世界の最も東にある島国、和国・桜花(おうか)

 首都とされる島と、その島を囲うように存在する四つの島から構成されたその国を、建国の時から統べるは、神の血を引く天子(てんし)。当代の天子が病で崩御された後、速やかに四季渡りが行われた。
 前の天子が崩御し、天子が生前に選定した世継(せいし)が次の天子となる前に、次の世が泰平であることを願う為に行われる四季渡り。酌士(しゃくし)と呼ばれる者が、首都である玉黄(ぎょくおう)から、東青(とうせい)南赤(なんせき)西白(さいはく)北黒(ほくこく)の順に回っていき、各地で祀られた神に酒を振る舞うことを四季渡りと呼んでいる。

 その四季渡りが終わり、世継が次代の天子となる儀式も終えた、とある雨の日のこと。

 今上天子・夏紅(なつくれない)の妃嬪の一人である、夏女御(なつにょうご)の位にある子壱(ねいち)重音(かさね)が、懐妊したとの報せが入る。
 天子の正室にして、天子から誰よりも寵愛されている天子妃(てんしひ)の次に閨に呼ばれ、その天子妃も懐妊中の今、何度も閨に侍っていた夏女御が孕むことも、当然の結果であると言えよう。代替わりしてすぐに伝わった懐妊の報せに、国中が沸いた。
 和国・桜花を統べる天子の性別は、女でも男でも良く、天子の選択制なので生まれた順番も関係ない。国の宝とも言える天子の子──神子(みこ)が二人も生まれるのだ、そのことを記念して、色んなことが各地で行われていた。
 小規模に、大規模に、祭りが開催され、記念紙幣が作られ、妃達の懐妊を言祝(ことほ)ぐ菓子が競うように販売された。
 そんな国民の熱狂は、天子がおわす天子宮(てんしきゅう)奥地に設けられ、厳格に立ち入りが制限されし閉ざされた後宮──花園殿(はなぞのでん)にまで伝わる。
 人の口に戸は立てられない。
 たとえば妃の遣いで、あるいは里帰りをしに、花園殿を出た女官達が、土産と共にその熱狂振りを、人々の噂話を持ち帰ってくるのだ。

「国中が貴女様の懐妊を喜んでいらっしゃるようですよ。──子壱夏女御様」

 雨がよく降る水無月ということで、この日も朝から雨が降っていた。
 夏女御に仕える侍女の赤朽葉(あかくちば)色梨(いろり)が実家から戻ると、夏女御の重音が人払いをし、二人っきりになってすぐに、にこりともせずに色梨がそのように伝えてきた。
 文机に頬杖をつきながら、雨音に耳を澄ませているかのように、重音は瞼を閉じている。腰まで伸びた艶やかな黒髪は三つ編みにして一本に結われ、黒地に一面、吹き荒れる赤い花びらが描かれた着物を纏う華奢な身体の、腹の辺りはまだ目立つほどに膨らんではいなかった。
 桜花人形の如く整った重音の顔立ちは愛らしく、十代半ばの瑞々しさに溢れている。淡く紅を差した小さな口が、ゆっくりと開かれた。

「そんなことより──葬儀は無事に終わったの?」

 他に人がいれば、あまり良い顔をしなかっただろう。腹の中におわす神聖なる天子の子に、そのような話を聞かせるなと。
 だが、人払いはされており、唯一残された色梨に、そんな注意をする様子はなかった。
 特に特徴のない顔に何の感情も浮かべず、色梨は淡々とした声で返事をする。

「はい。と言っても、私と僧侶の二人だけで、他に誰もいない中、何も記されていない墓石の前に立って、僧侶が唱える経に手を揃えていただけですが」
「金子は渡したでしょう?」
「相場より多くいただき、お心遣いに感謝しかありません。墓前に手向ける花を買えました」
「そう。それは」
「墓前には、紫蘭の花を手向けさせてもらいました」

 花の名前を耳にし、重音はゆっくりと瞼を開ける。だが、その黒々とした大きな瞳を、色梨に向けはしなかった。壁を見つめながら重音は色梨に問い掛ける。

「何故、紫蘭なの? こういう時って、百合の花でしょう?」
「そうであるべきだと、分かっておりますが……貴女様の口にできない想いを、花に乗せたく、紫蘭にしました」
「……余計なことを」

