飲み物を買いにいくと、いったのに。
 財布を置いた、ままだった。

 わたしは中央廊下を過ぎて階段を降りてから、情けないことに気がついた。
 あぁ、最悪……。

 とりあえず、講堂にでもいこう。
 あそこなら、座って考えられる。
 いき先が、決まったわたしは。
 教室の呼び込みに捕まらないように、やや早足で廊下を進んでいく。


「……女子、可愛かったよな〜」
「いいよなぁ〜。ああいうの」
「あぁ、『文化祭デート』。ご馳走さんです」
 目の前に、見学にきた中学生の子たちが歩いてきて。
 道を譲っていると、隣で立ち話し中の男子たちの声が聞こえてくる。
 きっと、この先に誰かいるんだろう。
 まぁわたしには、関係ないけどね。
 というか、中学生いるんだから。声とか、小さくして欲しいよね!
 そう思いながら、先を急ごうとしたところで。

「えっ?」
「あっ……」
 陽子(ようこ)先輩が、『男子』とパンフレットを見ながら。
 ふたりで並んで、歩いていた。

「あ。あのね由衣(ゆい)ちゃん……」
「えっ、『機器部』の後輩さん?」
 誰だか知らないけれど、気安く『機器部』とかいわないで。
 しかも、わたしは。
 あなたの後輩では、ありません。

「急ぐんで、失礼します」
「……え。ちょ、ちょっと由衣ちゃん!」

 引き続き、なんだか声が聞こえたけれど。
 わたしは、もっと早足で。
 ひとりで、講堂へと向かっていった。



 ……講堂に着いたわたしは、、後列の空いている席に座わると。
 バイオリンをやっているという子の、ソロを一曲、聴き終える。
 次の曲の準備に入った、そのとき。
 背中をそっと叩かれて、振り向くと。
 イタズラっぽい笑顔が、こっちにおいでよと誘ってきた。

「客席で聴きたかったんなら、ごめんね!」
 本当はダメなんだけれど、この人たちには関係ないね。
 おいしそうなパンをいくつも広げて、『女子三人』がわたしを見る。
響子(きょうこ)が、誘えってうるさくて……」
「でも佳織(かおり)が、そっとしておいてもいいんじゃないかっていってね……」
「結局、先生たちじゃらち開かないんで。わたしが決めた!」
 そういって美也(みや)先輩が、明るい笑顔で教えてくれた。

「あっちはどう? 海原(うなはら)君がカリカリしてない?」
藤峰(ふじみね)先生と高尾(たかお)先生。ふたりのせいでもありますけど!」
「うん、だからね。反省はしてるよ」
 その笑顔で、本当かなぁ?
「だけど、あのふたりでしょ」
「まずやってみたら、来年また考えるかなって思ったの」

 ……えっ。来年のことまで?
「この学校も、部活も。ほら、変わっていく時期でしょ?」
「だからまず、やり切ってもらおうと思ったんだよねぇ〜」
 ただ押し付けているわけじゃないとは、わかっているつもりだった。
 だけど、そんな先のことまで考えていたの?
 なのにわたしは。
 目先の仕事が多いことしか、見ていなかったってこと?

 なぜだか、涙が出てきた。
 気持ちを吐き出さずには、いられない。
「でも、でもアイツも月子先輩も。すっごく大変そうなのに、休まないし。文化祭当日だって別のことずっと、やってるんですよ!」
 あぁ……。もう、とまらない。
「なのにわたしは、役に立ってないし! ぜんぜん、そばにいても……。役に立てないし、ちっとも手伝えていないんです……」


 曲が終わり、講堂の中で拍手が響いている。
 美也先輩が、そっと立ち上がり。
 窓からきちんと、ステージのようすを確認して。
 それからわたしを見て、こんなときなのにごめんねって目で伝えてくれる。
 あぁ、ここにもちゃんと。
 目立たないけれど、誰かのために仕事をしている人がいるんだ……。

「ねぇ、由衣ちゃん。姫妃(きき)ちゃんのお母様が、いらっしゃったんじゃない?」
「ど、どうしてそれを?」
 それから藤峰先生が、静かに語り出した。




 ……演劇部のふたりが、怪我をしたあとのこと。
 わたしは、響子とふたりで。
 部長と姫妃ちゃん、両方の保護者のかたたちと話し合ったことの話しをした。

 校長は遠方に出張中で、どうやっても時間的に戻れないことをまず詫びて。
 あらためて謝罪に伺う意向だと、お伝えした。

 校長はわたしたちふたりの判断で、学園祭を中止にしても構わない。
 責任は自分で取るから、心配するなと話していた。

「だけどどちらのお母様もね。それは不要だとおっしゃられた」
 響子が、話しを補足してくれる。

 ……不慮の事故だし、怪我は治る。
 でももし学園祭が中止になれば、心の傷が残ってしまう。

 姫妃ちゃんのお母様は、わたしたたちに。
「それを治せる先生は、学校にらっしゃいますか?」
 とてもまっすぐな目で、問いかけてこられた。

 部長の子は、『名誉の負傷だから』といって。
 だからお母様も、一年生をかばった娘を誇りに思うと。
 静かに、お話しされていた。

 姫妃ちゃんについては、知ってのとおり。
 みんな腕もだけれど、それ以上に『顔の傷』を心配していたわよね。




 ……そこまでいうと、なぜか、響子先生が笑って。
 つられて、話していた佳織先生も、笑い出した。
 なんで?
 いま、深刻な話しじゃないんですか?

