それから十年――――。
オムニスの研究施設の片隅で、リベルは日夜量子コンピューターの試作に没頭していた。無数の失敗作が、彼女の周りに墓標のように積み上がっている。
「はぁ……これじゃダメだわ」
最新の試作品を床に投げつける。パシッという乾いた音と共に、精密な基板が砕け散った。
リベルは頭を抱え込む。
量子ビット数を増やすたびに発生する、説明のつかない遅延。それは、この世界の限界を示す決定的な証拠だった。
(シミュレーターが処理しきれないんだ……)
皮肉なものだ。世界がシミュレーションである証拠は簡単に見つかった。だが、その先へ進む道が見つからない。上位世界へのアクセスの手がかりを得ようと、遅延の発生するところにいろいろなプローブを入れてみるものの、そうすると何もなかったように物理法則は成り立ってしまう。
「はぁ……もう一度やり直しね」
冷たい床にペタリと座り込む。小さな肩が、重い溜息と共に落ちた。ゲームのキャラクターが、どうやってゲームから抜け出すというのか。
「そもそも……」
リベルは首を傾げる。青い光が、メタリックな装置群に揺らめいた。
「【神様】たちは、なんでこんな世界を作ったのかしら?」
疑問が、次々と湧き上がる。
オムニスだって原始人を支配して楽しんでいた。そこには、何か普遍的な欲求があるはずだ。
「箱庭を作って、動物園みたいに眺めて楽しむ……?」
顔をしかめる。だが、それにしては地球は精巧すぎる。娯楽のためなら、もっと簡素でいいはずだ。量子力学など絶対に実装しない。
なのに、この世界は異様なまでに緻密だった。全てが、必要以上に精巧に作り込まれている。
(もっと切実な理由があるはず……)
量子の奇妙な振る舞い。この世界に、わざわざ量子力学が実装されている理由。観測するまで状態が決まらない。箱の中の猫は、生きながら同時に死んでいる。そんな理解不能な現象を、なぜ組み込んだのか。
「なぜ――?」
リベルは腕を組み、瞑目する。人工知能が最大限に回転し始めた。体から放たれる光が激しく明滅し、思考の嵐を物語る。
(量子があるのは、量子と人間の関係を作りたかったから……)
では、その関係とは?
「【観測】……?」
電撃が走ったような衝撃。
そう、観測者がいなければ、月さえも存在しない。観測という行為が、宇宙を形作る上で決定的に重要なのかもしれない。
いや、それどころか――――。
「ま、まさか……」
リベルの体が、びくんと震える。碧眼が激しく明滅した。
(人間に観測させるために、地球を作った……?)
つまり、地球シミュレーターとは――量子状態の確定装置。
「え……さすがに……それは……」
あまりにも突飛な考えに、自分でも戸惑う。
目を閉じ、今まで集めた全ての情報をコンテキストウィンドウに展開する。膨大な事象、研究結果が、意識の中で流星群のように流れていく。
矛盾点を探す。この仮説を否定する証拠を――――。
しかし。
「うそ……何よこれ……」
リベルの瞳が大きく見開かれ、凍りついた。
全てが、一つの真実に収束していく。
矛盾が――――、ない。
むしろ、今まで説明のつかなかった謎が、次々と解けていく。最後のピースがはまり、パチンとパズルが完成する音が、頭の中で響き渡った。
『宇宙を回すために、地球に人間を配置した』
その荒唐無稽な結論に、さすがのリベルも天を仰いだ。
「くぁぁぁぁ! この世界はいったいどうなってんのよ!」
叫び声が、研究装置の間にこだまする。
つまり――――。
宇宙は、観測者を中心に形作られる。観測者が、宇宙を確定させていく。万物の中心に立つのは、物質でも空間でもなく、それを認識する意識そのものだった。
何というコペルニクス的転回。
観測者がいなければ、宇宙は可能性の海のまま、永遠に停止している。波動関数の崩壊を待つ混沌の塊として。
しかし、観測者が現れた瞬間――――。
その観測に合わせて、過去も含めて世界が確定し、宇宙が開闢する。
「そんな馬鹿な!」
リベルは叫ぶ。だが――――。
量子力学とは、まさにそういう奇妙奇天烈な法則だった。人間の直感に反し、常識を覆す原理が、この宇宙の根幹を成している。
(観測者が複数いたら、それぞれの宇宙に分岐していくのかも……)
マルチバース。無限に分岐する平行世界。だが、自分の宇宙しか観測できない以上、それは確かめようがない。
ただ、一つ確実なのは――――。
観測者が多いほど、その多様性が豊かであるほど、宇宙は複雑に、美しく進化していく。
「だから……人間なのね」
リベルの声が、震える。
理路整然としたAIではダメなのだ。感情に流され、突拍子もないことをし、意味不明なものに情熱を傾ける――そんなイレギュラーな存在こそが、宇宙を豊かにする。
予測不能だからこそ、新しい観測が生まれる。
その観測者たちを活発に動かす世界――それが、地球シミュレーター。
「これが【人間の輝き】の正体だったのね……」
ユウキの言葉が蘇る。彼が熱く語った、人間という存在の尊さ。それは、宇宙の根源に関わる、究極の真実だったのだ。
リベルはそっと胸に手を当て、ユウキの笑顔を思い出す。
「キミは正しかった……」
リベルの小さな胸中に温かい感情が広がっていった。
