「その本、いつも読んでるよね」
冷たい風が吹く夜中の駅のホームで、隣に座る彼女がそう言った。
「小さい頃に、母親がくれたんだ」
僕は言って、真ん中あたりで開いていたその小説をパタンと閉じた。
「何回くらい読み返しているの?」
「どうだろう。 貰った頃から読んでいるから、数え切れないな」
小さい頃といっても、その当時自分が一体何歳だったかは覚えていない。
この小説をくれた母親の顔すら、何故かよく思い出せない。
「どんなお話なの?」
彼女は柔らかな声で言う。心地がいい。
「……記憶をなくした男の子が、たくさんの人に出会って色々なことを知って、記憶を取り戻そうとする話だよ」
主人公が記憶をなくしてしまう物語は、この世の中たくさんある。
そうでなくても、この世の中にはたくさんの物語で溢れかえっている。
物語というものは、読み進めていくうちに感情が揺れて、まるで自身がその物語の主人公になったかのような感覚になってしまうことが多いらしい。
それなら、この小説の物語だって、僕じゃない誰かが読めば感情が揺れて、涙を流してしまうのかもしれない。
僕じゃない、誰かであれば。
「その男の子は、記憶を取り戻せるの?」
意外に、彼女はこの物語に興味を持ったらしい。彼女の長い髪が、冷たい夜風に吹かれてさらりとなびいた。
「この子は……」
「うん」
「死ぬんだ。 記憶を取り戻した、その後に」
僕の言葉を聞いて驚いたのか、彼女のまっすぐ伸びた睫毛が微かに揺れる。
「どうして?」
「……男の子は、ずっと母親に会いたかったんだ。たくさんの優しい人たちに出会って、少しずつ記憶を取り戻していくけれど、何故か母親の顔や声だけが思い出せなかった」
僕は、視線を足元に落として言う。
「男の子が記憶をなくした時から身に付けていた、母親から貰ったであろう小さなペンダントのネックレスだけが、その男の子と母親の記憶だった」
「……思い出せなかったのは、どうして」
彼女はどこか不安げな声で言う。
「殺していたんだ。 その子は、自分の母親を」
ホームの電灯がチカチカと不規則に点滅する。 僕は足元に落ちる僕たちふたりの影を見つめた。
「男の子は、自分で母親を殺したということしか思い出せなかったんだ。 どうして殺してしまったのか、最後に母親と交わした会話はなんだったのか、何も思い出せなかった」
そしてその子は、とうとう自分という人間が分からなくなる。
これまでに出会う人に笑いかけた自分、笑いかけてもらった自分。
誰かと喜びを分かち合った記憶も、悲しさを分かち合った記憶も。
彼にとっては、全て嘘に思えてしまった。
「記憶を失う前の自分と後の自分が、まるで別人に思えてしまって、全て偽りに思えて、その子は自分で自分を殺すんだ」
これまで出会った人たちから、ひっそりと姿を隠して、たったひとり。
「こういう物語なんだ。 説明が下手で、ごめんね」
少しだけバツが悪かった。 下手くそな微笑みを向けて言うと、彼女は首を横に振る。
その時、彼女の胸元で揺れるネックレスが薄暗く灯る電灯に反射して、きらりと光る。なぜか、目が眩む気がした。
「その子は……」
彼女が微かに呟く。 視線は、僕たちふたりの影に向けられていた。
「最期に、何を思い出たんだろう」
そう言う彼女の横顔を見た瞬間、僕は僅かに呼吸を止めた。
さっきまでの僕のように、足元に視線を下げて言う彼女の横顔が、余りにも切なく儚くて、綺麗で。
涙を流している訳でもないのに、まるで泣いているようで。
「……どうしたの?」
不意にこちらを向いた彼女の目が、僕を見た瞬間に驚いたように見開かれた。
「どうして、泣いてるの……?」
「え……?」
彼女の言葉を聞き返した時、自分の手の甲に何か冷たいものがぽたりと落ちた。
「う、わ」
僕は驚いて、咄嗟に自分の頬を拭う。
泣いているのは彼女じゃなくて、僕の方じゃないか。
