ネオンが濡れたアスファルトを染めていた。
 通り過ぎるタクシーも少なくなった深夜二時、繁華街の喧騒の名残が、湿った空気のなかにぼんやりと残っている。
 女は足を止め、肩の雨粒を払って、ショットバー〈Yours〉の扉を押した。
 小さな鈴の音とともに、こもった空気が迎え入れる。
 カウンターの中央に、男が一人で座っていた。

「……ここ、空いてますか?」

 女の声に、男はグラスを回す手を止めて頷いた。

「どうぞ。今夜は珍しく、静かですから」

「静かなの、好きです。今日うるさい人ばっかりだったから。上司も、取引先も……自分自身も」

「自分自身ってのは面白いですね」

「一番うるさいの、そこなんです。脳内会議がずっと終わらなくて」

「ほう。では、乾杯でもして、脳内議事録に一時停止を」

「……いいですね。そのフレーズ、いただきます」

 グラスが二つ、マスターの手から静かに差し出された。
 彼女は何を頼むか迷っている。
 そんな顔を見て、男が言う。

「僕はカンパリソーダです。失敗してもダメージが少ないから」

「保険付きの選択、なんですね。私は……よく燃えるやつがいいかな。今日の怒りに火をつけたいので」

「じゃあ、マスター。彼女にはブレイブ・ブルを」

「なにそれ?」

「テキーラとカルーアリキュール。強くて苦いけど、後味はやさしい」

 マスターは無言で調合を始める。
 店内には音楽が、時折途切れるように、ふとした呼吸を挟みながら流れていた。
 彼女は訊いた。

「なんで、そんなにお酒に詳しいんですか?」

「この店に十年通ってると、覚えますよ……それに、一杯目の酒って、その日の気分を語ってる気がするんです」

「じゃあ、私の今日の気分は?」

「ちゃんと頑張って、でもそれじゃ報われない夜、ってところでしょうか」

「御名答」

 グラスが静かに目の前に置かれる。

「乾杯」

「乾杯」

 氷が鳴り、琥珀色が静かに揺れた。

「……あの、さっきから気になってたんですけど」

「はい」

「あなたも、終電、逃しました?」

「ええ。正確に言えば、逃すように歩いていた気がします。……あれに乗ってしまったら、今日を終わらせてしまうから」

 彼女は小さく笑った。

「私も似たようなものです。駅に向かう途中で立ち止まって、ふっと気が抜けて……それで、足がこっちに向かってた」

「こんな時間に、こんなところで偶然出会うって、なんだか不思議ですよね」

「でも、酔って騒いでいる人と話すより、ずっといいです」

「ありがとう」

 男は嬉しそうに言い、彼女は少し身体の向きを男の方へと寄せた。

篠原灯(しのはらあかり)といいます」

片岡亮(かたおかりょう)です」

 名乗り合うことで、夜がグラス一杯分、深くなったような気がした。

* * *

 店を出たのは三時を過ぎた頃だった。
 雨は止んでいた。
 街の灯りはすこしずつ間引かれ、代わりに空がじわりと淡くなりはじめている。

「歩きませんか、少し」

「そうですね……このまま帰るのもったいないですし」

 並んで歩く。
 靴音が静かに響き、車の往来もない道に彼らの会話だけが浮かぶ。

「……ずっと、誰かとこうやって話したかった気がします」

「話してみてわかることって、ありますよね」

「…………亮さんは、恋愛とか、最近はどうですか?」

 不意に尋ねたのは彼女の方だった。
 男は少し口を結んだが、正直に答えた。

「ずっとなかったですね。怖いというか……また誰かと関係をつくるのって、手間と勇気が要るでしょう?」

「わかります。でも、話してるうちに……」

「うん」

「そういうの、どうでもよくなってくること、ありませんか?」

 男は立ち止まり、彼女を見た。

「……灯さんと話してると、だんだんそんな気持ちになってきます」

 夜の空気が、少しだけ柔らかくなる。
 彼女はそれを受け止めるように目を細め、ゆっくりと頷いた。

「私もです。終電には乗らなかったけど、亮さんとこうして会えたこと、よかったなって思っています」

 二人はそのまま、小さな公園のベンチに腰かけた。
