「じゃあ、そろそろ帰ろうか。お会計する?」
そう言って、樹が伝票に手を伸ばした。がやがやとした居酒屋の店内はうるさいほど賑わっていて、夜が終わるまでにはまだずいぶんと時間があるというのに。
私がなかなか返事をせずにいると、樹は不思議そうな顔で首を傾けた。
「どうかした? 菜緒」
「もう帰るの?」
「もうって……23時だし、そろそろ帰らないと危なくない?」
危ない、というのは、終電を逃してしまう、という意味だ。お互いに実家暮らしである私達の家はここから少し離れたところにあって、電車で1時間ほどかけて帰らなければならない。
タクシーを使うことになれば、金欠大学生にとってかなりの痛手である。だから、樹が焦るのは当たり前のことだ。当たり前のことでは、あるのだけれど。
じいっ、と樹の顔を観察する。
出会った頃に比べたら、樹はずいぶんと大人になった。まあ、私達の出会いは幼稚園生時代にまでさかのぼるのだから、当然だ。
「菜緒。本当に、どうかした?」
幼馴染、同級生、親友。
私達を現在ラベリングする言葉は、きっとそんなもの。
同じ小学校、同じ中学、同じ高校、そして大学まで同じ。きっと鈍い樹は、それが全部偶然だとでも思っているのだろう。
でも私は、そんな関係に満足したことなんて一度もない。
好きなのだ。樹のことが。とんでもなく鈍い上に女心なんて微塵も分からなくて、バレンタインもクリスマスも誕生日さえも研究室にこもっている、この男のことが。
「もう1杯飲もうよ。いいじゃん。こうやって気軽に飲みにこれるのも、あとちょっとだしさ」
私の言葉に、樹は困ったような表情を浮かべた。
「……1杯だけなら」
「決まり! すいませーん、注文いいですか?」
数ヶ月後、私は社会人になって、樹は大学院に進学する。私達は出会ってから初めて、別々の場所で過ごすことになるのだ。
だから。
どう頑張ったって、きっとこのままではいられないから。
今日は絶対、いつもみたいに帰ってなんてあげない。
◆
「……菜緒。終電、なくなっちゃったみたいだけど」
「だね」
結局、1杯ではなく2杯飲んだせいで終電を逃した。計画通りだ。かなり急かされてだめかと思ったけれど、私が帰らなければ、樹が私をおいて帰ることはない。
「まあでも、そろそろ店は出ようか。もうすぐ閉まっちゃうだろうし」
「出てどうする?」
「どうとでもなるでしょ。私達、もう大人なんだから」
会計を済ませ、店の外へ出る。生温い夜風が頬を撫でた。幸いなことに季節は秋で、暑すぎることも、寒すぎることもない。
終電を逃すには絶好の日だ。別に、そこまで計算していたわけではないのだけれど。
「タクシー呼ぶ?」
「お金ないんじゃないの」
「……ないけど。事情を話せば、母さんが貸してくれるだろうし」
「こんな時間におばさん起こすの申し訳ないって」
幼馴染の私達は、当然お互いの親のことも知っている。樹の言う通り、おばさんはこの状況を知ればタクシー代くらい貸してくれるだろう。
確かに、と俯いてしまった樹は明らかに元気がない。私と終電を逃したことがそんなに嫌だったのかと思うと、ちょっぴり腹が立つ。
「……始発まで、どっか行く? ファミレスとか、ネカフェとか。その、ごめん。こんな提案しかできなくて」
「なんで?」
「遅くまでやってるお洒落な店とか全然知らないし、その、金もないし……」
「金欠なのは私も一緒」
でも、となにか言おうとして樹はやめた。つついたってどうせ私の欲しい言葉は出てこないから、これ以上は追及しない。
樹が脳内で自分を誰と比べたのかは知らない。研究で忙しい樹と違って大量にバイト代を稼いでいる同級生かもしれないし、同じ研究室の子が付き合っている社会人彼氏のことかもしれない。
そのどちらだとしても、私は全然、小指の爪ほどの興味だってないのに。
「せっかくだし、ちょっと散歩しない? 歩き疲れたら、適当にどっか入ってもいいし」
「散歩?」
「そう。たまにはいいじゃん。ね? 女一人だと、夜に散歩なんてできないの」
だから樹を頼ってるんだよ、という、私なりのアピールだ。でもたぶん、樹には全然効いていない。
かれこれ10数年、無意味なアピールをし続けてしまった私には分かる。
「ほーら、散歩行くよ。れっつごー!」
酔っ払ったふりをして、樹の腕を強引に掴む。戸惑った顔をしたけれど、樹は私の手を振り払わなかった。いつもそうだ。
樹は私の欲しいものをくれないけれど、私を拒んだことはない。
樹から言ってほしいって、私はずっと思ってた。
でも、もういい。樹が言ってくれないなら、私が言う。いつまでも、待ってばかりの女じゃないんだから。
樹の腕を引っ張って、知らない夜道を進む。駅前は飲食店も多く、遅い時間でもそれなりに栄えていたけれど、少し駅から離れるとすぐにさびれた光景が広がった。
たまにコンビニがあるくらいで、店らしい店はほとんどない。マンションや民家ばかりが並ぶ、穏やかな住宅地だ。
「あ、見て。樹。ここ、小学校じゃない?」
少し歩いたところで、小学校を見つけた。もちろん、私達が通っていた懐かしい小学校ではない。見知らぬ場所の、見知らぬ小学校である。
それでも、なんとなく雰囲気は似ていた。酔っぱらいの目で見れば、なおさら。
「覚えてる? 樹、小学一年生の時は学校行きたくない! って家の前でよく泣いてたんだよ。私が手繋いで一緒に行ってあげたよね。おばさん、超感謝してくれたなぁ」
樹は小さい頃、かなりの人見知りだった。外遊びも嫌いだった樹は、なかなかクラスの男子に馴染めなかったのだ。
「……覚えてるけど、今さら言わなくていいじゃん」
