【二十二時半】

 私は財布も家の鍵も持たずに、彼氏と同棲している部屋を飛び出した。
 ポケットの中にはスマホひとつだけ。実家は遠いし、女友達を頼る気にもなれない。
 無一文でひと晩過ごせる場所なんて、会社くらいしか思いつかなかった。私は重い足取りで、数時間前に通った道のりを逆戻りする。
 ビルの警備員と挨拶を交わしてエレベーターに乗った。
 忙しい職場だけど、大きな案件が終わったばかりでこの時間なら、残業している人はいないだろう。そう思っていたのに、薄暗いフロアにひとつだけぽつりと灯りがついていた。
 モニターの前には、見慣れた背中。
「……神谷先輩?」
 私の声に振り向いたのは、やっぱりあの人だった。
 長身でたくましい体に、伸びた黒い髪を後ろでしばった無造作な髪形。モニターの明かりに照らされた、彫りが深くて男らしい顔立ち。
「なんでこんな時間に会社にいるんですか」
 私が問いかけると、先輩は伸びをしながら小さく笑った。
「ん。ちょっと納得いかないところがあって。提出明日の朝だから、少しだけいじってた」
 そう言う彼に近づき、背中越しにモニターをのぞきこむ。
 表示されているのは、編集途中の動画。
 無数のレイヤーとエフェクト。神谷先輩は動画編集ソフトのタイムラインを行ったり来たりしながら、フレーム単位の微調整を重ねていた。
「……このシーンの光だけ、ちょっと浮いてんだよな」
 そんなひとりごとをもらしつつ、キーボードを叩く指は止まらない。
 普通の人なら気にも留めないような違和感を、先輩は当たり前のように拾って修正していく。
 真剣な表情。彼の黒い瞳が、モニターの青白い光を反射していた。
 そんな彼に思わず見とれそうになる。
 仕事中の神谷先輩の横顔が地味に色気があってずるいというのは、この会社で働く女性社員全員の共通認識だ。
「お前こそ、どうした」
 ふいに声をかけられ、はっとした。
「あの、ええと」
 なんて言い訳をしよう。視線を泳がせながら考える。
「か、鍵を無くして部屋に入れなくて」
 私がそう言うと、「嘘が下手だな」と短く言われた。
「なんで……」
「泣きそうな顔してる」
 そのひと言で、こらえていた感情が喉の奥で軋む。
 笑ってごまかそうとしたけど、視界がにじむのを感じて慌てて目を逸らした。
「そんなこと……」
 ないですと否定しようとすると、神谷先輩がパソコンの電源を落とし立ち上がる。
「飲みに行くぞ」
 唐突すぎるその誘いに、私は思わず瞬きをした。
「でも、仕事……」
 私の戸惑いを打ち消すように、彼の言葉がかぶさる。
「仕事も大事だけど、今はお前の方が放っておけない」
 長身の神谷先輩が、私を見下ろしながらそう言った。
 ——ずるい。
 普段はそっけないくせに、こういうときだけちゃんと向き合ってくれるなんて。
 目の奥が熱くなる。泣きたくないのに、泣きそうになる。
「じゃあ、ちょっとだけ……ですよ」
 絞り出すように言うと、先輩は小さく笑い私の頭をぽんとなでた。


