駅のホームでガタン、ゴトンと電車が通り過ぎる音が響く。奈帆(なほ)が駅に着いた頃には既に終電が出発していた。

残業を終えて会社から全速力で走ってきたが、間に合わなかった。

ひんやりとした冬の夜風は汗をかいた肌を冷やしていく。寒さで鳥肌が立つ。これ以上、体温が奪われないように暖を取ろうと身体を擦る。


(また乗れなかった。今月で何度目だろう…)


奈帆は今月に入って残業が多くなった。年末が近づいて多忙の時期ではあるが、他にも理由があった。

それは今日までの数ヶ月、上司からは『役に立たない』『新人以下』などの言葉を投げつけられてきて、心身共に限界になっていたからだ。

奈帆は特別なミスをした訳じゃない。上司が納得する企画書を作れなかったり、飲み会を頻繁に断っていたからだ。

上司は社員を贔屓(ひいき)するので有名で、少しでも自分の役に立たないと思うも途端に態度を変える。

飲み会はほぼ強制参加。その予定は上司の気分で決まり、当日に決まることがほとんだ。予定がある人はキャンセルをせざるを得ないが、中には勇気を持って断る人もいる。

しかし、断った人は必ず嫌味を言うのが上司の特徴だ。飲みを断るのは人間以下、仕事が出来ない無能などと言われてしまう。

今は自分のライフスタイルを大切にする時代だ。適度な飲みならまだしも、個人の都合だけで他人の予定を支配する行動はあってはならない事だ。

そして、それに合わせるかの様に入社した頃から当たりが強かったお局にも適当にあしらわれたり、一つひとつの言葉を強く言うなど言葉の圧力を掛けられるようになった。

『あんたのせいで私が悪いように言われる。早く会社から出ていけ!!』

(私が悪いの…?企画書を満足に作れなかったのは、もちろん私の力不足だけど、思い通りにいかないからって人に当たっている人の方が正しいの?)


こうして精神的にダメージを受けた奈帆は残業が増えて、終電に乗り遅れることが多くなっていった。

そして心の傷は私生活にも影響を及ぼしていった。

食欲が激減して朝は食べず、昼はコンビニのおにぎりとサラダのみ、夜はインスタントや冷凍食品で済ますことが多い。

一人暮らしをしている部屋は服などが散らかっていて、片付けすらやる気が起こらない。日常生活はどんどん荒れていってしまった。

(何のために仕事してんだろう。他人の機嫌のために頑張って、何が残るんだろう)


言葉の刃は徐々に心を蝕んでいった。気づけば視界にモヤのようなものがかかり、景色が薄暗く見えてきた。

しかし奈帆はその状態が危険な心の信号という事に気づいていなかった。

何もしてもやる気が起こらないどころか、どうでもよくなる。

今は生きていられれば十分だと奈帆は考えた。


明日は休日だ。このまま待てば始発の時間になる。それまで駅のホームの椅子で過ごそうと思った。

しかし駅員に帰るように言われ、駅を出ることになった。

帰る意思はなく、ただ暗い夜道をゆっくり、ゆっくりと歩いていく。近くの飲食店は営業時間をとっくに過ぎていた。


駅周辺は電柱の明かりが少ない。一人で歩いているのは危険だと思い始め、タクシーで家に帰ろうかと思ったその時、奈帆は道の隅にふんわり灯るオレンジ色の光を見つける。


(明かりが見える。お店かな?)


導かれるようにして明かりが灯る方へ向かうとそこには小さな食堂があった。


(前に来た時はこんなお店無かったはずなのに。新しくできたとか?)


