「逃しちゃったね。終電」
「これは完全にアウトだな」

 居酒屋の出入口で梓は友人の悠月(ゆづき)と途方に暮れていた。
 スマホで時刻表を見ながらため息をつくと、解決策を探すためにネットサーフィンをしていた悠月が「参ったな」と愚痴をこぼした。
 スマホで顔を隠しつつ、ときどき悠月の顔を見る。
 西洋人の血が混ざった悠月の顔は眉目秀麗で、まさに王子様という言葉が相応しかった。身長も高く、昔から成績優秀。唯一、彼の弱点をあげるならば人を寄せ付けない厄介な性格ぐらいだ。
 
「タクシー呼ぶ?」

 ここから悠月の家は遠い。
 歩いて帰るなど到底不可能だ。
 幸い梓の家は三十分ほど歩けば帰れる距離であるが……。
 
「月末で懐が寒いからできればタクシーは避けたかったけど、仕方ないよな」

 悠月は落胆しながら答える。
 彼の様子を見た梓は嬉々とした表示で口を開いた。

「それだったら私の家に泊まらない?」
「はぁ!?」

 悠月の手からスマホが飛びそうになる。
 彼が一瞬目を見開き、すぐに伏せる動作はあまりにも美しく、目を逸らしてしまう。
 
「極狭アパートだけど床に布団を敷くぐらいのスペースならあるよ。布団って言ってもかけ布を何枚か重ねた簡易的なものだけど」

 明らかに困惑を隠しきれない表情の悠月は、三十秒ぐらいその場でぐるぐると歩き回ってから元の場所に戻ってきた。
 
「わりぃな。この借りはいつか返す」
「うーん、借りをかえしてくれるなら……」

 指先をアゴにあて、可愛らしく首をかしげなから考え込む梓。悠月の表情がどんどん険しくなる。

「二時間限定で私の彼氏になってよ」

 
***


「あのさ、デートって具体的になにすんの?」

 悠月の一言に梓はクスリと笑う。
 
「なんで笑うんだよ」
「だって、悠月相変わらず彼女いないんだなって」

 梓と悠月は小学生時代からの幼なじみ。
 二人が住む地域では学校の数が少なく、梓も悠月もバスで遠距離通学を強いられていた。
 毎朝、毎朝、乗っていたバスの中で談笑しているうちにいつの間にか仲良くなっていたのだ。
 高校まではずっと一緒に登校してた。普通進学コースの梓より、エリートが集まる特別進学コースに通う悠月の方が登校時間が早いので、やむを得ず梓も早起きしていた。
 
 大学生になってからは別々の学校に通うことになってしまったけど、今でも悠月とは時々、一緒に外出をする仲だ。

 今回、悠月に彼氏になって欲しいと頼んだ理由は二つある。

 一つは、今まで恋愛経験をしたことが無かったので、偽物でもいいから『それらしいこと』がしたかったから。

 もう一つは、悠月と仲を深める時間が一秒でも多く欲しかったから。
 
「お前もどうせ彼氏いないだろ」

 昼間と比べて、静かになってしまった大通りを二人は歩く。片手をポケットに突っ込みながら歩く悠月の隣で、梓は両手を後ろに組みながらニコニコ笑っていた。
 
 悠月に彼女がいないと聞いて内心ほんの少しだけ喜んでしまう。
 
 だって、悠月が誰かとお付き合いしてしまったら、きっと一緒にいる時間が減ってしまうから。
 
 具体的に悠月が見知らぬ女性と付き合っている様子を、想像しようとすると反射的に拒絶てしまう。
 
「私は文系の悠月と違って、毎日毎日レポートばっかり書いてて忙しいんだからね。彼氏を作る時間なんてないもん」
 
「忙しいんだったら、どうして俺を飲みに誘ったんだよ」

 自ら墓穴を掘ってしまったことに気づいた梓は、石像のように固まる。

「カップルが出かける場所といえば、映画館とかカフェじゃない?」

 そのまま話を逸らし始めた。
 
「今は深夜二十四時だぞ。映画館やカフェなんて営業してないだろ」

「でもカフェなら開いてるよ?」

「こんな時間に?」

「本当だよ。深夜カフェって知らないの?」

 何も答えない悠月を見て、梓はニンマリと笑う。

「悪いな。お前と違って夜遊びなんてしないから」

「私も夜遊びなんてしないよ。深夜カフェはインスタとかでしょっちゅう紹介されているから知っていただけ」

 早口で言い訳をする梓を悠月は笑いながら見下ろしていた。

***
 
 梓が選んだのはアンティークが並ぶノスタルジックな雰囲気のカフェであった。天井の小さな照明からはオレンジ色の光が降り注ぎ、壁に飾られた黒板には店長が直筆したケーキのイラストが描かれている。
 おそらく来店したのが夜ではなく夕方なら今ごろノスタルジックな雰囲気と、鍋の音によって睡魔の底に落とされていたであろう。