樹がむっとして、唇を一文字に結んだ。この顔は、昔からあんまり変わっていない。
「懐かしいなって思ったの! 小学生の頃の樹、可愛かったよね」
「小学生なんて、今の俺らからしたらみんな可愛いでしょ」
「はは、それは一理どころか、二理はある」
げらげらと笑って、樹の背中を叩く。酔いすぎ、と樹は顔を顰めた。
樹の言う通り、今の私達にとっては大半の小学生が可愛く見えるだろう。でも、私にとっては、今の樹だって可愛い。
私の背なんてとっくに越して、それどころか男子の平均身長を大幅に上回っている樹も、私にとっては可愛いのだ。
その理由はシンプル。恋である。
「校庭に、よく分かんないタイヤの遊具あったの覚えてる? 地面から半分くらい出てたの」
「あったね、そんなの。俺はあんまり、遊んだ記憶ないけど」
「あれって、今の小学校にもあるのかな」
なんとなく気になって、校門に手を伸ばす。しっかりと施錠された門が開くことはなかった。
「残念。久しぶりに遊具で遊ぶのもいいかなって思ったのに」
「完全な部外者なんだから、不審者扱いされるだけだって」
呆れながらも、樹はスマホの地図アプリを起動し、近くにある公園を探してくれた。
「公園ならあるけど、行ってみる?」
「行く」
即答して、樹の案内に従って歩く。私は地図を読むのが苦手だ。だから、地図を見るのはいつも樹の役目。
こんな風に、私達の間には明文化されていない役割分担がいくつもある。
たとえば、映画館や遊びに行く施設の予約は私で、最寄り駅からの経路を確認しておくのは樹だとか。
私はこれから先もずっと、樹との役割分担を他人に譲る気はない。
「ねえ、樹。最近、どう? 研究は忙しい?」
「……まあ。卒論もあるし」
「だよね。でも、修士になったらもっと忙しいんでしょ?」
「たぶん。先輩達見てたら、かなりブラックな研究室だなって思うし」
歩きながら、樹との会話を重ねる。横顔を見れば、樹がどんな表情をしているかくらいは簡単に分かるのだ。
私達の大学では、理系の生徒は8割近くが大学院に進学する。でも、樹はなんとなく大学院への進学を決めた多数の生徒とは違う。
去年の秋、樹が私に教えてくれたのだ。修士だけでなくその先も大学に残って、将来は研究者として生きるのが夢だと。
私は樹と同じ大学に入学するために受験勉強を頑張ったけれど、勉強は好きじゃない。大学だって、単位取得が楽な授業ばかりを受けていた。
さすがにこれ以上はもう、一緒の道を選べないのだと悟った。
「でも樹は、研究好きだもんね」
「……うん」
少しだけ照れくさそうに、樹が頷いた。
物理学科に通う樹は、私にはよく分からない難しいことを研究している。研究内容を教えてほしい、と言って説明してもらったこともあるけれど、正直、ちっとも分からなかった。
でも、きらきらした瞳で研究について語る樹はいつも以上に魅力的で、やっぱり好きだな、と私が感じるには十分だった。
昔からそう。樹は、好きなものには真っ直ぐで、真面目で、誠実。
樹と一緒がいい、なんて理由で進路を決め、なんとなく就活をした私とは全く違う、芯のある人間なのだ。
「菜緒。ついたよ。……なんか、予想以上にさびれた公園だったけど」
「……本当だ」
住宅地の中にあるこじんまりとした公園には、遊具は滑り台とブランコだけだった。その他には、ベンチが2つと自動販売機が設置されている。
昼間は子供達の遊び場になっているのかもしれないけれど、この時間には誰もいない。
「ねえ樹。久しぶりに、ブランコ乗らない?」
「いいよ」
樹の顔は、もうどうにでもなれ、と語っていた。私に付き合ってくれるのが嬉しくて、笑顔で樹を引っ張る。
近寄ると、ブランコの鎖はかなりさびていた。問題はないのだろうけれど、少しだけ心配にはなる。
「樹、立ちこぎできなくて男子にからかわれてた時あったよね」
「あったなぁ。今考えてみれば、ブランコの立ちこぎができないからなんだって感じだけど」
子供の頃の世界は独特だ、と振り返ってみれば分かる。
樹の言うように、ブランコの立ちこぎができるかどうかなんて今は誰も気にしない。足が速い男子がモテるなんてこともないし、女子が連れ立ってトイレに行くなんてこともない。
「でもさ、菜緒。俺、今はもうできるから」
そう言うと、樹はブランコの上に立った。そして、あっさりと立ちこぎを開始する。昔は、ブランコの上に立つことすら怖がっていた樹が。
「どう?」
「酔ってるし危ないよ」
「俺が酒に強いの、知ってるでしょ」
そう答えると、そのまましばらく樹は立ちこぎをしていた。
久しぶりのブランコは楽しいのかもしれない。酔っ払っている自覚がある私は、危ないから立ちこぎなんてしないけれど。
満足するまで立ちこぎをした後、樹はブランコに座った。
「久しぶりにきたら、公園も悪くないかもね」
「じゃあ、次は滑り台でもする?」
「いいね、せっかくだし」
ブランコを下りて、私達は滑り台に向かった。低い滑り台だ。大人の私達が滑ったら、一瞬で終わってしまうだろう。
「……樹は滑り台も、怖がってたよね」
「さすがにこの高さは怖がってなかったって。俺が怖がってたのは、もっとでっかい公園の長い滑り台」
「はは、そうだっけ?」
「そうだから」
ごめんって、と謝ってから滑り始める。呆気ないほど簡単に砂場に落ちてしまった。
ブランコも、滑り台も、小さい頃はもっと特別だった。
子供の頃の私達には、今よりずっとたくさんの特別があった気がする。
大人になるということは、きっとそういうことなのだろう。あと数年もすれば、終電を逃すことだって、全く特別じゃないことになるかもしれない。
