……午後一時を過ぎると。
急に空模様が、怪しくなってきた。
「雨になりそうね」
「え〜、せっかく観にきたのに〜」
左隣の三藤先輩と波野先輩が、そんなことをいいながら。
やや離れたところで話し合いをしている、体育祭実行委員たちを眺めている。
「昴君、食べにいく?」
僕の背後から声をかけてきた、玲香ちゃんは。
それよりも仕切り直しのお弁当タイムのほうが、気になるらしいけれど。
なんとなく、右隣に座り込んでいる藤峰先生が。
僕に動いちゃダメよ、みたいなオーラを出している。
話し合いに、地学の先生が加わっていく。
どうやらタブレットで、天気図を見ているようで。
そこに、習ったことはないけれど。顔だけ知っている古典の先生が加わった。
「Mr.ウェザーの、出番だねぇ〜」
藤峰先生が、のんびりと口にする。
なるほど。地学の先生ってやっぱり、天気好きなんですね。
「違う違う。石オタクじゃなくて、漢字しか読まなさそうなほうね」
……あの。
わかりやすいけれど、一応教師同士じゃないんですか?
「一昨年の雨も、ピタリと当てたの。すごいでしょ?」
先生は、そんなことは気にしないみたいで。
「あと、わたしがいきたくなかった遠足二回も当ててくれた!」
新発売のパンの販売日だから、たいそううれしかったのだろう。
とにかく古典の先生は、趣味が興じて、この学校のお天気博士になったらしい。
実行委員長の長岡先輩が、僕に近づいてくる。
な、なんだか嫌な予感が……。
「海原、相談がある」
放送部の部長って、この学校では自動的に全体を統括する委員長なので。
形式上は体育祭実行委員長より、立場が上になる。
なんだか、わかりにくい仕組みだし。
先輩たちで決めてもらって、いいんだけどなぁ……。
「『漢字』がな、土砂降りになるから中止しろといっている」
なるほど、三年生になると。
あの古典の先生は、『漢字』と呼ばれるのか。
ということは、藤峰先生の表現は。
それよりは幾分、マイルドだったのか。
「なぁ海原。俺は、やり遂げたい」
なんだか、かっこいいセリフですけど。
もうすぐ、土砂降りなんですよね?
「だから頼む、雨を降らさないでくれ」
「へ?」
「お前、神社の巫女なんだろ? 前に聞いたぞ。だから頼む」
隣で、藤峰先生がニヤニヤしている。
「夏合宿で、『実家が神社』の高尾先生のところにお世話になりましたけど……」
「てるてる坊主、作るから。あと、七百二十七円までなら数珠買うから、頼む」
……長岡先輩はたぶん、寝不足なんだと思う。
僕の話しなんか、聞いてやしない。
それに、なぜにそんな中途半端な金額なんだ?
「……土砂降りまでの予想時間を、聞いてくるわ」
三藤先輩が、やや同情的な顔で僕を見て。
「観客の誘導、生徒の撤収までの時間、計算して」
玲香ちゃんにも、指示を出す。
先輩が、『漢字』の元へ向かう際。
軽く払った長い髪の毛の先が少し、座っていた僕の頭上をかすっていく。
「月子もなかなか、あざといね!」
波野先輩が、先ほどまで三藤先輩の座っていた僕の隣の席にスッと移動して。
その白い指で、このあとの進行表を差す。
はずみで先輩の肩が、僕に一瞬軽くあたった瞬間。
「近いから!」
うしろから高嶺が、容赦なくバインダーで頭を叩いてくる。
い、いまのって……。
僕のせいじゃ、なくないか?
「……一種目が、限界ね」
三藤先輩が戻ってくると、長岡先輩がガクリと肩を落とす。
すでにポツポツと、雨が降りはじめて。
遠くには黒くて、分厚い雲が広がっている。
「やり遂げたかったな……」
長岡先輩、最後の体育祭だもんな。
やっぱり、この先輩は実行委員長だけある。
責任感とか、熱い思いがあるんだよな。
「なんとか、方法を……」
ある種の、感動をもって。
僕がみんなに、知恵を出そうといいかけたところで。
「俺の西軍が、ま、負けているんだ……」
「へ?」
「か、勝てる種目を、選ばせてくれ……」
三藤先輩が、小さくため息をもらす。
「勝ちたかった、だ・け?」
ちょっと波野先輩! 静かにしてあげて!
長岡先輩……。えらくイメージ下がりますけど、いいんですか?
やっぱり、寝不足なんですよね?