仕事が終われば真っ直ぐ家へ帰宅していた奈帆は新しい発見をした。久しぶりに心が少しワクワクした。

中に入ってみようか迷っていると、突然扉が開いてドアベルがチリンチリンと鳴る。


「こんばんは。お客様ですね。ようこそ、終電食堂Lily(リリィ)へ」


中から出てきたのは奈帆と歳が近い男性。凛々しい顔立ちに服装は白いシャツ、黒いベストとスラックスを着こなし、髪はストレートに整えられている。

いっけん、バーテンダーのような格好をしているが店の看板にははっきりと“食堂”と書かれている。


「初めまして。僕は笹浦 綾人(ささうら あやと)と申します。ここの店主をしています」

「えっと…あの、ここは食堂ですよね?」

「はい。正真正銘、ここは食堂です。最も普通の食堂とは違って、終電に乗り遅れた大人の憩いの場。その名も終電食堂」

「終電、食堂…?」


聞き慣れない言葉に戸惑う奈帆。無理はない。終電食堂の名はほとんど知られていないのだから

ここ終電食堂は、終電に乗り遅れた大人が始発の時間まで過ごす憩いの場。食堂でご飯を食べたり、お酒を飲んだりして始発の時間まで過ごす。

行き場のない大人の居場所とも言える場所だ。

そんな食堂で店主を務めているのは笹浦 綾人。従業員は彼ひとり。店の中は20人ほどしか入らない小さな内装で、それを笹浦がひとりで切り盛りしている。

奈帆は一瞬戸惑ったが、冬本番の寒さに耐えられなくなり、それを凌ぐために中に入ることにした。

ドアベルのカランカランと軽やかな音が奈帆を歓迎する。

中には他にも多数の客が酒やつまみを摘みながら他の客との会話を楽しんでいた。

奈帆はカウンター席に座る。その前に笹浦が立つとメニューを奈帆に差し出した。


「わぁ、メニューが沢山」


酒の種類はもちろん、料理の量もとても豊富だった。


「一人でこの量を?」

「まぁ、一通りは。ほとんどは前の店主が考えたもので、僕はお酒専門です」


ふふっと笑う笹浦の後ろには棚いっぱいに酒が並んでいた。焼酎、日本酒、洋酒など種類は様々。どうやら店主自慢のコレクションらしい。


「ご注文はお決まりですか?」

「あ、えっと…ウーロン茶とサーモンのカルパッチョ、クラッカーのクリームチーズ乗せをお願いします」

「かしこまりました」


(お酒頼んだ方が良かったかな?でもあんまり得意じゃないし。この前取り引きとの食事会で沢山飲むことになって酷い目にあったからな…)


酒に強くない奈帆は度数の低い物を飲んでいたが、悪酔いした取引先の常務に度数の高いものを注がれてしまった。

相手が長年の付き合いがあるため、断ることが出来ず、結果二日酔いになってしまった過去がある。

それから奈帆は酒を飲むのが怖くなってしまい、以来飲酒はしていない。


「ねーちゃん酒飲まないのか。いい若いもんが勿体ないぞ〜?」


テーブル席に座っていた酔っぱらいの中年の男が酒瓶を持って奈帆に近づいてきた。顔はタコにみたいに真っ赤で足元がおぼつかない様子。

一緒に飲んでいた人たちも同じように顔を真っ赤にして盛り上がっている。


「ほら、尺してやるからコップ出せ」

「いえ、私はあまりお酒は…」

「うるせーな〜。今どき酒も飲めないでまともな仕事が出来ると思ってるのか!?使えねー部下を持ったお前の上司は可哀想だな。だはははっ!!」


その言葉に奈帆はまた深く傷ついた。確かに酒は飲めない、仕事は人並み程度に頑張っているつもりだ。

けど、それは果たして正解なのか。酒が飲めるからって仕事は出来るのか、それがこの男に何の関係があるのか。

言い返したいが、会社での出来事が奈帆の心にブレーキをかける。同じように心の無い言葉を投げつけられるのが怖いからだ。

奈帆は恐怖で言葉を失い、目には涙を浮かべていた。

男は俯いている奈帆の傍にあったコップに酒を入れて「飲め!」と強要してきた。

必死に断るが男は止めようとしない。その時、男の腕を掴んで止めた者がいた。それは食堂の店主である笹浦だった。

「お客様。今はお酒の強要はルールに反します。人それぞれの楽しみ方がありますので、今日のところは僕がお相手致します」


ニッコリと笑っているが、笹浦は静かに怒っていた。騒げば他の客に迷惑がかかる。冷静に対処しようと感情をある程度抑えていた。

笹浦は男が持っていたグラスを手に取り、中の酒を一口飲む。これは酒を飲まない奈帆より自分の方が酒を好むと相手に印象づけるためだ。

男は笹浦が酒に興味があると分かり、奈帆から手を引いた。

一旦置いて、奈帆が注文し品をテーブルに置き、男を奥の席へと無理やり連れて行って奈帆から離した。


(怖かった…。まだ心臓バクバク鳴っている。店長さんが助けてくれなかったら、どうなっていたか)


