講堂の扉を開けると、客席で。
 都木(とき)先輩と春香(はるか)先輩が、すでに僕たちを待っていた。

「なんかね。陽子(ようこ)が先に機器室、全部きれいにしてくれてたんだ」
 都木先輩が、暗くもなく。いや、明るくもない声で。
 静かに、僕たちに告げると。
「だから、ステージにいなかったのね」
 三藤(みふじ)先輩が、そういったあと。
「わざわざひとりで、やるなんて……」
 少し、それは違うだろうと。
 どことなくいさめるような口調で、つぶやいた。

「ま、まぁ。あ、ありがとうございました……」
 どこか違和感を感じながら。僕は、春香先輩にお礼を伝えたものの。
「うん……」
 先輩との会話が、それ以上続かない。


 隣で、波野(なみの)先輩が。
 小さく、ため息をついた気がしたけれど。
 これもまた、気のせい? ……なのだろう。

 疑い出すと、キリのないことなのか。
 なんだか、ぎこちない動きで。
 ふたりの周りに、みんなが集まっていく。
 えっと……とりあえず座るのかな?
 この場合は、どんな配置にするのがいいのかと。
 そんなことを僕が、考えようとしたとき。

「……ねぇ、海原(うなはら)君?」
 座席から立ちあがった、都木先輩が。
「ステージに、いってもいい?」
 いつもような明るい声で、僕に聞いてくれた。


「……それがいいね」
 僕よりも先に。
 ただいつもより、静かな声で藤峰(ふじみね)先生が返事をすると。
「じゃ、移動しようっか?」
 高尾(たかお)先生が、少しうつむき加減の波野先輩と。
 すでに涙目の、高嶺(たかね)の背中を押しながら。
 ステージに向かって、歩き出す。

「陽子も、立とうか?」
 玲香(れいか)ちゃんの声が、いつもより少し緊張している気がするのは。
 引退のとき、だからなんだよな?

「うん……」
 春香先輩のその、力無い返事もまた。
 幼馴染のお姉ちゃんの、部活動最後の日だからなのだと。

 ……このときの僕は。
 なにか感じる、違和感の正体を。
 すべては『引退』のせいだと、必死に決めつけようとしていた。


「海原くん……」
 三藤先輩が、僕の肩に少しその長い髪を当ててから。
 いつもの歩幅で、ステージに向かっていく。
「やっぱ鈍いのかな、僕?」
 きっと高嶺に聞かれたら、とんでもなく怒られそうなことを考えながら。

 僕は、一番最後に。
 講堂のステージの九人の輪に、加わった。



「あっというまだったなぁ〜。三年間……」
 都木先輩が、静かに語り出す。
「あ、違うね! 三年になってからが、あっというまだった!」
 先輩は、満足げな声でそういうと。
「しんみりしたのは、嫌だから! 花束とかも、辞退したしね!」
 少し、涙声になりながら。
 ひとり話しを、続けている。

「あのね、みんな……」
 そこで先輩が、言葉をとめたのは。
 高嶺がこらえている涙と、その息づかいが限界で。
「もう、由衣(ゆい)ったら!」
 そういって、先輩がアイツを思いっきり抱きしめにいったからで。

「もう、由衣が泣くか・ら!」
 そのあとは、次に我慢できなくなった波野先輩が続いて。
 それから。
美也(みや)! 色々と。ご苦労さん……!」
「卒業までは。ビシバシしごいてあげる……!」
 先生たちが、その輪に加わって。
 おんなじように、涙を流しはじめた。


 続いて玲香ちゃんと、三藤先輩が顔を下げたまま。
 輪の外から、みんなの背中をやさしくなでに混じって。

 でも、それだけでは耐えられなくて。
 ついには女子部員全員が一斉に、抱き合って涙して。
 引退する都木先輩の名前を、口々に叫ぶ。



 ……はず、なのだけれど。



「あの……春香先輩?」

 誰かがいわないと、いけないのなら。
 きっとそれは、僕なのだろうと思って。


 ……恐る恐る、声に出した。



「……あー。ごめん!」
 我に帰って、慌てて抱擁の輪に加わろうとする春香先輩を。
 都木先輩が、まっすぐに左腕を伸ばして。
 手のひらを広げて、そこにとまれと告げている。

 涙を流していたはずの、先輩は突然。
「陽子! そろそろはっきり決めなさいよ!」
 聞いたことのないような迫力の、声をあげると。
「聞こえたでしょ! いつまでウジウジしてんの!」
 その場から動けずにいる、春香先輩に。
 僕が初めて見たくらいの大股で、一気に迫っていく。


 ……なにか、不穏なことが起こりそうな気がしたそのとき。
 暗闇に差した、一筋の月明かりのように。
 三藤先輩が、ふたりのあいだに割ってはいってくれたので。
 僕はホッと、しようとしたのだけれど。

 今度はその、三藤先輩が。
「陽子! 美也ちゃんの大切な日なのに、いい加減にして!」

 ……まるで、普段の先輩とは別人のような。
 誰もが驚くような大きな声を、講堂内に響き渡らせた。


 ふたりのあまりの迫力に。
 しばらく固まったままだった、春香先輩は。
「ご、ごめん……」
 それだけ小さく答えると。みんなに背を向けて。
 その場から、走り出そうとしたのだけれど。

 あぁ、今度は……。
 玲香ちゃんが、春香先輩の腕を引っ張ってとめたかと思ったら。

 ……って。

 こ、これはまずいっ!