 梓が適当に注文してから十分ほど経つと、テーブルの上に背の高いガラスのコップと、銀の皿が並んだ。
 コップの縁に刺さったレモンの果汁を、中に注がれたアールグレイティーに滴らせていた悠月は、銀の皿を見て絶句した。
 
 銀色の皿に巨大プリンが乗っている。プリンの周りにはさくらんぼが乗ったクリームや、アイスが並んでいる

「マジかよ。こんな時間に……」
「甘いものは別腹だからね。それじゃ、いただきます」
「違う、そういう意味じゃない」

 デザートスプーンでアイスをすくった梓は「じゃあ、どういうこと?」と尋ねる。

「ほら、よく女子が『深夜のケーキは天敵』だとか言っているだろ」
「だいじょーぶ。だって、私は太らない体質だかふぁ……」
「食べながら喋るな」

 スプーンを一旦置いた梓は甘い香り漂う皿を悠月に近づけた。

「ほら、悠月も食べないの?」
「お前が注文したんだろ」
「二人で食べないとデートって言えないんじゃないの?」
「あぁ、そうか。やっぱりプリンアラモードにはメロンソーダをつけないとね」
「やめろ、カロリー爆弾を増やそうとするな!」

 悠月は「やれやれ」とでも言いたげな表情で二本目のデザートスプーンを手に取ったが、どこか嬉しそうであった。

「あ、そうだ。悠月の顔が映らないように写真撮ってもいい?」
「いいけど……どうして?」
「デート風写真にしてみようかなって」

 悠月はふぅんと笑いながら、梓から見て写真映えしそうな位置まで銀の皿を回した。
 
「デート風じゃくて本当のデートだろ?」
「あ……そうか……」

 梓は「しまった」と言わんばかりに目を泳がせる。二人のやりとりを見た店員が、口元に手を当てながら笑いを堪えていることを梓はまだ気づいていない。

「梓は毎日楽しそうで羨ましいよ」
 
「私からしてみれば成績優秀でイケメンの悠月の方がよっぽど人生勝ち組って感じで楽しそうだけどね。学校でもモテモテなんでしょ?」

「それなりにね。去年のバレンタインは二十人ぐらいからチョコレートを貰った」

「いいな、羨ましい。ハーレムじゃん」

「なに一ついいことなんてないよ。俺にとっては一人だけいれば充分だから」

「へぇー、意外と一途なんだ」

 スプーンでプリンの欠片を口に運ぶ度にとろけるような甘みが広がる。

 悠月ったら、すっかり変わっちゃったな。
 昔は恋愛関係の話なんか振っても、バカな男子の真似なんかしたくないって偉そうなことを言ってたくせに。いつの間にか、男女の関係とかにも興味を持つようになったんだ。 
 ツンツンしているところとか、顔立ちが綺麗なのは昔から変わらないけど。でも……なんというか……どんとん大人になっている気がする。
 
 どうしてだろう。時間が経てば経つほど悠月がずっと遠くに行ってしまうような気がするのだ。
 
 関わる友人から一日のサイクルまで梓の生活は時間が経つほど目まぐるしく変わっている。悠月の存在も変化のひとつだ。

 大学二年生となり酒が飲めるようになった歳になってやっと梓は昔のことが懐かしいと思えるようになった。
 もし魔法が本当にあるなら、あの頃に戻りたいな。悠月と二人でバスに乗って、お喋りをしていたあの頃に。

「なんで、こっちばかりジロジロと見るんだよ?」
「いやぁ、悠月たら、すっかり大人になっちゃったなぁと思って」

 悠月は何を言っているのか分からない様子で首をかしげたが、皿の中身を平らげた梓はスマホで現在時刻を確認し、悲鳴に近い声をあげた。

「もう一時じゃん。やばい。どうしよう」
「時間ぐらいしっかり確認しろよ……残り一時間はなにをやる予定?」
「そうだねぇ……私の家へ向かいながら夜景でも眺めない?」
「じゃあ、支払いは俺が済ませるから梓は先に出てろ」
「ちょっと待って」

 慌てて小銭入れを取り出す梓。すると悠月はスマホで決済アプリを立ち上げながらレジへ向かった。

「金なら後で貰うよ。あと一時間しかないのに、小銭探すのに時間とりたくないだろ?」
「あれ、もしかして悠月は私とのデートが終わるのが寂しいのかな?」
「いや、全然」
「なんで?」
「どうしてだと思う?」
「教えてよ」