「ごめんね由衣ちゃん。あなたも聞いたら、笑うかあきれるしかないわよ」

 傷は、顔というよりおでこのところだったのが少し安心で。
 でも、結構深くて。
 このあとどうなるかと、みんな深刻に考えていた。
 ただ、そのとき……。

「でも、なんて呼ぶのか知らないけれど、おでこを出す髪型で演技するのは……」

「覚えてる? 月子ちゃんが夏に私服でイメチェンしたときのこと?」
「あ。もしかして……」

「そう、『ポポポポポポポ、ポニーテール!!!!』ってやつ!」

「よっぽど強烈だったのよねぇ、彼」
「だから、おでこを怪我したのを見て。思い出したんだろうねぇ〜」

 ついに美也先輩も、つられて笑い出した。
 やっぱり海原は、バカだ。
 アイツは……。
 バカすぎる……。


「でも、それで波野さんのお宅は『救われた』そうよ」
「え? バカだからですか?」
「う〜ん、ちょっと違うかな?」


 ……もう二度と、舞台や演技が『できないかも』じゃなくて。

「おでこを出す髪型で『演技する』のは……」

 アイツにとっては。
 将来舞台に立ったり、演技している姫妃先輩の姿が当たり前で。
 ただ、『もしかしたら』おでこは出せないかもって、心配していた。
 だから、勇気が出た。
 むしろ勇気しか、出なかった。

「最低鈍感男が、希望を与えたってことですよね……」
「由衣、容赦ないねぇ!」
 そういうと美也先輩は。
 わたしを、思いっきり抱きしめてくれた。



 ……彼は、真面目すぎるところがあるでしょ?
 ……だから、忙しすぎるぐらいにさせておけば、罪の意識が紛れるかなって?
 ……あと月子ちゃんも、似たようなものじゃない?
 ……でも、そんなことができるのはね。


 ……佳織先生は、わたしに無駄に右目でウインクしてから。
「それを由衣とかがしっかり、支えてくれているからだって」
 響子先生が、ぴったりの呼吸で。
「わたしたちは、わかってるからね!」
 そういって、また暑苦しいくらいに。
 しっかりと、わたしを抱きしめてくれた。



 ……早く、放送室に戻って。
 姫妃先輩のお母さんに、もう一度きちんと挨拶しよう。

 妙な、いいかただけれど。
 あのお母さんが、事故で落ち込むアイツの背中を支えてくれた。
 それに、わざわざ文化祭にきてくれたのは。
 これからも応援していると、そう伝えにきてくれたからだ。



「……お、お財布忘れてました! 『波野(なみの)先輩』、ごめんなさい!」

 わたしは、下の名前を聞きそびれていたから。
 放送室の扉を開けた瞬間、
 大きな声で、姫妃先輩の『お母さん』にそう叫んだ。

「あら。『やっぱり』放送部ね、由衣さんも」
「は、はい!」
「……やっぱり?」
 姫妃『ちゃん』が、お母さんにそう聞くと。
「だってあなたも、よくお財布忘れるじゃない。昔から各学年に、そういう子が必ずひとりはいたのよね〜」
「え、ママ?」
「えっ、……ってことは」
「姫妃と由衣は、似たもの同士ということになるわね」

 月子先輩に、そういわれて。
 わたしたちふたりは、思わず同時に。

「絶対い・や〜!」

 思いっきり放送室で、絶叫してしまった。




 ……娘は、これでもう本当に大丈夫ね。

 聞いていたメンバー全員とは、会えなかったけれど。
 それでもこの子たちがいれば。

 姫妃も、放送部も心配はない。


 いえ、心配事はあるわね。

 そう、海原君。

 あなたはこの先、いったい……。


「……聞きおよぶところ、放送部に随分とお妃候補が多いと聞いておりまして」
 そういえば、以前彼とはそんな話しをしたわね。

「……この目で、しかと拝見させていただきますね」

 あら、まぁ。
 困ったわ、そういえば……。



 ……気づいただけでは、終われない。


 なんといいましょうか。

 せっかくですから。
 このあと『あの先生』とも、お話して帰ろうかしら。


 わたしは、そんなことを考えながら。

 後輩が差し出してくれた、和菓子を手に取り。
 別の後輩が、淹れてくれたお茶を。

 ありがたく、頂戴した。