 子壱夏女御様、と色梨は静かに重音を呼ぶ。それでも彼女は視線を向けることはなく、再び瞼を閉じた。
 目が合わずとも、色梨は口を噤まない。

「今日は、雨です」
「知っているわ。朝から降っているもの。こんな日に世継様……ああ、もう天子様だったわね、あの方に呼ばれたら面倒ね。こういう時、孕んで良かったと思うわ。まさか身重の女を組み敷くような真似は、さすがにあの方でもしないでしょう。いくら他人の女を盗るような方でも、そこまでの下衆ではないはず」
「今宵は秋更衣(あきこうい)様をお召しになると、先ほど耳にしました」
「あら、今度は女御じゃなくて更衣に手を出したのね。それなら夏更衣(なつこうい)を召すかと思ったけれど」
「更衣の中で、秋更衣様が天子妃様にお顔立ちが似ていらっしゃいますから」
「……そういえば、あの方も私と同じ、子壱の分家の出だったわね。その方も私と同じく、許嫁がいながら見初められてしまったのかしら」
「どうでしょうね。……あの、子壱夏女御様」

 溜め息混じりに色梨は呼び掛けるが、重音は応じない。

「たくさん妻を持っていいと認められて、実際に九人も妻がいるのだから、他にも目を向ければいいのにね。特に、そう、夏更衣なんて期待していたんじゃない? 天子様の名前と同じく、『夏』の更衣なわけだから」
「子壱夏女御様」
「催し物があって呼ばれた際、夏更衣と顔を合わせるとよく不敵に笑われたものよ。彼女、『次は私よ』って目をよくしていたわ。それなのに秋更衣の元に行かれたんじゃ、今頃部屋で荒れているんじゃ」
「──重音様」

 気持ち強めに名前を呼ばれ、重音は口を閉じた。そして瞼を開け、今度はその目を色梨に向ける。
 赤朽葉色梨。
 重音とそう歳の変わらぬ年齢の彼女は、重音が入内する前から、それこそ幼き頃から、重音と共にあった。
 和国・桜花において、名家の一つとして名高い子壱家、その分家である重音の家と、色梨の実家は家格が釣り合い、赤朽葉家の末娘である色梨は重音の侍女に選ばれる。

 そして同時に──赤朽葉家の次男であり、色梨の兄でもある少年、赤朽葉(かがり)が、重音の許嫁に選ばれた。

 重音や色梨よりも年上であった彼は、物静かな青年で、常に微笑みを絶やさず、何かあると重音に寄り添い、彼女の味方であってくれた。
 つまらない男でしょう、とふとした時に彼が口にすることがあったが、重音はそのたびに否定する。彼といると心が落ち着き、彼の微笑みを見ていると胸が高鳴り、たまに直視できなかった。
 あまり表情の変わらない色梨も、三人でいる時は静かに笑うことがあり、それだけでも、重音にはたまらなく嬉しい一時だった。
 重音がいて、色梨がいて、篝がいる。そんな日々が当たり前で、この先の未来もきっと変わらないと、重音は信じて疑わなかったのだ。──今の天子に見初められてしまうまでは。

 愛していた。

 重音は篝を愛していたし、篝も重音を愛しているのだと、肌に感じていた。いずれ腹に宿る子は、篝との子供だけだと思っていた。
 だが、いずれ国を統べる男が、重音を欲しいと言ったのだ。断るなんて選択肢は用意されておらず、重音の入内が決まると篝は遠ざけられる。色梨がこっそり文を届けてくれたが、返事は一通も貰えなかった。
 初めて自分と篝を引き離した男と顔を合わせた時、篝の方がかっこいいと重音は心中で毒吐いた。
 初めて閨に呼ばれてしまった時、逃げ出したくて堪らなかった。そんなことは許されず、連れてかれ、苦痛と嫌悪で上げた悲鳴は嬌声とみなされた。
 初めて他の妃からの悪意を向けられた時は、相手に掴み掛かって怒鳴り散らし、髪の数本引きちぎってやりたかったが、家のことを考えれば下手な行動は取れない。
 ゆっくりと心は死んでいく。声の掛からぬ妃が羨ましかった。召されることなく枯れていき、篝を想いながら息を引き取りたかった。
 けれど、何度も重音は閨に呼ばれた。当時まだ世継妃だった今の天子妃が孕んでしまってからは、その頻度も上がっていく。ああ嫌だ。嫌だ嫌だ。相手をしながら心は拒み、重音は脳裏に、時間が経つごとに徐々にぼやけていく篝の顔を、微笑みを思い浮かべて苦痛に耐えた。

 子壱重音夏女御。──彼女は泣かなかった。

 どれだけの苦痛を感じ、どれだけの怒りを宿し、どれだけ花園殿から逃げ出したいと思ったか。それでも彼女は涙を流さない。彼女は子壱家の娘なのだ、人前で涙を流すような娘に育てられてはいない。
 耐えて、耐えて、耐えて、だが──色梨には全部伝わっていた。
 その心の中では、ずっと、血を流していたことを。