【二十二時】

 大きな案件を終え達成感でいっぱいの私は、恋人の大輝と話をしたくて仕方がなかった。
「今回の仕事は来春公開の映画でね。アシスタントとしてだけど、私もコンポジットに携わらせてもらえてて……」
 興奮気味の私とは対照的に、大輝はスマホをいじりながら「へー」とおざなりな相槌を打つ。
「一応スタッフロールに私の名前ものるんだよ。アシスタントコンポジター・中川凛って」
「大袈裟だな」
「だってうれしいんだもん。神谷先輩にも『お前の画作り悪くないよ』って褒めてもらえて――」
 そう言うと、大輝がスマホから視線を上げた。彼の表情がすっと曇る。
「お前、そいつの話ばっかするよな」
 急に部屋の温度が下がった気がした。私は戸惑いながら大輝を見る。
「いや、だって。尊敬する先輩に褒めてもらえたらうれしいでしょ」
「へぇ。尊敬する先輩ね」
 嫌味をこめられた声のトーンに眉をひそめた。
「なにその言い方。浮気でも疑ってるの?」
「そうじゃねぇけど」
 目を合わせずに言った大輝の声は、明らかに不機嫌だった。会話を放棄するようにスマホをいじり出した彼に、むっとして口を開く。
「だいたいさ、浮気するのは大輝でしょ?」
 理性よりも先に感情が言葉を引っぱった。大輝がスマホを置いて私を見る。
「は? またその話かよ」
「またって。自分が何回浮気したと……」
「だからちゃんと謝って、お前も許すって言っただろ。そうやって蒸し返すなよ、めんどくせぇ」
「そんな言い方なくない? 私はショックだったんだからね」
「しょうがないだろ、お前がいつも忙しいから――」
 その瞬間、部屋にピロンと軽い音が鳴った。
 彼のスマホの通知。SNSのメッセージ。
 画面には、髪の長い女の子が手のひらで口もとを隠したかわいらしいアイコン。見知らぬ女の子の名前と、ハートマーク。
〝昨日は会えて嬉しかった♡ また遊ぼうね!〟
 その画面を見下ろしながら、小さく息を吐く。
 怒りとか、悲しみとか、そういう感情じゃなかった。
 ただ、すっと心が冷めていく音が、自分の中に静かに響いた。
「私が忙しいから、こうやっていろんな女の子と連絡を取り合ってるんだ」
 自分でも驚くくらい、その声は低く落ち着いていた。
「ちがっ、これは」
 大輝はなにかを言いかけたけど、聞きたくなかった。
「……もういい」
 その言葉だけを残して、私は立ち上がった。
 上着も羽織らず財布も鍵も持たず、スマホだけを掴んで玄関に向かう。
「ちょっ、おい、どこ行くんだよ!」
 背後からの声に振り返らず、私はドアを開けた。
 夜風が冷たかった。でも、部屋の中より、ずっと呼吸がしやすかった。
 大学時代からの大輝とは長く、付き合って四年になる。
 その間に三回浮気をされた。その回数は私が把握している数ってだけで、実際はもっと多いかもしれないけど。
 そのたびに『魔が差しただけでただの遊びだ』と謝られ、『本当に好きなのは凛だけだ』と抱きしめられた。
 大輝の浮気癖には正直うんざりだし腹が立つけど、別れれば同棲中のあの部屋から引っ越さないといけない。
 忙しい仕事の合間に部屋を探して、家具や家電を揃えて、引っ越しの準備をして……。そう考えるとすべてが面倒になり、結局大輝との関係をずるずると続けてしまう。
 浮気性でときめきもしないけど、恋人がいないよりはまし。そんな打算と妥協で続いていた関係。
 だけど、うろたえる彼を見て、もう無理だと思った。
 ねぇ、大輝。付き合い始めた頃のときめきは、どこに行ってしまったんだろう。
 そう思いながら夜の空を見上げた。行くあてなんて、会社以外思いつかなかった。