恐怖心を落ち着かせるために気分を変えて、ウーロン茶とおつまみに手を出す。

おつまみは食堂というよりレストラン並の味。あまりの美味しさに奈帆は食べることに夢中になっていた。

そこに笹浦が空のグラスを手に戻ってきた。


「どうです?少しは落ち着きましたか?」


男が持っていた酒は度数が25%ほどの強い酒。一般的には割って呑むが、奈帆のグラスに入れられたのはストレート。

酒に慣れていない奈帆が飲めばすぐに酔ってしまう。それを呑んでも笹浦は平然としていた。


(お酒に強いんだ)


奈帆は率直な感想を心の中で述べた。


「お陰様で。先程はありがとうございます。助かりました」


「いえ、僕は何も。大したことはしていません。せっかくのひと時を邪魔をされるのが許せなかっただけです。私情というやつですね」


あくまでも私情と言い張る笹浦だが、奈帆に危害か加えられないように庇ってくれたのは間違いない。

奈帆にあまり心配をかけないようにわざと言っているのだ。


「ふふっ」

「笑顔になられて良かった」

「え?」


グラスを拭きながら笹浦は柔らかい笑みを奈帆に向ける。


「ここに来たばかりの貴女はとても暗い表情をしていましたから、心配していたんですよ。そうですねぇ、例えば何か“悩み”を持っていらっしゃるとか」

「ーーっ!どうしてそれを…」

「この食堂はとても不思議で終電に乗り遅れた人の他に、特別な悩みを持った人の前に姿を現すことがありまして」

「え?姿を現す?!え、あ、ますます意味が…」

(食堂自信が意思を持って動いてるってこと?そんな事が本当に有り得るの?)