 眠る街の中で、だけど目を閉じていられないまま、朝を待っていた。

「あと少しで夜が終わりますね」

「終わってしまいますね」

「でも……夜が終わっても、あなたのことは忘れたくないと思っていますよ」

 彼女がふと、男の手に触れる。
 そのぬくもりは、彼がずっと求めていたものに近いものだった。

 そして——空が白みはじめた。
 ビルの谷間に、夜明けの青がにじみ出す。
 世界が音を取り戻しはじめる頃、彼らの姿は光の輪郭に包まれていた。

「また会えますか?」

「うん。きっと」

 微笑んだ彼女の瞳に、夜と朝とが同時に宿っていた。

 そして二人は、別々の方向へと歩き出した。
 それは終わりではない。むしろ、始まりだった。
 終電を逃した夜から始まった、もう一つの時間。

* * *

 それから数日後──
 終電のアナウンスが、ホームに響いていた。

「まもなく、当駅止まりの電車がまいります……」

 その声に耳を傾けるでもなく、篠原灯は改札を背にして駅前のロータリーに佇んでいた。
 手には小さな紙袋。
 残業帰りの部署の飲み会で、半ば義務的に配られた「感謝チョコ」の余りである。
 灯は、あの夜のことを思い出していた。
 ブレイブ・ブルの熱、雨上がりの街、ベンチで触れた手のぬくもり。
 片岡亮──あの夜限りのつもりが、思いがけず心に残っていた。
 連絡先は、交換しなかった。
 ただ、「また会えますか?」という言葉と、「きっと」という曖昧な約束だけを胸にしまったまま。

 そして今夜も、気づけば終電を逃していたのだった。
 ──また会えたりして。
 そう期待しながら、手に持ったチョコの袋をじっと見つめる。
 かすかな期待を抱きながら歩いた路地の角には、〈Yours〉の扉が、すこしだけ開いて彼女を待っていた。
 灯は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じながら、恐る恐るそのドアを押した。
 チリン、と鈴の音。
 そして──そこには彼がいた。
 カウンターの同じ席、同じグラス。
 彼は驚いた顔をして、そのあと、笑った。

「まさか……」

「また、逃しちゃいました。終電」

「僕もですよ。まったく、懲りないですね。お互い」

 再会の喜びは、グラスを鳴らす前の高揚となって胸に広がった。

「なんだか、夢みたいです」

「うん。連絡先も知らないのに、こうして会えるなんて」

「でも……そのほうが、いいのかも」

「え?」

 片岡はグラスに口をつけたあと、こう語った。

「連絡先も、素性も、よく知らない。だけど、だからこそ、話せることがあるような気がするんです」

 灯はその言葉に、微かな違和感を覚えた。
 前回の別れ際、たしかに彼の目は誠実だった。
 あれは、ただの一夜の温もりではなかったはずだ。

「でも……それって、便利な距離ってことですか?」

「便利っていうか、自由……かな」

 その答えに、彼女の笑みがすっと引いた。

「私、亮さんのこと……もう少し、ちゃんと知りたかったかもしれません」

「灯さん……」

「名前だけの関係って、私はちょっと……寂しいです」

 彼女の声は落ち着いていたが、心のどこかが崩れかけていた。
 亮は言葉を探すように視線を泳がせた。

「ごめんなさい。僕、正直に言うと……また会えるとは思ってなかった。だから、こうして再会できても、どう接したらいいのかわからなくて……」

 灯はグラスをじっと見つめた。

「わたしは……また会えるって信じていましたよ」

 その静かな告白に、二人の間の温度が一度冷えた。
 亮が何かを言いかけたが、言葉は音にはならなかった。

 やがて、彼女が立ち上がった。

「今日は、もう帰ります。タクシー、拾えるといいな」

「灯さん……」

「亮さんは、もう少しここにいてください」

 微笑みながらそう言った彼女の横顔は、どこか遠くにいた。


 夜が明けかけていた。
 灯は、靖国通り沿いを歩いていた。
 空の端がほのかに明るい。オフィス街のビル群が、うっすらと朝の輪郭を帯び始めている。
 街は、何事もなかったかのように目覚めようとしている。