「菜緒? 疲れた?」
砂場に座り込んでしまった私を、樹が引っ張り上げてくれた。いつの間にか大きくなった手のひらはかたくて大きくて、男の人の手だな、と思う。
「……ちょっと、疲れたかも」
「やっぱり、タクシー呼ぶ?」
スマホで時間を確認する。もっと時間が過ぎていたかと思ったけれど、まだ1時過ぎだ。始発まではかなり時間がある。
あと数時間散歩を続ける体力も、公園で数時間遊び続ける無邪気さも持ち合わせていない。
「……休憩したい」
「カフェとか? 待って、24時間営業の店が近くにあるか調べるから」
「ち、ちがくてっ!」
勇気を出して、ぎゅっと樹の手を握る。心配そうに私を見つめる樹の瞳は、悔しくなるくらいに優しい。
終電を逃した真夜中の男女2人。
樹はそんなこと、全く意識してくれてないのかな。
「大人が行くところで休憩しようって! そう、言ってる、んだけど……」
飲みに行く前から決めていた。今日は絶対、いつもみたいに終電前に帰らないと。
だから普段は飲まない強い酒を勢いよく何杯も飲んだ。それなのに、緊張で頭がおかしくなりそうだ。
「菜緒。そういうの、男に言わない方がいいよ。まあ、本当に休憩場所としてはありかもしれないけど」
幼い子供に言い聞かせるような口調に、頭の中でなにかが切れた。ぷつん、と音を立てて。
「……樹」
「菜緒?」
「私がどんな気持ちで言ったか、さすがに分かってるんでしょっ!?」
樹は鈍い男だ。
私がクリスマスに恋愛映画を観ようと誘った時も、水族館でお揃いのキーホルダーを買おうと提案した時も、樹が似合うと言ってくれた色の服を買った時も、気づいてくれなかった。
でも樹は、幼馴染の異変が分からないほど、私を見ていないわけじゃない。
私の手が震えていることも、緊張で私の声が上擦ってしまったことも、気づいているはずなのだ。
「……菜緒」
「もういい。元々、自分から言うって決めてたから」
大きく息を吸い込んで、樹を睨みつける。
「私はさ、樹が好きなの。分かる? ホテルに行こうって誘う意味でだからね。そういう意味で、私はずっと樹が好きだった」
直接的な言葉を選べば、鈍いふりを続けることは不可能だ。
だからとことん直接的な言葉で、殴るくらいの勢いで告白してやる。
「いつからか分かる? 小学生の時から! ううん、自覚はしてなかったけどたぶん、幼稚園生の時から。そんなに昔から、私は樹のことが大好きなの!」
酒を飲んでいてよかった。大量の酒を飲んでいなかったら、さすがにここまで大きな声は出せなかった気がする。
「私は樹が大好きだから、付き合いたい。返事は? 分かってるだろうけど、この返事は二択だからね」
曖昧な返事は許さない。その気持ちを込めて、樹の手を強く握る。月明かりに照らされた樹の顔は、むかつくくらい引きつっていた。
「私と付き合うの? 付き合わないの? どっち!?」
怒鳴りながら、涙がこみ上げてくる。だって私、本当はこんな風に告白なんてしたくなかった。
あり得ないって分かってたけど、樹からロマンティックに告白されることを夢見ていたから。
だって樹は私の初恋で、10何年もの間、私は乙女の理想を樹にあてはめて妄想してきたのだ。
でもそんなの、もうどうだっていい。くだらない乙女の理想より、目の前にいる大好きな樹だ。
「……菜緒」
「なに?」
「前も言ったけど、俺、研究者として大学に残りたいって思ってる。卒業する頃にはもう30手前だし、その後だって、安定した職に就けるとは限らない」
そんなことは知っている。私のために樹が夢を諦めてくれる気がないってことも分かってる。
ちょっとだけ悔しいけれど、私はそんな樹が好きだ。
「だからさ……菜緒にとってたぶん俺は、いい相手じゃない。研究室の先輩だって、同級生の彼女とは別れる人ばっかりだし」
「……だから?」
「えっと、だから、その……」
樹が言おうとしていることなんて、簡単に予想がつく。それでもあえて言わせようとしたのは、どうしようもなく腹が立ったからだ。
私のことを考えているかのような言葉ばかりを並べて、実際のところ、私の気持ちには全く寄り添ってくれていない。
こんなことを聞くために、私はわざわざ終電を逃したわけではないのだ。
「……俺なんかと付き合わない方がいいよ。菜緒なら、きっともっといい相手が見つかる」
「そんなこと聞いてない。私が好きか、嫌いかを答えて」
これ以上惨めにさせないで。そんな気持ちを込めて、樹を睨み続ける。樹は数秒間の沈黙の後、ゆっくりと息を吐いた。
「……好きだよ。でも、好きだけじゃどうにもならないことだってある」
樹がそう言った瞬間、私は反射的に樹の頬を叩いていた。それはもう、思いっきり。こんなに力いっぱい誰かを叩いたことなんて、人生で一度もない。
「菜緒……?」
ぽかんとした顔で樹が私を見つめる。先程までの、妙に物分かりがよさそうな、つまんない大人の顔をした樹よりは、今の方がずっとマシだ。
「じゃあ付き合おう、私達」
「菜緒、俺の話聞いてた?」
「聞いてた。聞いてた上で言うね」
すう、と息を吸い込む。夜の生温い空気が腹の中まで入ってきた。
「好きだけじゃどうにもならないとか、そんな、くだらないエモ要素ばっか詰め込んだクソ映画の台詞みたいなこと、言わないでくれる!?」
私達は同い年で、同じ地球に暮らしていて、お互いに健康で。これだけで十分、諦めない理由になる。
突如地球にやってきた巨大イカ星人に襲われたわけでも、地球を救うためにスペースシャトルに乗って宇宙へ行かなきゃいけないわけでもない。