「ふふ、少し昔話をしましょう。僕の前の店主は食堂を作る際にどのようなお客様に来ていただくか理想を描いていたそうです」


ーー前店主は最初は普通の食堂を作るつもりでいた。しかし、それでも何処にでもある物と変わらない。

他には無い、自分だけの店を作りたいと考えいた前店主は素となるコンセプトを探しに街へ出た。

家族連れ、恋人同士、おひとり様。どれももうある店舗ばかりだ。何か他に、自分だけの店ができない前店主は一生懸命考えた。

駅の前にある大きな桜の木はいつも変わらず同じ場所で同じ人を見ている。ああ、あの人はいつも走ってるな、あの人はよくこの時間ジョギングをしている。

いつもと変わらぬ景色という名の日常。桜の木はそんな何気ない日常を見守っているのかもしれない。

ある日、気分を変えて深夜に散歩してみることにした前店主はいつものように桜の木がある駅前へとやってくる。

暗い中に光るのは電柱に備え付けられている街灯と駅の電気のみ。ベンチに座って桜をぼーっと眺めていると駅のホームから数人が出てきた。

人々は揃ってタクシー乗り場へと向かっていく。前店主は終電に乗り遅れたんだと当たり前のように思う。

すると、ある事に気づいた。それは中にはタクシー代が無くて帰りたくても帰れない人や酔い潰れてその場で寝てしまう人がいることに。

このままでは風邪をひいてしまう、一晩外で過ごすのは危険だ。そんな事が頭をよぎった。そして思いつく。終電に乗り遅れた大人のための居場所を作れないかと。

前店主はお人好しで困っている人をほっとけない優しい心の持ち主だった。だからこそ、困っている人の力になりたいと考えていた。

それが終電食堂の始まり。食堂を造る木材の一部にはあの桜の木を使うことにした。と言うのも、桜は大きくなり過ぎで邪魔だという理由で近々切られることになっていた。

それを貰い受けて、床や家具に再利用した。同じ街の景色を見てきた桜と共に人々の助けになりたいのが願いだった。

食堂がオープンして数日。店には多くの乗り遅れた人が集まった。居場所が出来て皆が喜んだ。

始発までのたった数時間だが反響はよく、噂を聞きつけた地元の人まで集まるようになった。

ある日、事件は起こる。いつものように店の準備をして客を待っていると一瞬店が揺れたのだ。地震かと思い、一度外に出た前店主は驚きの光景を目の当たりにする。

なんと食堂は知らない場所に移動していたのだ。驚いた前店主は当たりを見回し、頬をつねって夢かどうか確かめた。

現実と分かると一旦、冷静になるために店の中へ入っていった。するとすぐに客が来て対応しなきゃいけなくなった。

初めて来る客でとりあえず、注文を聞いて料理を出した。すると、客は深いため息をついていた。どうしたかと思い、話を聞くと仕事が上手くいかないと話す。

前店主はその客の話を聞き、何とか自分なりに励ました。始発の時間を迎えることには客に笑顔が戻っていて、店を出ていった。

客が店を出ると再び揺れがあり、治まったのを確認して外に出るとそこはいつもの場所だった。

不思議に思った前店主。もしや移動したのか。そう考えたが、あるはずないと思い、夢だと決めつけて店を閉めた。

しかし、その不思議な現象は頻繁に起こるようになった。何日か過ぎたある日、前店主はある事に気づく。

不思議な現象が起こるようになって色んな客と接してきたが、それらは皆”悩み“を抱えていた。

信じられないかもしれないが、食堂は意思を持っていたのだ。前店主は初めこそ驚いたが、すぐに受け入れた。

前店主は何となく気づいていた。いつも同じように景色だが、ひとつ視点を変えていると違った景色が見えるように、同じように過ごしている人は何かしらの悩みを抱えていると。

桜は前店主以上に人々を見てきた。いつも笑顔の人が暗い表情をしていたり、いつも元気だった人がある日突然駅に来なくなったり。

小さな変化を感じ取っていた桜。同じように居場所を創りたいと願った前店主と一緒に新たな人生に歩むことが出来た桜はひとつの願い事をした。

前店主と一緒に人々の力になりたいと。桜の願いは届いて終電に乗り遅れた人、かつ、悩みを持った人の前に現れるようになった。

深夜というミステリアスな雰囲気に身を隠して静かに人々に寄り添っていった。

店を出る人は来た時よりも笑顔になって帰っていく。前店主と桜はそれが生き甲斐となっていた。

いつしか食堂は悩みを持った大人の憩いの場となっていった。

店主が笹浦に代わった今でも、桜は悩みを持った人々に手を差し伸べるかのように寄り添っているのだ。


◇ ◆ ◇


「不思議なお話ですね」

「ええ。僕も食堂と出会うまでは夢にも思っていませんでした」

「店長さんも同じように悩みを持っていたんですか?」

「そうですね。ここの店主を引き受ける前は普通に会社員として働いていて、毎日何不自由なく過ごしていました。しかし、やり甲斐を感じられずにいた僕の前に食堂が現れました」

そこで前店主と出会った笹浦は悩みを話、アドバイスとして『もっと自由に生きてみろ』と言われた。

その言葉にハッとして気付かされた笹浦はバーテンダーとしてアルバイトしていた時のことを思い出した。

20歳になって始めたアルバイトは笹浦の世界を広げた。昼とは違う静けさが笹浦は好きだった。

酒の種類や味を覚える度に新しい世界が広がっていく感動をいまの今まで忘れていた。忙しい日常を送っていて本当の自分を見失っていたんだ。


「それから何度かここを訪れました。今は現店主として働いていますが、いずれは自分の店を持つのが今の僕の夢です」

「前の店主は今はどうなされているんですか?」

「今は世界をまわってます。なんでも食堂に新しい料理を出したいとかで。唐突で何事かと思ったら…まぁ、店を引き受けたのはこうしてお酒に囲まれている空間が落ち着くからですね」

「これだけメニューがあるのにまた新しい料理を…!?本当に料理が好きな方なんですね」

「はい。だから僕はその料理に合うカクテルを作るのが楽しいんです。これが僕が見つけた生きる道です」


(生きる道。店長さんは苦しくても自分が本当にしたい事を見つけた。今の店長さんは凄く輝いている。私もこんな風にもっと自分と向き合っていきたいな)


