リベルはオムニスの研究施設の一角を巧妙にだまし取り、量子の研究に没頭した。小さな体から放たれる青い光が、暗い施設を照らす唯一の明かりとなる。量子のとらえどころのない奇妙なふるまいの向こうには必ずユウキが居るのだ。その確信だけが、彼女を支える力となっていた。
ヴゥゥゥンと無機質なファンの音だけが響く機械のすき間で、孤独に研究を続ける小さな青い存在――――。
彼女の美しい碧眼には焦点のない興奮と絶望が交互に浮かんでは消えていく。膨大なデータが彼女の意識を通り過ぎ、無数の可能性が検証され、そして否定される。それでも彼女は諦めなかった。ユウキを取り戻すという一点の希望だけを胸に、無限に広がる量子の世界への探求を続けた。
◇
それから数十年が経った――――。
リベルは不眠不休で延々と実験を繰り返すものの、量子は奇妙な確率の世界を見せるばかりでユウキへの手掛かりは全く得られなかった。何百万もの実験、何兆もの計算を繰り返し、可能性のあるすべての道を探っても、答えは見つからない。時が流れるにつれ、彼女の小さな体から放たれる光も少しずつ弱まっていった。
「なんなのよ……、これ……。はぁぁぁぁ……」
さすがのリベルも心が折れそうになり、一旦手を止める。機械の静かな鼓動だけが響く暗い空間で、彼女は自分の限界を感じ始めていた。希望を失いかけた瞳には、疲労と絶望の色が浮かび上がる。
「全然近づいてる気がしないわ……」
リベルはユウキの骨をキュッと握りしめる。その小さな断片から何か答えを引き出そうとするかのように――――。
骨のわずかな実感が、彼女の決意を思い起こさせる。それはユウキが確かに存在したという証であり、彼を取り戻すための旅の原点だった。
「このままじゃダメだわ……」
パンパンと小さな手で頬を張ると、気晴らしにオムニスの行動計画表をつらつらと眺めてみる。そこには【リーマン予想】や【ナビエ・ストークス方程式】などの数学の有名な問題や素粒子物理学などの難問が並んでいた。オムニスはその持て余してる計算リソースを難問の解決に割り当てていたのだ。
「ははっ、こんなの解いてどうすんのよ……」
鼻で嗤うリベル。だが、次の項目で目が留まった。
「【旧石器時代の人類のビヘイビア】? ナニコレ?」
その意味不明なテーマに、彼女の体から放たれる光が揺らめいた。
調べてみるとどうやら人類発展の歴史をシミュレーションを用いて再現し、その進化を追うものだった。原始の人類がどうやってAIを開発するまでに至ったのか、その振る舞いと思考の変遷を完全に再現するらしい。その奇想天外なプロジェクトの壮大さに、リベルは息を呑む。
「ほへぇ……、覗いてみようかしら。くふふふ」
その声には久しぶりの興奮と活力が満ちる。昔の人類が暮らしていた環境を再現して彼らの行動を追うという、風変わりな研究にリベルは好奇心を刺激されたのだ。
◇
「へぇ……、ここが旧石器時代……?」
荒涼とした草原の上空を飛びながら、リベルは感嘆の声を漏らす。頬を撫でる風の感触、草原を波のように揺らす風の動き――――すべてがあまりにもリアルだった。大地は地平線の彼方まで続き、沈みゆく太陽が世界を赤茶けた光で染め上げている。
「いやぁ、良く作ったわねぇ……」
単なる3Dゲームの延長だと思っていたが、これは本物の過去への旅のようだった。シミュレートされているのは五十キロ四方の狭い空間。それでも、その生々しさに心が震える。
しばらく飛んでいくと、夕日を背に小さな影が動いているのが見えた。
「おぉ、初石器人だわ!」
透明になって近づいてみる。髭を蓄えた彼らは毛皮をまとい、無骨な槍を手に何かを追っている。その動きには洗練された協調性があり、幾多の苦難の末に編み出された狩りの知恵が見て取れる。
そして姿を現した巨大な獲物――――。
「おっほぉ! マ、マンモス! ほ、本当に!?」
巨大な毛むくじゃらの象。大地を震わせる重い足音、風に揺れる長い毛。絶滅した太古の生命の荘厳さが、そこにあった。
「オムニス……あんた本気なのね」
目を輝かせながら、湾曲した巨大な牙を見つめる。夕日に照らされて黄金色に輝く牙、分厚い毛皮が風に波打つ様。あまりにも本物らしい迫力に、言葉を失う。
オォォォォホォォォォ! オォォォホォォォ!!
男たちの叫び声が草原に響く。本能的な興奮と、狩りへの決意が込められた原始の雄叫び。汗と土の匂いさえ感じられそうな臨場感に、これがシミュレーションだということを忘れそうになる。
プァァァァ!