そんな私達が『好きだけじゃどうにもならない』なんて、ただの逃げだ。それはどうにもならないんじゃなくて、どうにかする気がないだけ。
「言っとくけど、私は樹を、将来酒飲んで適当な男に話すような、うすら寒くてくだらない思い出にするつもりないから」
何も言えずにいる樹の胸倉をがしっと掴む。酔いはもう、完全に醒めていた。
「好きなら好きって、それだけでいいの! 難しいことは、後から考えればいいんだから!」
叫びながら告白するなんて、乙女の理想の対極だろう。今日の話をゼミの飲み会ですれば、きっと何割かの人間はドン引きするに違いない。
「……菜緒は、昔から変わんないね。強くて、真っ直ぐだ」
困ったように笑って、樹は私の手をそっと握った。大きな手が、小刻みに震えている。
「菜緒に、ここまで言わせてごめん。……菜緒のこと幸せにする自信がなくて、期待外れだって思われるのが怖くて……情けないよな、俺」
「今さらでしょ。樹が情けないことなんて知ってる」
幼馴染として、ずっと樹のことを見てきたのだ。今さら樹に、頼り甲斐のある彼氏像なんて求めない。
いつもの樹で私の隣にいてくれたら、それだけで十分だ。
「……菜緒」
真剣な声で、樹が私の名前を呼ぶ。
私達が立っているのは、知らない土地の知らない公園。滑り台やブランコではしゃいだせいで、着ている服だって少し汚れている。
夢見た告白のシチュエーションに、こんなものはなかった。
「俺も、菜緒のことが好き。……だから、俺と付き合って。その、菜緒のこと絶対幸せにする! なんて、格好いいことは言えないけど……」
月明かりに照らされた樹の頬が、少しだけ赤く染まっていく。見たことがない顔にどきっとした。
こんなにずっと一緒にいるのにまだ、私の知らない樹の顔があるんだ。
「菜緒のこと、世界で一番大好きな自信はあるよ」
泣きそうなくらい必死な顔で、樹が私を見つめている。
理想通りのシチュエーションじゃなくたって、それだけで、天にのぼれそうなほど幸せだ。
「樹」
ぎゅ、と樹の手を握る。今まで何回も樹の手を握ってきた。
小学校に行きたくないと泣きそうな樹の手も、クラスの男子達に馴染めず落ち込んで一人ぼっちになっていた樹の手も。
でも、彼女として樹の手を握ったのは初めてだ。
「私も、世界で一番樹が大好き。だから私達、世界で一番、幸せな二人になれるに決まってる」
そっと樹の頬に手を伸ばす。菜緒、と名前を呼ばれるより先に、唇を重ねた。初めてのキスは、こんなものか、と言ってしまいたくなるほど呆気ない。
ただの皮膚と皮膚の接触。こんなものに意味を見出すのだから、恋は人をだいぶ浮かれさせるらしい。
「……菜緒」
「行く? ホテル」
「行かない。菜緒のこと、ちゃんと大事にしたいから」
大きな手のひらが、私の頭を優しく撫でてくれた。
出会ってからこれまで、私はずっと大事にされてきたと思う。それでもまだそんな言葉をくれるなんて、樹もたいがい、私のことが大好きなのだろう。
◆
「菜緒、起きて。そろそろ始発の時間」
軽く肩を揺さぶられ、ゆっくりと目を開く。いつの間にか私は、テーブルに突っ伏して眠ってしまっていたらしい。
あの後私達は徒歩で駅前に戻り、二十四時間営業のファーストフード店に入った。終電を逃した酔っぱらいだらけの店は、付き合ったばかりの男女が行く場所としては不適切だっただろう。
けれど楽しかったし、惰性で頼んだポテトは幸せの味がした。
「ありがとう」
「……あとさ、菜緒」
「なに?」
「今日、俺と飲みに行くっておばさんに言ってたでしょ」
「言ったけど?」
大学生にもなって、誰と遊びに行くかをいちいち報告しろ、なんて義務づけられているわけではない。
けれど母とは仲がいいから、会話の流れで樹と飲みに行くことは話してある。
「……俺も、親に言ってたわけ。菜緒と飲み行くって」
「……あ」
私達は顔を見合わせ、同時にふき出した。
どうやら私達は交際初日で、互いの親に朝帰りをしたことがバレてしまったらしい。
「Lime見たら、親からめっちゃきてた。菜緒ちゃんと一緒よね? 帰ってきたら説明してね! だってさ」
慌てて私もスマホを確認する。案の定、母親から同様のメッセージが届いていた。私のお母さんは、樹の母親と仲良しなのだ。
「なんか、帰りにくいね」
「だよね。別に、悪いことなんてしてないのに」
溜息を吐きながらも、樹は立ち上がった。そして、自然な流れで私の手を握る。
「コンビニで二人にお菓子でも買って帰ろっか」
「そういうの、久しぶりだね」
子供の頃の私達は、遊びに夢中になって門限を破ってしまうことがたまにあった。そんな時、コンビニでお菓子を買って帰り、お詫びの品として母親に差し出していたのだ。
当時のお小遣いで買えるお菓子なんてたかが知れていたけれど、しょうがないわね、とお母さん達は笑顔で受け取ってくれた。
懐かしい。
そして今日のことだって、いつかそう感じる日がくるんだろう。
会計を済ませ、二人で駅へ向かう。始発のホームには疲れきった人々が並んでいて、見慣れた駅の光景とは違っていた。
私だって、かなり疲れている。風呂に入っていないから髪がぼさぼさだし、メイクを落としていない顔は脂ぎっている気がする。
でも、笑いたくなるほど身体は軽い。
「樹」
囁くように名前を呼んで、樹の身体を引き寄せる。精一杯の背伸びをして、樹の耳元に口を寄せた。
「私ね、今回は絶対、終電逃すって決めてたんだ」
「それって……」
答え合わせより先に、ホームに電車が入ってきた。
「ほら、乗るよ」
そう言って私は、顔を真っ赤にした樹の手を引っ張った。