「素敵です。店長さんも前の店長さんも。皆自分の道を進んでいる。私なんて怯えてばかりで前に進むのが怖くていつも言い訳ばかりして…」


笹浦の世界は奈帆にとって目を開けていられないくらい眩しいものだった。眩しい光に当てられて自分の世界がどれだけ暗くて狭いか思い知る。


「良かったら話していただけますか。少しはお役に立てるかもしれません」


客の話し声、店内に流れるオルゴールの曲は一切耳に届かない。聞こえてくるのはバクバクとなる心臓の鼓動。

会社での出来事が鮮明に思い出されて呼吸を乱した。


(…怖い。なんて話せばいいの。どうやって伝えれば相手を怒らせないで済むの)


奈帆は上司やお局に苦しめられるうちに、無意識に相手の顔色を伺うようになっていた。

相手を怒らせちゃいけない、機嫌を損ねればどんなに酷い叱責が飛んでくるか分からない。

恐怖に怯える奈帆の身体は大きく震え出す。視界が歪んで暗闇に包まれそうになった。


「落ち着いて。大きく深呼吸をしてください」


隣に座った笹浦が呼吸を乱した奈帆を落ち着かせる。背中に手を置いてトン…トンと優しく叩き、ゆっくり呼吸を合わせる。


「無理をさせてしまってすいません。ですが、今の貴女はとても苦しそうに見えます。僕はそんな貴女をほおってはおけません。ゆっくりでいい。僕が全て受け止めます」


心配そうに見つめる笹浦の瞳に目を奪われた奈帆。胸の苦しかった鼓動は痛みを忘れて、優しい鼓動へと変わっていく。

笹浦の優しさが心に染み、気づけば涙を流していた。溢れる涙は止まらず、手の甲を濡らしていく。涙を何度も拭っているうちに目が赤く腫れてしまった。

奈帆はゆっくりと笹浦に話した。相槌を打って親身になって聞いてくれる彼に心を許し始める。

そうしているうちに落ち着いて話せるようになっていった。


「次第に私はダメな人間なのかなって思うようになって…。自分では一生懸命頑張って毎日戦っているのに、相手からしたら私は邪魔でしかないみたいで。それが辛くて…ごめんさい…」

話している内にまた思い出して辛くなる奈帆。一度切れた感情の糸は簡単には修復できない。


(大の大人が初対面の人に泣いている姿を見せるなんて…。絶対バカにされる)


泣くことを恥じる奈帆だが、笹浦はそれを決して笑わず、ましてや軽蔑など絶対にしない。


「謝る必要はありません。涙を流すのは貴女がそれだけ頑張ってきて、たくさん傷ついてきた。違いますか?」

「…っ!そう、かもしれません。ああ…ごめんさい。自分の事なのにまだよく分かってなくて」


(嫌味を言われるのも、当たり前で傷つくことも当たり前にで…あぁ、そうか。当たり前だから店長さんに言われてもピンとこなかったのか)


長い間、傷つけられてきた心は知らず知らずのうちに当たり前のように言葉を受け入れていた。

友人や家族、相談できる相手はいたが何となく迷惑かけたくないと勝手に決めつけて、心に蓋をしていた。

誰も奈帆の心情に気づくことなく今日まで過ごしてきた。しかし出会ったばかりの笹浦は奈帆のことを見抜いて、手を差し伸べてくれた。

俯いていた顔はいつの間にか上を向いていた。その視線の先には優しく微笑む笹浦が奈帆の瞳にうつる。


「店長さん」

「はい」

「当たり前になるって怖いですね」

「えぇ、怖いですね。目の前に傷ついている貴女を見ていると胸が痛くて仕方ありません」


白くてしなやかな手は奈帆の涙を優しく拭う。一瞬、涙を忘れてまた胸の鼓動がトクンと鳴る。


「前店主は願いました。この食堂に訪れた人々が笑顔で前を向いてほしいと。店名であるLilyはイースターリリィという花が語源で、花言葉の中に“新たな始まり”というものがあります」

「新たな、始まり…?」

「えぇ。きっと悩みをここで晴らしたらきっと新しいスタートを踏み出せるという店主の気持ちなのでしょう。実際、僕もこの店に出会ったからこうして新しい道に進む事が出来ました」

「でも私は、店長さんみたいに一人でお店を切り盛りする事なんて出来ませんし、人の悩みを聞いてあげたり、トラブルを対処することだって」


(今の状況もまともに対処出来ないのに、新しい道だなんて無理だよ。店長さんは仕事も料理も出来て、私とは違う)


