満たされた二人の0時過ぎのストーリー

 もっと一緒にいたいのになぁ。
 飲んで、食べて、ヤルことやって。それでも終電に間に合ってしまう。
 満たされた0時過ぎのストーリーを、私はまだ知らない。


☆★☆

華也乃(かやの)ちゃん、そろそろじゃない?」

 駅近の素朴なカップルズホテルの一室。
 ベッドの上でまだまだくっついて甘えていたい私をよそに、中谷さんは今夜も平常運転。
 スマホで時間を確認しながら立ち上がるとリズム良く身支度をして、あっという間に最後のネクタイを締める。

「そんなに急がなくても……まだまだ時間ありますよ?」

 私の終電は0時14分、彼のはそれよりもっと遅い27分。
 熱い肌に触れながらあと三回くらいゆっくりキスをしたって、ここから駅までは余裕で間に合うはずだ。

「10分前行動は営業の基本でしょ? 華也乃ちゃんには研修中に何度も教えたはずだよ」

 中谷さんは悪戯っぽく笑うと、私の頭をくしゃりと撫でる。
 アクのない顔立ちにスラッとした細身の体形、落ち着いた声と優雅な物腰が大人の余裕を感じさせる、同じ部署の4つ上の先輩。
 入社1年目で右も左も分からない私に丁寧に仕事を教えてくれて、ミスした時も優しくフォローしてくれて。
 あっという間に夢中になってしまった。
 そんなの好きにならない方が無理だった。
 でも――。

「ねえ、中谷さん。たまには朝までゆっくりしませんか?」
「ん?」
「いつもこの時間にバタバタ別れるの寂しいんで、今日は帰らなくてもいいかなって」

 勇気を出してそう口にしてみた私に、彼はつれない態度。

「明日も仕事なのに? 終電には間に合うんだから、あえて泊る必要もないでしょ」
「それは、そうなんですけど。このあと映画を観たり、オヤツ食べながら語り合ったり? そういうのも楽しそうかなって。なんならここからの方が会社にも近いですよ?」
「あはは。華也乃ちゃんは元気だな~。そういう学生のノリ、俺にはすでに懐かしいよ」

 冗談めかしてサラリと流されて、それ以上何も言えなくなってしまった。
 そういう事じゃないんだけどなぁ。私はただもっと中谷さんと一緒にいたいだけ、満たされた気持ちで眺める明け方の景色をあなたと共有したいだけなのに。
 ノー残業デーの水曜日を狙って、こんなふうに二人きりで会うようになってもうすぐ2ヶ月。
 軽くお酒を飲みながら食事をして、その流れでホテルに入って甘く幸せな時間を過ごすけど、中谷さんはいまだに私と一緒に夜を飛び越えてはくれない。それがちょっとだけ不満で不安で、私の心を愚図つかせる。

「中谷さん……」
「なに?」
「えっと、あの……」

 私のことちゃんと好きですか?
 明確な言葉で関係を結ぶ前にうかつにも躰を繋いでしまった私は、今さらその一言を聞くのでさえ難しくなっていた。


☆★☆

 新宿駅東口の交差点で、いつものように手を振って別れた。
 夏の夜の湿った空気が肌にまとわりつく。ネオンの光が喧騒とともに交差点を照らす中、彼は中央線へ、私は少し離れた西武新宿線へ。
 近くにあるのに決して交わらない二つの路線が、まるで私たちの関係を示唆しているようでもどかしい。せめてほのかに温い夜風に揺られながら、一緒に終電を待つことくらいできればいいのになぁ。

 駅のホームにきっかり10分前について、私は余裕をもって電車に乗りこんだ。
 こんな時間にもかかわらず車内は人で溢れている。最終を知らせるアナウンスに慌てたり、間に合ったことに安堵する人がほとんどの中、私は窓から見えるホームに残った人達のことが気になってしかたなかった。
 目の前で扉が閉まって小さな悲鳴をあげた学生っぽい男女と、あえて終電を見送ったのか手を繋ぎながら早々に階段を引き返していったスーツ姿のカップル。
 あの人たちはこれから何を想いながら、どんな真夜中を過ごすんだろう。やっぱりちょっと羨ましい。

