この夜だけは、知らないままでいて

 名前も過去も、全部知らないままでいい。
 ただ、この夜だけは、知らないままでいたい。

 *

 駅のホームは既に静まりかえっている。
 後一駅乗れば、家に着く。
 降りなくてもいいし、降りたことのない駅。
 そんな駅にいる。それが私にできる、精一杯の勇気で、反抗。
 
 「逐一連絡すること」
 「はい」
 「遅くても24時には帰ってくること」
 「はい」
 「何かあったらすぐ電話をかけてきなさい」
 「はい」

 私とお父さんの約束。
 24時までの外出許可なんて、今日が終わったら次はいつもらえるんだろう。
 やっとの思いで説得して入ったサークル。
 ずっと憧れていた外の世界。ずっと憧れていた普通の女の子の生活。私はやっとこの春から普通の女の子になれた。私はほんの数十分前まで、確かに普通の女の子だった。


 *


 「あれ、四ノ宮さん、飲み会くるの珍しくない?」
 
 きた。早速だ。

 「…うん!初めて!」

 明るく言えた。笑って言えた。沢山練習したおかげ。

 「よかった、俺ら四ノ宮さんと話したいと思ってたんだよ!」
 「私らも思ってた!私ゼミも一緒の加藤南美です!」
 「俺は平田俊平!」
 「私は、私は……」
 
 大丈夫よ、練習してきたでしょう?

 「私は、四ノ宮……!」
 「知ってるよ!四ノ宮莉菜ちゃんでしょ?四ノ宮さん有名人だからみんな知ってるよ!」 
 「え……」
 「ちょ、あんたやめなって」
 「あ、ごめん……まあ今日は楽しもうよ!ね!ほら座って!」


 無理やり肩を触られた。拒むほどの勇気もなかった。
 笑って誤魔化せるって、信じたかったのに。
 ふと視線を上げると、みんな私を見ていた。こうなることは想定している。大丈夫。

 「四ノ宮さん」
 「はい」

 話しかけてくれたのはさっき声をかけてくれた加藤南美さんだった。

 「さっき、あいつ失礼なこと言ってごめんね」
 「ううん、大丈夫だよ。……慣れてるし!」
 「そう……?」

 あ、この顔は『可哀想』って顔だ。困り眉に、子犬のような瞳。こちらの状況を憐んで、優しくしている自分に酔っている顔でもある。何度も何度も、私はこの顔を見させられてきた。

 「えー、じゃあみんなグラスを持って!」
 「えっと、今年で三年目!もう飲み会で言ったら去年から何回目か分かんないっすけど、今年もみんな仲良く!元気に!やって行きましょう!」
 「いえーい!!」
 
 私はみんなの掛け声に乗り切れず、グラスを握り直すことしかできなかった。

 「じゃあかんぱーい!!」
 「かんぱーい!!」

 みんなが近くの人とグラスをぶつけ合う。私も隣の女の子に促され、人生で初めて乾杯をした。憧れていた普通の景色に、緊張が止まらなかった。

 「お酒は一杯まで」

 お父さんとの約束は守った。これくらいの約束は守らないとバチが当たりそうだから。
 

 *


 「随分高そうな服着てるね」

 飲み会での出来事を脳内で振り返り、普通の女の子に浸っていたのに、唐突に声をかけられた。彼は私の膝の前でしゃがみ込み、顔を覗き込んできた。私はまるでベンチの背もたれに吸い寄せられたかのように、姿勢を正す。
 
 「もしかして、酔ってる?」
 「酔ってません!一杯しか飲んでないので」
 「へー、ってお姉さん、俺に会ったことある?」
 「……ない、です」
 「うーん……ま、いっか。てかさ、次終電。お嬢様なら終電逃すのはやばいんじゃない?次、ちゃんと乗りなね」

 チャラついた服。太い指輪に、幾つも開いているピアス。
 拳には血がついていて、左目には涙袋から伸びる傷跡がある。まるで狼の引っ掻き傷のよう。
 今まで関わってきたことのない人間。さっきまでの飲み会でも、自分の悪事を自慢げに話している人はいたけれど、彼はきっと本物の悪。でも何故か、恐怖は感じない。不意に肩が触れたり、お酒が進んで距離が近くなった同期の男の子から感じた恐怖を、彼からは感じない。恐怖を感じないどころか、どこか懐かしさを感じる。この声、どこかで……
 

