「……しばらく、席を外させてもらうわ」

 ……月子(つきこ)はわたしたちに、それだけ告げると。
 返事は不要だと背中で告げながら、放送室を出た。


海原(うなはら)君、平気かな?」
 思わず、わたしがそう口にすると。
 由衣(ゆい)玲香(れいか)が、互いに顔を見合わせてから。
姫妃(きき)ちゃん、あれは関わったらダメなやつです」
「そうそう、まかせとくのが一番」
 ふたりが揃って、首を横にふる。

「でも。ふたりのあいだに、『なにか』あったり……」
 それでも気になる、わたしがいいかけると。
「あ、なにもないですよ」
「そうそう。あのモードのときはありえないね」
 ふたりが断言する、という感じで答えてくれる。

「そ、そうなんだ……」
 このふたりがいうのだから、間違いないのだろう。
 どうやら少し『だけ』、付き合いの短いわたしには。
 まだまだ、わからないことがあるらしい。


 思えばしばらく前から、月子のようすが変だった。
 黙々と書類を読んでいた手が、なにかに反応したあと急にとまって。
 そうしたら佳織(かおり)先生と、響子(きょうこ)先生が。
「見回りの時間、忘れてたっ!」
「ついでに、パン買ってこないと!」
 そういって、慌てて部室を出ていった。

「ちょ、ちょっとトイレにいきます」
「あ、わたしも……」
 由衣と玲香も、続いて消えて。
 わたしだけは、演劇の雑誌に夢中だったので。
 特に気にせず、部室に残っていた。

「……えっ、まだいたんですか?」
「姫妃、月子に変わった動きは?」
 ふたりが、随分と時間をかけて戻ってきたと思ったら。
 ボソボソと、わたしに聞いてきたけれど。
「え? 月子がどうかした?」
 思わず、そう答えてしまって。

「聞こえているわよ」
 ……と答えた、月子のその姿が。
 えっと、海原君曰くの。藤色のオーラだっけ?
 とにかく、わかりやすいくらいに怒気をはらんでいて。
 それから、部室を出ていった。


 今後の展開が、気になるけれど。
 たぶんすぐに、答えはわかるのだろう。
 ここは『先輩』のふたりの、いうことを聞いておこう。

 よくわからないけれど、海原君のこと。
 月子、よろしくね!




 ……部室の、入り口で。
 腕を組んで立っていた三藤(みふじ)先輩と、目が合って。
 僕は、『辞世の句』を用意してくるべきだったと後悔した。

 先輩は、ツカツカと近づきながら。
 チラリと、僕の胸元を見る。
 立ちどまっていた僕の真横を通過した、そのスピードは。
 決して、ゆるむことはなくて。
 僕は慌てて、先輩の背中を追いかけた。 


 ……誰もいない家庭科室に入ると、先輩は扉に鍵をかけた。

「……シャツを、脱ぎなさい」
「へ?」
「制服のシャツを洗濯するから、脱いで。あと洗うあいだは、わたしを見ないで」
 質問は、一切許されない。
 命があるだけマシ、みたいな迫力だけれど。
 三藤先輩に、僕のシャツの洗濯を頼むのはさすがに……。

「い、家に帰ってから……」
 いいかけた僕を、洗剤のボトルのゴンという鈍い音が遮ると。
 教室の中が、静まりかえる。
 選択権など僕にはないことが、これだけ明らかな場合は。
 し、従う以外に、道はなくて……。


 ……水をなにかに、溜める音がして。
 それから、勢いよくジャブジャブと。
 僕のシャツが、洗われる音が室内に響き続ける。

 何度か、水を取り替える音がしたあと。
「この部活、なぜだか洗濯することが多いのよね……」
 先輩のつぶやく声が、聞こえてくる。
 確かに。先生のこぼしたジャムとか、あとほかにも……。
「手洗いは嫌いじゃないわ。汚れが落ちるのはスッキリする」
 ……いや。
 とはいえ……。
 ここで安易に、うなずいてはいけないと。
 さすがの僕でも、『学習』している。


「……海原くんの、嘘つき」
 もう少しだけ、声が大きくなってきて。
「絶対。誰にも内緒って、伝えたのに」
 え、えっ……。
「海原くんが約束を破ることなんかないって、信じていたのに……」
 シャツを洗う音が、どんどん激しくなって。
 最後のほうは、涙の混じった声のようになっている。