 見知らぬ夜に想いを馳せていると、あっという間に自宅の最寄り駅に着いてしまった。
 人もまばらな小さな改札を通り抜けて、灯りの乏しいロータリーに降り立つ。その瞬間、誰かに突然、けっこうな力で背中をバチンと(はた)かれた。

「今日もまた、ずいぶん遅いお帰りで」

 聞き馴染みのあるハスキーボイス、振り返らなくたって誰だかすぐに分かる。っていうか、こんな時間に地元の駅で躊躇わずに声をかけてくるヤツなんて、一人しか知らない。

「もう、(たまき)! それ、地味に痛いからヤメてって言ったじゃん」
「あ~悪い。何か後ろ姿がだいぶくたびれてたんで、つい?」

 振り向くと15年来の幼なじみ――久留環(ひさどめたまき)が、目にかかった長めの髪をウザそうにかきあげながら、飄々とした様子でこっちを見下ろしている。
 夏の夜の蒸し暑い空気の中、駅の蛍光灯が彼の顔を青白く照らす。モデル並みの高身長にスラッと長い手足、涼し気な目元が整った顔を引き立てて、どこか大人っぽい雰囲気を醸し出しているけど。
 黒のTシャツにカーゴパンツ、たいして荷物の入ってないショルダーバッグをだらしなく斜め掛けしている姿は、いかにも自由気ままな大学生って感じ。
 そう、こいつは紛れもなく2歳年下。小学生までは女の子と見間違うほど可愛くて、近所のアイドル的存在だったんだけど――今じゃこの態度だ。

「うわっ、前から見たら更にヒデぇ」
「はい?」
「クマは目立つし、ファンデは毛穴落ちしてるし。明るいとこで出くわしたらドン引きレベルだわ」
「あんたってば、ほんと失礼」

 だってこんな深夜に盛れてるわけないじゃない。エナドリ飲んだって完全復活はないし、帰り際はメイクも髪も時間なんてかけられなかった。
 なのに環ってば大袈裟に驚いて、私をまじまじと見ながら思いっきり顔を歪ませたりして。
 あーもう! 最近はぜんぜん可愛くないの!

「華也乃、ヤバいって。社会人1年目にしてすでに、”妖怪お疲れサマーズ”じゃん」

 なんじゃそりゃ。
 ほくそ笑みながらワケ分かんない人外に例えてくる環に、反撃するのもバカバカしくなった。わざとため息をついて踵を返すと、バス通りを一直線に急ぎ足で進む。環は当然のように追いかけてきて歩幅をそろえて横に並んだ。
 同じマンションに住んでいる私たちは駅で鉢合わせると、こんなふうに何となく一緒に帰ることが決まっていた。
 駅から自宅までは徒歩8分くらい。途中にコンビニとファミレスはあるものの人通りも少なくて薄暗いから、実はこうやって環に会うと少しホッとする。
 コンパだサークルだで毎晩遅くまで出歩いている彼と、週一だけ終電を使う私が一緒になるこの時間は、もはや水曜日の恒例と言っても過言ではなかった。

「ねえ、あんた今日もサークル飲みだったの?」
「違う。6限まで授業でそのままバイト。で、みんなで軽く居酒屋寄ってきた」
「何それ、けっきょく飲んでるんじゃない。たまには早く帰りなさいよね。環ママが『もう何日も顔を合わせてない』って嘆いてたんだから」
「はーい、はい」

 私の言葉を適当に聞き捨てて、環は手に持っていたペットボトルの水を喉に流し込む。

「そっちこそ、ここんとこ終電帰り多くね?」
「社会人になると色々あるのよ。残業とか接待とか付き合いとか」
「ふ~ん、でも先週の水曜は違ったよな。オレに就活のアドバイスしてて遅くなったとか何とか、家で嘘ついたろ」
「エッ……」
「華也乃のお父さんって細かいことまで突っ込んでくんだから、そういう事なら一言知らせろよな」
「あはっ、ゴメン」

 こういう時幼なじみって近くて便利なようで、面倒で危なっかしい。
 追及されたくなくて視線を斜めにそらしてみるけど、環は逃がしてくれる気ゼロ。わざわざ前屈みになって顔を覗き込んできてニヤニヤと口元を緩ませる。