そう言って、樹が伝票に手を伸ばした。がやがやとした居酒屋の店内はうるさいほど賑わっていて、夜が終わるまでにはまだずいぶんと時間があるというのに。
私がなかなか返事をせずにいると、樹は不思議そうな顔で首を傾けた。
「どうかした? 菜緒」
「もう帰るの?」
「もうって……23時だし、そろそろ帰らないと危なくない?」
危ない、というのは、終電を逃してしまう、という意味だ。お互いに実家暮らしである私達の家はここから少し離れたところにあって、電車で1時間ほどかけて帰らなければならない。
タクシーを使うことになれば、金欠大学生にとってかなりの痛手である。だから、樹が焦るのは当たり前のことだ。当たり前のことでは、あるのだけれど。
じいっ、と樹の顔を観察する。
出会った頃に比べたら、樹はずいぶんと大人になった。まあ、私達の出会いは幼稚園生時代にまでさかのぼるのだから、当然だ。
「菜緒。本当に、どうかした?」
幼馴染、同級生、親友。
私達を現在ラベリングする言葉は、きっとそんなもの。
同じ小学校、同じ中学、同じ高校、そして大学まで同じ。きっと鈍い樹は、それが全部偶然だとでも思っているのだろう。
でも私は、そんな関係に満足したことなんて一度もない。
好きなのだ。樹のことが。とんでもなく鈍い上に女心なんて微塵も分からなくて、バレンタインもクリスマスも誕生日さえも研究室にこもっている、この男のことが。
「もう1杯飲もうよ。いいじゃん。こうやって気軽に飲みにこれるのも、あとちょっとだしさ」
私の言葉に、樹は困ったような表情を浮かべた。
「……1杯だけなら」
「決まり! すいませーん、注文いいですか?」
数ヶ月後、私は社会人になって、樹は大学院に進学する。私達は出会ってから初めて、別々の場所で過ごすことになるのだ。
だから。
どう頑張ったって、きっとこのままではいられないから。
今日は絶対、いつもみたいに帰ってなんてあげない。
◆
「……菜緒。終電、なくなっちゃったみたいだけど」
「だね」
結局、1杯ではなく2杯飲んだせいで終電を逃した。計画通りだ。かなり急かされてだめかと思ったけれど、私が帰らなければ、樹が私をおいて帰ることはない。
「まあでも、そろそろ店は出ようか。もうすぐ閉まっちゃうだろうし」
「出てどうする?」
「どうとでもなるでしょ。私達、もう大人なんだから」
会計を済ませ、店の外へ出る。生温い夜風が頬を撫でた。幸いなことに季節は秋で、暑すぎることも、寒すぎることもない。
終電を逃すには絶好の日だ。別に、そこまで計算していたわけではないのだけれど。
「タクシー呼ぶ?」
「お金ないんじゃないの」
「……ないけど。事情を話せば、母さんが貸してくれるだろうし」
「こんな時間におばさん起こすの申し訳ないって」
幼馴染の私達は、当然お互いの親のことも知っている。樹の言う通り、おばさんはこの状況を知ればタクシー代くらい貸してくれるだろう。
確かに、と俯いてしまった樹は明らかに元気がない。私と終電を逃したことがそんなに嫌だったのかと思うと、ちょっぴり腹が立つ。
「……始発まで、どっか行く? ファミレスとか、ネカフェとか。その、ごめん。こんな提案しかできなくて」
「なんで?」
「遅くまでやってるお洒落な店とか全然知らないし、その、金もないし……」
「金欠なのは私も一緒」
でも、となにか言おうとして樹はやめた。つついたってどうせ私の欲しい言葉は出てこないから、これ以上は追及しない。
樹が脳内で自分を誰と比べたのかは知らない。研究で忙しい樹と違って大量にバイト代を稼いでいる同級生かもしれないし、同じ研究室の子が付き合っている社会人彼氏のことかもしれない。
そのどちらだとしても、私は全然、小指の爪ほどの興味だってないのに。
「せっかくだし、ちょっと散歩しない? 歩き疲れたら、適当にどっか入ってもいいし」
「散歩?」
「そう。たまにはいいじゃん。ね? 女一人だと、夜に散歩なんてできないの」
だから樹を頼ってるんだよ、という、私なりのアピールだ。でもたぶん、樹には全然効いていない。
かれこれ10数年、無意味なアピールをし続けてしまった私には分かる。
「ほーら、散歩行くよ。れっつごー!」
酔っ払ったふりをして、樹の腕を強引に掴む。戸惑った顔をしたけれど、樹は私の手を振り払わなかった。いつもそうだ。
樹は私の欲しいものをくれないけれど、私を拒んだことはない。
樹から言ってほしいって、私はずっと思ってた。
でも、もういい。樹が言ってくれないなら、私が言う。いつまでも、待ってばかりの女じゃないんだから。
樹の腕を引っ張って、知らない夜道を進む。駅前は飲食店も多く、遅い時間でもそれなりに栄えていたけれど、少し駅から離れるとすぐにさびれた光景が広がった。
たまにコンビニがあるくらいで、店らしい店はほとんどない。マンションや民家ばかりが並ぶ、穏やかな住宅地だ。
「あ、見て。樹。ここ、小学校じゃない?」
少し歩いたところで、小学校を見つけた。もちろん、私達が通っていた懐かしい小学校ではない。見知らぬ場所の、見知らぬ小学校である。
それでも、なんとなく雰囲気は似ていた。酔っぱらいの目で見れば、なおさら。
「覚えてる? 樹、小学一年生の時は学校行きたくない! って家の前でよく泣いてたんだよ。私が手繋いで一緒に行ってあげたよね。おばさん、超感謝してくれたなぁ」
樹は小さい頃、かなりの人見知りだった。外遊びも嫌いだった樹は、なかなかクラスの男子に馴染めなかったのだ。
「……覚えてるけど、今さら言わなくていいじゃん」