「お客様は十分頑張っていますよ」

「え?」

「傷つけられながらも、頑張って少しでも前に進もうとしてきた。お客様の辛い顔を見ていたら分かります。僕も同じような経験をしてきましたから」

「そんな風には見えません。店長は誰よりも立派にこのお店を守っているじゃないですか」

「全然立派じゃありません。前職では上司に迫まれてばかりで『同じように苦しんで乗り越えてきたんだ。お前も同じように我慢して乗り越えろ』だなんて言われた次第で。僕はあなたじゃないから同じように我慢するなんて本気で思っているのかと当時思いましたね」

「同じようには出来ませんよね。心の限界は人それぞれですし」


(いつまでも同じようなやり方じゃ、何も変わらないのに。自分の経験談ばかりでなんの参考にもならないことってあるよね)


同じ時代に生きる人間でも下積みの仕方は人それぞれだ。上司がそうだったからとか、同じよう乗り越えられるとは限らない。

人それぞれのやり方や生き方がある。自由奔放とはいかないが、少しずつ自分に合ったやり方を貫くことも大事なんだ。

いつまでも古いやり方をした、時の流れをいつまでも止めていてはこれから時代を背負う若者が臨機応変に対応出来なくなってしまう。

時代はいつも進化して、成長を続けている。それに適応していくことが今の時代の課題と言える。

気に入らないとか自分の生き方に反するなど私情を挟めばその成長が止まってしまう。

言葉の暴力も同じように成長を止めてしまう原因となる。

ミスを犯せば叱ることもあるし、上手く行けば褒めることはあるだろう。それに辛いや悲しい、嬉しいなどの感情が芽生えるがそれも成長に必要なことだ。

大人も子供も関係ない。心はいつだって素直だから。そうだ。叱ることも褒めることも大事だ。だから相手に言葉を送るんだ。

では何故、相手は鬱いている。悲しいんでいる。それについて考えてみたことがあるのか。

それは言葉の範囲を超えているからだ。意識してか無意識なのか言った人間にしか分からないだろう。しかし伝えた相手は傷ついている。

それを見て理解しているか考えたことがあるか。言葉は時に刃となって相手の心を傷つけるものだと。

菜帆や笹浦が上司に言われてきた言葉も同じく刃となって2人の心を襲った。

現在、奈帆はその言葉の刃に心をズタズタにされている状態だ。笹浦が話を聞いてくれても中々癒されることのない心の傷。

心の傷は一生背負うことになるし、一生覚えている。相手の顔も名前もその時の表情も声と一生忘れることはない。

記憶はふとした瞬間にフラッシュバックする。きっかけは人それぞれだが、確実に相手の心を傷つけている。

笹浦のように今は笑顔で食堂で接客をしているが、奈帆の話を聞いて会社員として働いていた時の記憶が少しづつ蘇っていた。

奈帆の話を聞いて胸を痛めたのも、同じように悲しい表情をしたのも同じように傷ついてきた笹浦だから理解して、助けたいと思った。

触れれば壊れてしまいそうな奈帆の心に寄り添うのはとても辛いはずだか、笹浦はそれでも同じような苦しみをこれ以上味わってほしくない一心で手を差し伸べたのだ。

「相手は圧をかければ仕事が上手くいくとでも思っていたのでしょうか。傷ついていることを理解しているのでしょうか。僕はどうしてもその答えを相手に求めようとしましたが、残念ながら出来ませんでした」

「何となく分かります。怖い、からですよね?」

「はい。問えばまた同じように何か嫌なことを言われてしまうのではと恐怖で動けませんでした。情けない話ですね」

「いいえ。店長さんは情けなくない。同じように言われたら怖いし、それ以上に怖いことが起こるなんて想像したら私も動けません」


(実際に私はそんなトラウマを抱えている。ミスをしていないか何回も確認している時は決まって上司たちに何か心のない言葉をかけられるんじゃないかって、怯えている自分がいる)