「で、やっぱ新しい男なわけ? 水曜の相手って」

 うわっ、からかう気満々だ。恋愛の話を環とするの、何か妙に気恥ずかしくてイヤなんだよね。

「もう、いいじゃん。忘れてよ。環には関係ないし」
「は~? オレの名前ちゃっかり使っといて?」

 私が無意識に早歩きになるのを、環は肩掛けしていた通勤バッグをグイッと引っぱって速度を落とさせた。
 こうなったら正直に答えるしかない。私はしぶしぶ頷く。

「会社の人だよ」
「へえ、同期とか?」
「違う。同じ部署の先輩」
「ふ~ん、年上かよ。配属決まって早々に新入社員を狙ってくるとか、広瀬商事の営業もけっこうチャラいんだな」

 いやいや。毎年サークルの1女をコンプしてるって噂のあんたにだけは、言われたくないんだけど。
 心の中でツッコんでいると、環は更に言葉を続けた。
 
「で、なに? そいつとはいつから付き合ってんの?」

 不意に投げられた爆弾。
 会話の流れ的に何ら不自然でもない質問なのに、形容しがたい緊張が走る。

「ん~、どうだったかなぁ」

 私は曖昧に笑った。それを照れてるだけと受け取ったのか、環は「何だよ今さら」と鼻で笑い飛ばす。

「オレ達にそういうの要らねーから」
「あはっ、そうなんだけどね。本当に今回はよく分かんないの」
「華也乃が覚えてないとか珍しくね? だって昔から記念日とか執拗に大切にするヤツじゃん」
「うん……だよね。でも今の人は、別にカレシってわけじゃないから」

 もう、こんな情けない事言わせないで欲しい。
 言葉にして改めて思い知らされる。カワイイとか好きだとか囁かれて毎週その気になってるけど、中谷さんとの関係はそれ以上でもそれ以下でもない。身内同然の環に浮かれながら報告できるような、確固たるものは何一つないの。
 
「はぁ? 何だそれ。付き合ってねーってこと? マジで言ってんの?」
「たぶん。今のところは、まだ……」
「へぇ、やる事はしっかりやっといて?」

 声の温度が急激に下がる。
 環は立ち止まると私の腕を乱暴に掴んで、グイッと顔を近づけてきた。硬い髪が頬に落ちてきて、生ぬるい息が首筋に触れる。

「な、なによ。急に」

 焦って反撃した私を真っすぐに見下ろして、環は抑揚のない声でポツリと呟いた。

「量産型のボディーソープの匂い」
「え?」
「毎週毎週、カレシでもない男に安っぽいとこ連れこまれて、都合よく終電で帰されてんじゃねーよ」

 釣り上がった眉の下に、軽蔑と失望の入り混じった冷たい瞳。その奥で揺らぐ心配の色。
 ああ、やっぱりそういう事なんだ……。
 自由奔放に毎日を楽しんでる環から見ても、私のこの恋愛は手放しで祝福できるものじゃないみたい。
 掴まれたままの腕よりも心臓の方がギュッと痛くて、私はただ自虐的に笑うしかなかった。


 ☆★☆

『だって好きな女がさ、たまには朝まで一緒にいたいって言ってるんだろ? オレだったら喜んで飛びつくけど』

『やること……一通り終わってても?』

『そこでネタ切れだったら、そもそも続かなくね? そんな相手とその先なんてねーよ』


 環曰く”離れがたい”って感情は、男にだってちゃんと備わってるらしい。
 だったらやっぱり、寄り添ってほしいなぁ。
 仕事の疲れとか社会人としての責任とか大人になったら色々あるけど、お泊りだって朝帰りだって『学生のノリ』の一言で片づけられたくない。




 次の水曜日も私たちのデートは変わり映えしないものだった。
 5時に仕事を上がって、新宿で落ち合って。東口の雑多な喧騒を抜けていつもの居酒屋で焼き鳥とビールでお腹を満たした後、ほろ酔いのままきらめくネオンの通りを歩いた。肩が触れ合うたびに、ほのかに甘い雰囲気が漂う。

「ねえ、中谷さん。今日は朝までゆっくりしませんか?」

 いつものホテルに吸い込まれる直前、私は思い切って足を止めた。
 まだ21時前、どこを見上げてもこの街は明るい。行き交う人の目が気になったのか、彼は少し落ち着かない様子で口元だけで笑った。視線が私を避けるようにふらりと夜空へ泳ぐ。