続けてやってきた、体育祭の副委員長は。
女子バレー部のキャプテンで、東軍の団長だった。
同じバレー部同士、仲がいいのかと思っていたら。
そんなこと、ちっともなかったみたいで……。
ふたりのあいだで、綱引きと玉入れで、意見がまとまらない。
「勝手に、決めてもらえないのかしら?」
「お昼いかない? 昴君?」
「アンタ、さっさと決めなよ!」
……そうやって、周囲の女性たちのフラストレーションというかマグマが。
どんどんたまりつつあった、このとき。
どうやら、グラウンドでは。
『借り物競走』が、おこなわれていたようで……。
よりによって、山川俊が。
恐る恐る、僕たちの元へとやってきた。
「なんなの、山川? なにしにきた?」
代表して高嶺が、いかにも邪魔そうにいう。あぁ、かわいそうに……。
「が、ガガガががくくく……」
そういえば、山川も体育祭の委員だ。
きっとこいつも、寝不足なんだろう。
「だから、なにしてんのよ!」
高嶺もう、寝かせてやれよ……。
すると、山川が。
意を決した顔で、僕たちに頭を下げながら声を出す。
「『学校一の美人』を、借りにきました!」
「えっ……」
思わず固まる高嶺。
えっ、お前なのか、高嶺?
カチ、カチ、カチ……。
実に珍妙な沈黙が、三つ数えられて。
山川が、とんでもない爆弾を投下した。
「……あれ? 都木先輩は?」
その瞬間、なぜか僕のスネと、頭と、脇腹と、あと背中に。
四方向から、バインダーとか、拳とか。
なんらかの固いものの、強烈な圧力を感じた。
目の前の長岡先輩が、恐怖のあまり顔をこわばらせながら。
数歩後退するのが、僕の目に見えた最後の光景だ……。
「ほかのカードに、してきなさい……」
三藤先輩の低い声が、遠くで聞こえてくる。
「アンタ、最低……」
高嶺、その『アンタ』は僕じゃないよな?
「消えなよ、そこの一年」
玲香ちゃん。そんな怖い声、やめない?
「二度とこなくてい・い・よ!」
波野先輩。それ、笑顔でいうセリフですか?
藤峰先生だけが、どうやら余裕があるらしく。
さすがになにもいわない、そう思ったのだけれど……。
「は、はい……」
山川が、その目力に恐れおののいてカードを渡すと。
「『学校一の美人』が、誰ですって……?」
小さく、ボソリとつぶやくと。
ビリッ、ビリッ、ビリッ……。
その紙を極限まで細かく破き続ける音が、静かに響き続けていた。
……そんな山川のそのごは、さておいて。
グラウンドのスペースを、絶妙にずらすことに成功した僕たちは。
綱引きと玉入れを、事故なく同時開催した。
幸い、空がそれ以上大きく崩れることもなく、待ってくれて。
参加者全員が諦めるしかないほどの、土砂降りの前に撤収も完了できた。
「ありがとう海原。結果は受け入れるぞ」
長岡先輩も、敗戦後は潔くて。
きっと、今年の体育祭は。
後悔と満足を絶妙に交えた思い出に、いつかなるのだろう。
「……帰るまでには、雨は控えめになるそうよ」
部室で、少し雨に濡れた放送機器を拭いていると。
三藤先輩が僕の目の前に、お茶を差し出してくれた。
ホッとして、そのやさしさをいただこう。
「あっ、アッツ!」
「あらごめんなさい。海原くんの好みの温度を、忘れていたようね」
ま、まだ……。
あの『暴言』は許されてはいないんですね……。
「まぁ、自業自得だよねー」
「昴君、反省しとかないとぉー」
「あ・や・ま・れー」
僕じゃなくて、山川のしでかしたことなのに……。
責任って、あるんだろうか?
「なになに、今度はなにしちゃったの?」
文化祭の準備から、ふたりが戻ってきて。
都木先輩がワクワクした顔で、話題に入ろうとするけれど。
「なんでもありません」
そういって、不思議と誰も説明しようとはしなかった。
「え〜、仲間はずれはダメだよぉ〜」
「じゃぁ、部長が説明したら?」
紅茶と、甘そうなパンをつまみながら。
早耳の高尾先生と、開き直った藤峰先生が僕を見て。
「教えてよ! 海原君!」
都木先輩も、それに乗じて楽しそうにしていた。
……体育祭の一日は、こうして幕を下ろした。
ただ、僕たちはこのとき。
ひとりだけ、同じ空間にいたのに。
あまり話しに加わらなかった、その人に。
もう少し、配慮すべきだったのかも知れない。
それに加えて、誰一人として口にはしなかったけれど。
忘れていたわけでは、決してない。
明日は、いよいよ文化祭。
そして、都木美也は。
その日をもって。
……放送部を、引退するのだ。