【二十三時】

 神谷先輩に連れられて入ったのは、職場の近くにある落ち着いたバーだった。
 薄暗い照明とジャズのBGMが流れる中、並んで座ったカウンターの椅子。
 グラスの氷が静かに音を立てる。私は一息にカクテルをあおり、ぽつりとつぶやいた。
「なんで男って、浮気するんですかね」
 先輩は苦笑しながら、タバコをくわえた。
「あくまで一般的な話だけど」
 長い指でマッチを擦る。手もとに灯った炎に顔を寄せ、ゆっくりと煙を吐き出す。
「恋人と愛を確かめ合うためにするより、その場限りの相手と欲望を解消するためだけにするほうが、気持ちいいってやつもいるんじゃね」
 思わず言葉に詰まり、眉をしかめる。
「……最低」
 神谷先輩は指にタバコを挟んだまま、視線をこちらに向けた。
「あー。お前、恋人としかしたことないんだ?」
「な……っ!」
 頬が熱くなるのを自覚しながら、神谷先輩を睨む。
「経験不足だって言いたいんですか?」
「いや」
 くすっと笑って、先輩はグラスを傾けた。
「そういうところが、お前のいいとこなんじゃね?」
 子ども扱いされているような気がして、むっとする。
 でも、間接照明に照らされた男らしいその横顔が、思わず見とれてしまうほど整っていて、吸い込んだ煙草の煙をくゆらせるしぐさすら絵になって、目が離せなかった。
 タバコと香水の混ざった、独特の匂いがふわりと鼻をかすめる。
 大輝とはまったく違う、余裕と色気に満ちた大人の男。
 心臓が、落ち着かない。
「……でも、『本気で好きなのはお前だけ』って言葉も、嘘じゃないとは思うけどな」
 そう言われ、小さく唇を噛んだ。
 一緒になって大輝を責めてほしかった。最低な男だなって。浮気する男なんてやめておけって。
 私はグラスの中の氷を見つめたまま、悪態をつく。
「神谷先輩も、悪い男ですもんね」
 私がそう言うと、神谷先輩はカウンターに頬杖を付き「なんで?」とこちらを見た。
「富田さんが言ってましたよ。CAさんとの合コンに神谷先輩を連れて行ったら、参加した美女が全員先輩に惚れたって。モテるくせに、特定の相手を作らずふらふら遊び回ってるから迷惑だって」
「……でかい尾ひれがついてんな」
 そう言いながら、先輩は煙を吐き薄く笑った。
「否定はしないんですね」
「否定したところで、お前信じないだろ?」
 その余裕のある言い方に、胸の奥がきゅっと音を立てる。
 タバコの煙ごしに見える先輩の笑みが、まるでこちらの動揺を見透かしているようだった。
 鼓動の音ばかりが、やけに大きく響いた。
 隣に座る彼の腕は、思っていたよりもずっとたくましい。
 大きくて骨ばっていて、でも動きに無駄がなくて――男の人の手だ。そう思った。
 大輝の手はもっと細くて、爪の形が綺麗なところが好きだったけど、先輩の手は掴まれたら簡単には敵わなさそうな、そんな強さを持っていた。
 自分とはまったく違う、男という生き物。
 この人に、この手に触れられたら、どんな気持ちになるんだろう……。そんな想像が勝手にわき上がる。
「……どした?」
 ふいに低い声が耳もとで響いて、はっと我に返る。
 隣にいた先輩がこちらに体を傾けていた。距離が縮まり、心臓が飛び跳ねる。
 その瞬間ふわりと香ったのは、タバコの匂いと微かにスパイシーな香水の香り。
 それが、彼の体温に甘く溶ける。
 私は思わず息を飲む。
 頭がくらくらするほど蠱惑的な夜の香り。彼の吐息まで感じられそうな距離に、動揺が大きくなる。
「……なに。俺のことじっと見てた?」
 くすっと笑った声には、いつもの余裕と、少しだけ意地悪な気配が混じっていた。
 からかわれてるのに、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。
 だめだってわかってるのに。私には恋人がいて、こんなふうにドキドキしてる場合じゃないのに。
 距離を取ろうと思うのに、体がうまく動かなかった。
 香水の匂いが、すぐそばにある。その香りのせいで、理性が少しずつ溶かされていく気がした。
 そのとき、カウンターに置いてあったスマホの画面に明かりが灯る。毎日二十三時半に表示されるように設定しているリマインダー。
 それを見た瞬間、すっと酔いがさめる。
 もう終電の時間が近い。反射的にそう思ってしまった。
 私の視線の動きに気付いた神谷先輩が小さく笑う。
「そろそろ終電か?」
「あ、はい。でも」
 今日は家には帰るつもりはなくて……。そう言おうとしたけれど、神谷先輩は「駅まで送る」とタバコを灰皿に押し付けた。
 ……あぁ、引き止めてくれないんだ。
 浮気するような男のところになんて帰るなよ。神谷先輩がそう言って、私の腕を掴んでくれるんじゃないか。心のどこかでそんな展開を期待していた自分に気付く。
 なに考えているんだろう。神谷先輩のことは尊敬してるけどあくまでコンポジターとしてで、私には大輝という恋人がいるのに。
「ひとりで大丈夫です」
 私がそう答えると、神谷先輩はあっさりと納得する。
「気を付けて帰れよ」
「はい」
 うなずいて立ち上がる。スマホを掴んで「話を聞いてくれてありがとうございました」と頭をさげる。
 そして店を出て行こうとした私の背中に、神谷先輩が声をかけた。
「俺はもう少し飲んでるから、終電に間に合わなかったら戻っておいで」
 その言葉に息をのむ。
 試されてるのかもしれないし、からかわれてるだけかもしれない。
 だけど、胸の奥の心臓が大きく音をたてた。


【二十三時四十五分】

 昼間の熱気は消え、夜の空気はひんやりとしていた。だけど私の頬は熱いままだった。
 駅へと向かう一本道。このまま歩けば終電には十分間に合う。それなのに、なぜか足が進まなかった。
 神谷先輩とのやりとりがよみがえり私の判断を鈍らせる。
 タバコの煙越しの声。香水の香り。男らしい横顔。余裕のある笑い方。
 たぶんあの人は、私だけじゃなく誰にでもああいう思わせぶりなことを言うんだ。
 わかっているのにどうしても『戻っておいで』という言葉が耳から離れない。
 どうしていいのかわからず途方にくれていると、ポケットの中のスマホが震えた。
 もしかして――と勝手に心が期待する。
 慌てて取り出した画面に表示されたのは大輝の名前だった。
〝どこにいる? 財布も鍵も持って行かなかっただろ。とりあえず、どこにいるのか連絡くれ〟
 なにも持たず飛び出した私を心配してくれている。ちゃんと、気遣ってくれている。
 それなのに、どうしてこんなに落胆しているんだろう。
「……私、最低だ」
 期待してた。神谷先輩からの連絡を。
 ひとり立ち尽くし、唇を噛んだ。目の奥がじんわりと熱くなった。