「どうしたの? そういうワガママは華也乃ちゃんらしくないよ」
「そんなことないですよ、私ってけっこう欲深なんです。先週も同じことお願いしましたし」
「あーでもそれって、今決めることでもないよね?」

 なだめるような優しい声で髪をふわりと撫でられて、その温もりにまた流されそうになった。いつものように、心地よい甘さに溺れてしまえば楽なのに……。
 でも、ダメ。事が終わってからじゃ遅いの。だってあなたは終電を理由にいつも私をすんなり手放すでしょ?
 まるでそれが、この関係の暗黙のルールだとでも言うように。

「明日は代休とってますよね? だったらたまには付き合って下さいよ。映画を観るんでもカラオケ行くんでも、ただ一緒に寝て明け方のモーニングを食べるんでも、私は何でも嬉しいんで」

 言葉を重ねるほど、胸の奥で何かが疼く。期待と不安が絡み合い、声がわずかに震えた。

「うーん、だからさ。別にそういうのは流れで、こんなところで先に決めなくたっていいんじゃない?」
「ダメですよ。だって私、中谷さんに教わった”営業の鉄則”を思い出したんですもん」

 『不明瞭な口約束を鵜呑みにするな。契約前着手には最善の注意を払え』――って。
 もう半分は手遅れかもしれないけど。ここからは……この先は、絶対に間違えたくない。
 私は下唇をキュッと噛んで、意を決して言葉を絞り出した。

「もしかして……誰か待ってる人がいるじゃないですか? 中谷さんが終電で帰ってくるのを」

 私だってバカじゃない。この人に落ちるかもって思った時にいったんブレーキをかけて、左手の薬指は確認してる。あの指に光るものはなかった。
 だけど、それ以上の真実は私には見えない。
 確かなのは水曜日にしか会えないこと、そして、私と一緒に朝を迎えてくれるつもりはないってことだ。きっと永遠に。

 私の問いに、彼は視線を泳がせながらただうっすらと苦笑った。
 誤魔化そうとも、言い訳して繋ぎ止めようともしてくれない。目の前のそれが全てだった。
 尊敬してたんだけどなぁ、強気だけど誠意ある中谷さんの営業姿勢を。
 脳内でガラガラと何かが崩れる音がして、この瞬間、私の恋は終わったんだって冷たく確信する。

「もう二度と、こんなふうに会うことはないです。――お疲れさまでした」

 私は背を向け、街の光に溶けるように歩き出した。
 足音が雑踏に飲み込まれても、心の中の静けさはどこまでも澄んでいた。


☆★☆

 映画もカラオケも特別に行きたいわけじゃなかったから、足は無意識にいつもの駅に向かっていた。
 でもこんなに早い電車に乗るのは面白くなくて、ホームのベンチですでに20台以上を見送っている。
 ああ、ヤダな。帰りたくない。だって涙もまだぜんぜん止まってくれないし……。
 一人で愚図ってるうちに日付は木曜日に変わってしまった。頭上の発車標には見慣れた0時14分の列車が表示されて、さすがにこれ以上は座りこんでもいられなくなる。
 人差し指で涙をぬぐいながらどうにか立ち上がって、でもやっぱりまだ早いかもってもう一度腰かけて。そろそろ電車待ちの最後尾に並ばなきゃって思うのに、頭と心がバラバラでうまく手足が動いてくれない。

「何それ。だいぶ目立ってるけど」
 
 そんな私を正気に戻したのは、聞き慣れたいつものハスキーボイス。
 見上げると斜め上に環の顔があって、淡々とした表情でこっちを見下ろしている。

「あ……どうして……?」

 今日は毎度の水曜日。環と終電が一緒になるなんて珍しくないのに戸惑わずにいられなかったのは、いつもはこっちの駅じゃないから。
 私は気づかれないように目の端を拭って、慌てて笑顔を作る。