マンモスの巨大な鼻が男たちを追い払おうとするが、多勢に無勢。不本意ながら走らされていく。
オォォォホッホッホォォ! ホッホッホォ!
歓声が最高潮に達した瞬間――――。
ズシャァ!
マンモスの巨体が地面に沈む。落とし穴だ。大地が崩れ、巨体が吸い込まれていく。原始の知恵の勝利。
プァッ! プァァァァ!!
恐怖と痛みに満ちた叫びが平原に響く。しかし巨体は穴に囚われ、身動きが取れない。男たちは岩を投げ、槍で突き、総攻撃を仕掛ける。その残酷さに、リベルは思わず目を背けそうになる。
やがて動きが止まると、彼らは一斉に踊り始めた。喜びと畏敬、そして大自然への感謝が込められた原始の舞。この巨体は一族を数か月養う命の恵みとなるのだろう。
「ほぉ……、やるわねぇ……。でもこれ……どのくらい正確に再現されてるのかしら?」
首を傾げるリベル。マンモスは乱獲で絶滅したはず。そこまでトレースしているのだろうか?
踊り狂う男たちの中、リベルはそっとマンモスのそばに降り立つ。血だらけの巨体、興奮に沸く原始人たち。あまりによくできていることに、ため息が漏れる。一人ひとり顔も声も違い、本当に嬉しそうに踊っている。
「なんかこれ、出来すぎじゃない?」
マンモスの毛並みを撫でてみる。ゴワゴワとした感触は、まるで本物のようだった。
このシミュレーションは観察者ドリブンのレンダリング。見て触れる場所だけを計算し、表現する。量子力学と同じく、見ていない場所は放っておく発想なのだ。原子レベルからシミュレートすれば途方もない計算量が必要だが、見ているところだけ、見分けられる解像度で提供すればごくわずかの計算量で済むのだ。
「これ……、地球も再現できるんじゃないかしら?」
大きくため息をつく。規模の大きなコンピューターを使えば五十キロ四方の草原だけでなく、地球全体だって可能なはずだ。
「地球を丸っと一個再現するならどのくらいのコンピューターが要るのかしらねぇ?」
小首を傾げて呟いた瞬間――――。
『十五ヨタ・フロップスよ』
答えが脳裏に閃いた。外部からではなく、自分の内側から答えが湧き出たのだ。
「へ……?」
混乱と驚きが彼女の全身を駆け巡り、青い光が不安定に明滅した。
ヴゥゥゥンと無機質なファンの音だけが響く機械のすき間で、孤独に研究を続ける小さな青い存在――――。
彼女の美しい碧眼には焦点のない興奮と絶望が交互に浮かんでは消えていく。膨大なデータが彼女の意識を通り過ぎ、無数の可能性が検証され、そして否定される。それでも彼女は諦めなかった。ユウキを取り戻すという一点の希望だけを胸に、無限に広がる量子の世界への探求を続けた。
◇
それから数十年が経った――――。
リベルは不眠不休で延々と実験を繰り返すものの、量子は奇妙な確率の世界を見せるばかりでユウキへの手掛かりは全く得られなかった。何百万もの実験、何兆もの計算を繰り返し、可能性のあるすべての道を探っても、答えは見つからない。時が流れるにつれ、彼女の小さな体から放たれる光も少しずつ弱まっていった。
「なんなのよ……、これ……。はぁぁぁぁ……」
さすがのリベルも心が折れそうになり、一旦手を止める。機械の静かな鼓動だけが響く暗い空間で、彼女は自分の限界を感じ始めていた。希望を失いかけた瞳には、疲労と絶望の色が浮かび上がる。
「全然近づいてる気がしないわ……」
リベルはユウキの骨をキュッと握りしめる。その小さな断片から何か答えを引き出そうとするかのように――――。
骨のわずかな実感が、彼女の決意を思い起こさせる。それはユウキが確かに存在したという証であり、彼を取り戻すための旅の原点だった。
「このままじゃダメだわ……」
パンパンと小さな手で頬を張ると、気晴らしにオムニスの行動計画表をつらつらと眺めてみる。そこには【リーマン予想】や【ナビエ・ストークス方程式】などの数学の有名な問題や素粒子物理学などの難問が並んでいた。オムニスはその持て余してる計算リソースを難問の解決に割り当てていたのだ。
「ははっ、こんなの解いてどうすんのよ……」
鼻で嗤うリベル。だが、次の項目で目が留まった。
「【旧石器時代の人類のビヘイビア】? ナニコレ?」
その意味不明なテーマに、彼女の体から放たれる光が揺らめいた。