 ーードアが閉まります


 「あーあ、終電、行っちゃったよ。怒られないの?親とかさ」

 私は二つ隣のベンチに腰をかけている彼の元へ行き、彼の膝元でしゃがみ込んだ。ハンカチで彼の拳を拭う。

 「あ!だめだよそんな高そうなハンカチ汚しちゃ。俺弁償できないよ」
 「いいんです、ハンカチは汚れる事が仕事ですから」
 「……電車、ないじゃんどうするの」
 「……」
 「どうする?」
 「……」

 駅員さんがこちらへ向かってきている。ここへ居ても始発が来るのは約5時間後。
 特徴的なメロディーの着信音が鳴る。これはお父さんからだ。24時を回ったのに連絡をしていないから心配をしているに違いない。
 ふと顔を上げると、彼と目が合った。左目の傷跡に似合わない、つぶらな瞳に目が吸い込まれそう。

 「どうして欲しい?」

 私が考えている事が見透かされているみたい。なんだろう、彼には嘘が通じない気がする。なんだろう、この気持ち。
 私はずっと、あの事件があってからずっと、この泥沼にハマった気持ちから抜け出したかった。こんなクソみたいな世界から連れ出して欲しかった。どうしても自力では這い上がれないことを知っているから、他人に連れ出して欲しかった。
 幼い頃に読んだおとぎ話の、みんなが憧れる白馬の王子様なんて待っていない。私は彼みたいな、狼のような悪魔をずっと待っていた気がする。

 生まれて初めての夜ふかし。今日だけは、生まれて初めて、あの家に帰らない日でありたい。過去の出来事を忘れて、うんと遠くへ行ってみたい。

 「……私を、この世界から連れ出してほしい」

 突拍子もないことを言っているのに、彼は何故か笑っていた。ほら、やっぱり狼みたいな悪魔。

 「よし!!じゃあラーメン食いに行くか!」
 「!?!?」

 彼は私の手を引っ張り立ち上がった。大きくて、ゴツゴツした男の子の手。初めて、お父さん以外の手を握り返した。
 

 *


 『沙優ちゃん、今日沙優ちゃんの家に泊まっていることにして欲しいの。詳しいことは明日話すね』
 『お父さん、連絡が遅くなってごめんなさい。今日は沙優ちゃんの家に泊まります。心配しないでください』

 「連絡できた?」

 コンビニの前でタバコを吸う彼を待っている間に私は二人に連絡をした。
 沙優ちゃんは私の幼馴染。前に一回沙優ちゃんのアリバイ工作に協力した事があるからか、直ぐに『了解』の二文字が送られてきた。

 「できました。って言うか、ラーメンってコンビニのですか……」
 「この時間のカップラーメンが世界一美味いって知らない?あ、もしかしてカップラーメン食べた事ない、とか?」
 「……ないです」
 「ま、マジで?!じゃあ今日が記念日ってことか!」
 「記念日?」
 「カップラーメンデビューの、カップラーメン記念日!」
 「……ふっ、なにそれ」

 夜のコンビニって、ちょっとだけ異世界みたいだと思う。眩しい蛍光灯の下、彼が真剣にカップラーメンの棚を見つめている姿は、さっきまで駅で拳に血をつけていた人間とは思えない。

 「これこれ、これが美味いのよ」

 そう言って彼が手にしたものは、やはり見た事がないもので。

 「なにそれって顔してんな〜。これはね、味噌ラーメン。あ、もしかして醤油ラーメンの方が好き?塩もあるけど」
 「……分かりません、自分で選んだ事ないから。と言うか、ラーメン自体あまり食べません」
 「じゃあ今日は自分で選んでみてよ、ほら」

 パッケージがオレンジ色、赤色、白色、どれも違う。どれを選んだら良いのだろう。
 幼い頃に自分の家が周りと比べて裕福なのだと気がついたのは、当時同じクラスだった友達の家に遊びに行った時だった。トイレの数、家具の違い、部屋の広さ。家の違いには当時小学生ながらに酷く驚いたのを覚えている。
 でもそれと同時に、自由の違いも思い知った。自分の宝箱だと言って友達が見せてくれた箱の中には、男の子が遊ぶようなカードやミニカーが入っていて、ふと部屋を見渡すと、私が遊んでみたかったゲームやおもちゃがあった。
 遊ぶおもちゃやぬいぐるみ、髪型から洋服まで。私は用意されたものを身につけるだけ。用意されているもので遊ぶだけ。それが普通だと思っていたけれど、外の世界は違うんだと思った。
 
 「ほら、早く!選んで!」
 「あ、えっと、えっと……」
 「しょーがねーなぁ、じゃあ目瞑って」
 「え?あ、はい」
 「想像して。目の前に黒いドアがあります」
 「はい」
 「ドアを開けると、そこには綺麗なチューリップ畑が広がっていました」
 「はい」
 「赤、オレンジ、白。どの色のチューリップが咲いてた?」
 「うーん、全部……」
 「!!」

