人間の心臓は、およそ15億回鼓動したら寿命を迎えるらしい。
僕の心臓は、7億5千万回で止まった。
夏休みが始まって2週間。
僕は高校最後の夏を、机にかじりついて過ごしていた。
海も花火も、友達も恋もどこか遠くて、手元にあるのは夏休みの課題と問題集。
ノートのページはびっしりと文字で埋まり、あくびが止まらない。
時計が、チックタックと時間を刻んでいる。
気づけば夜の7時28分。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
シャーペンをカチカチと鳴らして手を止める。
──あれ、芯が切れた?
しょうがない。コンビニまで買いに行こう。
重い腰を上げ、椅子から立ち上がった。
「真白? どこか行くの?」
「うん、シャーペンの芯が切れたから、ちょっとコンビニ」
「気をつけてね」
「いってきます」
夜の空気はひんやりとしていて、信号機の光だけが頼りだった。
鼻の奥を抜ける夏の夜の匂い。
誰もいない歩道は少し心細かったけど、遠くのビルの灯りが、それぞれの生活を照らしている気がして、不思議と心が落ち着いた。
コンビニに着くと、いろんな誘惑が目に飛び込んでくる。
のり塩ポテチ。バニラアイス。揚げ物の香ばしい匂いに、ちょっとだけ心が揺れる。
自分へのご褒美にのり塩ポテチ。
そして0.5ミリの芯を手に取り、レジへ。
「322円になります」
硬貨で払おう。
100円玉3枚、10円玉2枚、1円玉2枚。ピッタリ。
ちょっとした達成感に、思わず微笑む。
「ありがとうございました〜」
レジの人、ちょっと疲れてるな。夜勤お疲れさまです。
軽く頭を下げて店を出た。
帰り道。背後で大きな音がした。
振り返った瞬間──世界が真っ暗になった。
気がつくと、見慣れない白い天井。
ベッドの上に横たわっていた。
……夢? 勉強のしすぎかな。
そう思ったけど、すぐに泣き声が耳に入ってきた。
「真白……真白……!」
……母さんの声だ。なんで泣いてるんだよ。
体を起こそうとしたけど、体が動かない。
「……残念ですが、九重真白さんは、午前0時26分に心停止を確認しました」
……は?
それ、誰のこと? いやいや、僕は……。
嘘だ。恋だってしてない。
受験もしてないし、ポテチだって食べてないのに。
次の瞬間、まぶしい光に包まれた。
気づけば、目の前は一面の霧。
空とも川ともつかない、「何か」が広がっていた。
その真ん中に、舟が一隻、音もなく浮かんでいる。
──これが……三途の川?
きっと、あっちの世界に行くんだ。
舟に手をかけようとした瞬間、何かに引っ張られるように体が転んだ。
「……ほう、乗ることを体が拒んだとは、長いこと渡し人をしておるが初めてじゃ」
舟の上の老人が、驚いたように僕を見下ろしていた。
黒い瞳に、白い髭。しわくちゃな口元は笑っていた。
「どうして……僕の体は拒否したんですか」
「……心残りがあるのじゃよ」
「心残り……」
「ついてくるがいい。主様に案内しよう」
道なき道をどれだけ歩いただろう。
光も影もない「無」の世界を。
辿り着いた先にいたのは、静かに佇む女性だった。
「あなたの心残りを述べてください」
「……え?」
何も出てこない。名前も、理由も、なにも。
「私は、死後の案内人です」
「……やっぱり僕は、死んだんだ」
「はい。意識を失った運転手が乗ったトラックに轢かれて、即死でした」
「……そんな……僕はここにいるのに」
「あなたは、完全に死んだわけではありません。心残りがある者は、“すぐに”逝くことができないのです」
「……心残り?」
「あなたの魂は、まだ何かを求めています」
「……まだ、運命の人に会ってないんです」
女性は、ゆっくりとうなずいた。
「……では、あなたに地上へ戻る機会を与えましょう」
「……生き返るんですか?」
「いいえ。あなたは幽魂として1週間だけ、地上に降り立ちます」
「……幽霊、ってことですか」
「条件があります」
「なんでしょう」
「生前に関わった人と会ってはいけません。自分が死者であると明かしてもいけません。そして、あなたが死んだ時間──夜の8時56分が来れば、あなたは再びこちらに戻されます。触れることもできなくなります」
「……わかりました」
「どうか、その心残りを見つけてください」
その言葉と共に、世界がひっくり返った。
僕の心臓は、7億5千万回で止まった。
夏休みが始まって2週間。
僕は高校最後の夏を、机にかじりついて過ごしていた。
海も花火も、友達も恋もどこか遠くて、手元にあるのは夏休みの課題と問題集。
ノートのページはびっしりと文字で埋まり、あくびが止まらない。
時計が、チックタックと時間を刻んでいる。
気づけば夜の7時28分。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
シャーペンをカチカチと鳴らして手を止める。
──あれ、芯が切れた?