樹がむっとして、唇を一文字に結んだ。この顔は、昔からあんまり変わっていない。
「懐かしいなって思ったの! 小学生の頃の樹、可愛かったよね」
「小学生なんて、今の俺らからしたらみんな可愛いでしょ」
「はは、それは一理どころか、二理はある」
げらげらと笑って、樹の背中を叩く。酔いすぎ、と樹は顔を顰めた。
樹の言う通り、今の私達にとっては大半の小学生が可愛く見えるだろう。でも、私にとっては、今の樹だって可愛い。
私の背なんてとっくに越して、それどころか男子の平均身長を大幅に上回っている樹も、私にとっては可愛いのだ。
その理由はシンプル。恋である。
「校庭に、よく分かんないタイヤの遊具あったの覚えてる? 地面から半分くらい出てたの」
「あったね、そんなの。俺はあんまり、遊んだ記憶ないけど」
「あれって、今の小学校にもあるのかな」
なんとなく気になって、校門に手を伸ばす。しっかりと施錠された門が開くことはなかった。
「残念。久しぶりに遊具で遊ぶのもいいかなって思ったのに」
「完全な部外者なんだから、不審者扱いされるだけだって」
呆れながらも、樹はスマホの地図アプリを起動し、近くにある公園を探してくれた。
「公園ならあるけど、行ってみる?」
「行く」
即答して、樹の案内に従って歩く。私は地図を読むのが苦手だ。だから、地図を見るのはいつも樹の役目。
こんな風に、私達の間には明文化されていない役割分担がいくつもある。
たとえば、映画館や遊びに行く施設の予約は私で、最寄り駅からの経路を確認しておくのは樹だとか。
私はこれから先もずっと、樹との役割分担を他人に譲る気はない。
「ねえ、樹。最近、どう? 研究は忙しい?」
「……まあ。卒論もあるし」
「だよね。でも、修士になったらもっと忙しいんでしょ?」
「たぶん。先輩達見てたら、かなりブラックな研究室だなって思うし」
歩きながら、樹との会話を重ねる。横顔を見れば、樹がどんな表情をしているかくらいは簡単に分かるのだ。
私達の大学では、理系の生徒は8割近くが大学院に進学する。でも、樹はなんとなく大学院への進学を決めた多数の生徒とは違う。
去年の秋、樹が私に教えてくれたのだ。修士だけでなくその先も大学に残って、将来は研究者として生きるのが夢だと。
私は樹と同じ大学に入学するために受験勉強を頑張ったけれど、勉強は好きじゃない。大学だって、単位取得が楽な授業ばかりを受けていた。
さすがにこれ以上はもう、一緒の道を選べないのだと悟った。
「でも樹は、研究好きだもんね」
「……うん」
少しだけ照れくさそうに、樹が頷いた。
物理学科に通う樹は、私にはよく分からない難しいことを研究している。研究内容を教えてほしい、と言って説明してもらったこともあるけれど、正直、ちっとも分からなかった。
でも、きらきらした瞳で研究について語る樹はいつも以上に魅力的で、やっぱり好きだな、と私が感じるには十分だった。
昔からそう。樹は、好きなものには真っ直ぐで、真面目で、誠実。
樹と一緒がいい、なんて理由で進路を決め、なんとなく就活をした私とは全く違う、芯のある人間なのだ。
「菜緒。ついたよ。……なんか、予想以上にさびれた公園だったけど」
「……本当だ」
住宅地の中にあるこじんまりとした公園には、遊具は滑り台とブランコだけだった。その他には、ベンチが2つと自動販売機が設置されている。
昼間は子供達の遊び場になっているのかもしれないけれど、この時間には誰もいない。
「ねえ樹。久しぶりに、ブランコ乗らない?」
「いいよ」
樹の顔は、もうどうにでもなれ、と語っていた。私に付き合ってくれるのが嬉しくて、笑顔で樹を引っ張る。
近寄ると、ブランコの鎖はかなりさびていた。問題はないのだろうけれど、少しだけ心配にはなる。
「樹、立ちこぎできなくて男子にからかわれてた時あったよね」
「あったなぁ。今考えてみれば、ブランコの立ちこぎができないからなんだって感じだけど」
子供の頃の世界は独特だ、と振り返ってみれば分かる。
樹の言うように、ブランコの立ちこぎができるかどうかなんて今は誰も気にしない。足が速い男子がモテるなんてこともないし、女子が連れ立ってトイレに行くなんてこともない。
「でもさ、菜緒。俺、今はもうできるから」
そう言うと、樹はブランコの上に立った。そして、あっさりと立ちこぎを開始する。昔は、ブランコの上に立つことすら怖がっていた樹が。
「どう?」
「酔ってるし危ないよ」
「俺が酒に強いの、知ってるでしょ」
そう答えると、そのまましばらく樹は立ちこぎをしていた。
久しぶりのブランコは楽しいのかもしれない。酔っ払っている自覚がある私は、危ないから立ちこぎなんてしないけれど。
満足するまで立ちこぎをした後、樹はブランコに座った。
「久しぶりにきたら、公園も悪くないかもね」
「じゃあ、次は滑り台でもする?」
「いいね、せっかくだし」
ブランコを下りて、私達は滑り台に向かった。低い滑り台だ。大人の私達が滑ったら、一瞬で終わってしまうだろう。
「……樹は滑り台も、怖がってたよね」
「さすがにこの高さは怖がってなかったって。俺が怖がってたのは、もっとでっかい公園の長い滑り台」
「はは、そうだっけ?」
「そうだから」
ごめんって、と謝ってから滑り始める。呆気ないほど簡単に砂場に落ちてしまった。
ブランコも、滑り台も、小さい頃はもっと特別だった。
子供の頃の私達には、今よりずっとたくさんの特別があった気がする。
大人になるということは、きっとそういうことなのだろう。あと数年もすれば、終電を逃すことだって、全く特別じゃないことになるかもしれない。