「いつもは馬場なのに、環が新宿で飲むなんて珍しいね」
「別に。今日は飲んでねーよ」
「そうなの? だったらもっと早く帰ってあげればいいのに」

 出来るだけいつものノリで会話しようとしたのに、環はちょっとテンション低め。私の横にドカッと座って、前を向いたままポツリと呟く。

「ほら先週、あんな話したじゃん。華也乃の気持ち全無視で、オレ、けっこう言いたい放題だったかなって」
「え~? 反省でもしてたの?」
「まあな、ちょっとだけ。だからとりあえず、終電(コレ)に乗ってても乗ってなくても、待ってようかなって」

 こめかみを引っ掻きながらバツが悪そうにする環は久しぶりにちゃんと2歳下に見える。
 私が熱に浮かされてあのまま都合のいい女に成り下がるのを、環なりに心配してくれてたってことかな。大丈夫、私はあんたの存在でちゃんと我に返ったから。

「もしかして探してくれたの?」
「いや、探す間もなく一瞬で見つけた。泣きながらあんだけ派手に上下運動してりゃ、やばいヤツ確定だろ」
「嘘っ……恥ずっ……」
「ってか、それよりも目の下。酷いことになってるぞ」
「⁉」

 環にニヤニヤと指摘されて、急いでスマホのインカメを覗く。
 涙はとっくに乾いていたけど、その残痕はたしかに悲惨。マスカラは滲んでパンダ目だし、頬にはシャドウのラメが飛び散ってる。

「フッ。また出たな、”妖怪お疲れサマーズ”」
「ねえ、だからソレ。いったい何なのよ?」

 ジト目で睨みつけてやると環は可笑しそうに笑いながら、私の目元を優しく親指で拭ってくれた。恥ずかしいはずのに温かい気持ちになる。


 甲高い音をたてて最終電車がホームに着いた。
 列をなしていた人たちが車内に吸い込まれていく。いつもは先頭で余裕をもって乗りこむそれを、こうやって後ろから眺めるのは初めてかもしれない。
 電車のドア付近に立っていた知らない人と不意に目が合った。

「あっ……」

 そっか。今、私はこっち側にいるんだ……。ずっと憧れてた、終電を乗り過ごす側。
 いつかの直前でドアが閉まったカップルとか、早々に階段を引き返していった意味深な二人みたいに。この後どうするのかな?って、思わずアフターストーリーを想像させるような――境界線のこっち側に。

「乗るの止めようかな……」

 私がそんなふうに零すと、環は一瞬フリーズして呆れたような視線を向けた。

「バーカ、これ逃したら後がねーぞ」
「うん……だよね」
「ほら、早く立てって! マジで帰れなくなる」
「分かってる。でも、乗りたくないんだよ」

 今夜最後の発車メロディーが駅の構内に鳴り響く。列車はすでに準備万端、あとは私たちがあのドアに向かって走るだけだ。
 行かなきゃ。今なら間に合う。きっと環は私を置いていけないだろうから、このまま道連れにするわけにはいかない。

「あはっ、な~んて。ごめんね! ヤバっ、急ごう」

 ギリギリのところで理性が戻ってきて、慌てて彼の腕を引っぱった。二人で走れるはずだった。
 でも予想に反して、環は勢いよくその場にしゃがみ込む。

「……腹、痛てぇ……」
「えぇ?」
「トイレ行ってくっから……華也乃は先に乗ってろ」

 ちょっと待って! 先にって言われても、その後は朝の5時なんだけど⁉
 躊躇っているうちにメロディが鳴り止んで、プシューっと気の抜けた音と共にドアが閉まってしまった。黄色い車両が音を立てて動き出し、ゆっくりと目の前から消えていく。

「ウソ……」

 意図せず終電を逃すことになって、私はただただ呆然とした。さっきまで子供みたいに『乗りたくない』なんて駄々をこねてたのが笑える。
 だってリアルは足元でお腹を押さえてうなる環、憧れてた世界なんて1ミリもない。もちろんこの先のストーリーを想像できるわけもなかった。


☆★☆

「ねえ、今からどうするの?」
「新宿なんだし、どーにでもなんだろ」
「それはそうだけど……。映画? カラオケ? 朝までやってるカフェとか居酒屋に入ってみるとか?」
「ん~まだまだあるっしょ。ダーツ、卓球、バッティングセンター」
「うわっ、さすが体力おばけ(笑)」
「って言うかさ、むしろ始発までじゃ足りなくね?」