「雨が降っておりますよ、そしてここには、私しかおりません」
「それがどうしたのよ」
「雨が全部消してくれます。だから……だからどうか、今だけは──兄の死を悼んでください」
「……」

 重音の元許嫁である、赤朽葉篝は死んだ。
 大罪を犯して死んだ。
 墓石に名前を刻まれず、まともに葬儀を上げてもらえぬほどの罪。
 その罪状は、神殺し。
 先の天子が崩御し、今の天子が立つ前に行われた四季渡り。その儀式は──必ず、神を殺してしまうことになる。
 旧き神を殺し、新しき神を迎える儀式であり、それを執り行う者は『四季渡りの酌士』と呼ばれ、神が飲めば死ぬ酒を振る舞うよう命じられている。
 そして、四季渡りが終わった後、神を殺した不敬なる大罪人は処刑される決まりとなっていた。
 四季渡りの酌士の選定方法は公表されていないが、重音は色梨から、篝が選ばれてしまったと聞かされた時から、あの男が──現天子・夏紅が選んだのだと分かった。
 一度だけ、たった一度だけ、口にしてしまったのだ。
 閨の中で、篝の名前を。
 あの時の夏紅の顔は、とても忘れられないほどに歪んでいた。
 首を絞められ、問い詰められた。篝とは誰なのかと、何度も、何度も。
 重音はけして余計なことは言わなかった。篝に被害が及ぶような真似をしたくなかった。首を強く強く絞められて、気を失うことになっても、篝のことは言わなかった。
 だが、そんな抵抗は、天子の権力を持ってすれば何の意味もなく、その抵抗が、余計に天子の怒りを買ったのかもしれない。
 赤朽葉篝は死んだ。──子壱重音が殺してしまったのだ。
 愛していたのに。……愛していたのに!

「そんなことは理由にはならないわ」

 色梨の目を真っ直ぐに見ながらそう口にすると、重音は疲れたように文机にもたれた。

「重音様」
「雨が降っているから何よ。涙の跡が、赤くなった目や鼻が、きっと罪を暴き立てるわ」
「重音様」
「──赤朽葉色梨、私は、葬儀が無事に終わったのかを聞きたかっただけよ。余計なことは言わなくていいわ」
「……子壱夏女御様」
「疲れたわ。少し休ませてちょうだい」
「……では、寝る支度をしますので、少しの間お待ちになってください」

 重音はもう何も言わなかった。視線ももう色梨に向けなかった。
 右手をそっと腹に当てる。この中に子供がいるということが、どこか、信じられなかった。
 生まれてくる子供は、自分に似ているだろうか。それとも、あの男に似ているだろうか。
 ──篝に似た子供を生みたかった。
 篝が死んだ後に、自分の腹に宿った我が子。自分から篝を奪った男の子供であるはずだが、嫌悪感がそこまでないのは、その子供が──篝の生まれ変わりであればいいと願っているからだろうか。

『重音様』

 他人の目がある時、篝は重音をそう呼んだ。

『重音様』

 それでも、重音としては、普通に名前を呼んで欲しかった。
 自分が色梨や篝を呼ぶように、

『──重音』

 そう、呼んでほしくて、人気のない所でこっそり呼ばせていた。

『たとえ遠くに離れていても、俺は、重音の傍にずっといますから』

 そんな言葉を掛けられたのはいつだったか。
 長期間彼と離れるような事態になるなど、想像もしていなかったのに。

『重音』

 また、そのように呼んでくれないか。
 愛を込めて、自分の名前を。
 天子は、閨の中で一度も、重音の名前を呼ばない。天子妃の名前で呼んでくる。
 後の世に繋げる為に、神子をたくさん作るのが天子の役目の一つ。天子妃を寵愛するのは構わないが、一人の女が生む子供の数にも限りがある。故に、他の妃とも子供を作ることを義務付けられていた。
 他の女とも子供を作らなければいけないのなら、少しでも正室に似た女を。
 子壱本家の出である天子妃。子壱分家の出である重音と秋更衣。許されるなら、きっと全ての妃を子壱家の娘で揃えたかっただろうが、政治的にもそれは許されない。
 秋更衣のことも、天子妃の名前で呼んでいるのだろうか。似ていなくても、他の妃も天子妃の名前で呼んでいるのだろうか。

『重音』

 ──篝。

『重音』

 ──篝。

 愛しているのは貴方だけよと、そう重音は心の中で呟きながら──心の中で泣き叫びながら、支度を終えた色梨が声を掛けてくるのを静かに待つのだった。