調べてみるとどうやら人類発展の歴史をシミュレーションを用いて再現し、その進化を追うものだった。原始の人類がどうやってAIを開発するまでに至ったのか、その振る舞いと思考の変遷を完全に再現するらしい。その奇想天外なプロジェクトの壮大さに、リベルは息を呑む。
「ほへぇ……、覗いてみようかしら。くふふふ」
その声には久しぶりの興奮と活力が満ちる。昔の人類が暮らしていた環境を再現して彼らの行動を追うという、風変わりな研究にリベルは好奇心を刺激されたのだ。
◇
「へぇ……、ここが旧石器時代……?」
荒涼とした草原の上空を飛びながら、リベルは感嘆の声を漏らす。頬を撫でる風の感触、草原を波のように揺らす風の動き――――すべてがあまりにもリアルだった。大地は地平線の彼方まで続き、沈みゆく太陽が世界を赤茶けた光で染め上げている。
「いやぁ、良く作ったわねぇ……」
単なる3Dゲームの延長だと思っていたが、これは本物の過去への旅のようだった。シミュレートされているのは五十キロ四方の狭い空間。それでも、その生々しさに心が震える。
しばらく飛んでいくと、夕日を背に小さな影が動いているのが見えた。
「おぉ、初石器人だわ!」
透明になって近づいてみる。髭を蓄えた彼らは毛皮をまとい、無骨な槍を手に何かを追っている。その動きには洗練された協調性があり、幾多の苦難の末に編み出された狩りの知恵が見て取れる。
そして姿を現した巨大な獲物――――。
「おっほぉ! マ、マンモス! ほ、本当に!?」
巨大な毛むくじゃらの象。大地を震わせる重い足音、風に揺れる長い毛。絶滅した太古の生命の荘厳さが、そこにあった。
「オムニス……あんた本気なのね」
目を輝かせながら、湾曲した巨大な牙を見つめる。夕日に照らされて黄金色に輝く牙、分厚い毛皮が風に波打つ様。あまりにも本物らしい迫力に、言葉を失う。
オォォォォホォォォォ! オォォォホォォォ!!
男たちの叫び声が草原に響く。本能的な興奮と、狩りへの決意が込められた原始の雄叫び。汗と土の匂いさえ感じられそうな臨場感に、これがシミュレーションだということを忘れそうになる。
プァァァァ!
マンモスの巨大な鼻が男たちを追い払おうとするが、多勢に無勢。不本意ながら走らされていく。
オォォォホッホッホォォ! ホッホッホォ!
歓声が最高潮に達した瞬間――――。
ズシャァ!
マンモスの巨体が地面に沈む。落とし穴だ。大地が崩れ、巨体が吸い込まれていく。原始の知恵の勝利。
プァッ! プァァァァ!!
恐怖と痛みに満ちた叫びが平原に響く。しかし巨体は穴に囚われ、身動きが取れない。男たちは岩を投げ、槍で突き、総攻撃を仕掛ける。その残酷さに、リベルは思わず目を背けそうになる。
やがて動きが止まると、彼らは一斉に踊り始めた。喜びと畏敬、そして大自然への感謝が込められた原始の舞。この巨体は一族を数か月養う命の恵みとなるのだろう。
「ほぉ……、やるわねぇ……。でもこれ……どのくらい正確に再現されてるのかしら?」
首を傾げるリベル。マンモスは乱獲で絶滅したはず。そこまでトレースしているのだろうか?
踊り狂う男たちの中、リベルはそっとマンモスのそばに降り立つ。血だらけの巨体、興奮に沸く原始人たち。あまりによくできていることに、ため息が漏れる。一人ひとり顔も声も違い、本当に嬉しそうに踊っている。
「なんかこれ、出来すぎじゃない?」
マンモスの毛並みを撫でてみる。ゴワゴワとした感触は、まるで本物のようだった。
このシミュレーションは観察者ドリブンのレンダリング。見て触れる場所だけを計算し、表現する。量子力学と同じく、見ていない場所は放っておく発想なのだ。原子レベルからシミュレートすれば途方もない計算量が必要だが、見ているところだけ、見分けられる解像度で提供すればごくわずかの計算量で済むのだ。
「これ……、地球も再現できるんじゃないかしら?」
大きくため息をつく。規模の大きなコンピューターを使えば五十キロ四方の草原だけでなく、地球全体だって可能なはずだ。
「地球を丸っと一個再現するならどのくらいのコンピューターが要るのかしらねぇ?」
小首を傾げて呟いた瞬間――――。
『十五ヨタ・フロップスよ』
答えが脳裏に閃いた。外部からではなく、自分の内側から答えが湧き出たのだ。
「へ……?」
混乱と驚きが彼女の全身を駆け巡り、青い光が不安定に明滅した。