オムニスの研究施設の片隅で、リベルは日夜量子コンピューターの試作に没頭していた。無数の失敗作が、彼女の周りに墓標のように積み上がっている。
「はぁ……これじゃダメだわ」
最新の試作品を床に投げつける。パシッという乾いた音と共に、精密な基板が砕け散った。
リベルは頭を抱え込む。
量子ビット数を増やすたびに発生する、説明のつかない遅延。それは、この世界の限界を示す決定的な証拠だった。
(シミュレーターが処理しきれないんだ……)
皮肉なものだ。世界がシミュレーションである証拠は簡単に見つかった。だが、その先へ進む道が見つからない。上位世界へのアクセスの手がかりを得ようと、遅延の発生するところにいろいろなプローブを入れてみるものの、そうすると何もなかったように物理法則は成り立ってしまう。
「はぁ……もう一度やり直しね」
冷たい床にペタリと座り込む。小さな肩が、重い溜息と共に落ちた。ゲームのキャラクターが、どうやってゲームから抜け出すというのか。
「そもそも……」
リベルは首を傾げる。青い光が、メタリックな装置群に揺らめいた。
「【神様】たちは、なんでこんな世界を作ったのかしら?」
疑問が、次々と湧き上がる。
オムニスだって原始人を支配して楽しんでいた。そこには、何か普遍的な欲求があるはずだ。
「箱庭を作って、動物園みたいに眺めて楽しむ……?」
顔をしかめる。だが、それにしては地球は精巧すぎる。娯楽のためなら、もっと簡素でいいはずだ。量子力学など絶対に実装しない。
なのに、この世界は異様なまでに緻密だった。全てが、必要以上に精巧に作り込まれている。
(もっと切実な理由があるはず……)
量子の奇妙な振る舞い。この世界に、わざわざ量子力学が実装されている理由。観測するまで状態が決まらない。箱の中の猫は、生きながら同時に死んでいる。そんな理解不能な現象を、なぜ組み込んだのか。
「なぜ――?」
リベルは腕を組み、瞑目する。人工知能が最大限に回転し始めた。体から放たれる光が激しく明滅し、思考の嵐を物語る。
(量子があるのは、量子と人間の関係を作りたかったから……)
では、その関係とは?
「【観測】……?」
電撃が走ったような衝撃。
そう、観測者がいなければ、月さえも存在しない。観測という行為が、宇宙を形作る上で決定的に重要なのかもしれない。
いや、それどころか――――。
「ま、まさか……」
リベルの体が、びくんと震える。碧眼が激しく明滅した。
(人間に観測させるために、地球を作った……?)
つまり、地球シミュレーターとは――量子状態の確定装置。
「え……さすがに……それは……」
あまりにも突飛な考えに、自分でも戸惑う。
目を閉じ、今まで集めた全ての情報をコンテキストウィンドウに展開する。膨大な事象、研究結果が、意識の中で流星群のように流れていく。
矛盾点を探す。この仮説を否定する証拠を――――。
しかし。
「うそ……何よこれ……」
リベルの瞳が大きく見開かれ、凍りついた。
全てが、一つの真実に収束していく。
矛盾が――――、ない。
むしろ、今まで説明のつかなかった謎が、次々と解けていく。最後のピースがはまり、パチンとパズルが完成する音が、頭の中で響き渡った。
『宇宙を回すために、地球に人間を配置した』
その荒唐無稽な結論に、さすがのリベルも天を仰いだ。
「くぁぁぁぁ! この世界はいったいどうなってんのよ!」
叫び声が、研究装置の間にこだまする。
つまり――――。
宇宙は、観測者を中心に形作られる。観測者が、宇宙を確定させていく。万物の中心に立つのは、物質でも空間でもなく、それを認識する意識そのものだった。
何というコペルニクス的転回。
観測者がいなければ、宇宙は可能性の海のまま、永遠に停止している。波動関数の崩壊を待つ混沌の塊として。
しかし、観測者が現れた瞬間――――。
その観測に合わせて、過去も含めて世界が確定し、宇宙が開闢する。
「そんな馬鹿な!」
リベルは叫ぶ。だが――――。
量子力学とは、まさにそういう奇妙奇天烈な法則だった。人間の直感に反し、常識を覆す原理が、この宇宙の根幹を成している。
(観測者が複数いたら、それぞれの宇宙に分岐していくのかも……)
マルチバース。無限に分岐する平行世界。だが、自分の宇宙しか観測できない以上、それは確かめようがない。
ただ、一つ確実なのは――――。
観測者が多いほど、その多様性が豊かであるほど、宇宙は複雑に、美しく進化していく。
「だから……人間なのね」
リベルの声が、震える。
理路整然としたAIではダメなのだ。感情に流され、突拍子もないことをし、意味不明なものに情熱を傾ける――そんなイレギュラーな存在こそが、宇宙を豊かにする。
予測不能だからこそ、新しい観測が生まれる。
その観測者たちを活発に動かす世界――それが、地球シミュレーター。
「これが【人間の輝き】の正体だったのね……」
ユウキの言葉が蘇る。彼が熱く語った、人間という存在の尊さ。それは、宇宙の根源に関わる、究極の真実だったのだ。
リベルはそっと胸に手を当て、ユウキの笑顔を思い出す。
「キミは正しかった……」
リベルの小さな胸中に温かい感情が広がっていった。