 ……悲しく、乾いた音が。

 講堂の中に、寂しく響く。

 ただ、『また』というか。
 玲香ちゃんがピンタしたのは、春香先輩ではなくて。
 とっさに顔を出した僕の……。
 左頬で……。

「ちょっと玲香! なにしてんの!」
姫妃(きき)、黙ってて!」

 ……な、なんだかこの展開は。
 前にも、あったような……。


「……いまのは……ダメですよ!」
 高嶺が泣きながら、玲香ちゃんと春香先輩を。
 ギュッとまとめて、抱きしめる。

「はいはい、みんな冷静に!」
 藤峰先生が、手を叩いて声をあげながら。
 僕に久しぶりに、ウインクする。
 でもそれ……いたわっているというよりむしろ。
 笑いとか、こらえてません?
「玲香。『一応』さぁ、海原くんに謝ろっか?」
 えっ、高尾先生?
 そこ、なんで『一応』なんですかっ!

「……えっと、ごめんね。(すばる)君」
「まぁ、前よりは痛くなかったし……」
「当たり前でしょ!」
「えっ?」
「陽子に、そんな強くするわけないじゃん!」
 れ、玲香ちゃん……。

「なんか、ちっとも反省してなさそ……」
 そこまでいいかけた僕に。
 藤峰先生が、手のひらをフワフワさせながらストップをかけると。
「そりゃまぁ、仕方ないでしょ?」
「……えっ?」
「だって、なにも。わざわざさぁ、顔出さなくても……」
 久しぶりに、『女王』というか『悪魔』になったこの先生は。
 ここで話すのをやめると。
 耐えきれなかったらしく、ついにひとりで笑い出す。


 ……でも、いまの僕には味方がいて。
 三藤先輩が、そんな先生に冷めた視線を注いでいて。
 き、きっと。
 僕を心配してくれていて。
 だから、笑った高尾先生を怒ってくれるんですよね?

「……ねぇ、海原くん」
「はい?」
「いったいいつ、玲香にピンタされたの?」
 そ、そこなんですかぁ……。

「……えっと。姫妃ちゃんと『対決』する前だっけ?」
 立ち直りの早い高嶺が。
「えっと、確か前作『告白したって、終われない』第四章第十一話だっけ?」
 淡々とした表情で答えてから、僕を見てくる。
 あぁ、なんという無駄な記憶力。
 ただまぁ……そのとおりですけど……。

「そう、なのね」
 み、三藤先輩?
 な、なんですかその表情は?

「玲香に先を、越されてしまったわ……」
「えっ……」
 い、いまなんと……?
「でも一応、読み直してみようかしら」
 い、いや。そういうことですか?

「なんか可哀想だけど、楽しみだねっ!」
 あぁ……都木先輩まで。
 なんだか妙な方向に、壊れてしまったらしい……。




 ……昴君。
 なんだか、『また』ごめんね。

 本当は、昴君の顔が見えたので。
 慌てて、勢いをゆるめたの。
 わたしは本気で、陽子にピンタをしようとしていたよ。

 月子も美也ちゃんも、あと先生たちもさ。
 どうしてそんなに、陽子をかばうわけ?

 放送部、辞めたいなら辞めればいいじゃん!
 わたしは、その気持ちの一因がわかるだけに。
 陽子に、とっても腹が立つ。

 昴君と、わたしたちがいるから。
 自分の『恋する』気持ちが、整理できないから。
 あなたは『まだ』、悩んでるんだよね?

「長岡《ながおか》先輩と『文化祭デート』して、心が揺れちゃった」
 いっそのこと、そういえばいいのに。
 誰も責めないよ、勝手にしなよ。
 それともわたしが、みんなに代わりに伝えてあげようか?


 ……誰が好きかなんて、陽子の自由だ。

 失恋が理由で辞めても、新しい恋がしたくて辞めてもいいけど。
 そんなの、自分で決めなよ。

 美也ちゃんなんて、ボロボロになってでも。
 海原君にちゃんと、気持ちを伝えたんだよ?
 陽子は、これまで。
 美也ちゃんに、たくさんたくさん。
 お世話に、なったんだよね?
 だったら引退の日に、悩みごととか。
 残さないであげてよ……。


 わたしはこのとき、もう一度。
 この気持ちを、陽子にぶつけようとした。


 ……だけど、そのとき。

 姫妃が、わたしの手をやさしく引っ張って。
 小さな声で、耳打ちした。

「玲香はもう、嫌われなくていいよ……」
「えっ?」
「あとは、まかせて」
 ……って、ちょっと姫妃!

 いったい、なにするつもりなの?




「……ねぇ、とっても嫌なこと。いまから話させてね」
 ……玲香。
 あなたはよく、頑張った。
 まぁ、ちょっとやりかたは不器用だけれど。
 玲香だから、それでいい。

「みんな許してね! わたし、性格悪いから」
 うん、前置きはこれでいい。

 ……最悪の場合。
 わたし放送部から、追い出されちゃうかな?

 ……でも。
 それでもこれは、わたしの役目。

 海原君が、舞台に立たせてくれた。

 玲香は、そんな海原君に。
 もう、嫌われる必要はない。
 美也ちゃんは、海原君のことで。
 これ以上、悲しむことはない。

 あと月子も、由衣も。
 いつか、わかってくれたらそれでいいから……。


 わたしは、みんなに。
 たくさんの、感謝の気持ちをこめながら。


 春香陽子に。


 ……まっすぐに目を向けて、語りはじめた。