 夏の始まりの湿っぽい風がしっとりと頬を撫でる。
 南の空の一番高いところには銀色の月。それをときおり見上げながら、灯りが半分落ちた駅前をぶらぶらと横並びで歩いた。
 せっかくだからってやりたい事を順番にあげていったら、あっという間に1時間が過ぎてしまった。たしかに環の言う通り、さっさと動かなきゃ時間が足りない。

「じゃあ、急ごう。まずは――」

 ちょっと体を動かそうってことになって、深夜営業のボーリング場に入った。
 場内は明るく清潔で、こんな時間にもかかわらず笑い声が響いてるのが不思議。流行りのJ-POPが流れる中、私は久しぶりにレーンに立つ。

「何か賭けねー?」

 環はボーリングの球を片手に持って、不敵な笑みを浮かべた。
 よっぽど自信があるってこと? こっちはすでにルールさえ忘れかけてるのに。
 でももちろん、勝負を受けないっていう選択肢はない。負けず嫌いな血が騒ぐ。

「いいよ。何にするの? ゲーム代おごりとか?」
「そんなんじゃ平凡すぎてつまんねーだろ。負けた方が、勝った方の言う事をイッコ聞くってのにしよーぜ」
「うわっ、サークルのノリだ」
「自信ない? やめとく?」
「まっさか! そのかわりハンデ30だからね、後悔しないでよ」
「ふ~ん、その程度でいいんだ?」

 ああ、そう聞かれた時、もっと増やしておけば良かった……。
 高校生ぶりとはいえ50点以上開いたスコア票と、環のドヤ顔に愕然とする。

「さ~てどうしよっかなぁ。ゼミのレポーをト手伝ってもらうか、来週発売のコンビニ限定カップ麺を買ってきてもらうか」
「どっちも重責なやつね」

 環は『もう少し考えるか』とニヤニヤしながらも、私のボールまで軽々持ち上げて片付けてくれた。こういうとこ、なんかズルいなぁって思う。

「で、こっから何する?」
「うん、えっとね……夜パフェ!」

 一度やってみたかった深夜のパフェタイム!
 お洒落な専門店はすでにクローズしてたから、24時間営業のファミレスに入った。
 小腹も空いてきたしポテトも唐揚げも食べたかったけど……とりあえず、白桃と桜桃のパフェ! 真夜中にも関わらずテンションが上がる。

「カワイイ~♡ ちょっと待って! そっちのも並べて撮りたい」
「SNSにでも上げんの?」
「違う、画像だけ残すの。私の“背徳記録”」
「何だそれ。って言うか、早く食べれば? こっち側すでに垂れてる」

 環は溶けかけたアイスを自分のロングスプーンですくうと、躊躇いもせずに私の前に差し出してきた。
 反射的にパクッと口にする。熟れた果実の甘酸っぱい香りが鼻にぬけて、冷んやりしたアイスが舌の上でとろける。

「おいしい♡ ヤバいよ、ねえ、これヤバくない?」
「語彙力……」
「この時間だからかな? なんか特別に美味しいよね」
「違うだろ。こうやって一緒に食うから、なおさら美味いんじゃん」

 環が真顔でそんなこと言うなんて意外だった。
 甘いものが特別好きってわけでもないくせに、それじゃまるで、私とだから美味しいって聞こえる。
 言い慣れてるんだろうなぁ。昔はもっと純朴って感じだったのに、いつからこんなにスマートな台詞が浮かないメンズになったんだろう。

「……チャラいけどね」
「はぁ?」

 でも実際、環と食べたパフェは過去イチで美味しかったし、一緒に過ごしたこの数時間は会話が途切れないほど楽しかった。
 でも、だからこそ、ふと現実に戻るの。
 終電後の夜は長くて、自由で、新しい何かが始まりそうな予感に満ちているのに。中谷さんはこんなにも特別な時間を、私には1ミリも教えてくれなかったなぁって。