 胸元には、まだ紙袋がある。
 もし、偶然にも再会することができたのなら、彼に渡せるかもしれないと思って持っていたチョコレート。
 渡せなかったその重みが、不思議と冷たかった。
 次に会ったときは、どうすればいい?
 そんな問いを、風がさらっていった。

 そして朝が来た。
 昨夜と、ほとんど変わらない街並みが、今はもう少し遠くに見えた。

* * *

 その夜も、雨が降りそうで降らなかった。
 新宿の高層ビルが、湿った空気に霞んでいた。
 風のない夜だった。
 灯は、残業の帰りにふと時計を見て、今日も終電に間に合わないことに気がついた。
 だが、足は急がなかった。
 むしろ、どこかでそうなることを望んでいた自分に、気づいていたのだった。
 スマートフォンの充電は切れていた。連絡を取ることもできない。
 ただ、自分の身体と心が、あの場所へと導くように動いていった。
 三度目は、さすがにないかもしれない。
 そう思いながらも、彼女の足は自然に、〈Yours〉へ向かっていた。

 扉を押すと、かすかに鈴の音が鳴った。
 灯の目が、カウンターの中央に座るひとりの男をとらえた。
 ──いた。
 同じ席、同じ姿勢。けれど、どこか疲れているようにも見えた。

「……また、終電逃しました」

 その声に、片岡亮は、顔をゆっくりと上げた。

「ああ……お久しぶりです。灯さんもですか」

 笑いながらも、声音はやわらかかった。
 三度目の奇跡に、言葉をどう選べばいいのか、互いに迷っていた。

「私、たぶん……逃したくて、歩いてたかも」

「僕も……です。逃したくて、ここに来ました」

「じゃあ……これは偶然じゃなくて、選んだ奇跡?」

 彼女の言葉に、男はグラスを置いて、頷いた。

「会いたかったです」

 片岡の眼差しはまっすぐだった。
 灯は少しだけ目を伏せた。
 前回、すれ違ってしまった不器用な距離。
 言葉の角度を間違えれば、また同じ結果になる気がして、息をひそめた。

「亮さんは、あのあと、私のこと……どう思ってましたか?」

 男は、一瞬黙ったあと、目を逸らさずに言った。

「ちゃんと、考えてましたよ。連絡先も知らない、名前しか知らない。でも、どうしようもなく、もう一度会いたいって思ってました」

「……でも、何もできなかった」

「ええ。だから、三度目はないかもしれないと思っていました」

「……私もです」

 二人のグラスが、言葉の代わりに音を立てた。

「今日は、何を頼みました?」

「また、カンパリソーダですよ。でも……今夜は、ちょっと弱いかもしれません」

「じゃあ、私も弱めのをお願いしようかな。亮さんの隣に座るだけで、私、十分に酔ってるから」

 男は驚き、そして笑った。

「ずるいですね、それ」

「本音です」

 静かな店内に、ふたりの声と、氷の音だけが鳴っていた。


 午前四時。
 〈Yours〉の外は、静寂の底をうすく照らすような薄明かりに包まれていた。
 並んで歩く二人の肩が、ときおりかすかに触れ合う。

「灯さん」

「はい」

「もし、来週また終電を逃すようなことがあったら……」

「偶然に見せかけて、また来ますよ」

 男は歩みを止めて、まっすぐに灯を見つめた。

「ちゃんと、あなたのことを知りたいです。名前の向こう側にある全部を。今度は、逃さないように」

 灯は、ほっとしたように目を細めた。

「私も。すれ違うの、もう嫌です」

 二人の手が、今度は迷わずに、自然に重なった。
 温度は、前の夜よりも確かだった。


 そして朝が来た。
 空がゆっくりと白み、街に音が戻る前。
 彼らはベンチに並んで座り、肩を寄せていた。
 三度の偶然と、終電を逃した夜のすべてが、ここへ導いていた。
 朝焼けの光が、彼らの前に広がる。
 逃し続けた時間のなかで、ようやく掴んだもの。
 それは、もう逃さないという、確かな想いだった。