 
【二十四時】

 バーに戻ると、先輩はカウンターでグラスを指先で回していた。
 ドアの音に気づき、ゆっくりとこちらを見る。
「終電、間に合わなかったか?」
 私が無言でうなずくと、先輩が低く笑った。
「お前、嘘下手すぎ」
 その一言だけで、頬が熱くなる。
 グラスを置いた先輩が、すっと立ち上がった。そして、ためらいもなく私の手を取る。
 骨ばった男の人の手。
 大きくて、あたたかくて、逃げ場なんてないと思うほどに強くて。心臓が、破裂しそうなくらい音を立てる。
「悪い子だな」
 囁くような声で言われる。
「彼氏がいるのに、俺みたいな男に引っかかるなんて」
 低く、挑発するような声。それなのに、優しくて。その余裕が、ずるい。
 すべてを見透かすようなまなざしを向けられ、私は小さく息をのんだ。
 ――引き返すなら、今だ。
 そうわかっているのに、私はその手を振りほどくことができなかった。


【二十四時四十分】

 先輩の部屋は、想像していたよりもずっとシンプルで、男の人の匂いがした。余計な物がない分、彼の存在を強く感じてしまう。
「……シャワー、ありがとうございました」
 タオルで髪を抑えながら、私はそろそろとリビングに出る。
 着ているのは、先輩のシャツ。長めの袖は指先まで隠れるし、裾も太ももまで届く。
「ぶかぶかだな」
 ソファに座っていた神谷先輩が、私を見て笑った。
 子ども扱いされてるみたいで、ちょっと悔しい。
「ちゃんと髪、乾かしたか?」
 そう言って手招きされ、私は緊張しながら近づく。
 距離が縮まると、彼の匂いが強くなる。タバコとスパイシーな香水の香り。
 シャツの胸もとを握りしめながら「乾かしましたよ」と答えると、先輩が短く笑った。
「はは。お前から俺の匂いがするの、変な感じ」
 その言葉に、くん、と心臓が引っ張られた気がした。
 まるで、自分がこの人のものになってしまったみたいで、うまく呼吸ができなくなる。
 どうしよう、緊張で神谷先輩の顔が見れない。
 ぎゅっと手のひらを握りしめると、彼の体が離れた。
「俺も浴びてくる。お前は寝室のベッドで寝てろ。俺はリビングのソファを使うから」
 そう言われ、思わず顔を上げた。
「え……?」
 自分でも、なんでそんな声が出たのかわからなかった。
 そんな私を見下ろし、神谷先輩が目を細める。
「なに。俺と一緒に寝たかった?」
 冗談めかして言ったその声が、ひどく意地悪で、ひどく甘かった。
「ち、ちが……っ」
 心臓が大きく跳ねる。口をぱくぱくとさせながら、私はなんとか言い訳を探した。
「だって……先輩、その場限りの相手とするほうが気持ちいいって……」
 声がかすれる。
 それを聞いて、先輩は優しく笑った。
「だからだろ」
 落ち着いたトーンでそう言われ、「え……?」と目を瞬かせる。
「お前みたいなかわいい後輩を、その場限りで抱くほどクズじゃない」
 そう言って、ぽんと私の頭をなでた。
 その手の温度に、心臓が苦しいくらい締めつけられた。
 ――ずるい。そんなことを言われたら、ますます先輩を好きになってしまう。
 
 神谷先輩は私の憧れだった。
 大学時代。たまたま見た映画の光の美しさに胸を打たれた。監督のインタビューを読み漁り、コンポジターという職業があることを知った。
 その映画を担当した映像制作会社でアルバイトとして働き出し、神谷先輩に会った。
 コンポジター・神谷湊。繰り返し見たスタッフロール。何度も名前を目にしたその人が、目の前にいる。
 感激で泣きそうになりながら、神谷さんが担当した映画がきっかけでバイトを始めたと私が言うと、彼は『物好きだな』と笑った。
『こいつ、俺がもらっていい?』
 そのひと言で、私は神谷先輩のアシスタントになった。そしてコンポジットの技術や知識を叩きこまれ、いつの間にか社員になっていた。
 本当は、初めて出会った瞬間から私の心は神谷先輩に奪われていた。

 暗い寝室に入り、明かりをつけないまま彼のベッドに潜り込む。
 神谷先輩の香りに包まれ、大きな手の感触を思い出しながら、ぎゅっと目をつぶった。
 きっと、今夜は眠れない。
 柔らかなベッドがゆっくりと形を失い溶けていく。甘く深い沼に落ちて行くような罪悪感に襲われ、胸が苦しくなった。

 その場限りの浮気を繰り返す大輝と、恋人がいながら神谷先輩を思い続けてきた私。
 罪深いのは、どちらですか。