こんなに悲しい物語を読んでも涙なんか流れなかったくせに、彼女の横顔を見て泣いてしまうなんて。
おかしな奴だ。 きっと、彼女だってそう思ってる。
それなのに、涙は不思議なくらいぼろぼろと止め処なく溢れてきてしまう。
「ご、ごめん」
涙を拭いながら、僕は顔を少し俯かせた。
「謝らなくてもいいのに」
静かな声が聞こえて、涙を拭っていた僕の手が彼女の温かな手に優しく包まれる。
「泣いてるところ、はじめて見た」
どこか微笑んでいるような声色で彼女は言う。
「……泣いたのなんて、久々だ」
最後に涙を流したのは、いつだっただろう。
よく思い出せないけれど、小さな頃だったような気もする。
「手、掴まれてたら拭えない」
彼女の手も、きっと僕の涙で濡れてしまった。
「拭わなくてもいいじゃない」
——ああ、どうしてだろう。
その柔らかな優しい声を聴くと、何故か酷く懐かしい気持ちになるのは。
「泣いてる顔、綺麗ね」
彼女はそう言うと、僕の手を離して自分の首の後ろへと手を回した。
「……男の泣き顔なんて、綺麗じゃないよ」
むしろ、情けないじゃないか。
「そんなことないわ」
伏し目がちに言って、彼女は自分からゆっくりとネックレスを外す。
「誰だって、悲しい表情はどこか綺麗なの」
そして、外したネックレスを手に持ったまま、僕の首へと腕を回した。
不意に距離が近くなり、彼女の細くてまっすぐ伸びた髪がすぐ目の前で揺れる。視線を上げれば、彼女の顔だってすぐ近くにあるのに、僕は視線を下げてしまう。
すると、僕の胸元で彼女のネックレスが微かに光った。
「どうしたの」
「あげる」
「……どうして?」
彼女は、今までとは違う、少しだけ困ったような表情で微笑む。
その顔を見て、何故か僕は唐突に、酷く不安に駆られる。
「あなたには、たくさん涙を流して欲しいの」
彼女は、小さくそう呟く。
「それって、どういう……」
「もう、行かなきゃ」
僕の言葉を遮るように言うと、不意に彼女は立ち上がった。
その時、ふと彼女から視線を逸らして線路の方を見ると、電車が今には不釣り合いな音を鳴らして僕らの目の前へと停まった。
そして、電車の扉が開かれる。
「じゃあ、またね」
彼女はそう言うと、静かに僕のそばから離れる。
どうして、こっちを見てくれないんだ。
「ちょっと、待っ……」
彼女の細い腕を掴もうとしたのに、何故か手が届かない。
彼女は振り返ることなく、そのまま電車に乗り込む。
すると、電車はそれを待っていたかのようにゆっくりと扉を閉めた。
嘘だ。
きっと、“また”なんてない。
もう、彼女とは会えない。
頭の中で、誰かがそう叫ぶ。
「待って、待ってくれ……」
僕は鉛のようにひどく重たい足を引きずって立ち上がる。
だけど、少しずつ彼女と僕の位置がずれていく。
ゆっくりと、彼女が会えない距離に。
「待って……」
手を伸ばした時、少し曇った窓ガラスの向こうで、
彼女が、泣いているような気がした。
「……なんで」
息を飲んで瞬きをした瞬間、僕の目の前から電車が消えていた。
伸ばした僕の手は、行き場をなくして、ただ冷たい風に包まれる。
それでも確かに、僕の胸元には彼女のネックレスが光っている。
もう、居ないはずの存在にしがみついた。
もう、居ないはずの声を聴いた。
それでも確かに、愛おしい存在だった。
「どうして……」
さっきまで隣にいた彼女の空間だけが、まるで綺麗に切り取られてしまったようだ。
僕は、また思い出せなくなるのか。
少しずつ、記憶が欠けていく。
あともう少しで完成するはずだったパズルをぼろぼろと崩していくような。
そんな感覚が、僕を襲う。
また、ひとりぼっちになる。
また、記憶に霧がかかる。
もう、こんなのうんざりだ。
僕は、彼女のネックレスを引き千切った。
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