 ☆★☆

 タイムリミットは赤焼けた薄明が知らせてくれた。
 夜から朝へとグラデーションする空の下を、私と環は何てことない会話を続けながらゆっくりと駅へ向かう。

「危なかったね。あのまま次の曲入れてたら、間に合わなかったかも」
「だから言ったじゃん。始発も逃す勢いだって」

 けっきょくその後に行ったカラオケは不完全燃焼だし、映画はもちろん卓球もダーツもできなかった。1日の始まりにこんな寂しい気持ちになるなんて初めてかもしれない。

 西武新宿の駅に着く。
 改札のシャッターがガラガラと開いて発車標にLEDが点く。30分後には始発が来るのが確認できたけど、私はまだ改札を通る気にはなれなかった。
 環も同じ気持ちだったのかな? 直前で立ち止まると私の腕を引っぱってUターンして、近くの壁にもたれかかる。

「楽しかったな」

 向けられた視線がどこか熱を帯びている気がして、私の心臓は大きく跳ねた。
 ヤダな、何か変な感じ。徹夜明けのハイテンションが妙に甘い雰囲気を連れてくる。これじゃまるで、別れを惜しむ恋人たちみたいじゃない?
 胸の奥が疼くみたいな、体中が発熱してるような。そんな落ちつかない気持ち、環と一緒じゃあり得ないはずのに。

「えっと……そう言えば、あんたお腹はもう大丈夫なの?」

 何か喋らなきゃって心が急いて、冗談めかしながら近くのトイレを指差した。

「さっきガッツリ冷たいもの食べてたし、念のためもう1回行ってきたら?」
「いや、さすがに二度はないでしょ」
「そんなこと言って、始発も逃したら笑えるよ?」
「うん。でもまあ、アレ嘘だから」

 悪びれもなくさらっと答えた環に、私は一瞬言葉を失う。

「……ウソって、何が?」
「悪い。あの時、別に腹なんか痛くなかった」
「はぁ⁉ 信っじらんないっ! 何でそんな嘘ついたわけ?」
「さー、何ででしょう?」

 理解が追いつかずうろたえる私を見て、環は悪戯っぽく片方の口角をつり上げた。含みのあるその表情はどこか意地悪で、どこか優しい。
 まるで私の反応を楽しむように、でもそれ以上は白状する気がないみたいに、視線をそらしてさっさと話題を変える。

「なー、それよりボーリングの賭け――イッコ言うこと聞くってやつだけど、今使っていい?」

 このタイミングで、それ? 
 疑問も文句も喉まで出かかったけど、今さら責めてもどうにもならない。わざとらしく深いため息を吐いて、肩をすくめてやる。

「どーぞ。で、けっきょく何に決めたの? レポート? カップメン?」
「あーそれどっちもヤメで。それよりあの営業の男とどうなったのか、ちゃんと聞かせてくれない?」

 再び視線をこっちに戻して、真顔で問いかけてきた環。想像もしてなかった要求に、まどろみから一気に引き戻された気分になる。
 中谷さんとのこと――すでにずいぶん昔のことのように感じていたんだけど。そうだよね。こんなふうに朝を迎えることになったのは、そもそも私の恋が原因なわけで。環には隠さず話さないわけにはいかない。

「30分で語れるかな」

 苦笑いしながらスマホで時計を確認し、私は『終わっちゃった』って結論から口にした。
 ホテルの前で朝帰りを断られたこと、理由を聞いてもはぐらかされたこと、さよならを告げても引き止めてもらえなかったこと。淡々と、まるで昨日の業務報告みたいに話す。
 こんな話、もっと胸がギュッて痛くなると思ったのに、いつの間にかその領域は通り抜けていたみたい。感情が高ぶることも彼への想いが再燃することもなく、ただ言葉がするりと流れていく。
 私の恋はすでに、あのきらめくネオン通りに置いてきたらしい。ちょっと可笑しくてちょっと寂しい。

 聞かせて欲しいなんて言ってきたくせに、環はただ頷くだけだった。
 叱責も慰めも特になくて、私の心の奥をそっと覗き込むように、ときどき涼し気な視線を寄せてくる。

「はい、これでボーリングの負けはチャラだからね」

 語り終わってスマホの画面に目を落とすと、かかった時間はたったの5分。始発に間に合わなくなるかもなんて心配は、ぜんぜん必要なかったみたい。
 さっぱりした気分で笑った私とは違って、環はどこか腑に落ちない表情をしていた。
 そろそろ改札を入ろうと提案するも、腕の中に閉じこめるみたいに私の行く手を阻んで、その場から離れさせてはくれない。