 悠月は一度立ち止まり、ニヤッと笑いながら振り返った。
 
「やだ」

*** 


 港に作られた散歩道は、深夜一時にも関わらずチラホラと利用者がいた。ベンチで団欒するカップルに、ジョギングをする男性。空を見上げれば星々と、ライトアップされた観覧車が虹色の光を放っている。
 梓は舗装路と海の間にフェンスにもたれかけた。
 鼓膜の奥にサァーサァーと波の音が響いてくる。
 黒い海は街灯や船の光に照らされてキラキラと輝いていた。

「せっかくだし記念撮影しようよ」

 ちょうど近くに光源になる街灯を見つけた梓は、スマホのカメラアプリを立ち上げ、ライトアップされた観覧車が背景になる位置に立った。
 ほら、はやく。と悠月を急かして隣に立たせる。
 梓がニコッと笑うと悠月もぎこちない小さな笑みを浮かべた。
 シャッターボタンを押し、撮影できた写真を見せる。

「どう、と撮れたでしょ?」

 写真加工アプリで撮られた一枚。梓と悠月の頭には猫耳が乗っていた。

「なんか肌白くね? 目もデカいし」
「自動で写真を加工してくれるアプリだもん」
「キモいから今すぐ消して」
「えー、せっかく撮ったのに……」

 仕方なく写真を消去してから、海と舗装路の間にある柵に体をもたれかけた。
 
「もしアラジンに出てくるなんでも願いを叶えてくれる魔人が目の前に現れたら、イルカにしてもらえないか頼もうかな。それで、地平線の果てまでどこまでも泳いでいくの」

 隣に立った悠月はしばらくこちらを見つめてから、隣に立ち、同じようにフェンスへ体重をかける。

「それで……どこまで泳いでいくつもり?」
「あれ、『お前がイルカになったら息継ぎをし忘れてうかっかり死にそうだけどな』とか言わないの?」
「言ってやってもいいけど?」
「いや、遠慮する」

 遠くにある漁船の姿が映り込む悠月の瞳はどこか切なげで、神秘的であった。

「それで、結局どこに行きたいの?」
「よく分からない。とにかくどこまでも遠くに行きたいの」
「なんだよそれ」
「あのね、悠月。私は最近になって怖くなってきたことがあるの」
「お化けが怖くて夜トイレに行けないとか?」
「違うよ……私が悩んでいることは、周りはどんどん変化していくのに、私自身はいつになっても大人になれないってこと……」

 気づけばずっと胸の内に閉まっていた感情を吐露していた。口が勝手に動き出して、声帯が震えて、もう止まりそうにもない。

「先月、誕生日を迎えて二十歳になった。一人暮らしを初めて自分で衣食住を管理できるようになった。バイトをして初めてお金を稼いだ。ずっと同じ友だちと一緒に居た中高生時代と違って今は、一人で次の教室に行って、昼食も一人で食べることが多い。周りの環境は、なにもかも変わっていくのに……私の心だけはずっと昔のままで一方的に置いていかれるの」

「梓……」

「私みたいな人間が、このまま就職して社会人になってもいいのかなって思うの」

「あのさ。ちょっと思ったんだけど……」

「なに?」

「梓にとって『大人』ってなに?」

「うーん、そう言われてみるとよく分からないな。たとえば……嫌味を言われても受け流せる人とか……」

 悠月は大きなため息をつきながら肘をフェンスに当て、アゴに右手を当てた。

「はっきり言わせてもらうけど、梓の言う『大人』って抽象的すぎるよね。自分がないたい未来像を勝手に『大人』と呼んでいるだけっていうか……」

 そうだ。言われてみればその通りだ。
 今まで梓は向かうべき目標が定まらず、ただ『大人』という存在に怯えてきたのだと確信する。

「ていうか梓が大人になる必要なんてないよ」

「え、うそ?」

 大袈裟に後ずさると、悠月は腹を抱えながら笑った。

「だって、梓が大人になっちまったら俺が面倒見れないだろ?」


***
 

「昨晩は楽しかったよ、ありがとう。二時間限定だったけど悠月の彼女になれて良かった」

 もう既に通勤ラッシュがの時間が過ぎた駅は、比較的静かであった。深夜デートをした次の朝、最寄り駅の前で梓は悠月を見送っていた。
 本当はホームの中までついて行きたかったが、悠月に断られてしまったため、しぶしぶ駅前で別れることにしたのだ。
 
「いや、二十四時過ぎていたんだから昨晩ではないだろ」

「あ、たしかに」

 まあるく開いた口を片手で隠す梓を見て、悠月は苦笑いした。

「実は俺、一個気が変わったんだよね」

 悠月の右手が梓の腕にふれ、しっかりと掴む。
 整った顔が目前まで近づき、心臓がドクンと高鳴る。

「俺は昨日、お前から彼氏になって欲しいって頼まれたけど、まだ返事をしてなかっただろ?」
 
「えっ、えっと……」

 紅色の唇――その端がふにゃりと上がった。
 
「俺はお前に二時間でフラれるつもりはないよ」