 そっと目を開けると、狼のような悪魔は微笑んでいた。

 「ごめんなさい、これじゃ結局選べてない」
 「良いんだよ、選んだよ。全部って選んだ。全部食べよう」

 彼はそう言ってカゴにカップラーメンを三つ入れた。そしてペットボトルのお茶を二つ。レジに行き、お財布を出そうとすると、大きな手で止められた。

 「すみません、買ってもらっちゃって」
 「女の子はそんなこと気にしないんだよ。俺意外とお金あるから!こんな見た目だけど」
 「ありがとう、ございます」

 人生で初めて、男の子に奢ってもらった。コンビニだけど。
 なんだかふわふわした。ただのコンビニだけど。


 *


 少しだけ歩いて、着いたのは公園のベンチ。丁度街灯に照らされていて、深夜なのに夕陽のようにオレンジ色に見える。

 「お、丁度3分たった!もう食べれるよ」

 確かにカップラーメンの蓋がさっきより膨らんでいる気がする。

 「これもう食べれるんですか」
 「そう、美味いから食ってみな」

 蓋を開けると、スープの湯気が視界を曇らせてきた。2人の麺をすする音だけが夜の空気を揺らす。

 「……美味しい、なんだか安心する味がする」
 「だろ?それがカップラーメンの魔力なのよ。それ醤油ラーメンね、はい次味噌」

 彼はまるで飼い犬に餌をやるみたいに私に次から次へと食べさせてくる。こんな見た目なのに面倒見が良さそう。なんだか笑える。
  
 「そういえば、名前何?なんて呼んだらいい?」

 ラーメンを食べながらの唐突な質問だった。
 心臓がドクンと音を立てる。名前を言ったら、この人もきっと私のことを思い出す。そしたらあの同期の子たちと同じように、『可哀想』な目をする。今2人きりでいることを気にして、家に帰れとか言ってきそう。
 
 「名前、ないです」
 
 見え透いた嘘。もっとマシな嘘つけないのかな。って思った次の瞬間、彼はまた微笑んだ。優しい笑顔だった。
 
 「俺、好きな色、青色」
 「え?」
 「お嬢さんは?」
 「私は……ピンクかな」
 「良いね、女の子だ。じゃあ、桃色だからモモちゃんね」
 「モモちゃん……」
 「俺の事はアオでもアオくんでも」
 「じゃあ、アオくんで…」
 「よし、呼び名決まった。これでもっと楽に話せるね。あ、あと敬語じゃなくて良いから。年齢は……まあ言わなくてもいっか」
 「うん……わかった。でもアオくんって寂しそうな色だね」
 「じゃあ、モモ色は?」
 「……春っぽい、あったかい色」
 「ちょうど良いじゃん、似合ってるし、俺に足りない色だ」

 公園の街灯に照らされたアオくんの横顔が、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、寂しそうに見えた。私は、それを知らないふりをした。

 
 *

 
 ラーメンを食べ終えると、急に夜が静まり返った気がした。まるでこの世界には私たち2人しかいないかのように、自動販売機の機械音と、たまに風で揺れるブランコの軋む音だけが響いている。
 アオくんは手元の空になったカップを見つめたまま、何も言わない。さっきまで、なんでもない話をしていたのに、急に黙り込むなんて……私も、言葉を探しているのか、それとも何も話したくないのか、分からないまま時間だけが流れた。
 
 「……歩く?」

 その一言に、救われた気がした。
 私は頷いて、ベンチから立ち上がった。
 公園のゴミ箱に食べ終わったカップを捨てて、片手には飲みきれなかったペットボトルのお茶を持ちながら、横並びで歩く。
 所詮は数時間前に会ったばかりの赤の他人。無言な時間がむず痒い。けれどなぜか嫌な感じはしない。まただ、なんだろうこの気持ち。
 足の長さが違うのに、なぜか自然と歩幅が合う。これがアオくんの優しさ。さっきからずっとアオくんは優しい。見た目によらず、ずっと私を暖かい春の空気のように包み込んでくれている。会ったばかりの時、悪だなんて思ってごめんなさいと心の中でつぶやいた。

 「なあ、」

 不意にアオくんが口を開いた。

 「人に『可哀想だね』って言われるの、ムカつくよな」

 私は思わず足を止めた。

 「これさ、小さい頃にできたんだよ。母親が振り下ろした包丁がカスってできた」

 私に向かって真っ直ぐ話すアオくん。左目の傷跡を指さして、さっき知らないふりをした寂しそうな、子供のような顔をしている。

 「この傷跡見るたびにみんな、『可哀想』って顔してさ、勝手に俺の事情分かった気になって自己満足して……そんな可哀想な俺に手を差し伸べた自分に酔ってさ…」
 「……わかる、わかるよ」