「あいつのどこがそんなに好きだったんだよ?」

 声の温度が下がる。なんでこのタイミングで怒るかなぁ。

「もういいじゃない。それより環、ちょっと近いって」

 私は身をよじって逃げようとしてみるけど、環の腕がやっぱりそれを許してくれなかった。

「解放して欲しいなら、そこまでちゃんと聞かせろ」

 真っ直ぐな瞳に捕らえられてまたドキッとする。調子狂うなぁ、今日は。
 慣れないこの感情が何なのか、考えだしたらパンクしそうな気がして、私は面倒くささを誤魔化すように雑に答える。

「え~? 優しくて、落ち着いてて、大人なとこ?」

 環はピクリと眉を上げて、あからさまにムッとした顔になった。

「はぁ? オレの方がぜってー優しいと思うけど?」
「ちょっと、急にどうしたのよ?」
「オレの方が人脈広いし、頭もいいし、ぜってー営業向きだし。将来有望じゃね?」
「だから何でそこ張り合うかなぁ」

 環、変だ。いつもの太々しくて、腹立たしいほど余裕たっぷりな態度はどこにもない。耳をうっすら赤くして、子供みたいに不貞腐れて。
 何だろう、この空気。胸がザワザワ落ち着かなくなる。

「だって仕方ねーじゃん。15年以上も絡んできたのに、華也乃はオレのことなんか眼中ねーんだから」

 そう掠れた声で囁くと、環は長いまつ毛をパサリと揺らして、私にあと一歩――ゆっくりと顔を近づけた。
 こんな距離で環の顔を見たのは初めてかもしれない。整ったキレイな顔立ち、鋭いけどどこか柔らかい瞳。
 ぼんやりと見惚れたその刹那、環の唇がほんの一瞬、私の唇に触れた。
 心臓がはねる。頭が真っ白になる。 

「オレにとって華也乃は、そこらへんの男がどうこうしていい女じゃないから」
「……え?」
「明るくて、バカみたいに真っ直ぐで、いつも一生懸命で――」

 環の声は低く、今までにないほど熱を帯びていた。まるで長年胸にしまっていた何かを、ようやく吐き出すみたいに。

「優しくて、誰にも媚びなくて、強くて――」
「ちょ、ちょっと! 止めてよ」

 矢継ぎ早の褒め殺しに耐えきれず、私は両手で環の口を勢いよく塞いだ。
 頬が熱い。いや、熱すぎる。まるで蒸気でも上がってるみたい、何よこの状況。
 普段は私をからかってヘラヘラしてる環が、こんな……私のことを切なげに語るなんて信じられない。

「待って。……どういうこと?」

 ぜんぜん気づかなかった。環がそんな目で私を見てたなんて。
 ねえ、いつから? どうして? 驚きと恥ずかしさが混じって、目尻にじんわり涙が滲む。
 それを隠したくて、私はわざとキッと環を睨みつけた。
 でも彼はそんな私の反応さえも愛おしそうに眺めて、伸ばした私の手を逆り握り返す。
 そして、そっと指先にキスを落とした。

「イチイチ可愛い反応するとこも、全部好きだ」

 その言葉に、胸が締めつけられる。
 情感のこもった環のほろ甘い視線に包まれて、もう逃げ場がない。

「……あんた、おかしいよ? 何かに取り憑かれてるんじゃない? ……ほら! あの妖怪!」

 私は必至で話題を逸らそうとする。動揺を誤魔化したくて、ふざけた口調で続ける。

「あれだよ、アレ! ”お疲れサマーズ”」

 環は一瞬キョトンとして、すぐにクスッと笑った。

「うん、まあ。自覚はある。このテンションじゃなきゃ、絶対に言えなかったし」

 その瞬間、電車の発車を知らせるチャイムが改札の外まで響き渡る。
 終電を逃したハイテンションのまま、私と環は走るか諦めるか真剣に迷って、顔を見合わせながら同時に大笑いした。
 ああ、ヤバい。これで始発も逃すの決定だ。


 憧れてた0時過ぎの世界は、想像してた耽美的なものにはならなかったけど。
 この胸を満たす温かい何か――環と共有できたこの気持ちがあるなら、私たちのストーリーはきっとこの先も続いていくんだろう。
 そう、確信してる。

 《Fin》