「あ、あの……」
「振り向かないで!」
 ……強く、強く。
 心の底からあふれる感情が、こめられた言葉だった。

「もし振り向いたら、二度と口を聞かない!」
 先輩は、約束を守る人だ。
「……裏切って、ごめんなさい」
「そう、裏切り者!」
「身勝手で、いい加減で、不誠実で……。相談もせずに、ごめんなさい」
「ぜんぶそう、信じてたのに!」
「……ごめんなさい」
「謝らないで!」
 先輩がそう、大きな声を出してから。

「それだと許さなかったら、わたしのせいになるじゃない……」

 ……静かに、ゆっくりと言葉を絞り出した。



 おそらく、脱力した先輩の手が当たったのだろう。
 ステンレスのボウルが、空っぽなまま床に落ちた音がして。
 そのまま床を転がる音が、虚しく家庭科室にしばらく反響する。

「……どうしてわたしが、涙を洗わないといけないの?」

 知っているんだ……。
「なんで美也(みや)ちゃんのあと始末を、わたしがやってしまうのよ……」
 全部、わかっているんだ……。


 三藤先輩は、その先は無言になって。
 静かに規則正しく。シャツをこする音だけが聞こえてくる。
 水を替え、すすいで。
 また水を替え、すすいでくれる。
 シャツを、絞っているのだろう。
 水の落ちる音が、聞こえる。
 その音が、一度、二度……。
 そして、ついにとまると。

「こっちを、向きなさい!」

 突然、大きな声がして。
 僕が慌てて、振り返った瞬間。
 なにか白い塊が。
 僕の顔面めがけて、飛んできた。

「うわっ!」
 真新しい洗剤の香りがするシャツは、両手で受けとめたけれど。
 絞りきれていない水分が、その勢いで。
 僕の顔にしぶきとなって、たっぷりかかる。

「こんな大きなシャツ、わたしの手だけじゃ絞れないわよ……」
 涙だらけの、声がするのに。
 三藤先輩の姿が、見えなかったのは。
 しゃがみ込んだ先輩が、調理テーブルの影に隠れて見えなかったからだ。


「ご、ごめんなさい……」
 自分でも、情けない声だと思った。
 でも、それは。
 素直に謝れなかったから、ではなくて……。

 先輩が、思わず。
 締まらない僕のその声に、顔を上げる。
 すると、ちょっとだけ両目を大きく開けたあと。

 ……少しだけ、ほほえんでくれた。

「ちょっと……。どうしてそんなに、びっしょりなの?」
「シャツをキャッチしたら……。水がいっぱい、飛んできたんです……」




 ……怒ることに、疲れてしまったのか。
 それともびしょ濡れの海原くんの姿を見て、清々したのか。

 つい、わたしは。


 ……泣いてばかりは、もったいないと思った。


「もう。だからシャツが大きいって、いったじゃない」
 しゃがみ込んだままそういう、わたしのそばに。
 恐る恐る、近づく姿がある。

「こちらを向く許可は出しましたけど、近づいていいとは伝えていないわよ」
「えっ……」
 海原君くんはそういって、いつものように。
 その場で固まってしまうのかと、思いきや。

 きょうは、その腕がまだ。


 ……わたしを目指して、伸びてきた。


 海原くんの指先が、わたしの髪の毛に。
 ためらいがちに、近づいている気配がする。
 決して、触れたり。
 もちろん、なでたりなどすることはなく。
 微妙な場所で、とまったままなので……。

「どうしたの?」
 あぁ、思わず。
 わたしが先に、声をかけてしまった……。


「あの三藤先輩。小指を……」
「えっ……?」
「じゃ、じゃぁ。薬指もいいですか……」


「……バカっ!」
「へ?」

 その意図を見抜いたわたしは。
 わたしを見つめるその瞳と、目を合わせてから。
 小さなため息まじりに、つぶやいた。

「指を引っ張って、立てると思うの?」
「い、いえでも小指しか握ったことがないので……」
「指二本でも、バランス取れないわよ……」

 とはいえ。『手をつなぎましょう』とは、わたしはいえない。
 でも。


 ……『ひとりで立てる』とも、いいたくない。


「あ、握手で……」
「握手を……」

 ふたりが同時に、『無難』な提案をして。

 わたしは無理なく、立ち上がれた。



 ……きょう、初めて。
 海原(うなはら)(すばる)のことを、バカと呼んだ。


 でも、このときのわたしに伝えたい。

 それが、ひょっとしたら。


 ……はじまりのひとこと、だったかもしれないと。