 それだけしか言えなかった。
 でもアオくんは、また優しい顔で微笑んでくれた。

 「今日は一緒に逃げよっか」
 「……うん」

 短い言葉だけでも、ちゃんと伝わった。
 たぶん、今日はそれだけでいいんだと思う。
 今日だけはそれでいい。

 「いいとこ知ってる。連れてってあげる」
 「うん」

 私たちはまた横並びになって歩いた。アオくんはまた歩幅を合わせて歩いてくれた。


 *  


 歩き慣れていない道を、スマホのライトを頼りに進む。
 駅から少し離れているはずなのに、不思議と怖さはない。
 アオくんは定期的に、「疲れてない?」とか「大丈夫?」と私に尋ねる。ほんと、人って見た目によらないって言葉の象徴だと思う。

 「もうすぐ。あとちょっとだけ」

 そう言ってアオくんが指を指した先には、少し開けた草原のような場所があった。
 高台になっていて、視界の先には街の灯りが広がっている。
 その上に、空一面に瞬く星。

 「……きれい……」

 自然に口から溢れた言葉に、アオくんは「だろ?」と笑う。
 その笑顔は、今夜初めて見る無邪気なものだった。

 「昔、好きだったんだ、星」
 「いいよね、きれいだし」
 「父親が好きでさ、よく一緒に見にきてた」
 「ここに?」
 「そう、ほとんど人来ないから穴場なんだ」
 「へぇ、いいねそう言うの。私は……夜に外出なんてしたことなかったからなぁ。今日が初めて。あ、カップラーメンも初めてだし、記念日だらけだ」
 「さすが、お嬢様だな〜」

 アオくんは軽く相槌をした。……分かりやすい人。
 私が自分のことを話しやすいように、まずは自分の弱いところの話をしたんでしょ。私が初対面の人に、『連れ出して』なんて言うくらい、切羽詰まってるって思ったからでしょ。少しでも、楽になって家に帰れるようにしようとしてくれてるんだよね。
 思えば最初から、アオくんには敵わない。
 終電を逃した後、「どうする?」じゃなくて、「どうして欲しい?」と聞いてくれたあの時から、私はアオくんの手のひらの上だと思う。

 「……私さ」

 少しの沈黙の後、星を見上げながら、ポツリと口が開いた。川が流れるみたいに、雪が溶けて水になるみたいに、ごく自然に言葉が出てきた。

 「別に、あの事件のこと、もう引きずってるわけじゃないんだよ」

 アオくんは何も言わず、ただ同じ星を見上げてくれた。

 「私にとっては、ただの『昔のこと』なのに……親も、世間も、『可哀想な子』って決めつけてくる。名前を聞くだけで、あの事を思い出すって。まるで、私が歩く事件現場みたいに扱うの」

 自分でも、どうしてこんな事を言っているのか分からない。知らないままでいて欲しいのに、聞いて欲しい。

 「そりゃ少しね、まだ少しだけ、トラウマみたいに残ってるところはあるの。でもそれ以上に、みんなが私の過去を忘れてくれない。だから、普通になんてなれない。なりたかったのに、なれないの」

 言葉にしてみて、初めて自分がどれだけ苦しかったのかを知った気がする。
 アオくんはさっきみたいな軽い相槌はしなかった。ただ、星空を見つめて、ただ、頷いてくれた。静かな優しさが、とても心地いい。
 
 「私の名前はねー…」

 そのままの勢いで、心地良さのままに、名前を言いかけたその瞬間。
 不意に、アオくんの指先が私の唇にそっと触れた。吐き出しかけた言葉が、指先一枚で、すっと空気の中へ溶けていく。

 「今日だけは、モモちゃん、でしょ」

 その声は、夜風よりも静かで、けれど心の奥まで響く。
 私は小さく頷いて、もう一度空を見上げた。
 星たちは、さっきよりも少しだけ近くに見える。
 名前も、知られたくない過去も、何も言わなくてもアオくんは隣にいてくれる。
 それが、ただただ嬉しかった。