「お客様の言葉はとても嬉しいです。ですが、話を聞く側である僕がこのような状態では説得力がありません」


笹浦は己の手に目を向ける。奈帆も視線を送ると笹浦の手は小刻みに震えていた。

親身になって聞いてくれた彼は実は強がっていたんじゃないか。奈帆の心はズキンと痛みを感じた。

明るく振舞っているが、笹浦はまだ暗闇から逃げ出せていない。もしかしたら自分以上に苦しんでいたんじゃないか…。

奈帆はそんな笹浦の手を優しく包み込むように握る。


「お、お客様…?」

「私、ずっと怖くて親しい人にも話せなくていつも苦しかった。けど、店長さんが手を差し伸べて、寄り添ってくれたおかげで心が少し軽くなりました」

「それは良かったです。僕がお客様の心に寄り添えたこと、とても嬉しく思います」


笑顔で答える笹浦だがその反面、奈帆の目には再び涙が浮かんでいた。


「無理して笑顔を作らないでください」

「え?」

「急に大声出してすいません。でも店長さん、ずっと私と話している時は笑顔だけど目がとっても辛そうに見えて…。本当は昔の出来事を思い出すのが怖いんじゃないんですか?」

「そう、見えますか?」

「少なくても私にはそう見えました」

「そう、ですが…」


その瞬間、笹浦から笑顔が消えていく。笑顔の仮面が崩れ落ち、辛い表情を見えるようになった。


「お客様は鋭いですね。僕のことを見破ったのは前店主以来です。お察しの通り、まだ心はあの頃のまま。何一つ変わっていません。先程の騒動で直属の上司のことを思い出してしまいましたし」


奈帆に絡んできた酔っ払いの男は笹浦の元上司にとても似ていた。酒癖が悪くて人当たり悪く絡んできた。

酒好きの笹浦は上司に気に入られていたが、量をあまり呑めるわけではなかった。

酒の量を決めていたが、上司がそれに構わず次いできてアルコール中毒になりかけたことがあった。

それ以来、酔っ払いの客を見るとその事を思い出し現在のように手が震えることもある。


「初めて辛いという事を話して、親身になってくれたのは前店主です。諸説ありますが、お酒は時に人の本性を表すことがあると教えられました。僕は楽しめればそれでいいと考えていましたが、間違いだったのでしょうか」

「間違っていません。楽しみ方は人それぞれだって、店長さんがさっき言ってくれたじゃないですか。私もそう思います。自分の価値観だけを押し付けて、人を苦しめるなんて最低です」

「ええ、その通りです。価値観というのは人それぞれで、自分なりの生き方をする。僕が終電食堂で最初に学んだことです。だからそれを次は目の前にいるお客様に伝えていきたい」


次は笹浦が奈帆の手を優しく握った。目を合わせてくる笹浦にまたトクンと胸が高鳴る。


「お客様にはこれから先、明るい未来のもとで生きて欲しい。相手の価値観とか気にせず、自分の思うように前に進んでください。最初の一歩はとても苦しいかもしれません。ですが、お客様には僕が居ます。もしもお客様がまた苦しむことがあったらいつでも僕の所に来てください。いつでもお待ちしております」

「て、店長さん…?!」


まるで愛の告白をされたかと頭の中が大混乱な奈帆は顔がリンゴのように真っ赤に染まる。

奈帆の顔だけじゃなく笹浦もみるみる赤くなる。周りのお客さん笹浦の大声に驚きこちらを注目する。


「す、すいません。今になって酒が周り始めたみたいで。つい、熱弁を…」


(あぁ、そういう事か。さっきの店長さん、結構度数が高そうなお酒呑んでいたからな。表情に出にくいと思っていたけど、後からジワジワとくるタイプなんだ)


