「――頭。無事のご帰還何よりです。お疲れさまでした」
いつの間にきていたのか、すぐ近くに八雲の姿があった。
千蔭に声を掛け、そして隣に立つ雫音に目を向ける。
「……その、八雲さんも、お疲れ様です」
「……」
衣服は泥にまみれ、手の甲など、所々血が滲んでいる。
力なく眉を下げている満身創痍な雫音を見て、八雲は顔を顰めた。
雫音は瞬時に(怒られるかもしれない)と思ったが、それは杞憂に終わる。
「……よくやった」
「……え?」
八雲は、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。
(……今、八雲さんに褒められた?)
信じられなくて口を半開きにしている雫音を一瞥して、八雲は眉根を寄せる。
「おい、何だその腑抜けた顔は」
「え、と、その……まさか八雲さんにそんな風に言ってもらえるとは、思っていなかったので……」
「言っておくが、お前を認めたわけではない。ただ、今回の功績についての評価をしたまでだ。勘違いするなよ」
「はっ、はい。ありがとうございます」
雫音は頭を下げた。鼻の奥がつんと沁みる。気を抜いたら、また泣いてしまいそうだった。
八雲にとっては何気ない、ただ口を突いて出ただけの労いの言葉だったのかもしれない。それでも、こうして声を掛けてもらえたことは、ほんの少しでも認めてもらえた証のような気がして、堪らなく嬉しかった。
「あっ」
シルヴァと話していたフィシが、空を見上げて声を上げた。
いつの間にか霧が晴れ、雨も止んでいる。
雲間から陽が差している。――怒涛の夜が明け、朝がきたのだ。
「見ろよ、虹だ! すっげー大きいな」
見上げれば、白んだ空に、大きな大きな虹がかかっていた。
藍色と薄紫色が混ざり合い、東の空は赤く染まり始めている。光が滲んだ空を背景にした七色の橋があまりにも幻想的で、美しく、雫音は声を出すことも忘れて魅入ってしまう。
すると、東の空からは陽が出ているというのに、頭上に揺蕩う雲からぱらぱらと小雨が降ってきた。
――雨が降っている時は、神様が代わりに泣いてくれているのよ。
雫音は、母の言葉を思い出しながら考える。
あれは幼い頃、泣き虫だった自分をなだめるために言ってくれていた言葉だ。けれど雫音が嬉しい時には、反対に雨が降ることが多かった。
雫音は仕方ないと諦めながらも、どこかで神様を恨んでいたのかもしれない。どうして私が嬉しい時に泣いているの。神様は私のことを嫌っているんじゃないのかって。
だけどこの世界にきて、気づいた。
雨は、忌避するものじゃない。疎むべきものじゃない。天からの恩恵である雨は、いつだって雫音に寄り添ってくれていた。
“止まない雨はない。雨上がりの空はいつもよりずっと綺麗に見える”
あの日、千蔭から貰った言葉の数々は、宝物のように大切に胸に仕舞っていた。
チラリと視線を持ち上げれば、千蔭も雫音を見ていたようだ。視線が交錯する。
「ほらね。俺の言った通り、綺麗でしょ?」
自分はただの雨女で、その他に特別な力を持っているわけでもない。お姫様になんてなれっこない。だけど――。
「……はい。すごく、綺麗です」
――この世界で生きていきたい。
叶うのならば、これからもずっと、この人のそばにいたい。
雨降らしの旅はまだ続く。この旅の終着に何が待っているのか、それは分からないが、虹を見上げて目を細めている千蔭を見ながら、雫音はそう願った。