しょうがない。コンビニまで買いに行こう。
重い腰を上げ、椅子から立ち上がった。
「真白? どこか行くの?」
「うん、シャーペンの芯が切れたから、ちょっとコンビニ」
「気をつけてね」
「いってきます」
夜の空気はひんやりとしていて、信号機の光だけが頼りだった。
鼻の奥を抜ける夏の夜の匂い。
誰もいない歩道は少し心細かったけど、遠くのビルの灯りが、それぞれの生活を照らしている気がして、不思議と心が落ち着いた。
コンビニに着くと、いろんな誘惑が目に飛び込んでくる。
のり塩ポテチ。バニラアイス。揚げ物の香ばしい匂いに、ちょっとだけ心が揺れる。
自分へのご褒美にのり塩ポテチ。
そして0.5ミリの芯を手に取り、レジへ。
「322円になります」
硬貨で払おう。
100円玉3枚、10円玉2枚、1円玉2枚。ピッタリ。
ちょっとした達成感に、思わず微笑む。
「ありがとうございました〜」
レジの人、ちょっと疲れてるな。夜勤お疲れさまです。
軽く頭を下げて店を出た。
帰り道。背後で大きな音がした。
振り返った瞬間──世界が真っ暗になった。
気がつくと、見慣れない白い天井。
ベッドの上に横たわっていた。
……夢? 勉強のしすぎかな。
そう思ったけど、すぐに泣き声が耳に入ってきた。
「真白……真白……!」
……母さんの声だ。なんで泣いてるんだよ。
体を起こそうとしたけど、体が動かない。
「……残念ですが、九重真白さんは、午前0時26分に心停止を確認しました」
……は?
それ、誰のこと? いやいや、僕は……。
嘘だ。恋だってしてない。
受験もしてないし、ポテチだって食べてないのに。
次の瞬間、まぶしい光に包まれた。
気づけば、目の前は一面の霧。
空とも川ともつかない、「何か」が広がっていた。
その真ん中に、舟が一隻、音もなく浮かんでいる。
──これが……三途の川?
きっと、あっちの世界に行くんだ。
舟に手をかけようとした瞬間、何かに引っ張られるように体が転んだ。
「……ほう、乗ることを体が拒んだとは、長いこと渡し人をしておるが初めてじゃ」
舟の上の老人が、驚いたように僕を見下ろしていた。
黒い瞳に、白い髭。しわくちゃな口元は笑っていた。
「どうして……僕の体は拒否したんですか」
「……心残りがあるのじゃよ」
「心残り……」
「ついてくるがいい。主様に案内しよう」
道なき道をどれだけ歩いただろう。
光も影もない「無」の世界を。
辿り着いた先にいたのは、静かに佇む女性だった。
「あなたの心残りを述べてください」
「……え?」
何も出てこない。名前も、理由も、なにも。
「私は、死後の案内人です」
「……やっぱり僕は、死んだんだ」
「はい。意識を失った運転手が乗ったトラックに轢かれて、即死でした」
「……そんな……僕はここにいるのに」
「あなたは、完全に死んだわけではありません。心残りがある者は、“すぐに”逝くことができないのです」
「……心残り?」
「あなたの魂は、まだ何かを求めています」
「……まだ、運命の人に会ってないんです」
女性は、ゆっくりとうなずいた。
「……では、あなたに地上へ戻る機会を与えましょう」
「……生き返るんですか?」
「いいえ。あなたは幽魂として1週間だけ、地上に降り立ちます」
「……幽霊、ってことですか」
「条件があります」
「なんでしょう」
「生前に関わった人と会ってはいけません。自分が死者であると明かしてもいけません。そして、あなたが死んだ時間──夜の8時56分が来れば、あなたは再びこちらに戻されます。触れることもできなくなります」
「……わかりました」
「どうか、その心残りを見つけてください」
その言葉と共に、世界がひっくり返った。