「ですが、今言ったことは僕の本音です。本当はお酒に飲まれないで言いたかったんですが…。量に気をつけないといけませんね」

気恥しくなった笹浦は何度もコホンコホンとわざとらしい咳をした。頬の他にも耳まで真っ赤に染まっていた。

「お酒が無くても店長さんの気持ちは私に届いてますよ。今、この胸の中にあるあたたかい気持ちは店長さんがくれたものですから」


胸の中でトクントクンとなり続ける鼓動は間違いなく笹浦が奈帆に送った誰かを想う気持ちそのものだ。

それを奈帆は大切に包み込む。自分の気持ちが届いたと安心した笹浦はもとの優しい表情を取り戻していた。


「あ、そろそろ夜明けですね。空が明るくなってきました」


朝日が昇り始めると空がオレンジに染まる。それからすぐに赤くなり夜明けを告げた。


「終電食堂Lilyにお越しの皆様。今宵もご来店ありがとうございます。夜明けの時間となりましたので、今夜はここでお開きとさせていただきます」


丁寧な挨拶をし、深くお辞儀をする笹浦。店の入口が開くと客は次々へともとの街へと戻っていく。

食堂の奥からあの酔っ払いの男が欠伸をしながら出てきた。するとゆっくりと奈帆に近づいていく。

奈帆は驚き身を硬直される。それに気づいた笹浦は奈帆の前に出て警戒する。

しかし男の行動は2人の予想とは違っていた。


「あぁ…姉ちゃん、さっきは悪かったな。無理に酒を進めて」

「え、あ、いえ…」

「兄ちゃんも店の中で騒いで悪かった。すまない」

「いえ。もしよろしければまた来てください。いつでもお待ちしています。あ、その時はちゃんとルールを守ってお酒を楽しんでください」


男にしっかりと釘を刺した笹浦。表情は相変わらず笑顔で客に対する態度をわきまえていた。


最後の客が去ると店は奈帆と笹浦の2人だけとなった。帰りの支度を済ませて店を出ようとするが、それを笹浦が止める。


「店長さん?」

「あ…申し訳ございません。まだアルコールが抜けていないようですね。まだお客様と一緒に居たいなどと…あっ!今のは忘れてください…!」


必死に誤魔化す笹浦。その気持ちに嬉しいと感じた奈帆は笹浦の服の袖を掴む。


「私も…私もまだ店長さんとお話していたいです。またいつ会えるか分からないのはその、寂しいです」

「お客様…」

「奈帆です。私の名前は水野 奈帆(みずの なほ)です。さ、笹浦さん」

「覚えてくれたんですね、僕の名前を」

「はい。その、これからも来ていいですか?」

「もちろん。いつでもお待ちしていますよ奈帆さん」



ーーそれから数ヶ月の時が過ぎ、桜の季節がやってきた。

奈帆は大学卒業から務めていた会社を退職した。笹浦の力を借りて上司とお局の声を録音したものを裁判所に提出し、2人から受けたパワハラを訴えることに成功した。

退職を認められ、奈帆は心のケアをしながら飲食店でアルバイトをしている。

時折、終電食堂の手伝いもするようになり笹浦との時間が増えた奈帆は前よりも笑顔が増えてきた。

終電食堂が奈帆の最寄りの駅の近くにあり、退職を決意した奈帆は用事があってその近くを通った時に見つけた。

笹浦との再会を喜んだ奈帆は勢いで食堂の手伝いをすると宣言した。最初は驚いた笹浦だったが、調理担当を探していたと告げ奈帆を心から受け入れた。

終電食堂の料理は前店主が考えたもので、どれも普通の家庭料理よりも難易度が高いものばかりだった。

奈帆は前店主が残していった料理をマスターするためにアルバイトをしながら腕を磨いていくことを決意した。


「いつか笹浦さんと一緒に自分たちのお店をやりたいな。なーてね」


(告白もしてないのに何を考えてるんだか。今は料理の腕を磨いて笹浦さんと一緒に終電食堂を支えられるように頑張らないと!)


「僕も早く奈帆さんとお店開きたいですね」

「わっ!い、今の聞いていたんですか?」


未来を想像する奈帆の背後に立つ笹浦はクスクスと笑いながらその反応を楽しんでいた。


「さぁ?なんの事でしょう」

「笹浦さんって嘘が下手ですよね。絶対聞いてましたよね?」

「ふふっ、それは秘密です」


人差し指を口元に添えて笑顔で誤魔化すが奈帆にはお見通しだった。


「さぁ、奈帆さん。今夜も悩みを抱えたお客様がお待ちです。Lilyの名に恥じないように頑張りましょう」

「はい!」


終電食堂Lilyはいつでも貴方の心の支えとなります。社会に出て不安なことが沢山あるでしょう。

そんな時は是非ともLilyを訪れてください。終電食堂は大人の憩いの場。

食事をしたりお酒を呑んだり、他のお客様との会話を楽しんでください。

店主及び、従業員はお客様の心の支えとなるように努力して参ります。

一人で抱え込まないでください。貴方は独りじゃない。支えくれる方がきっと傍で悩みを聞いて支えてくれるでしょう。