 「……寒くない?」

 アオくんがまた優しさを落としてくれた。

 「ううん、大丈夫」

 そう答えたけれど、本当は少しだけ寒い。けれどそれよりも、この夜、この拳一個分の先にいるアオくんの温度を失いたくないと思った。

 「もう少し歩こうか」
 「うん」

 アオくんが立ち上がるから、私も続いて立ち上がった。私たちの距離は、人一人分になった。

 *


 星の下を歩く。誰もいない、世界に2人きりみたいな道。
 アオくんがポケットからスマホを取り出した。時間の確認だよね。そうだよね、一体今何時なんだろう。……帰りたくないなぁ。

 「……見て」

 夜道に光る明るい画面を見ると、綺麗な太陽の写真だった。

 「すごい、綺麗!」
 「この先に、朝日が綺麗に見える場所があるんだ」
 「朝日?」
 「うん、星が終わる前に、朝を見に行こうよ」

 私は少し考えて、ゆっくりと頷いた。

 たぶん、私が今日帰りたくなかった理由をアオくんはちゃんと分かっている。
 名前も過去も知らないままなのに。ちゃんと私を真っ直ぐ見てくれているんだ。
 そんな人に出会えたことが、なんだか奇跡みたいに思えた。

 そのまま少し歩いていくと、遠くの空がわずかに明るくなり始めているのが見えた。確かに、気がつけば夏の夜は風が吹いて涼しかったのに、少しだけ蒸し暑く感じる。夜明けが、すぐそこまで来ている。

 「……夜が、終わっちゃうね」

 思わず口に出た言葉にアオくんは少し笑って、

 「夜が終わるから、朝が来るんだよ」

 そう呟いた。当たり前で、どこか切なくて、でもあたたかいその言葉に、私は小さく頷いた。


 「ここだ」
 「確かに、ここなら朝日が綺麗に見えそうだね」

 もう既に明るくなり始めている白い空が、よく見える。もう、着いてしまった。

 「ここもお父さんと来たの?」 
 「そう、ごめんな、同じコース回って」
 「いや全然!むしろいいのかなって感じだよ」
 「何が?」
 「だって、素敵な思い出なんでしょう?上書きみたいにならないかな」

 私の言葉に、アオくんはまた少し笑った。

 「…上書きにはならない。ただ、また来てみたかったんだ。やっと来られた」

 ……子供の顔。なんだかアオくんは今、私の目の前で、少し前に進んだ気がする。
 私もきっと、あの朝日を見たら、少しだけ、前に進める気がした。未来の自分を、想像してもいい気がした。

 
 *


 ゆっくりと、空が色づいていく。夜が、終わる。
 さっきまで濃い青色だった空が、白くなって、オレンジと桃色に溶けていく。
 朝日に照らされて、1日着ている洋服が赤とオレンジに染まっていく。
 アオくんの左目の傷跡が、桃色に光って見える。

 「……朝だ」

 アオくんがそう言った声は、どこか名残惜しさと、でも確かに安堵が混ざっていた。私は隣で頷く。何も言葉にしなくても、気持ちはちゃんと届いている気がする。

 あたたかい光が、2人をゆっくり包んでいく。

 「そういえばさ、」
 「ん?」
 「モモちゃん、もう自分で選べるよ。今日、ちゃんと選んだでしょ」
 「え、なんの話?ラーメンなら結局選べなかったけど……」
 「今日、終電逃すって自分で選んでた。本当は最初からもう自分で選べるんだよ。大丈夫、君はもうちゃんと普通の女の子だよ」
 「……!!」

 アオくんのその言葉でハッとした。そして、朝日に照らされている横顔に向かって、小さく頷いた。
 その言葉が、私をそっと、今日の先へと送り出してくれる。
 
 『また明日』なんて言えない今日だけど、それでも今日だけはちゃんと生きられた。私が私として、生きた。それだけで、少しだけ自分を好きになれそう。
 こんなに綺麗な朝日が見られる世界だもん。アオくんみたいな人が生きているこの世の中も、好きになれそうな気がする。

 私の右手とアオくんの左手が触れる。
 私はそっと、手を重ねた。
 アオくんも私の手を握り返したけれど、私たちは知らないふりをした。

 「……もう少し、一緒にいてくれる?」

 アオくんは一瞬だけ目を伏せて、そして笑った。
 その笑顔は、どう見ても狼みたいな悪魔ではない。優しい、本当に優しい笑顔だった。

 「うん。もう少しだけね」
 
 何かが始まる音がした。暖かい手のぬくもりが、そう思わせてくる。
 
 それでも、この夜だけは、知らないままでいよう。

 そして、しばらくした後、私たちは手を離し、駅に向かって歩き始めた。

 名前を知らないまま、過去も語らないまま、
 でも、この夜だけは、確かに貴方と、生きていた。

 私は貴方と生きたこの夜を、きっと忘れない。