「歩こうか、少し」

楓の提案に、飯田は「うん」と短くうなずいた。 それだけの合図で、二人はベンチを離れ、公園の出口へと向かって歩き出す。

街は夜更けの空気に包まれていた。車通りもほとんどなく、ネオンは遠ざかり、代わりに蝉の残り火のような虫の声と風の音だけが耳に届く。 並んで歩くのは久しぶりだった。歩幅は揃えていないはずなのに、足音がしっくり重なっていた。

「こうやって歩いてると、ちょっとだけあの頃に戻ったみたい」

楓が言うと、飯田は「なつかしいな」と笑った。 その笑顔が、街灯の下でほんの少し柔らかく見えた。

住宅街へ入ると、建物の明かりはまばらだった。ひとつだけ煌々と照らされたコンビニの看板が見える。

「寄っていい?なんか甘いもん食べたい気分」 「うん、プリンあるかな」

店内には深夜特有の静けさが漂っていた。飯田は小さなプリンとチョコアイスを選び、楓は炭酸水を持ってレジへ向かう。買い物を済ませたあとも、彼らは話すわけでもなく歩き出した。

ほどなくして、古びた児童公園の脇の石段に腰を下ろす。ベンチではない場所に並んで座るのが、妙に居心地よく感じられた。

「……別れてから、夢に出てきたことがある」

不意に飯田が口を開いた。

「夢のなかで、楓に『なんで別れたの?』って訊くんだけど、毎回答えが違うんだ。 仕事が忙しくなるからとか、本当に好きだったかわからなくなったとか……」

「……そんなこと、私言ってた?」

「いや、夢のなかだけの話。でも、現実ではちゃんと理由訊けなかったなって、思ってた」

楓は炭酸水のふたを開けて、少しだけ喉を潤した。 夜の空気は冷たくも暑くもない、曖昧な体温だった。

「たぶん、ちゃんと伝えなかったのは……私のほうだったかも。 当時の私は、自分の人生が“ふたりで作る未来”にすり替わっていくことが、怖かったんだと思う。 誰かに期待されることが、プレッシャーに感じてた。特に、飯田にはちゃんとした未来を期待してたから」

「……ちゃんとした未来、って?」

「結婚して、安定して、都内で暮らして。ちゃんと貯金もして、ちゃんと支え合って—— そういう“ちゃんと”に、私はまだ追いつけなかったんだと思う」

飯田は頷きながら、自分の持っていたプリンを指で回していた。 ふたりの間に落ちた沈黙は、もう気まずさではなかった。

「でも、今なら少しはわかるかもしれないな」 と、飯田は空を見上げて言った。

「俺も最近、まるで自分のことを他人が勝手に動かしてるみたいでさ。 こうしなきゃって理屈ばっかり先にあって、感情が追いついてないんだよな」

「……ちゃんと、自分のままでいたいんだね」

「そう、そういうこと」

しばらく、無言でプリンとアイスを食べる時間が続く。 静かで、穏やかで、だれも2人の存在に干渉してこない。

やがて、街の遠くにぼんやりとしたネオンがにじんだ。

「カラオケ、まだやってると思う?」

楓がふと立ち上がりながら言う。

「……行く?」 「うん。どうせ朝までは時間あるし、なんか、歌ってみたくなった」

「じゃあ、行こうか」

2人は食べかけのアイスのスプーンを捨て、灯りの残るビルへ向かって歩き出した。 その背中は、さっきまでよりも少しだけ、まっすぐだった。