一瞬にして変わる景色。
 暖かく穏やかだった花園から、()てつく氷の海に突き落とされる。そのまま深く深く沈んで海の底へ落ちていく。息がうまくできない。苦しい。目の前の景色が水面のように歪む。

『夏子。いや、いいよ。遅いし、そのまま菜乃花の家まで送るから大丈夫』

 電話の向こうで交わされる自然でささいな会話。
 目に浮かぶ光景はとてつもなく幸せそうに微笑み合う2人の姿。

「っ…」

 私はなにをショックを受けているんだ。わかっていたでしょ。知っていたじゃないか。
 こんなに優しい佑にぃちゃんに、彼女が、奥さんがいないワケがない。
 それに目の前でお祝いをしたじゃないか。
 色とりどりの花びらが舞う青空の下で、佑にぃちゃんの結婚式に参列して見送ったでしょ。

『じゃあ、菜乃花。大人しく待っているんだぞ』
「うん、わかっるってば。大人しく待ってる」

 それでも、諦めきれない。断ち切ることができない。

「…夏子さんにも、よろしくね。あとでお礼しなきゃだ」
『あとお説教も待ってるからな』
「えぇー…いやだなー。菜乃花ちゃんは真面目で良い子なのに」

 あぁ、なんてめんどくさい女なんだろうか。
 私はちゃんと笑えているだろうか。

『はいはい、そうだな。じゃあ、いまから迎えにいくから』
「うん、待ってるね。佑にぃちゃん」

 ぷつりと切れた電話。
 煌々と光っていた画面が暗くなれば、私を照らす明かりは点々とある街灯だけになる。

「あーあ。私って本当にバカだなぁ」

 見上げた空がだんだんとぼやけていく。
 頬をなにが伝う。確認しなくてもわかる。

「いつになったら普通になれるのかな」

 次から次からとあふれる涙を(ぬぐ)う。
 それでも間に合わなくて、ぽとぽと地面に落ちていく涙は黒い染みを作る。

「佑にぃちゃんが迎えに来るまでに…止まるかな」

 寒いのに、目頭が熱くなっていく。
 勝手に喉の奥がひっくり返る。

「止まるかなじゃない、止めなきゃ、いけない」

 喉にぐっと力を入れる。

「そうじゃなきゃ、ダメなんだよ…」

 そうでなければ、いままで佑にぃちゃんの隣にいたことが意味がなくなってしまう。失ってしまう。そんなのは嫌だ。
 想いを伝えずにいたこれまでのことを後悔しているわけじゃない。消したいわけじゃない。壊したいわけじゃない。大事な思い出で、記憶で。だから(こころ)の中にしまっていた。胸の奥底に。

「どれくらいで、佑にぃちゃん来るのかな…」

 携帯の画面に新しいメッセージはない。
 佑にぃちゃんはちょっと抜けているところがある。

「もう、仕方がないな」

 気付けば笑いがこぼれていた。
 自分でもわかるほど声が濡れてしまっていて、おかしくてまた笑ってしまう。

「よし…」

 そうだ。泣いてしまったことは全部全部、お酒のせいにしてやる。そして、なにも覚えてないって言うんだ。子供みたいな言い訳かもしれないけれど。きっと、私はそれでいいんだ。
 また佑にぃちゃんに「まだまだ子供だな」「世話がかかるやつだ」って言われるかもしれないけれど、それでいいんだ。

「それでも…」

 それでも私はあなたのことが大好きなのです。

 知ってたよ。想いが伝わらないことを。
 それでも、どんなカタチでもそばにいたいのです。
 だから、どうか、あなたを想うことだけは自由にさせてください。

 この冬の吐息のように、私のこの想いも、見えるのは私だけ。すぐに見えなくなればいい。
 他の人には見えることができない、私だけの想いのままでありますように。