深夜営業のカラオケ店は、想像以上に混んでいた。 終電を逃した酔客や、始発を待つ若者たちの声があちこちから聞こえる。

受付で手続きを済ませ、2人は廊下の奥の小さな部屋に通された。壁は薄く、隣の部屋からはポップスのサビが漏れている。飯田がリモコンを手に取りながら言った。

「なんか、懐かしいな。昔は打ち上げで朝までここいたよね」 「うん。眠くなるまで順番にマイク回して、あれ……終電関係なかったよね、最初から」

2人は笑った。

飯田が操作を終えたリモコンを置いて、画面に映し出されたタイトルに苦笑する。

「ちょっと古い曲だけど、……歌っていい?」 「もちろん」

曲が流れ始めると、飯田はまっすぐ前を向いて歌い出した。 懐かしい声だった。不器用だけれど真剣で、当時、学園祭のステージで聴いたあの響きと重なる。

楓はマイクを持たず、そっと目を閉じて聴いた。 音と記憶が溶けあって、自分が昔どんなふうにこの人を見ていたか、少し思い出しそうになる。

歌い終えたあと、飯田は「ありがと」と照れくさそうに笑った。 楓は「上手だったよ」と返して、リモコンを手に取る。

「じゃあ、私も。懐かしいの、入れてもいい?」 「もちろん」

彼女が選んだのは、母親がよく口ずさんでいたバラードだった。キーは少し低めで、自分の声に馴染んでいた。

静かに始まった前奏。 楓はマイクを持ちながら、ゆっくりと歌い出した。

歌詞の一言一言が、夜の静けさに染み込んでいく。 飯田は黙って聴いていた。スピーカーから流れる声は、かつての恋人のものではなく、「今を生きている彼女の声」だった。

「……綺麗だね、やっぱり」 「ありがとう」

それだけのやりとりで、十分だった。 言葉は少なくても、伝わることがちゃんとある。 夜が深いほど、それが際立つように感じられた。

「また何かを始めるとしてもさ」 飯田がそっと言う。

「今度は、ちゃんと“自分で選ぶ”って感覚が大事な気がする。相手が誰とかじゃなくて」

楓はうなずいた。 「うん。流されるだけじゃ、どこにも辿りつけないよね」

その沈黙には、ほんのりと安心と名残惜しさが混ざっていた。