠くまで飛ばせるかのシンプルな勝負。


 「準備はいい?」


 「うん。いいよ!」


 「行くよ!よーい!どん!」


 わたしの合図と同時に、ふたりで紙ヒコーキを空に飛ばした。


 最初の勝負の結果は、旬くんの圧勝。


 それからわたしは、旬くんに何度も勝負を挑む。


 「あー、また負けた!悔しい!もういっちょ!!」


 「もう何回やっても同じだよ。だって朝陽先生めっちゃ弱いじゃん!」


 そう言いながらもわたしに勝てたことが、まんざらでもない嬉しそうな顔をしている旬くん。


 「朝陽先生にも、よく飛ぶ紙ヒコーキの作り方を教えてよ!じゃないとこの勝負はフェアじゃない!」


 「フェアってなに?」


 「平等って意味!」


 「じゃあ、最初から大人と子どもだから平等じゃないじゃん!」


 「紙ヒコーキの勝負に大人も子どもも関係ないの!」


 四歳児相手に、むきになるわたし。


 「えー。どうしよっかなぁ。じゃあ、おれに一回でも勝てたらねー!」


 「言ったなぁ〜!絶対勝って聞き出すからね!」


 「朝陽先生が勝てるとは思わないけど」


 旬くんがぷっと笑った。


 本当に旬くんの紙ヒコーキはお世辞抜きでよく飛ぶ。


 わたしは何回も勝負を挑んだけれど、結局一回も勝つことができなかった。


 そんなわたしたちのやりとりを遠目から見ていた、楓くんと琴音ちゃんのふたりがこっちに駆け寄って来てこう言った。


 「旬、すげーよ!おれにもその紙ヒコーキの作り方教えてよ!」


 「わたしも知りたい!教えて教えて!」


 楓くんと琴音ちゃんの目は、旬くんの作った紙ヒコーキに興味しんしん。宝石のようにきらきらと輝いている。


 少し間を空けてから、「し、仕方ないな…。いいよ」


 恥ずかしそうに小さな声で旬くんがそう呟いた。


 わたしには勝たなきゃ教えてあげないって言ったくせに。


 友達に聞かれれば快く教えるのね。


 まぁ、その理由はわかるけど。


 わたしは旬くんが、楓くんと琴音ちゃんに紙ヒコーキの作り方を教える様子を微笑ましく見ていた。


 旬くんのよく飛ぶ紙ヒコーキは大人気で、あとからあとから他の子どもたちも旬くんのところにやってきて、作り方を教えてもらっている。


 青空の下、開催された旬くんの紙ヒコーキ教室は大盛況。


 「旬、教えてくれてありがとな!」


 「旬くん、ここはどうやって折るの?」


 「旬くん、この紙ヒコーキ本当によく飛ぶ!すごいよ!」


 いつの間にか他の子どもたちが集まり、旬くんを囲んで紙ヒコーキを作るその光景に目を見張る小町ちゃん。


 わたしは彼女のとなりで呟いた。


 「旬くんの、言葉に出すことのできなかった本当のお願い。なにかわかった?」


 「はい。旬くん、本当は友達と遊びたかったんだ…。あんなふうにみんなと関わりたかったんですね…」


 「そう。単純に折り紙がやりたいから、公園に行くのが嫌なわけじゃなかった。子どもが言った言葉だけが、いつでも本当の願いとは限らない。保育士はね。声なき願いにも気づいて、それを叶える工夫をしなきゃならない」


 結果こうなると、最初から全部をわかっていて狙ってやったわけじゃない。


 今日は旬くんが得意で大好きな折り紙を起点とし、みんなが行きたいという公園。


 そのどちらの願いも叶えることで、こうやって旬くんがみんなと楽しく繋がっていく保育を成立させることができた。


 これがうまくいく日もあるし、ぜんぜんうまくいかない日もある。


 それが保育。


 子どもたち一人ひとりの主体性を、本当に大切にしたいのなら。


 子どもたちの見えやすい表面的な部分だけじゃなくて、内面的な声なき願いにも耳を傾け、みんなの願いを叶える保育を工夫しつづける必要がある。


 それがちゃんとできたり。


 たとえ失敗したとしても反省を次に活かし、目の前の子どもたちの願いに対し、真摯にがんばる。


 それがわたしたち保育士のプロフェッショナルな仕事。


 「小町ちゃん、あとはがんばるんだよ」


 「はい。ありがとうございます。朝陽先輩」


 公園では青空の下、いつまでも子どもたちのにぎやかな笑い声と紙ヒコーキが飛んでいた。






 次の日からわたしは元の自分のクラスに戻ることとなり、それから二週間が過ぎた。


 小町ちゃんは、パートの保育士である百合子ちゃんと美波ちゃんからの信頼をなくしかけていた。


 保育でなくしてしまった信頼は、保育で取り返すしかない。


 そういえば最近は、小町ちゃんのクラスでトラブルが多いという話はあまり聞かなくなった。


 小町ちゃん、うまくやれているのかな…。


 ふとそんなことを考えながら歩く、勤務上がりの帰り道。


 スマホに一通のラインが届く。


 確認してみると、表示されたその通知画面にわたしは一瞬指が止まる。


 【久しぶり。最近、元気してる?】


 蘇轍月。


 わたしの元カレだ。


 別れてから、そろそろ二ヶ月が経とうとしている。


 連絡先を消せば前に進める気がして、でも消せないまま連絡なんてしないのに時間だけが過ぎていた。


 もう連絡を取り合うことなんてないと思っていた彼から、まさかのラインが来たのだ。


 既読をつけてしまったから返さないのも変だと思い、【うん。元気だよ】とだけ返した。


 すぐに返信が来た。


 【今コンビニで肉まん買ったら、朝陽のこと思い出してさ。寒いって言いながら二個買って食べたの覚えてる?】


 ラインを読んで思わずぷっと笑ってしまう。


 寒い冬の日。


 たしか月と仕事上がりに待ち合わせをして会ったときだった。


 お腹が減っていたわたしがコンビニで肉まんを二個買ったら、月が自分のぶんもあると勝手に思い込んでて、そんなことお構いなしにわたしがぺろりと二個とも食べてしまった。


 「えー、めっちゃ欲張りじゃん!二個買ったら、一個は俺のぶんかなって普通思うじゃん!」と、月が腹を抱えて大笑いをした。


 「寒いから肉まん二個食べたかったの!」


 わたしが咄嗟に無理な言い訳をして、ふたりで笑い合った。


 そんな思い出…。


 【思い出すなって言ったら、忘れてくれる?】


 冗談まじりにそう返すと、少し間をおいてから返信が来た。


 【無理そう…】


 少しだけ胸が痛む。


 今、こうやって月とたわいもないやりとりができることを嬉しいと感じる自分がいる。


 でも、好きかと言ったら正直わからない。


 あー、もやもやする。


 大人だって、本当の願いなんてわからないときがある。


 言葉にできないときだってたくさんある。


 きっと、人間ってそういうものなのだと、つくづく思う。