「電車に、ちゃんと乗ったんだよ」

 ふわふわとした気分のまま、私はこの場所に到着するまでの、穴だらけの虫食いの記憶を(さかのぼ)る。数時間前に参加した飲み会のことについて。
 飲み会は友人同士の気楽な集まりだったので全力を注いだ。20歳過ぎたばかりの若者の特権とも言える大騒ぎ。飲み会終わりに「オールしようよ」と声をかけてくる友人の誘いを断り、私は帰りの電車に乗った。
 友人に言った「明日、予定があるから」という断りは建前で、それ以上に飲んでしまうと、蓋をしていたものがうっかり出てしまうんじゃないかと思ったから。わずかに残る理性で、帰りを急ぐ人で混雑した電車になんとか乗りこんだ。

 電車のつり革を掴み、ゆらゆらと電車に揺られていると眠気に誘われる。だんだんとまぶたが重くなってきた頃に運よく目の前の座席が空いたから座った。背中と足から伝わってくる座席の温もりと電車の振動の組み合わせはまるで動くゆりかご。そのまま気持ち良くなって寝むりに落ちてしまうのは当然だと思う。

 そして気がつけば、私は終点にいたのだ。しかも、見知らぬ駅で駅員さんに「お客様、終点ですよ」そう優しく起こされて、一瞬、ワケがわからなくなった。

 いつもの電車に乗ったのは間違いない。けれど運悪く、私が乗った電車は隣の県に続く直通電車だった。こうなると、運が良かったと思った目の前の座席が空いたことは、ある意味運が悪かったとも言い換えることができるかもしれない。

『なるほどなぁ。終点で、この時間。帰りの電車もないってことか』

 ぐらぐらと揺れる記憶を遡りつつ、なんとか状況整理を終える。うまく説明できていたかは、わからない。だけど佑にぃちゃんは深く息を吐き出して、唸るように呟いた。

「うん、そう。終電は出てもうありませんって言われて、駅から出されちゃった…」

 そうして無情にも私はゆかりのない駅に降り立つように駅員さんに宣告された。
 一瞬、温度ではなく人間的に”冷たい”なんて思ってしまった私はイヤな人間である。でも、わかっている。駅員さんも仕事だし。当たり前と言えば、当たり前の対応だ。私はうっかり乗り過ごしてしまった乗客なのだから。私の自業自得ってやつだ。

『24時間のファミレスとか……ないから電話したんだろうな…』
「そうなの。だから始発までヒマなんだよー」

 最近は働き改革で24時間営業のお店が減ってきている。都心から離れれば離れるほどにその影響が強く出ている。働く側からすれば良かったと言えるべきことだけど、こうして見知らぬ土地にひとり残ることになったいま、その存在を強く望んでしまう。私という人間はなんて傲慢(ごうまん)なんだろう。
 もし営業しているお店があったのなら、こうして佑にぃちゃんに電話することはなかった。

「だからね、佑にぃちゃんとおしゃべりしようと思ったんだ」

 ううん、違う。言い訳だ。
 たとえお店があっても私は佑にぃちゃんに電話をしていただろう。電話をしてしまったことを後悔したわけじゃない。声が聞きたくなってしまった理由のひとつ。
 眠りを誘う最適な室温を保っていた電車から降り立った時、真冬ではないけど冷たい空気に肌がぴりついた。吸い込んだ空気で体の中からもじわじわと削れていく体温。
 だから私は無性に聞きたくなってしまったんだ。
 春の陽だまりのような温もりをもつ佑にぃちゃんの声を。寒さの中で温もりを求めるのは人間の本能(さが)だ。

『あー。まぁ明日休みだからいいけど。スマホの電源持つか?』
「落ちるところまででだいじょうぶ。それまで付き合ってくれればいいんだー」

 声だけで十分。
 だって顔を見てしまったら、もっと甘えてしまうから。
 一緒にいたいと、隣にいたいと声に出してしまいそうになるから。
 そう思っていたのに、もっともっとと離れがたくなってしまう。

『なに言ってんだ。俺が大丈夫じゃない。まったく…』

 顔を出しはじめた強欲な自分を押し戻していると、はぁと大きく息を吐き出した音が耳元に届いた。

「え?」
『一回、切るぞ』
「え?」

 佑にぃちゃんには珍しく私が返事する間もなく、ぷつりと切れた音。白く光っていた画面が暗くなる。
 駅前にいるのは私ひとり。しんと静まりかえったいま、自分の呼吸音しか聞こえない。
 ふわふわとしていた私の頭がどんどんクリアになっていく。

「えっ?」

 心臓がぎゅっと握られたように縮みこむ。息がうまく吸えてない。
 もしかして…頭をよぎったことにスマホを持つ手が震える。
 言葉にしたら現実になりそうで怖くなる。でも、まさかともう1人の自分が否定する。
 いくらなんでも、それは私にとって都合が良すぎる。

「でも」

 思わず声が出た。同時にスマホが震える。
 画面には【佑にいちゃん】と表示されている。2回、大きく胸を動かして無理やり深く呼吸をして、それから通話ボタンをタップした。

「もしもし…」

 声は震えていないだろうか。
 心配になるけれど、わかったとしてもいまの私に正す余力なんてものはない。

『いまから車で迎えにいく。そこでおとなしく待っているんだぞ』

 私にとって都合が良すぎる内容だった。
 声だけでいいと思っていたのに、声だけじゃなくなる。記憶だけじゃない、佑にぃちゃんに会える。

「え…でも…」
人気(ひとけ)のない場所にお前が一人でいるって知ってて放っておけるわけないだろ』

 この言葉に深い意味はないとわかっていても嬉しくなってしまう。舞い上がる心を止められない。

「あ、あり…」
『ねぇ、私もついていこうか?』