* * *

 二人が交際を始めて、三ヶ月が過ぎた。
 とはいえ、明確に何が変わったわけでもない。
 連絡先を交換し、日中にもたまにメッセージを送り合うようになった。
 それでも、二人が最も素直になれるのは、いつだって、終電を逃した夜だった。

「今日も、逃しました」

 そう言って、〈Yours〉の扉を開けると、彼がいつもの席に座っている。

「やあ、灯さん。今日も迷いなく、遅れましたね」

「迷ってません。むしろ、予定通りです」

 二人は笑った。だって、もう、偶然ではないのだから。
 終電を逃した夜は、二人にとっての「約束の時間」であった。

「昼間の私、ほんと別人みたいで嫌になります」

 灯はグラスを揺らしながら呟く。

「なんで?」

「変に愛想振りまいて、メールには絵文字、雑な会議に相づちばかり。疲れてくると、自分ってどれ? ってなるんです」

「わかります」

 亮も静かにうなずいた。

「昼の僕、やたらと理屈っぽい。資料作りながら『こうしたほうが伝わりやすい』って誰かの言葉をなぞるばかり。たぶん、これが“社会人”ってやつなんでしょうけど」

「でもこの店に来ると、ちょっと呼吸し直せる気がして」

「……本当の自分って、終電後にしか出せないのかもしれないですね」

 灯は苦笑しながら言った。

「ダメな大人みたい」

「いいじゃないですか? ダメな自分に恋してくれる人がいるのだから」

 灯はその言葉に、視線を伏せたまま、グラスを傾けた。

「私は……亮さんが、昼間どんな人かより、夜に見せてくれる顔の方が、好きです」

 亮は驚いたように目を見開き、それから照れたように笑った。

「じゃあ、僕はずっと終電を逃し続けないと、ですね」

「二人して、終電に乗れない恋人たち」

 その響きに、ふたりの笑いが静かに重なった。

* * *

 ある夜のこと。
 ふたりは駅のホームで別れた。

「明日は早いんです」

 灯はそう言って、今日は終電に間に合わせて帰ると言った。

「たまには、現実に戻るのもいいかも」

 亮は、行ってらっしゃいと笑いながら言ったが、その晩、ひとりの〈Yours〉は、少し心寒く感じた。


 その翌週、灯から一通のメッセージが届いた。

《明日、また逃してもいい?》

 亮は短く返した。

《ぜひ》

 その夜、ふたりは肩を並べて歩いた。
 タクシーの通らない裏通り。
 誰も急いでいない時間。
 雨が降りそうな空。

「この世界、好きです」

 灯が言った。

「昼の喧騒が嘘みたいで。誰も他人の肩書きで人を見ない。そういう夜のほうが、人を信じられる気がします」

「灯さんは、昼間の自分より、夜の自分が好きですか?」

「うん。昼間より弱いし、よく泣くし、口下手だけど……でも、夜の自分のほうが、ちゃんと好きって言える気がします」

 亮はその言葉を、深く静かに噛みしめるように聞いていた。

「僕もです。でも、夜の灯さんのほうが、まっすぐで、やさしくて、ちょっと毒舌で……好きですよ」

 二人は、少し照れて黙った。
 そしてまた、静かな朝が来ようとしていた。

「亮さん」

「はい」

「一緒に、終電を逃してくれてありがとうございます」

 亮は一歩踏み出して、灯の手を取った。

「毎回、逃すつもりでいますよ……だって、あなたと会えるのですから」

 夜明けの空が、薄いブルーに染まりはじめていた。
 ふたりの影がゆっくりと伸びていく。
 街が動き出す前の、ほんのわずかな時間。
 誰の目も届かないその静けさの中で、ふたりはただ、手を繋いで歩いていた。


 終電を逃した世界。
 そこは、喧騒の外側にある、ほんとうの自分たちが棲む場所だった。
 これからも、何度だって、ここで会う。
 そんな約束を、二人は互いの手の温もりで交わしていたのだった。


< 了 >