「菜緒? 疲れた?」
砂場に座り込んでしまった私を、樹が引っ張り上げてくれた。いつの間にか大きくなった手のひらはかたくて大きくて、男の人の手だな、と思う。
「……ちょっと、疲れたかも」
「やっぱり、タクシー呼ぶ?」
スマホで時間を確認する。もっと時間が過ぎていたかと思ったけれど、まだ1時過ぎだ。始発まではかなり時間がある。
あと数時間散歩を続ける体力も、公園で数時間遊び続ける無邪気さも持ち合わせていない。
「……休憩したい」
「カフェとか? 待って、24時間営業の店が近くにあるか調べるから」
「ち、ちがくてっ!」
勇気を出して、ぎゅっと樹の手を握る。心配そうに私を見つめる樹の瞳は、悔しくなるくらいに優しい。
終電を逃した真夜中の男女2人。
樹はそんなこと、全く意識してくれてないのかな。
「大人が行くところで休憩しようって! そう、言ってる、んだけど……」
飲みに行く前から決めていた。今日は絶対、いつもみたいに終電前に帰らないと。
だから普段は飲まない強い酒を勢いよく何杯も飲んだ。それなのに、緊張で頭がおかしくなりそうだ。
「菜緒。そういうの、男に言わない方がいいよ。まあ、本当に休憩場所としてはありかもしれないけど」
幼い子供に言い聞かせるような口調に、頭の中でなにかが切れた。ぷつん、と音を立てて。
「……樹」
「菜緒?」
「私がどんな気持ちで言ったか、さすがに分かってるんでしょっ!?」
樹は鈍い男だ。
私がクリスマスに恋愛映画を観ようと誘った時も、水族館でお揃いのキーホルダーを買おうと提案した時も、樹が似合うと言ってくれた色の服を買った時も、気づいてくれなかった。
でも樹は、幼馴染の異変が分からないほど、私を見ていないわけじゃない。
私の手が震えていることも、緊張で私の声が上擦ってしまったことも、気づいているはずなのだ。
「……菜緒」
「もういい。元々、自分から言うって決めてたから」
大きく息を吸い込んで、樹を睨みつける。
「私はさ、樹が好きなの。分かる? ホテルに行こうって誘う意味でだからね。そういう意味で、私はずっと樹が好きだった」
直接的な言葉を選べば、鈍いふりを続けることは不可能だ。
だからとことん直接的な言葉で、殴るくらいの勢いで告白してやる。
「いつからか分かる? 小学生の時から! ううん、自覚はしてなかったけどたぶん、幼稚園生の時から。そんなに昔から、私は樹のことが大好きなの!」
酒を飲んでいてよかった。大量の酒を飲んでいなかったら、さすがにここまで大きな声は出せなかった気がする。
「私は樹が大好きだから、付き合いたい。返事は? 分かってるだろうけど、この返事は二択だからね」
曖昧な返事は許さない。その気持ちを込めて、樹の手を強く握る。月明かりに照らされた樹の顔は、むかつくくらい引きつっていた。
「私と付き合うの? 付き合わないの? どっち!?」
怒鳴りながら、涙がこみ上げてくる。だって私、本当はこんな風に告白なんてしたくなかった。
あり得ないって分かってたけど、樹からロマンティックに告白されることを夢見ていたから。
だって樹は私の初恋で、10何年もの間、私は乙女の理想を樹にあてはめて妄想してきたのだ。
でもそんなの、もうどうだっていい。くだらない乙女の理想より、目の前にいる大好きな樹だ。
「……菜緒」
「なに?」
「前も言ったけど、俺、研究者として大学に残りたいって思ってる。卒業する頃にはもう30手前だし、その後だって、安定した職に就けるとは限らない」
そんなことは知っている。私のために樹が夢を諦めてくれる気がないってことも分かってる。
ちょっとだけ悔しいけれど、私はそんな樹が好きだ。
「だからさ……菜緒にとってたぶん俺は、いい相手じゃない。研究室の先輩だって、同級生の彼女とは別れる人ばっかりだし」
「……だから?」
「えっと、だから、その……」
樹が言おうとしていることなんて、簡単に予想がつく。それでもあえて言わせようとしたのは、どうしようもなく腹が立ったからだ。
私のことを考えているかのような言葉ばかりを並べて、実際のところ、私の気持ちには全く寄り添ってくれていない。
こんなことを聞くために、私はわざわざ終電を逃したわけではないのだ。
「……俺なんかと付き合わない方がいいよ。菜緒なら、きっともっといい相手が見つかる」
「そんなこと聞いてない。私が好きか、嫌いかを答えて」
これ以上惨めにさせないで。そんな気持ちを込めて、樹を睨み続ける。樹は数秒間の沈黙の後、ゆっくりと息を吐いた。
「……好きだよ。でも、好きだけじゃどうにもならないことだってある」
樹がそう言った瞬間、私は反射的に樹の頬を叩いていた。それはもう、思いっきり。こんなに力いっぱい誰かを叩いたことなんて、人生で一度もない。
「菜緒……?」
ぽかんとした顔で樹が私を見つめる。先程までの、妙に物分かりがよさそうな、つまんない大人の顔をした樹よりは、今の方がずっとマシだ。
「じゃあ付き合おう、私達」
「菜緒、俺の話聞いてた?」
「聞いてた。聞いてた上で言うね」
すう、と息を吸い込む。夜の生温い空気が腹の中まで入ってきた。
「好きだけじゃどうにもならないとか、そんな、くだらないエモ要素ばっか詰め込んだクソ映画の台詞みたいなこと、言わないでくれる!?」
私達は同い年で、同じ地球に暮らしていて、お互いに健康で。これだけで十分、諦めない理由になる。
突如地球にやってきた巨大イカ星人に襲われたわけでも、地球を救うためにスペースシャトルに乗って宇宙へ行かなきゃいけないわけでもない。
そんな私達が『好きだけじゃどうにもならない』なんて、ただの逃げだ。それはどうにもならないんじゃなくて、どうにかする気がないだけ。
「言っとくけど、私は樹を、将来酒飲んで適当な男に話すような、うすら寒くてくだらない思い出にするつもりないから」
何も言えずにいる樹の胸倉をがしっと掴む。酔いはもう、完全に醒めていた。
「好きなら好きって、それだけでいいの! 難しいことは、後から考えればいいんだから!」
叫びながら告白するなんて、乙女の理想の対極だろう。今日の話をゼミの飲み会ですれば、きっと何割かの人間はドン引きするに違いない。
「……菜緒は、昔から変わんないね。強くて、真っ直ぐだ」
困ったように笑って、樹は私の手をそっと握った。大きな手が、小刻みに震えている。
「菜緒に、ここまで言わせてごめん。……菜緒のこと幸せにする自信がなくて、期待外れだって思われるのが怖くて……情けないよな、俺」
「今さらでしょ。樹が情けないことなんて知ってる」
幼馴染として、ずっと樹のことを見てきたのだ。今さら樹に、頼り甲斐のある彼氏像なんて求めない。
いつもの樹で私の隣にいてくれたら、それだけで十分だ。
「……菜緒」
真剣な声で、樹が私の名前を呼ぶ。
私達が立っているのは、知らない土地の知らない公園。滑り台やブランコではしゃいだせいで、着ている服だって少し汚れている。
夢見た告白のシチュエーションに、こんなものはなかった。
「俺も、菜緒のことが好き。……だから、俺と付き合って。その、菜緒のこと絶対幸せにする! なんて、格好いいことは言えないけど……」
月明かりに照らされた樹の頬が、少しだけ赤く染まっていく。見たことがない顔にどきっとした。
こんなにずっと一緒にいるのにまだ、私の知らない樹の顔があるんだ。
「菜緒のこと、世界で一番大好きな自信はあるよ」
泣きそうなくらい必死な顔で、樹が私を見つめている。
理想通りのシチュエーションじゃなくたって、それだけで、天にのぼれそうなほど幸せだ。
「樹」
ぎゅ、と樹の手を握る。今まで何回も樹の手を握ってきた。
小学校に行きたくないと泣きそうな樹の手も、クラスの男子達に馴染めず落ち込んで一人ぼっちになっていた樹の手も。
でも、彼女として樹の手を握ったのは初めてだ。
「私も、世界で一番樹が大好き。だから私達、世界で一番、幸せな二人になれるに決まってる」
そっと樹の頬に手を伸ばす。菜緒、と名前を呼ばれるより先に、唇を重ねた。初めてのキスは、こんなものか、と言ってしまいたくなるほど呆気ない。
ただの皮膚と皮膚の接触。こんなものに意味を見出すのだから、恋は人をだいぶ浮かれさせるらしい。
「……菜緒」
「行く? ホテル」
「行かない。菜緒のこと、ちゃんと大事にしたいから」
大きな手のひらが、私の頭を優しく撫でてくれた。
出会ってからこれまで、私はずっと大事にされてきたと思う。それでもまだそんな言葉をくれるなんて、樹もたいがい、私のことが大好きなのだろう。
◆
「菜緒、起きて。そろそろ始発の時間」
軽く肩を揺さぶられ、ゆっくりと目を開く。いつの間にか私は、テーブルに突っ伏して眠ってしまっていたらしい。
あの後私達は徒歩で駅前に戻り、二十四時間営業のファーストフード店に入った。終電を逃した酔っぱらいだらけの店は、付き合ったばかりの男女が行く場所としては不適切だっただろう。
けれど楽しかったし、惰性で頼んだポテトは幸せの味がした。
「ありがとう」
「……あとさ、菜緒」
「なに?」
「今日、俺と飲みに行くっておばさんに言ってたでしょ」
「言ったけど?」
大学生にもなって、誰と遊びに行くかをいちいち報告しろ、なんて義務づけられているわけではない。
けれど母とは仲がいいから、会話の流れで樹と飲みに行くことは話してある。
「……俺も、親に言ってたわけ。菜緒と飲み行くって」
「……あ」
私達は顔を見合わせ、同時にふき出した。
どうやら私達は交際初日で、互いの親に朝帰りをしたことがバレてしまったらしい。
「Lime見たら、親からめっちゃきてた。菜緒ちゃんと一緒よね? 帰ってきたら説明してね! だってさ」
慌てて私もスマホを確認する。案の定、母親から同様のメッセージが届いていた。私のお母さんは、樹の母親と仲良しなのだ。
「なんか、帰りにくいね」
「だよね。別に、悪いことなんてしてないのに」
溜息を吐きながらも、樹は立ち上がった。そして、自然な流れで私の手を握る。
「コンビニで二人にお菓子でも買って帰ろっか」
「そういうの、久しぶりだね」
子供の頃の私達は、遊びに夢中になって門限を破ってしまうことがたまにあった。そんな時、コンビニでお菓子を買って帰り、お詫びの品として母親に差し出していたのだ。
当時のお小遣いで買えるお菓子なんてたかが知れていたけれど、しょうがないわね、とお母さん達は笑顔で受け取ってくれた。
懐かしい。
そして今日のことだって、いつかそう感じる日がくるんだろう。
会計を済ませ、二人で駅へ向かう。始発のホームには疲れきった人々が並んでいて、見慣れた駅の光景とは違っていた。
私だって、かなり疲れている。風呂に入っていないから髪がぼさぼさだし、メイクを落としていない顔は脂ぎっている気がする。
でも、笑いたくなるほど身体は軽い。
「樹」
囁くように名前を呼んで、樹の身体を引き寄せる。精一杯の背伸びをして、樹の耳元に口を寄せた。
「私ね、今回は絶対、終電逃すって決めてたんだ」
「それって……」
答え合わせより先に、ホームに電車が入ってきた。
「ほら、乗るよ」
そう言って私は、顔を真っ赤にした樹の手を引っ張った。


